トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (259ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102022016

感想・レビュー・書評

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  • 読み切った!やったあ!という気持ちが強い。

    どちらも芸術家を主人公とした話で、その精神性がフォーカスされている。自分を俯瞰する視線から絶対に逃れられないことについての嘆きはよくわかる。そういう人が芸術家なりえるということも。「ヴェニスに死す」はここから脱しようという老年の男の話である。芸術家というか、何かを創ることにその心を捧げている人というのはめちゃくちゃ人間な気がすると思った。
    どちらの小説も純粋な読み手(創るということをしない人)が読んだら、どんなふうに思うのだろうか。

  • 大作「魔の山」の前に、トーマス・マンの雰囲気をつかもうと思って読んだ。「ヴェニスに死す」は別の訳で読んだので割愛。「トニオ・クレーゲル」は魔の山を読む前に読むには丁度いい小説だと思う。多少、観念的で暗中模索気味な読書になるが、読み通せば感じるものはある。傷口が拡がるような感覚じは読み通して良かったと思えるものだし、再読しがいのある作品だと思う。三島的感性というよりも芸術や青春に対する憧れや愛着といったものを見つめている。途中少し集中が切れそうになったが読み終えてよかった。読み通す価値のある小説だと思う。

  • トーマス・マン。
    とにかく長大・重厚な作品を書いた大作家という印象だが、本書は比較的ボリュームの軽い、中編を2編収める。
    とはいえ、ここにも「過剰なる叙述の片鱗」と言ってもいいような、詳細かつ細部に分け入っていく、畳みかけるような描写がある。
    2編に共通しているのは、「決して混じりえぬものへの憧憬」とでも言えようか。。

    『トニオ・クレーゲル』は一人の芸術家の半生を描く。謹厳な父に、異国から嫁いだ、夢見るような母。周囲に完全に溶け込むことのない一対の観察する目のような少年時代が印象的である。少年トニオが愛したハンスは、トニオよりも乗馬友達の方がお気に入りだ。長じて詩人となったトニオが女流画家に当てた手紙はそのまま、マン自身の芸術論であるように思える。
    『ヴェニスに死す』では、気分転換にと大作家がヴェニスを訪れる。やはり旅行に来ていたポーランド人一家の中に、端正な顔立ちの少年がいた。ギリシャの美少年を思わせるような中性的な美しさを愛で、老作家は密かに見つめ続ける。生ぬるい風に消毒薬の匂いが混じる。死の伝染病が流行しているが、当局が伏せているらしい。この地を去るべきだと思いつつ、少年に魅せられた作家は、そこを離れることができない。

    「美」を見出し、描き出すのは「芸術家」だが、「美」そのものを体現するものは、それを描写する必要を持たない。「芸術家」は「美」の一番の理解者でありながら、「美」自体になることはできない。「美」は自身が「美」であるがゆえに、「芸術家」が「美」を求め、それを捉えようと苦しみ、遂に手中にする喜びを、真に理解することはない。
    かくしてこの片恋は、永遠に片恋のまま。
    『ヴェニスに死す』では、間接的にではあるが「美」への愛のため、「芸術家」は命を落とす。ある意味、幸福な結末であるようにも見えるし、辛辣な喜劇のようにも見える。途中からは引き返せない道であることがありありと見えることから、一直線に奈落へ落ちていく悲劇のようにも見える。
    読むたび印象が変わりそうな、万華鏡のような不思議な世界である。


    *トーマス・マンといえば思い出すのは北杜夫。敬愛するマンの「トニオ・クレーゲル」から筆名を「北”杜二夫(とにお)”」とし、読みにくいため「杜夫」に改めたのはよく知られる話。代表作の1つである「楡家の人々」もマンの「ブッデンブローク家の人々」に影響を受けたものとのこと。

    *「ヴェニスに死す」は学生時代にヴィスコンティの映画を見ました。当時は、不健康で退屈、と思ったのですが(^^;)、先日、オペラ仕立てのものを見たら存外おもしろくて原作を読んでみる気になりました(映画とオペラの作品の出来不出来ではなく、自分の方が年を取ったということだと思うのですが)。

    *水の都、ヴェニスは、実際に感染症の蔓延に悩まされていたんでしょうかね。このあたりもちょっと追ってみたいような。

    *マンは後年、反ナチスの姿勢を明確に打ち出していきます。金髪・碧眼という本二作で描かれる美の象徴はそのまま、ヒトラーの賛美した「アーリア人」的容貌であるようにも思えます。その重なりが余計に許せなかったのかもしれない、とちょっと思ったりします。

  • ドイツの作家トーマス・マンが1903年に発表した"トニオ・クレーゲル"と1912年に発表した"ヴェニスに死す"を収録。どちらも映画されており、特に"ヴェニスに死す"は有名な作品です。どちらも芸術家を主人公にした作品で、作中ではそれぞれが苦悩する姿が描かれます。"トニオ・クレーゲル"は、作者自身の自伝的内容らしいが芸術に対する苦悩と思春期特有の苦悩が上手く結びつきあって、彼の独白に共感しやすさを持たせていると感じた。"ヴェニスに死す"は同性愛(BL?)的な視点で読んでみるのも一興かと。

  • 描写が美しくて読み応えありますね。特に少年についてのくだりはすごい。かなり古い作品だと思ってたのですが20世紀のものでした。

  • 薦められて読んでみた本。面白かったなあ。
    芸術か実生活か、直感か理性か…

    『魔の山』の時にも感じていたのだが、トーマス・マンの筆致は強くてシリアスでありながら、どこか諧謔的で、一寸とぼけたようなところがあると感じるんだよね。そこが好き。テレビ「ドラゴンボール」のナレーションみたいなところがありはしないか?
    満足です。
    そして、推薦者がコレを推す意義もひしひしと伝わってきました。

  • ヴィスコンティの映画は大好きで、初原作。いつか読もうと思っていたもの。
    やっぱり原作秀逸。映画の映像美はいわずもがなだけど、こちらはこちらで面白いというもの。
    トーマスマンは初めて読んだけれどもこのねちっこくてどこまでも深い穴倉のなか。みたいな感覚すき。
    美に対する哲学というか思想?。この羨望の気持ち、よく分かる。
    激しい葛藤、世紀末のような大混沌。ひとから見れば恐ろしいほどに滑稽。

  • 二作カップリング本。
    どちらも芸術家の苦悩を描いているが、質が異なる。
    前者は若い作家が「文学とは、創造とは?」と思い悩むが、
    後者は分別のある大成した老作家が旅先でトラップに嵌まってしまう話。
    読み比べるのも楽しい。
    ところで、学生時代、サークル仲間に「貸して~」と請われて渡したこの本、
    とうとう返ってきませんでした。
    借りたものを返却しないまま音信を絶つってぇのは、どういう了見なのかね?
    で、後日、岩波文庫の『ヴェニスに死す』を改めて購入したのでした。

  • ある芸術家の生き様の軌跡。
    肥大化し膨れ上がった自意識、彼の思想は、極限まで高められた内省に源泉を持つ。
    凡人と才能ある人々を区別することの意味。むしろ区別するという行為自体が極めて凡人的なのかもしれない。
    悩める俗人。


    「恋が人を豊かにし、生き生きとさせることを知っていたからだった。」

    彼が愛したのは、容姿端麗で、活発な青年とブロンドのお転婆娘。彼らは詩を軽蔑する。
    彼は叶わぬ恋に身を焦がす。そしてそれが彼の内的な自己否定であり、彼らに愛され承認されることによる自己肯定への欲求なのかもしれない。

    「なぜなら幸福とは、と彼は自分に言って聞かせた。愛されることではない。愛されるとは嫌悪を交えた虚栄心の満足に過ぎない。幸福とは愛することであり、また、時たま愛の対象へ少しばかりおぼつかなくても近づいていく機会を捉えることである。」

    言って聞かせた。ここに彼の歪な愛が垣間見える。

    「春は最も醜悪なる季節なり」
    春は想い出や感情の優しい部分を引き出す。そしてそれは醜悪なことなのだ。

    「全てを理解するということは全てを許すということでしょうか」

    「認識の嘔吐と言いたいような何かがあるんですよ、リザヴェータさん。ある事柄を見抜くだけでもうそれが死ぬほど嫌になってしまう。」
    人生なんて認識の嘔吐の連続でしかない。それでも人生を愛するとはどういうことなのだろうか。

  • 早朝に変なことつぶやいてたらツイッターのフォロワーさんにオススメ頂いたトニオ・クレーゲル。
    ちょっと難しい言葉があったけど、勧めてもらった理由は納得しました。まあ自分は迷える俗人というか迷えるクズですけど。自分とは何であろうか?とかマジョリティーに中々属しない人なんかは共感する部分がありそうな。

    ヴェニスに死す は美しい話だけど恐ろしいなやっぱり。苦悩の追求と陶酔の狭間の文学って感じ。映画版を昔これまた人に勧められて観ました。当時はおっさんドーシタみたいに思って凄い映画だとは思ったけど中身は理解できてませんでしたけど、今は少しはわかるような気がします。

著者プロフィール

【著者】トーマス・マン(Thomas Mann)1875年6月6日北ドイツのリューベクに生まれる。1894年ミュンヒェンに移り、1933年まで定住。1929年にはノーベル文学賞を授けられる。1933年国外講演旅行に出たまま帰国せず、スイスのチューリヒに居を構える。1936年亡命を宣言するとともに国籍を剥奪されたマンは38年アメリカに移る。戦後はふたたびヨーロッパ旅行を試みたが、1952年ふたたびチューリヒ近郊に定住、55年8月12日同地の病院で死去する。

「2016年 『トーマス・マン日記 1918-1921』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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