- Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101377216
感想・レビュー・書評
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もう10年前か・・
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15年?ぶりくらいに再読。面白かった。表現やキャラが平板過ぎる部分もあるけど、日記として強引に読ませるところなんか微笑ましかったり。筆者の企み自体に読者が共感できた、幸せな時代の作品なんだろうな。シンセミアはそんな甘い共感を許さない凄みがある
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まず読みやすい。蓮實的文体が姿を消し、疾走感のある物語があり、エンタメとしてもとてもすぐれている。次に、形式と内容について。一人称小説で狂気を描くこと、っていうのは、人間の認識のありかた(わたしはわたしが見ている世界しか見えない)を利用することだとおもいます。一人称しかない世界では、語りの綻びからしか狂気が伺えず、むしろ綻びを感じ取る読者もまた一人称的認識のありかたから逃れられることはなく狂気の危険性がある、という意味で独我論の恐れを最大限に利用できるのです。一人称小説である以上、どの段階の語りが「正常」なのか「狂気」なのかという判断を真に下すことはできません。だからイノウエとかカワイとかマサキの実在性は決して明らかにはならない、小説のどこからも、わたしたちは確信を持って判断することができない。日記部分に関して、わたしは以上のように読みました。なので、解説であずまんが見せた狂気の具体的な内容に着目する読解は興味深かった。一人称の狂気に関する意見は変わらないけれども、「私」が分裂し多数化する狂気というのは、たぶんそれ独特の問題があって、一人称的な狂気が持つ問題と分裂症の問題は重なるかもしれない。これについてはもっと考えてみたい。まあ、問題は最後ですね。このオチはハリウッドのホラー映画っぽいというかなんというか。狂気を描く小説ならたくさんある。阿部和重の特徴は、いわば実存的な問題すらも虚構における体験かもしれない可能性を提出する、その一歩引いたクールさかなあとおもいます。そして実存的な問題が、虚構における体験だとして、それの何が問題なのか、と。虚構における痛みは現実における痛みと同一ではないのか。そういうラディカルな問いかけも含んでいるのではないでしょうか。
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軽いんだけど、重みがあって、真面目腐っていながら脱力感があって、軽い。
都会の今の空気感がすごく乾いた感じでカッコいい!
(渋谷がどんなとこかはよく知らんいなかっぺなのですが、そうぞうの渋谷にジャストフィット☆)
日記形式の一人称でつづられていくある若い男の日常なんだけど、どこにでもいるような若者のありふれた日常である風を装ってはいるけれど、読み進めるほどにどんどん謎に引き込まれていく感じがして、夢中になってしまいました。
これは、文句なく面白い。
そして、読み終わってもなお謎を残す深みのある作品です。
作者の作品では初めて読んだんだけど、断然興味持っちゃった。
又他の作品読んでみよっと。 -
ハードボイルドな内容、物語の運びがわかりやすい日記形式でシャープな文体、そしてエキセントリックな登場人物たちが揃ったら、もうページを捲る手は止まらない。静かだが確実に加熱していくストーリーはまるで映画のように、観ているかのような錯覚と興奮を読者に沸き起こす。長編といっても短い分量に物足りなさも感じるが、しかしそれだけでない作者の企みに思わずハマらざるを得ない結末が待っている。終わったようで、読者の中で物語は終わっていないのだ。必読。
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多数の意識を統御し、同時に発動させることで
自らのうちに一つの物語を精製するという
いわばメタ・フィクションとしての個人を書いた小説
90年代後半にはこういうものが流行っていた
鈴木光司の「ループ」
森博嗣の「すべてがFになる」など
家父長制が退けられたらサイコパスの時代が来たなんて
そんなことも言えるのかもしれない
フリオ・イグレシアスの歌詞を種に
神と人との関係性を情報社会に置き換えているところは
ポストモダン的な馬鹿馬鹿しさを感じさせ
なかなか面白くもある
「電波系」との関連性が強くうかがえるところだ -
変態しか出てこない~と思ったけど、そうでもなかった。
解説読まないとわからないことってある。
短いけど濃い。 -
持っているのはハードカバー版。
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『ファイトクラブ』の錯乱+『メメント』の諦観+『イングロリアス・バスターズ』の祝祭 という感じ。アメリカでオリンピックが始まったと作中にあるので舞台は明確に1996年の渋谷であり、前年にはサリン事件と震災という2つの大きな傷を負った日本のヤケッパチ感が充満している(パラニュークといい人間は世紀末を迎えるとこのような心性になるものなのだろうか?)。
アイデンティティというのは多面体なわけだが(親に対しては子、子に対しては親、恋人に対しては恋人)それぞれの場面で演じているアイデンティティを絶えず意識し、それぞれの「自分」の間にあまり距離が開かないようにそれらを連動させコントロールすることができればわたし達は統合を失わずに済む。また、その技術に習熟してよりたくさんの面を扱えるようになればより「完全な状態」へ近づく。これが’スパイマスター’マサキの教えである。またマサキは他人の身体の中に入るようにして、他人として世界を感知しそれを自分の思考に反映させることを教える。そのために注意すべきなのが「身体感覚」で、月並みな言い方をすれば「あなたの痛みは私の痛み」的教えなのである。こう考えればマサキは特段変わったことを言っているわけではない。
しかし教え子である主人公はそのように考えることができない。彼は自分の身体感覚は絶えず把握できている(頭痛、胃痛)ものの、彼の周りにやたらとしょっちゅう現れる「けが人」たち(コンビニ店員や同僚の娘)のことは冷淡にとらえている。というか、そもそも描写するという事自体が冷淡な行為なのだ。主人公も作中で「書けば書くほどずれていく」と述懐しているが、他人の怪我を正確に描写しようとすればするほどその怪我は統一性を失い、痛みのリアリティも下がっていく。だからこそマサキはレポートの形式として絵を評価したのである。
身体感覚という当たり前に備わっている機能を、文字というこれまた当たり前な媒体でもって表現することを課されるという理不尽。これこそが今まで小説が続けてきた試みであり、本作品はこのことの不可能性自体を描いているのである。 -
もっとよく読んで内容を精査しないといけないんだけど、とりあえずこの小説の仕掛けについてどうこう言うつもりはなくて、ただただフリオ・イグレシアスの歌詞分析に圧倒され、彼の曲を聴いてみたくてたまらなくなった。阿部和重さんが書く小説を読むとまず間違いなく作中に登場するアイテム(小説や音楽)に自分も触れてみたくなるのだ。