鹽壺の匙 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.65
  • (24)
  • (33)
  • (53)
  • (4)
  • (1)
本棚登録 : 428
感想 : 37
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (310ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101385112

作品紹介・あらすじ

吉祥天のような貌と、獰猛酷薄を併せ持つ祖母は、闇の高利貸しだった。陰気な癇癪持ちで、没落した家を背負わされた父は、発狂した。銀の匙を堅く銜えた塩壷を、執拗に打砕いていた叔父は、首を縊った。そして私は、所詮叛逆でしかないと知りつつ、私小説という名の悪事を生きようと思った。-反時代的毒虫が二十余年にわたり書き継いだ、生前の遺稿6篇。第6回三島由紀夫文学賞。芸術選奨文部大臣新人賞。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 各登場人物の理解困難な悪意にこれでもかと焦点が当てられ、楽しく読めるものではないのは前提として理解したうえで、まあ何とか全短編を読み通した。だが最後の最後で「あとがき」を読んだとき、私の印象は悪い方へと全部ひっくり返ってしまった。

    著者いわく「私小説は毒虫のごとく忌まれ、さげすみを受けて来た。そのような言説をなす人には、それぞれの思い上がった理窟があるのですが、私はそのような言説に触れるたびに、ざまァ見やがれ、と思って来た」だって。何だそれ。私は自己肯定するために他人を見下したり悪態をつく人間を正当な小説家とは認めたくない。結局、本物の小説家ならば他人に噛みつく言葉を直接的に文章で晒す前に、作品へと消化(昇華)させるのに忙しいはずだから。

    自ら私小説と書く位だから著者は小説のつもりかもしれないが、冷静に考えると、小説というよりもエッセイ、あるいはより狭義に見れば日記ではないか。いや、私はもっと否定的に見て、これらの諸作は「ヤンキーのケンカ自慢」としか思えない。つまり、自分の悪事体験や特異な人間関係、虐げられた境遇を“伝説”へと転写させる、あの独特の文化だ。(そう言えば「鹽壺」とかやたら画数の多い漢字を当てるのも、“羯徒毘璐薫'狼琉”的センスじゃない?)

    その点で、巻末の一文「私小説は悪に耐えるか」を書いた吉本隆明はさすがだ。慧眼をもって、車谷の作品と、“ルックルックこんにちは”の女ののど自慢で出場者が歌う前に延々と語られる不幸話のナレーションとに共通性を見出している。
    ただし吉本も、登場人物の悪事の数々からウシジマくんのような理屈のつかない衝動のリアルさを見出したものの、車谷の小説技法としての心理描写がいかんせん脆弱だと察知したのではないか。この文章でも車谷作品の引用が多くなされているものの、内容のインパクトだけが俎上に載せられているように見える(吉本の一文は他所からの転載。つまりこの短編集のために書かれたのではない)。

    何だか車谷は「私小説」という言葉を安っぽく使っているような気がする。
    三島由紀夫は「金閣寺」で、吃音をもつ少年が海軍に入隊したてで帰省した青年が置いていった短剣を誰にも知られないようにそっと抜き、その鞘の内側に醜い一条の傷を付けたと書いた。また中上健次は「岬」「枯木灘」で、半分しか血のつながらない兄の自殺が主人公やその周辺を覆った見えない陰影を描こうとした。

    今あげた2氏の作品と比べるだけでも、この本は大きく見劣りする。ましてや、小林秀雄の「志賀直哉」「私小説論」を読めば、私小説とは描写された自己の行動がいくら特異で独特であっても、そこに隠れる人間存在の真実性を正確に描写する手法であって、行動の外見とは真逆の、作家として作品に対する清澄と言うべき心情が重要な要素だとわかる。

    さらに小説の読者にとって、小説に書かれたことが事実か創作かなんてどうでもいい。事実のみが書かれていれば小説としての純粋性が高いとかいう話ではなく、逆に創作を事実に織り交ぜることが苦手なボンクラ作家ではと勘繰りたくもなる。

    以上が、私がこの本を著者が言うままに私小説と呼ぶのに抵抗がある理由だ。

  • 表題作で三島由紀夫賞を獲っているが、納得の熟達した言葉回しとリリック。
    特に、破滅的な女性とゆっくり墜落していくような『萬蔵の場合』は、好みドンピシャの内向的かつセンチメンタルな名作。
    なお自分は作品を読む上で、作家の人間性には特に引っ張られないタイプだが、他収録されている私的なエピソード・あとがきから、作者は相当なバケモノ(悪い意味で)の為衝撃を受ける人も一定数いそう。

  • 私小説短編集。掌編集になってる「愚か者」が、ちょっと幻想的な部分もあり好みだった。根底に関西弁のリズムがあるせいか文体がとても心地良いので書かれている内容にかかわりなく読むのが気持ち良かった。同じモチーフ(若くして自殺した叔父)が繰り返し出てくるあたり、中上健次あたりに近い印象も受けたけれど、中上よりもなんだろう、なにか描写が「丁寧」な気がする。

    恋愛もの(?)のせいか一番「小説」っぽい「萬蔵の場合」は瓔子という、とんだメンヘラ女性のキャラクターが秀逸。同じ女性から見ると大変イラッとさせられるタイプながら、こういう女性にずぶずぶはまってしまう男性は多いのだろうなあ。

    ※収録作品
    なんまんだあ絵/白桃/愚か者(死卵/抜髪/桃の木/トランジスターのお婆ァ/母の髪を吸うた松の木の物語)/萬蔵の場合/吃りの父が歌った軍歌/鹽壺の匙

  • 車谷長吉氏の初期作品を集めた短編集で有るが、読後感の重厚性は氏の作品群の中でも「赤目四十八滝心中未遂」と双璧をなしている。
    この重厚感の原因を見事に解析しているのは、巻末に有る吉本隆明氏の評論であり、作品と評論が一体となってこの書物を完成していると感じた。
    是非とも読んで下さい。久々の毒の有る私小説を読んで、爽快な気分が長く残りました。

  • 冒頭からの数編、とくに「萬蔵の場合」読み難し。私小説の性格がおおきく出てしまい、おのれに肯定的すぎる姿勢がいけない。好かない。
    おれはモテる
    おれは某大学を出た秀才だ
    おれが小説をひさぐ理由は…
    なんて、俗っぽいエゴを感じさせる書き方は、態とか態とでないかは、わからないが、「世捨て」へと走らせたのはこのエゴに他ならないんじゃないかと邪推させてしまう。
    「萬蔵の場合」では、おれが恋した女は特別でなきゃ、といった体で、櫻子の魅力がさまざまに語られるが、それが端からしたら、薄ら寒い。
    おのれについて殆ど語らない2編「吃りの父が-」「塩壷の匙」は、★4つ。

  • 私小説は罪悪感が透けて見えてあまり好きではないんだけど、これは罪悪感も肉親の怨みや惨さ暗さも全てを淡々の執拗に書き綴っていて、文学という感じがした。後書きで吉本隆明が言っているように、文学史や流れを超越した、思想もなく芸術性もなく、ただ「私」が孤立している。


    将来自分に然るべき文章が書ける日が来ないにしても、私は原稿用紙二万六千枚、自分の中に空井戸を掘って見ようと決心していた。

    併し私は文子のことを語っているのではない。ある金貸し一族の物語りをしているのでもない。私という存在が呼吸した闇の力について語っているのである。

  • 3.67/368
    内容(「BOOK」データベースより)
    『吉祥天のような貌と、獰猛酷薄を併せ持つ祖母は、闇の高利貸しだった。陰気な癇癪持ちで、没落した家を背負わされた父は、発狂した。銀の匙を堅く銜えた塩壷を、執拗に打砕いていた叔父は、首を縊った。そして私は、所詮叛逆でしかないと知りつつ、私小説という名の悪事を生きようと思った。―反時代的毒虫が二十余年にわたり書き継いだ、生前の遺稿6篇。第6回三島由紀夫文学賞。芸術選奨文部大臣新人賞。』


    『鹽壺の匙(しおつぼのさじ)』
    著者:車谷 長吉(くるまたに ちょうきつ)
    出版社 ‏: ‎新潮社
    文庫 ‏: ‎310ページ
    受賞:三島由紀夫文学賞、芸術選奨文部大臣新人賞


    メモ:
    松岡正剛の千夜千冊 847 夜

  • 20数年前に初めて読んだときに衝撃を受けた作品です。今回 再読してみて、「吃りの父が歌った軍歌」が面白いな、と思いました。珍しく、人間を褒めている箇所があるし。お母さんが言う「ガザニガはん、あれ悪魔の使いやったんや」この台詞には思わずクスッとしてしまいました。
    若い頃には「萬蔵の場合」にドキドキしましたが、高橋順子著「夫・車谷長吉」の中にこの作品に関する事柄がさらりと書かれていて、ちょっと興醒めです。

  • 「なんまんだあ絵」
    やがて訪れるだろう自らの死を思ってむかついてる祖母と
    都会で働きつつも里帰りするたび
    母親の前で良い子を演じてしまう孫の目を通じ
    時代の流れに取り残され
    滅亡の道をたどりつつある名家の未来を暗示的に描いている
    私小説作家と自ら任じる車谷長吉だったが
    基本的には、自然主義というよりも
    太宰治や三島由紀夫に連なる存在であったことが
    これらの初期作品からうかがえる

    「白桃」
    持病持ちの少年の話
    彼はどうも、興奮した時に発作を起こしやすいらしい
    それがまるで雷に打たれたような印象を残す
    理不尽な天罰みたいに

    「愚か者」
    過去への未練は未来への希望でもあって
    それゆえ人は奇妙なモノが捨てられずにいたりする
    そして、それをうらやむ愚か者もいる

    「萬蔵の場合」
    ファム・ファタールというタイプ
    虜にした男たちを破滅させるのが趣味みたいなものである
    過去に傷を負っているのはどうやら事実らしいが
    しかし女優である
    どこまで信じていいのかわからない
    萬蔵の場合はちょっとだけお馬鹿さんなので
    女の言うことを真に受けてしまいがちだ
    それが女の心を多少なりとも動かした手応えはなくもない、が
    遊ばれている感も最後まで否めないのだった

    「吃りの父が歌った軍歌」
    見栄と打算と古いしきたりが入り組んだ大人たちの思惑によって
    「私」は叔父夫婦の養子とされた
    街の学校に通わせたいから、という建前はあるものの
    要するに、借金の担保として子供の面倒を押し付けたのであった
    「私」の祖母は闇金融を営んでおり
    金銭が絡む話だと、身内にも容赦なかったわけだが
    しかし、実家のほうも生活が苦しいことに変わりはなかった
    「私」の家は、戦後の農地改革で土地の大半を失っていた
    …そんなことで、大人になってからもずっと
    居場所のない感じに苛まれ続けている
    同世代の若者たちのなかには
    わざわざ海外の戦争に首を突っ込んで
    死んでしまう者もいた
    当時はそれが国際人のありようだったのだが
    「私」にはそこまで自分を追い込むこともできない
    なぜかといえば結局、実家のことが気がかりだからだろう
    てなわけで
    実の親に愛想をつかされるようなことばかりしてしまう極道者
    それが「私」だった

    「鹽壺の匙」
    例えば人間が宇宙に出たとして
    酸素マスクを被らなければ死んでしまうのであるが
    地球上においても似たようなことは言える
    人間社会では観念上のマスクを被って
    「私」を外界から隔離しなければならない
    そうしなければ、暗黙の掟によって社会的に死ぬのだ
    だが、ずっとマスクをしているうちに
    本当の「私」の顔がわからなくなってしまうということもある
    わからないだけなら良いのだけど
    本当の「私」の存在が
    今ここにある私の生を阻害していると信じたとき
    人は己を殺すこともあるだろう

  • 長年探してやっと読んだ。

全37件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

車谷長吉

一九四五(昭和二〇)年、兵庫県飾磨市(現・姫路市飾磨区)生まれ。作家。慶應義塾大学文学部卒業。七二年、「なんまんだあ絵」でデビュー。以後、私小説を書き継ぐ。九三年、初の単行本『鹽壺の匙』を上梓し、芸術選奨文部大臣新人賞、三島由紀夫賞を受賞。九八年、『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞、二〇〇〇年、「武蔵丸」で川端康成文学賞を受賞。主な作品に『漂流物』(平林たい子文学賞)、『贋世捨人』『女塚』『妖談』などのほか、『車谷長吉全集』(全三巻)がある。二〇一五(平成二七)年、死去。

「2021年 『漂流物・武蔵丸』 で使われていた紹介文から引用しています。」

車谷長吉の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×