地下室の手記 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102010099

感想・レビュー・書評

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  • <ぼくは病んだ人間だ。…僕は意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ。ぼくの考えではこれが肝臓が悪いのだと思う。もっとも、病気のことなどぼくにはこれっぱかりもわかっちゃいないし、どこが悪いかも正確には知らない。(P6)>
    元官史の語り手は、おそろしく自尊心が強く、極端な迷信家で、あまりにも自意識過剰で、とても臆病で、際限なく虚栄心が強く、他人との交流もできず、心のなかで鬱屈を抱えている。
    遺産によりまとまった資産を手に入れた語り手はペテルブルクの片隅のボロ家に引き込んだ。そんな生活をしてもうすぐ20年にもなる!やることといえば心の鬱屈を手記にぶちまけるだけ。
    あれも気に食わない、これも嫌い、人から嫌われることばかりするのに人に尊敬されるだろうと思っている、昔のことばかりグジグジ繰り返している、この手記だって自分のために書いているけれど、世間の諸君が読むかもしれないではないか!

    …という感じのグジグジぐだぐだウジウジした語りが続き、「この話全部この調子なの…(´Д`) 」とえっらく読むのに時間がかかった。
    しかしその語りは最初の60ページまでだった。その次の章からは、自分の鬱屈した正確を示すものとして、まだ引きこもる前の若い頃の出来事が語られる。これが「なにやってんのーー」と、けっこう笑えてきた。

    ●語り手は、ある将校に無視されたことから数年に渡り一方的に恨みを持つ。いつかあの将校に自分がどんなに重要な人物かを認めさせ、詫びさせてやる!語り手は将校の後をつけて彼のことを調べる。通りでは何度もすれ違った。だが将校は自分を認識すらしない、こんな屈辱があろうか!こうなったらあいつをネタにして誹謗中傷小説を書いてやる!出版社に送ったのに無視された!悔しい!!こうなったら決闘だ!語り手は決闘申し込みの手紙を書く。我ながらなんたる美文!将校がわずかでも<美にして崇高なもの>を解する男だったら、ぼくの素晴らしさがわかるだろう!この手紙はかろうじて投函されなかった。だって何年も経ってるんだもん、さすがにわからないかもしれないよね。
    それでは通りであの将校に道を譲らせてやる!それにはまずぼくのことを認識させないといけない、では身なりを整えないとな。上司に給料の前借りをして、あらいぐま…いやビーバーのコートを買って、手袋はレモン色…いや黒のほうがいいだろう。
    自分を認識していない相手に何年も執着し、独り相撲して、勝手に苦しみ、誹謗中傷小説まで書き(無視されたが)、やったことは「通りですれ違う時に、ぼくの方から避けずに肩がぶつかったぞ!ぼくの勝ちだ!!」
    ⇒そ、そういうことにしておこうか…
     現代で言えばネットに誹謗中傷書きなぐるタイプだな、妄想の中で満足してまだ良かった。

    ●ぼくはあらゆる空想をする。自分自身が空想の中ではあまりにも素晴らしく幸福の絶頂を味わい、全人類と抱きあいたいたい気分になる!!そこで学生時代の友人を訪ねた。
    そこではかつての学友たちが集まっていたんだが、語り手の姿を見ると明らかに嫌そうな雰囲気になる(語り手の一人称だが、それがわかる)。学友たちは、遠方に将校として赴任するもう一人の友達ズヴェルコフの送別会を計画していた。このズヴェルコフは語り手は全くタイプが違い、出世街道に乗り、女を口説き、仲間と酒を飲み明かす生活を楽しんでいる。
    そんなズヴェルコフの送別会なので当然語り手は招かれない。そこで語り手は「ぼくを忘れちゃ困る!!ぼくも彼の送別会に行く!!」と突然のアピール。あっからさまに嫌がる学友たち。うん、気持ちはわかるぞ!!
    ⇒現代で言えば「自分だけ同窓会に呼ばれない」エピソードですね(;^ω^)

    ●送別会では自分の偉大さを認識させてやる!…と、乗り込んだが誰もいない。そう、時間変更していたのに知らされなかったのだ。

    ●それでもみんなもやってきてズヴェルコフの送別会が始まる。あっからさまに無視される語り手!それでも現代の待遇を馬鹿にされたり、嫌味丸出しのスピーチをして場を険悪にする。元学友たちに完全に無視された語り手は、送別会の三時間の間部屋を有るき回る語り手!ずっと無視される!だが語り手は「自分の存在はみんなに刻み込まれたはずだ」とうそぶく。

    ●送別会の二次会で娼館にしけこもうという元学友たち。語り手は「ぼくも行くぞ!金を貸してくれ!!」あまりのみっともなさに、学友の一人が「恥知らず!」と投げてよこした金を手に取り娼館へ向かう。道中でも頭の中では「あいつらに思い知らせてやる!」などと考えているが、この勇ましい言葉も有名ロシア文学からの受け売りでしかないんだ。

    ●娼館でも取り残された語り手は、残り物の娼婦のリーザと部屋へ。事後のベッドで語り手はリーザ相手に御高説をぶちまける。
     娼婦の君の人生とはなんだ!?きみはこの仕事と魂を引き換えにしたのさ!
    リーザは答える。「あなたの話って、本を読んでいるみたい」そう、語り手がどんな演説しようとも、受け売りが見透かされてしまうのだ。それでもリーザは我が身を振り返り号泣する。

    ●娼婦リーザは、自分が娼婦と知らない男からもらった手紙を語り手に見せる。自分をちゃんと扱ってくれる男だっているのよ、という拠り所だった。
    ⇒リーザは見かけとしては可愛げない様子だが、この大事な手紙を語り手に見せる場面はとてもいじらしい。

    ●語り手はリーザに自分の住所を教えて「訪ねてこいよ」なんて言う。しかし帰ってから後悔する語り手。本当に来たらどうしよう、リーザは自分が語った言葉を聞いて、自分が崇高な人間だったと思ったに違いない、だがこんなボロ屋見せられないし、事後でもないのに格好いいことなんて言えない。リーザのところに行って「やっぱり来るな」っていおうか、いやそうもいかない、うぎゃーーーーー、と葛藤しまくる語り手。

    ●語り手にはアポロンという中年召使いがいる。非常に態度がデカいらしいが、読者としてはそりゃーこんな雇い主だったらばかにするよねとは思う。このアポロンに月給を渡さなければいけないんだが、「アポロンが自分に『給料をください』と平身低頭しないのがムカつく!!!」と、金は用意するが渡さない。しかしアポロンに舌打ちされたり睨まれたりすると「待て!!金はあるんだ!支払ってくださいと頼め!!」とか言ってますますバカにされる。

    ●三日後にリーザが来るが、語り手は非常に悪い態度を取り、ひどい言葉を浴びせる。リーザは、語り手に握らされた金を拒絶して去っていくのだった。

    …ということで、「現在でもいるよね」とか、「ここまで極端でなくても気持ちはわかる部分もある」とか、「こんな奴に関わった周りの人のうんざりさがわかる」などと言う気持ちになってなかなか楽しめた。
    語り口は、引きこもり男が勝手にグダり続けだけなんだが、これが小説として読めるものになっているのがさすがの大文豪だよなー。今でもこんな事を考えている人はたくさんいて、たまたま誰かがそんなことを言っているのを聞いてしまったり、ネットでうっかりそんな人の文章を読んでしまうこともある。そんなときはかなり嫌な気持ちになる。
    しかしこの小説ではそのような嫌な気持ちにはならず「あるわー」「なにやってんだーーー」と、語り手と、語り手の周りの人双方の気持ちがわかりながら読んでいけるんだ。その意味では実に面白い小説だった。(最初の60ページ以降は)

    語り手は自分のような人間は自分ひとりだと思っている。<だれひとりぼくに似ているものがなく、一方、ぼく地震も誰にも似ていない(…略…)ぼくは一人きりだが、やつらは束になってきやがる。P70>というわけだ。
    だが語り手のような考えを持つ人間は当時も、今も、世界中にたくさんいる、ある意味人間の心の普遍的なものでもあるだろう。この「自分は孤独だ!」と思っていても、周りから見たら「たくさんいるよ」という感覚もいつでもあるものだ。

    なお、語り手は読書について<ぼくの内部に煮えくり返っているものを外部からの感覚で紛らわしたかったのである。(P75)>と言っているのだが、ドストエフスキーの考えでもあるのかな。この読書への取り組みは何となく分かるんですけど。頭が混乱している時にも読書ってしますよね。するととっちらかった脳を一つに収集するのがなんだか分かったりして。

  • 読もう!と決心してから…腰を上げるまで時間がかかるのだドストエフスキーの作品は!
     
    「地下室」と「ぼた雪にちなんで」の二部構成

    ※以下軽くネタバレ有ります


    「地下室」は40歳の元役人がペテルブルグの片隅の住居・地下室になんと20年近く籠城しながら、社会に溶け込めない自分の不満(彼なりの思想だか哲学)が「俺は病んでいる……。」から始まり、延々60ページ近く言葉を変え変え独白するという内容
    逆に言えばよくもまぁ同じことを手を変え言い続けられるものだ 60ページも!(まぁ20年と考えれば少ないくらいか(笑))
    思想も理論もへったくれもない
    ただただ自我剥き出しの醜悪な内容
    他人を一切信じずに見下しているくせに、全て裏を返せば自分をわかってくれる人を心の奥底から求めている
    ここを読むのはかなり大変だが、乗り越えた次の構からもうそれはそれは一気に面白いのである
    そのための助走として頑張って読むのだ(笑)
    (ここが面白くなったら本物のドストエフスキーファンと言えるのかなぁ…)


    「ぼた雪にちなんで」
    こちらは24歳の主人公に起きた出来事
    大きく3つの内容に分かれている(と思う)

    1つ目
    「地下室」の独白された主人公の具体的な行動により、彼を読者がよりわかりやすく知る序章的内容
    独りよがりの妄想決闘とでも言えようか…
    ここはパロディ的に面白い(相手が全く気付かない決闘なんて!そして自分が勝ったのだ!と歓喜するのである)

    2つ目
    学生時代の同級生との出来事(ある人物の送別会)
    みんなと仲良くやりたい本心があるのだが、もうそれはそれは真逆の態度で戦闘モード
    皆に嫌われて、引っ込みがつかないとわかってもと言い訳を考えては「帰る」という選択肢を取らず居座り続ける
    まるでスポイルされまくった駄々っ子のような最高の醜態をさらしまくるのである

    3つ目
    娼婦であるリーザとの出会い
    ロマンチックな自分を演出しながら「君は間違っているんだ」と偉そうに正しい道を諭すようなことを言ってみせる
    しかしながら再会した折に、うっかり自分の脆さをみせてしまい、ついついそんな自分をぶちまけはじめ、隠していたはずの内面をマグマが噴き出すかのごとく暴露してしまう
    そして………



    現代なら一体何という名の精神病であろうか…
    妄想癖、誇張癖がひどく虚栄心が異常に高い
    自分の殻に閉じこもって悪態をついて憂さ晴らしをしたかと思うと、自己嫌悪に陥らないための言い訳だらけのストーリーを組み立て自分を納得させる
    人恋しいクセに異常なプライドと自分を守るために人を見下し陥れようと常に考えているのだが、所詮器が大したことは何もできない
    たまに少し攻撃姿勢を見せるのだが、途端、亀が首を引っ込めるように言い訳して逃げる
    まぁとにかく呆れること甚だしい
    ここまで人の醜悪性や滑稽さをむき出しにした作品も珍しい気がする
    しかもそれを全く負としてのオーラを出すことなく、悲劇のヒーローにも全くならず洗いざらいの醜態を読者にみせつける


    もしかしたら、心に全くの闇のない澄んだ人にはさっぱり理解できない作品だのではないだろうか
    最初あまりにもパロディじみた内容に笑ってしまったりしていたのだが…
    主人公にまったく共感したくなんかないのに、まるで誰にも絶対に見られたくない自分の心を見透かされ、ズルズルと日の当たる公の場所に引きずり出される…そんな激しい心の痛みを覚え愕然とする
    読むのにこんな意味で辛くなる作品があるのかと正直驚いた
    人間の心の底とか魂とかではなく、なんというか「核」みたいなものにズドンとくる
    ズドンときたら穴が開いてそこにすきま風が遠慮なく吹きつける
    何が起きたのか…としばらく放心してしまう…

    そんな何とも言えない衝撃作品だった
    くる人にはくる(堪える)やばいヤツである
    やっぱり凄いぞドストエフスキー
    これは本当に読む価値がある
    どこにも逃げ場がないほど、とことん自分と向き合える恐ろしい作品

    ちなみに主人公の名前は「ネクラーソフ」
    (日本人しか笑えないが…)

  • 再読ですが、ほとんど覚えていないので
    ほぼ、初読みです。

    正直、読むのに苦労しましたし、
    読み終えての満足感は得られませんでした。

    ただ、相手は全然、眼中にないのに、
    自分だけが気になり、その挙げ句に
    ストーカーになる姿は、少し、
    共感してしまいます。。。

  • ドストエフスキーの処女作『貧しき人々』から後期の5大傑作長編『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』への転換点となるのが本書。

    うだつの上がらない自意識過剰な中年の小役人が世間に悪態をつき続ける文体の本書。
    第一部はひたすら世間を呪っているばかりで非常に読むのが苦痛だったが、第二部の主人公の回想パートになり、同窓生と会うというところになってからは主人公の他人との関わりが感じられ、まあ、共感はできないものの分かりやすく読み進めることができた。当時のドストエフスキーの心情を推し量ることができた作品だった。

    本書が執筆されたのが1864年、日本で言えば慶応元年(明治維新の4年前)、新撰組の近藤勇、沖田総司らが池田屋に踏み込んで長州藩らの尊王攘夷派の志士達を切り倒していた幕末の荒れた時代だ。

    この時代に活躍した日本の作家を調べてみたら河竹黙阿弥(かわたけもくあみ・1816年~1893年・江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者)が出てきたが、名前くらいは日本史で習ったことあって知っているが、当然、その作品は見たことも読んだこともない。

    この時代の文学が今も変わらず読み継がれていることについて、ドストエフスキーやトルストイの偉大さを再認識するとともに、文学のすばらしさを改めて感じたひとときだった。

  • 何とも心にずっしりと重い。その重さの原因は、まるで自分自身の事を誇張して語られているような主人公の語り。自分が何故苦しみながら生きないといけないのか?知能が低い故にその苦しさに気付かない人たちは羨ましい。自分は優れているが故にその苦しみに気が付いてしまう、というのが主旨かと思うが何か共感できる。

    このような面倒くさい主人公に共感できてしまう事は何とも心地悪いが、そういえば『賭博者』でも賭け事好きな人の心理を極限まで突き詰めたような感じだった。人の心にあるドロドロした部分に焦点をあてた内容は通じるものがある。

    今はまだうまく咀嚼できてないけど、心にズーンと来るものがある小説には中々出会えないが、これは言葉にできないインパクトがある。キューブリックの映画を映像でしか伝えられないものがあると感じるが、ドストエフスキーは小説でしか伝えられない何かがあると思う。


  • 生きづらさを抱える主人公が孤独に耐えきれなくなって、親しかった同級生を訪ねるが、歓迎されず、それでも同級生たちの集まりに誘われてもないのに参加する場面。主人公は仲良くなかった同級生たちを見下しながらもわざわざ参加する。
    だが、待ち合わせの時間に行っても誰も来ず、あとで時間の変更を知らされてなかったことを知る。その後も職業を訊かれ、答えたら給料が少ないのではないか?とバカにされる。
    屈辱を受けて怒る主人公。
    この集まりに参加しなきゃよかったのにって思ったけど、それ以外につながりがなくてしょうがなかったのかな。今はインターネットでいろんな考えの人を知ることができるけど、昔はもっと閉ざされていて、生きていくには狭いつながりの中でうまくやっていかなきゃいけなかったのかと思うと、主人公が病むのもわかる。

  • この本を45歳の今初めて読んだけど20歳の時に読んでいたらどんな気持ちになったかな?
    どんな人生になったかな?
    そんなことを思う。

    若いとき、この上なく「正解」みたいなものに疑問を感じてた。両親は熱心な信仰宗教の信者だったのが影響したのかもしれない。信じることになんとなく胡散臭さを感じたんだと思う。だから正解なんてないんだと。

    23の時、それまで多分「正解」とされていた生き方に我慢が出来なくなって、会社を辞めた。
    今思うと、反動とか夢追いとかではなく無限に思われるような疑問に我慢が出来なかった。
    自分の中で「なんで?そうなるとは限らんやろ?誰が言い切れるの?」が爆発寸前のような爆弾を抱え込んでいた。

  • 表層的な快楽を求める生き方と悶々と自己に向き合い内省を深める生き方がある。
    はたして、博識は幸せに行き着くのか?
    私たちは理論の上ではなく、現実世界に生きていることを認識しなければならない。

  • 初めてのドストエフスキー。
    果たして、これから入って良かったのだろうか…

    ただ、人間誰しも持っていると思われる、ドロドロとした部分が非常によく書かれていると思った。

    本当はあまり笑える話ではないのかも知れないが、私はこれを所々笑いながら読んでしまった。

    主人公、本当にどうしようもないな…本当は友達と仲良くしたいのに、酔っ払って逆ギレし、挙句にお金を貸せ!とか言うし、お店の女の子に説教をし出す(しかも長々と)し…何だよ、コミュ障のぼっちかよ…と思ったが…
    一歩見方を変えれば、自分もこうなのかも知れないと、ちょっと思った。
    本当はもっと素直に、そして人と仲良くしたいのに、それが出来ない自分がもどかしい。地下室に篭ってしまいたい。うわあああああ!となる時がある。
    こういう風に言えばよかった、ああすれば良かったという後悔に苛まれることがある。
    そして、私は本当にどうしようもないな、駄目人間だなと思い、どこかに隠れてしまいたくなる。
    そうやって、そこからキャンキャン吠えたくなる。

    そういう意味では、この本をこのタイミングで読んで良かったと思う。

    この作品を境にして、5大傑作が書かれたそうだが…私に、カラマーゾフを読めるのか。
    地下室に篭って読んだ方がいいのかな、そんな気持ちである。


  •  久々に、心に重々しく迫ってきて、余韻を残してくれる本に出会えた。第一部を最初に読んだ時は、思考の飛び方が腑に落ちないことが多々あったが、第二部のエピソードを読んでから再び第一部を読むと、主人公の人間性からだいたい納得できた。

     主人公の心の中に築いてきた地下室は、醜悪で屈折していて、下劣で独りよがりだが、ただただせせら笑うことができなかった。内容が違うだけで、自分も地下室を持ってることに変わりはないから。主人公に共感できてしまう部分もあったし、自分が主人公の地下室を醜悪だと思うのと同じように、他人からみた自分の地下室も醜悪な部分があると思う。

    共感した部分の一部。
    ・理性が感情や欲求に勝てずに馬鹿げた行動をとるのが人間だ
    ・欲求に従うのは人間が物質的に扱われることへの抵抗である
    ・あまりに意識しすぎるのは病気だということ
    ・逆らえない性や運命がある、自然の法則がある
    ・理性で理解すればするほど、欲求との乖離を自覚してもがき、それ故に何を選択しても自分を苦しめる
    ・何か言い切ったくせにすぐに掌を返し、自分を守るために反対の主張をし始める
    ・自尊心は高いくせに自分を劣悪とみなしている矛盾、その他矛盾に満ちている内面

     1番共感したのは、誰かに復讐する場合の記述だった。直情型の人間は復讐を正義と盲信して行動するが、自意識が強い人間は正義を否定し様々に考えて醜悪さにまみれた挙句、行動する。そんなものは根源的理由などではないと分かっているにも関わらず感情に身を任せてみると、万事を承知の上でわれから自分を欺いたことで、自分で自分を軽蔑する結末になる。行動しない場合には、復讐の妄念に悩まされ続ける。

     絶望の中の快楽の話は、逆境で燃えるとか、追い込まれて頑張っている時の楽しさとか、頑張ったからこそ生じている痛みとかを考えたら、一部は分かるけど、一般化できるほどには共感できないし、嫌悪感9割といった感じだった。

     主人公の醜悪さを見て、自分だけの理論を持って、理解し難い価値観を持っている人間は、他にも腐るほどいるということに辟易するし、私もそういう部分を持っているから余計に嫌気が差す。

     思考か行動かについて、二極論を提示し、一方を貶して一方を崇めているが、考えて行動するのが最善だと思う。思考が完全であることなんてほとんどないんだから、ある一定値で妥協して、行動して、修正する、そう割り切るしかないよな、と。他にも二極論チックな部分が多くあって、その二択にしたくなる気持ちは分かるけど…と思いながら読んだ。

     主人公はひたすらに自分の有能さを語っているが、その根拠は全くないし、語られるエピソードは主人公の馬鹿げた行動を物語っている。この小説は、ドストエフスキーが主人公を軽蔑しているからこそ一種の安心をもって読むことが出来ると思う。 

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著者プロフィール

(Fyodor Mikhaylovich Dostoevskiy)1821年モスクワ生まれ。19世紀ロシアを代表する作家。主な長篇に『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『未成年』があり、『白痴』とともに5大小説とされる。ほかに『地下室の手記』『死の家の記録』など。

「2010年 『白痴 3』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ドストエフスキーの作品

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