カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (680ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102010129

感想・レビュー・書評

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  • 中巻の後半からおもしろさが増してきたので、下巻を一気に読み終えてしまった。カラマーゾフの兄弟は本当に名作だ。久しぶりにこういったいい本を読んだ。
    カラマーゾフ家の、金の亡者で道化者の父親フョードルや愛に愚直な長男ドミートリイや頭脳明晰で思想家の次男や善良な修道僧の三男アリョーシャという設定が絶妙によかった。父親と長男がキチガイじみた行為をしているところを、無神論者のイワンと信仰心あふれるアリョーシャが冷静な視点で見ている風なんだけど、そこは神を信じている者と信じていない者による視点の相違もまたおもしろい。それにしてもアリョーシャを見ていると、イワンのようにどれだけ頭脳明晰であろうとも真実のみを語る善良さとは何て素晴らしいんだと思う。この本を見ると、人間てアリョーシャのようになるべきだなと思い、自分を省みてしまう。ただアリョーシャの善良さというものは、信仰心に起因しているので、やはり宗教というのは非常に重要な概念なんだとも思った。宗教でいうと神は存在するかというように、この小説は要所要所で宗教についてのシーンが出てくるけど、基本的にイエズス会を冷笑している節があって、ロシア正教とイエズス会ってそんな違うんだということもわからない日本人な自分を見ると、宗教についてもっと学んだ方がよいと思った。
    キチガイの父親や長男や冷静な次男も全員アリョーシャを好きだし信頼しているところを見ると、すべては善良さによって得られたものだと思う。
    ストーリー的には、この下巻は裁判でのやり取りがメインになっているのだけれど、検事の発言内容は読んでいてイラっとした。逆にドミートリイを弁護する側の弁護士の発言は裁判所に来ていた聴衆者と同様自分も感嘆するところがあった。あと証人喚問で発言したカテリーナにもイラっとしたというか、カテリーナの恋愛脳が見ていてムカつく(笑)最初の発言と、イワンをかばうために急に出た発言の内容の真逆さが本当に呆れてしまった。グルーシェニカの方がよっぽどいい女なのに、カテリーナに売女よばわりまでされてかわいそう(笑)裁判の判決が結局望んでいたものではなかったけど、ストーリーとしてはおもしろいから正直どちらでもよかった。
    とりあえずスメルジャコフって本当悪い奴だね(笑)
    下巻の最初が、上巻でいじめられていた子供といじめていた子供がアリョーシャを介して仲直りしている話から入って、途中でこの話いるのかと思ったけど、最後のアリョーシャと子供たちのシーンが非常に重要で、確実に必要だったなと思った。というかこういった殺人事件が起きて、裁判が行われ、判決が下された後で、子供たちとアリョーシャで自分たちも将来悪い大人になるかもしれない、ただ善良だった頃の思い出が将来悪い行いを躊躇させる手段になりえるというような会話が非常に感動した。アリョーシャは本当に素晴らしい人格者だし、このストーリーに欠かせない存在だ。ただ、こういった善良さから現代人は非常に乖離している気がして、なんてくだらない価値観や争いに毒されているんだろうと少し感傷に浸った。また、この本を読む上で自分はなんておっさんなんだろうと思った。こういった本は、若い時こそ読むべきだと思う。34歳のおっさんより

  • 約2ヵ月半かけて、全作部読み終わった。長かった。また数年後に読もう。きっとその時は、さらに理解して気づけることもあると思うから。とにかく今は、世界の傑作と言われている作品を、全て読み終えた自分を褒めてあげようと思う。

  • 通勤電車でちまちまと読み進め、上巻から半年くらいかけて読み終わった。取り掛かっている時間が長かっただけに、読み終えた際の喪失感も一入だった。
    半年近くかけて読んでも面白さが持続する長編小説、なんていうのはそう多くないのではないか。小説は時間をかければかけるほど、感情の揺さぶりが希釈され、感動が小さくなるものだと思っている。だから、時間をかけると飽きとの戦いになったり、話の粗探しを始めたりしてしまう。しかしながら、この本に関していえば、感情の揺さぶりが薄まってもなお十分なパワーを持っている。半年の間、この話を読んでいて退屈な時間は少しもなかった。
    ひとつの長編小説としてもすばらしいけれど、場面場面を切り取っても、それぞれが完全なものとなっており、短い話の寄せ集めとして見たとしても、すべてが面白い。というか、細部が完全だからこそ、その総体としての一個の長編小説が、まったく間伸びしたところのない素晴らしいものになっている、ということかもしれない。
    その長さや、ドストエフスキー特有の、捲し立てるような文章の熱量から、勢いでどんどん読み進めてしまいそうなものだけれど、毎朝通勤電車の10分くらいの時間でゆっくりちまちま読む、というのもありだと思う。

  • 言葉は偉大だ。発する事で他者に想いを述べられる。逆に発しない事で魂の矜持を誇示できる。貴方にだけは届く。それだけを信じて苛烈な運命に立ち向かい、狂い、絶叫し、胸を張る誇り高き人生達が、私の胸を掻きむしった。強く生きようと誓った。

  • やっと、読み終わった。ほぼ一ヶ月。
    何十年前に読んでいたのでほとんど忘れていて、初読み状態。

    長年に渡って論じられてきた奥の深い文学であるが、こんなにもエンターテーメント性がある作品だとは思わなかった。親殺し&幼児虐待&女心と秋の空。あらすじは複雑。盛り上がりは抜群。

    噛めば噛むほど味が出るというわけで時間がかかってしまった。

    19世紀末の文学の特徴、自然主義的洞察からリアルを超えて暴き立てるような描写と、わき道にそれてこれでもか、これでもかと言わぬばかりのくどくどしさ。

    加えて私の実家のごたごたが同時進行、身につまされ、TVでは「若貴」が派手にやってくれて、どこんちも大変だなーと思いつつ、「カラマーゾフ」は文学だから味わえばいいのだなと妙に納得したのだった。

    親が子を産む。当たり前のこと。(もちろん産まれない人も、産まない人もいる。)産めば親にはなるが、育てるのが親とは限らない。育てなければ親ではないかというと、血のつながりでは親であり、DNAはしっかりつながり、結果は原因があり逃れられない。

    私にはこの血のつながりが哀しくて仕方が無い。人間は一人では生きられない生物、種の存続を否定はできない。突然変異はほとんどないのだから、無いに等しい。ああ、でも異なり、違いたい!

    ドストエフスキーは実際の事件からヒントを得たのだろうが、昔も今もこんな事件はありふれている。今日的に読み応えがあるということである。

    しかし、文学的に優れていてももうこんな本はしばらく嫌だ。

    私の感想は一面(物語として)からのみ見ているのだ。思想については感想は書かない。

  • 『罪と罰』を挫折したので、この『カラマーゾフの兄弟』を読み終えて、自分の成長を感じ、嬉しかった。自信、体力、集中力がついたと思う。ドフトエフスキー節がおもしろかった。一回ではなかなか理解出来ないので、再読したい。また『罪と罰』にも再チャレンジしたい。

  • 以前読んだのが結構前なので再読。フォローしている方のレビューを見て、久しぶりに読みたくなった。

    舞台は帝政ロシアで、成り上がりの貴族である父フョードルと、三人の息子の物語。一応主人公は三男のアリョーシャということになっている。

    あらためて読んでみて、不死、神の存在、美、情欲、愛、堕落、善と悪など、重いテーマをガッチリと組み込んだ、卓越した小説だと感じた。それらを物語るための舞台として、ロシア正教会修道院というとっても厳かな、神や愛を語るにはもってこいの場所が素晴らしい。加えて、修道院で奇跡を体現する偉大な長老の存在や、貴族で道化の親父フョードルに、放蕩無頼な長兄ドミートリィ、冷徹な哲学家の次兄イワン、そして純粋無垢な修道僧の末弟アリョーシャ、という人物の書き分けがとても巧みで、それらがあってこそテーマが光るのだと感じた。彼ら以外にもスメルジャコフ、グリゴーリィ、カテリーナ、グルシェーニカやら名脇役たちもスポットライトを浴びて輝いている。

    彼らの性格や哲学の違いが、ドストエフスキーの圧倒されるような、人物の対話を生み出している。この「対話」が深いし、重い。それに対話は往々にして主人公アリョーシャを介して行われるのだが、このアリョーシャという人物が対話の聴き手、つまり受け皿としては、少しの偏見もなく、純朴で、物語を動かす潤滑油として大変優秀な存在になっている。話の面白さはピカイチで、キャラ立ちも筋書きもとてもしっかりしているといるうえ、細事にわたる、それでいて怒涛のような描写は息をつく暇もないくらいで、何度読んでもその熱量に圧倒される。

    初めて読んだときは中巻のゾシマ長老のところで大号泣した記憶がある。その後何度か読んだがなんともなかったのが不思議なところだ。小説を読んで号泣したのは後にも先にもこの一度きりで、自分の変なスポットにうまく刺さったんだろうなと思う。

    上巻はカラマーゾフ家の歴史の説明から始まり、修道院や実家などでの場面で、各人物の紹介がなされる。カラマーゾフ家は少々複雑で、ここでは詳しくは説明しないが、すべて一癖あるキャラクターばかりで、読むたびに違う発見がある。今回読んで気に入ったのは上巻の長兄ドミートリィの魂の告白シーン。詩や事件によせて、恋愛にまつわる自らの置かれた窮地を弟アリョーシャに説明し、同時に心情を吐露するのだが、これがとても面白く、激しく、抒情的で心を打つ。ドミートリィは作中では無頼漢、卑劣漢のように描かれる。だがただ単に理性より行動の人で、結果として激情にかられて過ちを犯し、責め苦を負い、自らをも蔑むわけだが、彼の告白と洞察は、ピントがずれているときもあるものの、大変野性味・知性味溢れるものだと思う。あとは上巻では、イワンの大審問官も見どころだ。

    下巻は検事と弁護士の論告が見物だが、弁護士のフェチュコーウィチが父親殺しを聴衆の感情に訴えて打破しようとするところが(素晴らしいが)少々残念だ。僕としてはイワンにもっと活躍してほしいところであるが、彼が頑張ったらドミートリ―の運命が変わってしまうかもしれないし、ドミートリ―のモデルになった人もやはり彼と同じ運命になったというから、物語の落とし所としては丁度いいのだろうか。

    読んでて思ったのはこれドミートリィが主人公じゃないのかというくらい彼に紙片が割かれているなってこと。彼は父親殺しの嫌疑をかけられるわけで、その言動を逐一追わなくてはならないから当然かもしれないが。あらためてイワンやアリョーシャをもっと深く掘り下げるような第二部があればと思ってしまう。とくにイワンの成分が少なすぎる。短いがパンチは効いている、だけどもっと読みたいと思う。

    ドストエフスキーはアリョーシャが活動家になる続編を書くために、この導入ともいえる第一部を書いたというが、彼が亡くなって続編が日の目を見なかったことが悔やまれる。でもドストエフスキーは実はカラマーゾフしか読んだことがないので、まだまだ楽しみがあると思って、これから彼の他の小説を読んでいきたい。

    それにしてもどうやってこれだけ複雑に入り組んだ、完成度の高い小説が書けたんだろう。ドストエフスキーは神がかり行者ならぬ、神がかり作家としか思えない。

  • ようやく、ようやくの読了。
    他の読書と並行していたので、何年もかかってしまいました。

    ドストエフスキーは前のめりになって、燃え盛るように登場人物に語らせるのですが、
    (紙に食いつくように、ガリガリとペンを走らせる彼の姿が見えるようです)
    それがドストエフスキー自身の台詞ではなくて、それぞれの登場人物の、
    各個の哲学をもって語らせるのが、本当に面白い。

    登場人物の姿を借りて、彼自身が語っているのではないのです。
    ドストエフスキー自身が、憑依型の役者のようなところがあるのでしょう。

    あとがきで『カラマーゾフの兄弟』は未完であるということが書かれていました。
    また小林秀雄が「未完とは思えないほど完成された小説だ」と言ったことも。

    しかし私には、アリョーシャの中に滾るようなエネルギーを感じていて、
    それが未だ発散されずに物語が終わってしまったような感覚を覚えています。

    登場人物が多いだけに目立たない部分ではあるかもしれませんが、
    彼の天使のような振る舞いのなかに、グツグツと煮えたぎる何かを感じるのです。

  • (01)
    解法をほぼ無限に有する傑作なテクストで、テーマとモチーフ、ドラマとロマンス、エピソードとアレゴリー、ミステリーとヒストリー、コミカルとシニカル、どうつまんでもおいしいのが本書である。
    さしあたり人物の魅力ということなら、兄弟の主人公たちはともかく、いつも泣いたりへらついたりしているけれど漢(おとこ、そして無頼漢)な一瞬がキラキラしているスネギリョフ、悪意のない虚言で煙に巻きなんだかコロコロしている住所不定のマクシーモフ、カテリーナやリーザへと達する兄弟の恋路にいつも関門の様に立ちはだかりしかし自分の恋路にはキチンと段取りを踏むホフラコワ夫人などなど、登場するたびにしでかしてくれそうで嬉しくなる人物にも事欠かない。
    沸騰し狂騒し罵声する声たちがありとあらゆる場面で登場(*02)し、それはポリフォニーとも評されるが、情景を口やかましく彩る様を読んで見つめるとき、読書することの幸福を感じるとともに、発せられ読者に読まれてしまった、声、セリフ、一句、一語、それらのいちいちが、登場人物ではないかという眩暈にあてられてしまう。その意味で無限の解法がここにある。

    (02)
    場に登り、場に発せられたものは何なのか、という前にそのものがどこから生まれたかを考えてみたい。
    セリフの過剰に隠れてはいるが、地の文として目に飛び込んできて印象的なのは、口づけと笑いである。口づけの多様と作用、笑いの矛盾と唐突には、いつもいつも驚かされる。このキスとラフは、口の方法と形であって、長広舌を補いつつ、饒舌に対しての反射の様に現れる。
    この口、人間の顔面の下部を占め、食べると飲むに欠かせない機関として働き、言語の様な意味から悲鳴の様な無意味までの音声を発し、臭い息やスカトロジーなどに暴露され機関的な意味での内面の昇降口ともなる、口が問題の端緒でもある。
    目の描写についても冴えをを見せており、太陽が映りこむ水玉などのアレゴリーも豊富ではあるが、本書においてやはり問題となるのは、顔の穴としての口腔ということになるだろう。それは人格の欠格にも対応する。スメルジャコフが向かったのが料理であったこと、その名が放つ異臭は、ゾシマ長老の腐臭とも共鳴しあうこと、これら悪臭の避けられなさは鼻孔という穴に由来している。
    もちろん、19世紀ロシアはヨーロッパの先進性に対し後進性を見せており、その後進は、著者によって、ロシア性、カラマーゾフ性などとしてからかわれながらも引き合いに出され、批評にさらされた。つまりは文明の突出に対するヘコみとしてのロシアであり、大陸的な穴や欠損が卑しくも意識されていた時代であることは見逃せない。
    また、ミーチャの蕩尽は痛快であるが、読者は、それぜったいだめ、という世話焼きな半鐘を鳴らす一方で、頁を隔てた向こう側で使われるルーブル(*03)は読者の財産ではないため、どんどん使っちゃえ、という焚き付けに加担もしている。このミーチャの行動は、ポトラッチとして理解される。つまり、蕩尽による名誉の保全であり、近代的には人格的な欠損を金で補い、箔を付ける実践として理解される。穴埋めというなら正しくその通りであり、彼はいつも埋めなければと切迫している穴を(好んで?)抱えている。
    地獄や悪魔は穴の内容であり、ヒステリーやアフェクトは穴の修繕あり、扉や封筒は穴の容態であった。口、穴あるいは孔のアレゴリーには事欠かないが、ミステリーの肝となる、誰がフョードルを殺したか、という穴はエピローグの円団の時点でどのように満たされたであろうか。
    本書の卓抜は、この作劇上の要点となる犯人は誰という穴に、神の不在というという問いを掛け合わせた点にある。やったのかやらなかったのか、いたのかいないのか、いるのかいないのか、曖昧をさまよう譫妄状態(*04)や、不問に付される情況、フィニュッシュの直前にある寸止め状態に、この作品の命脈を賭けたこと、そこに現れた深淵は尊い。

    (03)
    財産の保管と宗教の保護とに関わる土着性という点でも本書は興味深い考察となっている。ヴェーバーがプロテスタントと資本主義を考察するのは、本書ののちの話であるが、蓄財と散財とが先述の先進と後進とに対応し、ミーチャの散財や、カテリーナの善行と金銭に現れた感覚をロシアやカラマーゾフの美質として、プロテスタントのけち臭さに対置させたところは、面白い。
    ほぼ同様な構図が、医学、心理学、細菌学、法学、神学に対する著者の見地にも現れている。啓蒙的な近代の学問をセットで小馬鹿にしており、在来の神秘や土着を踏まえたところに新時代の精神を築こうとしている。この文学的で政治的な態度は日本の近代化で現象されたことと比較しうる。

    (04)
    読み返すと、ありとあらゆる文脈に伏線や複線が張られていることが分かる。どうとでも読める、どちらとも読めるという具合に。それはリニアなのか、非リニアなのか。
    しかし、明らかに回収されていない伏線というのもある。有名なのが、13年後(*05)を描いた第2の小説の件である。
    感触として、第1の小説が余した残り半分を示唆しつつも、結果的にはその後半を欠損としたことに著者の最大の遊びがあるようにも思われる。書かれそうで書かれなかったところに、読者を置き去りにしてしまった(*06)こと、本書のテクストを読む限り、この欠損は意図的であったという感触を持っている。その理由は既に記すことができたようにも思う。
    謎めかすこと、おそらくドストエフスキー以降は、映像文化の台頭とともに、文字による物語はやや衰退していくが、その文字文化の精華として本書が示した謎めかしは、今後まだまだ楽しく読み解かれるだろう。
    報道マニヤ、事件マニヤが本書にも現れはじめ、マスコミの予感がしている。この20世紀を圧倒する情報社会の前夜において、書かれたもの、報じられたものどもが、神に対したときに、とてもじゃないが信じられたものじゃないことを、とっくに、そして遠くに著者は見抜いていた。

    (05)
    ある階段の13段目にいるミーチャのはるか下、アリョーシャはまだ1段目にいるとされている。主人公であるアリョーシャは、ありとあらゆる場面に存在しなくてはいけない。場面とは事件のある場であって、事件の場には必ず癖のある人物が配置されている。主人公であるアリョーシャは、神がかり行者ともされるから、彼の業や修行は、このあらゆる場面に立ち会わなければならないことにある。
    したがって、アリョーシャは忙しい。事件の前後となるとなお忙しく、彼が歩き回る場面場面で次々と業が課せられるから、タスクは累積的に彼の背にのしかかる。だから、特に前半の場面転換では、次なんだっけ、今なにしてたっけ、という健忘がしばしばともなわずにはいられない。彼が階段を上れずに踏みとどまっていること、それでもこの物語の中で数段は上れたかもしれないこと、これは西欧のビルドゥングスの伝統を踏まえた上で、どのように考えるべきであろうか。
    おそらくアリョーシャは、物語の中で一度も汽車や馬車を利用していない、メッセンジャーや代理人にはなるが彼自身が誰かを使役することはない。そこにこの天使の踏みとどまりと善の理由がある。疾走する馬車や突き進む戦車は、太陽にも絡んで、物語中で重要なアレゴリーとなるが、天使の羽が、彼にのしかかる厄災をいくらかでも軽くしてくれていることを祈りたいものである。

    (06)
    「私」という審級が問題になる。マンの「魔の山」の「私」は超歴史的な存在ではあった。カラマーゾフの「私」は誰なのだろうか。カラマーゾフ家、特にアリョーシャを讃える伝記作家のようでもある。特に「誤審」の法廷では、この作家も傍聴していたようでもある。「私」は、カラマーゾフ家と同じ町に住み、周辺の人々のその後にも精通している。
    この「私」のほかにも、超時間的、メタ的な存在をほのめかす記述が散見される。不思議な場面で、その人物がのちのちまで覚えていたとする説明がなされるときがたまにある。それは過去に遡る視点が目指すべきタグやポイントになっており、複線の交点のようでもある。逆デジャヴとでもいうようなこの表現は注目に価する。

  • 暴力的なまでに、
    人間という存在の葛藤を暴いている!

    人間は、神と愛を信じる良心的な存在なのか。
    それとも、神は不在であり、我々はエゴイスティックな生き物なのか。

    どちらかに傾けば、片方の声が聞こえてくる。
    それ故、私たちは一喜一憂しながらも人生を謳歌するのだ。

    我々は皆、「カラマーゾフの兄弟」である。


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著者プロフィール

(Fyodor Mikhaylovich Dostoevskiy)1821年モスクワ生まれ。19世紀ロシアを代表する作家。主な長篇に『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『未成年』があり、『白痴』とともに5大小説とされる。ほかに『地下室の手記』『死の家の記録』など。

「2010年 『白痴 3』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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