- Amazon.co.jp ・本 (806ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102022030
感想・レビュー・書評
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ゲーテのヴィルヘルムマイスターと並ぶドイツ教養小説の名著。1924年作。
主人公ハンス・カストルプはスイス山奥のサナトリウムでの療養という非日常の世界で、出会い啓蒙喪失葛藤を通して成長していく。
思想、政治、イデオロギー、宗教、哲学、文学、オペラ、自然科学、神秘体験等とにかく広範なリベラルアーツや当時の西洋アカデミズムに触れることができて面白い。西洋でいう批評精神批判精神がどういうものかもよく分かる。が、上下巻1400ページにわたる大著、博覧強記の教養、読み終えるのに苦労しました…
さて、下巻。
いとこで親友のヨーアヒムの臨終の場面はとりわけ迫真で胸に迫る。大人物ペーペルコルンとの出会い対決別れ、憧れの女性ショーシャ夫人との別れを経て、霊感の強い少女ブラントを霊媒に死んだヨーアヒムと再会するが、非業の死を遂げた親友を無理やり呼び出したところでかける言葉などあるはずもない。二人の師の決闘によりナフタは自ら命を絶ち、庇護者である大叔父も死ぬ。失意と諦念の中、主人公は第一次大戦の戦火の中に飛び込んでいく。
この作品は無垢な青年が病い戦争個人的な不幸に翻弄されていく悲劇の物語ではあるが、彼もまた第一次大戦やその他多くの戦争で死んだいった多くの若者たちの一人に過ぎない。主人公ハンスが、自分も他者をも正当化しない潔さというようなものを獲得したということを一つの希望にしたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
上下巻の大長編なので読み通すのに精一杯、というのが正直な所だが教養小説を志向しただけに、様々な、そして趣の異なった魅力がふんだんに詰まった小説だった。
第一としてはセテムブリーニ、そしてナフタとの議論、この部分が通読して一等面白かった。第二はシャーシャ夫人との恋の行方だろうか。第三にはマンの本作における時間感覚。小説内の時間の問題についてはジュネットの『物語論』を適用させられるのだがそれだけでは済まない〈魔の山〉独特の時間の流れ方を考えてみるのもよいかもしれない。
続けようと思えば何処までも続けられる類の小説なのだろうが、一応の筋はあるので、それに関して思った事と言えば、これは獲得と喪失の話なのだろうな、という事。なるほどハンス・カストルプなる青年は教化されて上巻に比べれば一端の論客になれそうなくらい、知恵はついたし深く物事を考える態度を得た。その一方で、親しい人々が次々と死んでいく。この経験は果たして青年ハンスに何をもたらしたか、そこに内面の成長を喚起させるものがあったか、まああったのだろう、敬虔さを身に着けたのかもしれない。それにしても親しい人の相次ぐ〈死〉という喪失による精神的ダメージを次々と経験していくさまが痛ましいとは思えないか。わたしならこれは堪らない。後追いというわけではないが、ハンス青年は切実な心持ちで〈死〉に接近していたはずだ。
しかしながらマンもあこぎな事をする書き手で、ハンス青年は病が癒えてしまう。結核療養所である〈魔の山〉においては、死神がすぐ横に侍している病人ばかりである。その中でハンス青年は〈魔の山〉においてはストレンジャーになりうざるを得ない。快癒したのならば下山すればよいのだが、彼は幼い時に両親を失っていて、七年間も過ぎたら彼の帰りを待つ人や場所(勤め先)もなくなった。死神に去られたハンス青年は〈魔の山〉の居住資格を失って、かつ帰る場所もない。喪失したアイデンティティーである〈死〉を求めて、あるいはヨーアヒムの果たせなかった軍務を代理して成就させるためを以て、いずれか、それとも両方の理由から第一次世界大戦に出征したのではなかろうか。
この幕引きのための最後の十ページほどの中に戦場に臨むハンス青年の心理や思考は詳しくは描かれない。解釈に正解も間違いもない、マンが答えを示さなかったのだから読んだ人間の数だけ解釈があってよいはずで、なので幾つか『魔の山』論を読んでみたい気にさせた。読み終えてもまだまだ考えたい事柄が残るというのが名作の条件だと個人的に思っていて、その点からすれば本作は紛うことなき名作である。 -
いわゆる教養小説の代表作に位置し,明治の日本文学にも多大な影響を与えていることから,研究目的で読む分にはやりやすいだろう。
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なるほど、詰め詰めに詰め込まれている。
科学と自然、病と健康、人文主義と虚無主義。西欧と東洋。富。隷属。音楽。恋愛。戦争。
これだけてんこ盛りにされていれば、この本を脳内に分類始末をつけるに際して、気圧されたように「これは教養文学である」と言って逃げたくなる気は分かる。
逃げずに、ここに書いてあったことを整理してみようとすると、時間をくださいと言いたくなるのが正直なところ。しばらくかけて(下手したらこの後の人生をかけて)考えてみる。