サキ短編集 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
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本棚登録 : 1395
感想 : 120
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  • Amazon.co.jp ・本 (225ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102026014

作品紹介・あらすじ

ビルマで生れ、幼時に母と死別して故国イギリスの厳格な伯母の手で育てられたサキ。豊かな海外旅行の経験をもとにして、ユーモアとウィットの糖衣の下に、人の心を凍らせるような諷刺を隠した彼の作品は、ブラックユーモアと呼ぶにふさわしい後味を残して、読者の心に焼きつく。『開いた窓』や『おせっかい』など、日本のSFやホラー作品にも多大な影響をあたえた代表的短編21編。

感想・レビュー・書評

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  • リンネさんのレビューから読みたくて実家にあった古い新潮文庫を何十年ぶりかで再読。『開いた窓』はじめブラックユーモアとウィットに満ちて印象的な幕切れが好き。今回は狂言回しのようなヴェラという娘が何編かの話で出てくる事に気づいた。

  • 道徳的な話、教訓めいた話は、私は好きではなくて、サキの短編にあるような人間のどうしようもなさを味わえる話は好物。愛嬌のあるペシミズムというか、いかめしい顔でのあかんべというか。今日みたいな曇天で読むのにふさわしかった。

    シニカルな言葉選びがたまらない。たとえばこんな風に。

    「われわれは自分ではたちのよくないゴシップを嫌うくせに、自分のかわりにやってくれる人、しかも、うまくやってくれる人には、つねに感謝するものである」。

    • 111108さん
      こんにちは 勝手にレビューにお名前載せてしまいごめんなさい。
      「いかめしい顔でのあかんべ」素敵です‼︎
      こんにちは 勝手にレビューにお名前載せてしまいごめんなさい。
      「いかめしい顔でのあかんべ」素敵です‼︎
      2021/09/26
  • 10ページ前後の作品が21編おさめられています。海外では、アメリカで活躍したO・ヘンリと「短編の名手」として並び称されるほど書き手だそうです。サキは、1870年に植民地ビルマで生まれ、2歳の時にイギリスに渡ったスコットランド人。第一次世界大戦のフランス戦線で戦死しています。

    序盤の3,4作こそ、牛や二十日鼠が「またなのか!」という具合にでてきて、どことなくほのぼのとしているというか、のっぺりとしたような地味さを感じましたが、その後の作品では味わいがそれぞれ違ってバラエティに富んでいましたし、地味ということもなく(キラキラと派手でもないのですが)、それぞれに独特の風刺があり、すごく楽しめました。

    というか、風刺が持ち味の作家です。蛇足ながら言わせていただくと、風刺とは、遠まわしに社会・人物・慣習の、その欠陥などを批評的に表沙汰にすること。それも面白く、おかしく、ユーモアに包んで。サキは、「人のこういったところは風刺になる」という部分によく気づける人だったのでしょうね。作家としては光る才能であり、一般人としては周囲に嫌がられてしまった可能性のある、そんな特徴ではないでしょうか。

    おもしろい話だらけのなか、いちばん好きだった話は「七番目の若鶏」かもしれません。主人公は、自分が始める話のつまらさなのために、汽車の乗車仲間と話をしていても、ちっとも座の主役になれたことがないブレンキンスロプという男。同僚に相談すると、創作をすることだよ、との忠告を受け、真に受けてしまいます。同僚が例に出した創作話「七番目の若鶏」をブレンキンスロプが脚色して仲間に話してみると、みな興奮して食いついてくるのでした。嘘を用いて周囲の賞賛を集める気持ちよさを知ってしまうのです。下に引用を。
    __________

    それからの数日間に、ブレンキンスロプは、世間の尊敬をかち得た場合、自己に対する尊敬を失うことが、いかに屁でもないかということを発見した。(p66)
    __________

    こういうことってあるなあと思いました。世間から注目されたい、一目置かれたいという虚栄心が勝って、嘘をついてまでする「自らの不徳」については不問にしてしまう。その結果、そのような行為が引用の通り「屁でもない」ことにまでなってしまう。僕個人は、このあたりのことって、まだ小さな子どもの頃から葛藤していたことでした。ですから、その原体験みたいな部分に改めて触れることになって、甘く苦いような気持ちになりました。また、白状するならば、僕にも次のような、この短編の例と似た経験があります。それは、親のおつかいで使ったお金のお釣りをちょろまかして、それでギャンブルをして勝つんです。どうだ、こんなに胴元からぶんどったぞ、と意気揚々自慢するんですけど、どういった資金だったかというと、その行いがクズなんですね。で、これだけ勝ったんだというところを見せつけてそれに賞賛を得ることが気持ちよく、大きな意味を持つので、自分を尊敬できなくなることなんか眼中になくなるわけです。人間心理の怖さの部分であり、気持ちを引き締めていなきゃまずいよなあと思うところです。

    他、これは慧眼だ、と思えた部分を「運命」という作品から。激しい疲労や絶望に追い立てられて前へ前へと進むのは、考えて進んでいるのではなく、隠れた衝動によって進んでいる。この作品の冒頭にあった看破です。自分は今、隠れた衝動に動かされていると気づけたならば、そこから自分を取り戻すことなのだよ、と照らされた道を見たような気分です。自分の道は衝動によってオートマティック的に歩くというより、一歩一歩意志を持って歩いていたいものです。


    二人の敵対する地主の男が、敵対することとなった大きな理由となる森の一角の土地ででくわし、二人のその心理の変化を追う「おせっかい」。愛嬌ある毒舌家であり、そしてケチというよりも金銭にはきっちりとしておきたい性格をしていたラプロシュカという男の死と、そのきっかけをつくった男との因縁のある不思議な話、「ラプロシュカの霊魂」。以上のふたつも気に入った作品でした。

    O・ヘンリもよかったですけど、サキのこの毒のある風刺のほうが日本人には向いているんじゃないかな、という気もしました。おすすめです。

  • 「ピース又吉が愛してやまない20冊」のうちの1冊。
    又吉さんは帯にて「たいへん癖になる毒」とコメントされていますが、仰るとおり、中毒性が高い短編集でした。

    最後に待ち構えているであろうどんでん返しで、きっと予想を裏切られる。
    ユーモアを味わいつつも、そんな裏切られる期待感にぞくぞくしながら読んでいました。
    そしてその結末が、時に笑い飛ばせない冷たさを含んでいることも中毒性を高める一要因かと。
    背筋がひやっとするような感覚がいつ襲ってくるか、油断できないところがたまりません。

    個人的に好みだったのは、「肥った牡牛」「開いた窓」「宵闇」「休養」「おせっかい」など。
    ありもしない話を本当のように、堂々と語ってみせるストーリーテラーが出てくる話が特に好みでした。

  • どれも5ページ前後で書かれた短編集。
    どの作品にも最後に皮肉な笑いや刺がある結末が用意されているが、この冷笑すら見えるラストをユニークだと感じるか、はたまた嫌悪と感じるかは人に寄るかと思う。
    同年代で活躍した短編の名手オー・ヘンリーとよく比較されるが、分かりやすい毒のはらんだサキの方が個人的に好みだった。以下、印象的な作品を簡単に。

    「二十日鼠」…婦人の前で服を脱ぐなんて!と鼠に翻弄され続ける英国紳士
    「平和的玩具」…英才教育と思い与えた玩具がまさか…
    「七番目の若鶏」…作り話の手練れたる受難
    「十三人目」…13という数字は不吉だという理由であらぬ奮闘をする困った夫婦
    「開いた窓」…神経衰弱の治療で訪れた主人公に舞い込む新たな悲劇
    「家庭」…妻の細やかな気配りを煩わしく感じる夫、とつい女寄りで読んでしまう
    「ある殺人者の告白」…先人から学んで備えよう(笑)

  • 〈二十日鼠〉
    「思い込み」が作るドラマ効果を使った短編。心理知覚の情報欠如手法で、物語の別側面を作り出すことに成功している。主人公セオドリックの造詣が、思い込みの背景に強く影響を与えているのに注目したい。過保護な母親の庇護下で生活をして来て、世俗的なものに対して、過敏な潔癖さを抱えている。そんな彼だからこそ、二十日鼠という汚らしいものへの過剰な反応を引き起こし、つかなくてもいい噓を取り繕う羽目に追い込まれる。それから、目の見えてない人にとっては、視覚的なモラルに反応しなくてもいい。
     耳が聞こえない人間に、罵詈雑言を浴びせようが、目の見えない人間に、猥褻暴力を見せようが、全くの無反応に終わる。反対に障害を持たない者は、常に五感の暴力と影響のなかにいる。
     『ライ麦畑で捕まえて』でホールデンが視覚と聴覚の訴える暴力の苦痛から逃れようともがく。セオドリックは婦人の前で裸になんかなれないと、苦しむけれど、婦人にとっては少しの影響も持たないことだった。そこがモラルマナーに苦しむ人々の滑稽さを象徴しているようにも感じられる。

    〈平和的玩具〉
     遊びの暴力性を診ずにはいられない作品。風刺短編で面白かった。感受性が豊かで、ついでに暴力性も豊かな少年たちをどうやって、戦争と暴力に染まらせずに教育するかを考え、平和的玩具を与えるものの、文字通りのそれらが塗りつぶされた戦争玩具に変えられてしまう。
     子どもの遊びは残酷さを極めるものが多い。遊びのなかで動物が殺される。でもそれは、シャチが遊びながら、子どもに狩りの仕方を教えることとそう変わらないような気がする。
     教育の平和への誘導が、ことごとく戦争へと変換される。ウルトラマンや仮面ライダーにはまる男の子は正義という暴力の免罪符を得て、悪を倒すという、代替暴力に夢中になっているのだろうと感じる。だとすると『セーラームーン』を好む子供たちは何なのだろう?変身願望か?王子様効果?
     歴史から戦争や残虐性を除くことが不可能というのも面白い。そのほとんどが戦争の歴史である以上確かに教育から残虐性の影響を除くことは難しいのかもしれない。

    〈肥った牡牛〉
     暴力の受容。このお話も面白い。アカデミズムの画家として、牧歌的な絵画ばかりを書き、野心的な作品で野性的な絵をはねられ続けてきた、エシュリイは、身近に起きた、居間で牡牛が暴れる姿を描いたモチーフが大ヒットする。
     まさしく暴力の記録である、居間の牡牛が受容されたのが、暴力と権威の邂逅といった斬新さがあって面白い。相容れない牛と居間、管理されるべき家畜のと安全で侵されてはならない人の心領域というが、反乱的様相、若しくは革命的要素を含んでいるようにも感じる。
     暴力は美しさも孕んでいる。または、美しさの一形態に暴力があるのかもしれない。全然関係ないかもしれないけれど『ウォーキングデッド』でニーガンが鉄線を巻いたバッドで、リックの一味の頭蓋を叩き潰していくシーンを思い出した。戦争や災害の最中の光景が美しく感じられることもある。それらの共通点は、計測不能なパワーへの憧憬のように感じる。

    〈狼少年〉
     ミステリ要素を含む。存在する事件に、別側面から接触する。そして、狼少年の話す言葉を都合解釈する読者へ裏切り要素も含ませている。個々の要素の繋がりは、他短編に劣るか。

    〈話し上手〉
     これも、子供と教育を扱い、教育の不都合と実力の乖離がしめされる。男の語る話の「とってもいい子」がいい子だったが故に命を落とす羽目になるという話が子供たちに受ける。車内でうるさくする子供たちを道徳的なお話で黙らせようした教育的な叔母さんに、反道徳的な面白さを含んだお話で対向する構図は『平和的玩具』に通ずる。
     この叔母さんというのがPTAによく似ていて痛快。

    〈七番目の若鶏〉
     こちらが童話「狼少年」のパロディになる。真実と虚構の綱引き、相対的重量。退屈な真実の話では聞き手の関心を惹くことなどできないが、正直を大切にしていた男が、作り話に手を染めて、いっときの良い目を見るも、妻が死ぬ事件を脚色したことで、人間性を疑われ、誰も耳を傾けなくなる。
     この真面目な人間に降りかかった不幸に、どこかで『外套』(ゴーゴリ)を思い出しながら、また脚色、虚構の魔力の恐ろしさを含んだ、教訓的意味合いも読み取れる。

    〈運命〉
     自業自得という運命、若しくは悪因悪果を地で行く物語。その自堕落な生活が自身の記憶まで歪めて、偽造した人間こそ本人なのでは?と想像しながら読んだ。一方で彼が死ぬことによって、自らの罪が帳消しになったラッキーなトムのことを考えるのも面白い。命を狙われることになるのが分かっているからこそ実家に戻ってこなかったのだとすれば、彼の懸命な行き方が、代わりに殺された男の不幸を持って幸運に変わったのかもしれない。もし、こちらに戻ってくることがないとしても、幸運とは常にその身に起きていることで、本人の預り知らないところにあるのだと考えても納得がいく。

    〈開いた窓〉
     ミステリ。精神を病んだ主人公が、まんまと最もらしい噓に騙されるのと同時に読み手も騙される。読み手側の書かれていることは事実だから、そのまま受け止めようという悪癖ありきで成立する。

    〈宵闇〉~善人の悪意~
     人は善いことをするために理由を必要とする。そして疑うことになる。なぜなら、良いことをしたというのはあまりにも漠然としているからだ。善と悪を絶えず分別しなければならない面倒な状況のなかで、道徳的に疑うことは揶揄される。(高収入も低収入もみな、同じような生活様式をするため、困っている人が分からなくなってしまった~※これ宮台さんが引用していってたのなんだっけ?)
     誰かに善悪を決めてもらった方が楽だからだ。
     そして、状況証拠の危うさが寓意として込められている。疑うことへの潜在的な罪悪感も、ゴオツビィに感じる。彼もまた善人かもしれない。もしそうするだけにたる理由があるのならば、人には親切にするべきという信念があるからだ。彼の善悪を人任せにせず、自身のなかで考え定義する姿勢が好ましい。
     自分で善悪を考え始めて行動する人間にも落とし穴がある。それは個人の善悪を担保する外部がないということだ。良かれと思って人を殺す事もあるかもしれない。けれど、法律やそれを運用する人間にその善を証明できるとは限らない。人を殺すという定義された悪を、善に塗り替えるだけの力もまた、個人には求められる。
     騙す方と騙される方の情報の非対称性から見ても面白い。
     石鹸が落ちていたのは偶然だろう。しかし、ゴオツビィは落ちていた石鹸を見つけて、“次の瞬間~駆けだしていた”その時点で理性を吹っ飛ばしてしまう。道徳的心理効果。
     善人が悪を侵すのは、自分が悪を為す事を厭い、嫌うためだろう。
     
     青年は20シリングを返すことはなかったかもしれない。噓も方便。青年は学んだだろう。「もっともらしい噓」があれば悪は善として受容されると。が、若者の話は本当だったと考えてみても面白い。
     合わせて考えたい落語に「文七元結」がある。
     こちらでは、大金を失くして自殺しようとしている若者を、そこに居合わせた男が、娘を担保に借りた大金をそっくりそのままあげてしまう。この後、若者へ無くした大金が手元に戻ってき、男は金を返してもらうとともに、その青年と娘が結婚するというハッピーエンドになる。
     「宵闇」では為した善が裏目にでる。「文七元結」では為した善が循環する。
     彼らの態度もまた異なる。最初は疑ったゴオツビィと、最初から信じて疑わなかった文七。
     
     こう考えを深めていくと「宵闇」の面白さがグッとます。
     では、自分がこうして話を持ちかけたらどうするか考える。金を貸さないだろうと思う。貸してやろうとは思わなかったと思う。もし一晩野宿しても、青年が別に死ぬわけでもない。自分の家に泊めてやることもできた。少なくとも、善悪で何かを判断するような人間ではいたくないなぁと思う。そして、こうやって善悪を考える人間こそを落とし穴にはめるような作品機能が面白い。
    (これもまた、心理学で目の前のもっともらしいものに飛びついて選択を誤ってしまう(サイコパスの引用だっけ?))

    〈ビザンチン風オムレツ〉~鼻もちならない人びと~
     資本主義での成功を収め既得権益の恩恵に預りながら、それを決して手ばそうとしない社会主義者への痛烈な批判風刺で、声にだして笑ってしまうような作品。“中年の社会改良主義者にとって、彼らが注入した善は、もしそれがいやしくも存続すべきものなら、彼らの死後にも存続するにちがいないということは、慰めのひとつであった”とある。
     つまり、口では弱者のためを謳っておきながら、弱者から搾取し続ける者。若しくは、そこまでの悪意がなくとも、自覚のあるなしに関わらず、自分の名誉のために弱者を食い物にしているいわゆる“善人”をまたもやぶった切りに行く。(馬鹿にするのに、これ以上うってつけの人間もいないのだろうう。)
     スト破りのオムレツ職人がスペアの即時解雇をしなければ、屋敷中がストライキを起こし、賓客の前で機能停止。仕方なく、ガスペアを解雇すると、今度は彼の入っていた料理人及び厨房従業員組合に所属していたために、料理場のストライキが発生する。
     ガスペアを巡って、双方の組合が衝突し、屋敷が機能不全に陥る。
     トルコ風呂から出ることもできなければ、髪の毛のセットもできず、料理もまともには作れない。
     資本主義が社会主義に敗北する一劇場の構成が刺激的で、かつ、財に依存しきった生活者/自力で生活できなくなった非生活者、の風刺は恐ろしかった。
     今では、テクノロジーに全て依存している生活できる。テクノロジーがストライキ(それに準ずる機能停止)に陥ったとき、冗談ではなく命を落とす人間も一部にいそう。

    〈休養〉~ヴェラ(説明者)にご注意を~
     [あらすじ]
     ラティマァなる政治家は目下二週間に及ぶ選挙活動の激務にあって、夫人は姪のヴェラに、彼の滞在中、政治のことをすっかり忘れて、休養できるように苦心していた。
     ヴェラは、彼の部屋に黒豚とシャモを置き、付近一体がため池から溢れた水で孤島と化していて、家はすでに避難してきたボーイスカウトや運び込まれた動物でごった返しているという。
     仕方なかく早々に仕事を切り上げた彼は、夜明けまで発情した豚に、それ以降はシャモに散々に騒ぎ立てられたのだった。
     ヴェラは、彼の頭から政治を追い払ったことに満足気だ。

     [感想]
     「前提を疑う」ことを、禁じられた人間。何かに似ている。
     そう。わたしたちに。わたしたちはちょうど膨大な一冊の本の途中に、突如として挿入された登場人物にも似ている。少なくとも、わたしたちのその始まりは全くの白紙に一文字目を書くことと、あまりにも遠い。
     進行中の物語のなかに産み落とされたわたしたちは、生まれながらにして何か他の物語の一部だ。人権、利権、財産、環境。
     ラティマァは、どうして部屋の窓を開けなかったのか(?)問題がそれを如実に物語る。ヴェラの話した最もらしい、疑う余地を与えない説明にわたしたちは思考停止する。よくもまあこうまでして、噓をつくものだと思った自分にぞっとする。噓をつく方にとって、信じてもら
    ことは死活問題なのだから。

    〈マルメロの木〉~猜疑と秘密~
     [あらすじ]家賃を滞納するベティおばさん。彼女を追い出そうとするカンプル夫人と、おばさんがその家の見事なマルメロの木と別れるのはもったいないと思うヴェラ。
     彼女曰く、おばさんの家には、知られれば大勢の人(善人も悪人も)がそうとは知らずに事件へ関与しており、処罰を受けることになる盗品がある。このあたりの慈善家ランパア夫人が段取りをつけ、その盗品を家に運んだのは、夫人が気にかけている女性の夫だという。
     夫人はおばさんの引っ越しも取りやめ、家賃滞納も許し、おばさんの身を案じるようになった。
     どうしてその事件のことを知っていたのかと友人に問われたヴェラは作り話だと言う。

    [感想]猜疑心が秘密を想像する。またまた出てきたヴェラが瞬く間に、密室へと招待し、何でもないことを密閉された真空パックにしてしまった。夫人/読者は、ヴェラの作り話の真相を確かめる手段がない。ここでは真相を突き止めようとする行為によって、不利益を被ることになるのだから。まさに「知り過ぎてはいけない」ということになる。
     聞き手の無知。サキ作品を読みこなしていくことでつく抗体があるようで面白い。少なくとも、疑う癖みたいなものは付いてくることが実感できる。そして、おの短編内でも自業自得系統、噓をつく語り手、善意の落とし穴といった物語の内容類型が見え始めた。
     ここまで読むんで、二十日鼠の面白さが際立ってくる。不思議。文章中で故意に他人を陥れようとする魂胆とキャラクターがいない、ほとんど自然なまでの流れと、そこに存在する普遍的な誤謬からか?

    〈新米家〉~権威への妄執~
    [あらすじ]無名芸術家たちの溜まり場になっている料理店でゲプハルトは注目を集めていた。彼の絵がこの先売れだすとも限らないが、全くの無名に終わるあのせいもある。そんな背景のなか、10シリングの彼の絵は売れない。次第に彼の懐事情が苦しくなっていくのが知られるようになったある日、彼は盛大な晩餐をし、バンドへのチップをはずませて、星条旗を演奏させていた。どうやらアメリカの買い手がついに彼の才能を見出したようだ。それまで手を出さずにいた取り巻きも、彼から絵を買っていく。晩餐の最中、彼に「いったいんどんな絵が売れたんだ?」と尋ねる者がいた。彼曰く、今夜の金は、田舎で百姓をしている両親の畑がアメリカ人の事故によって受けた害の、賠償金だと言う。画家を諦め、たっぷり賠償金を貰った両親の田舎へと帰る、料理店での最後の晩餐だった。

    [感想]「権威を証拠とする消費者」への風刺。価値と値段という摩訶不思議な選択基準に関して考えさせられる。多額の損害賠償を言い値で支払った「いつもいそいでどこかに行こうとしているアメリカ人の金持ち」というのも消費者の愚かさを浮き彫りにしている。
     つまり、どこまで行っても芸術の価値は権威と、それを裏付ける金銭によって証明されるしかない。これは、実際に消費者にとっての芸術の受容も同じだ。
     「商品としての芸術」「職業としての芸術家」「消費者」これらを取り巻いてその価値観に縋っている人々を「金で時間を買ったアメリカ人」の一蹴が爽やかに感じられる。

    〈十三人目〉~ビッグダディの論理~
    [あらすじ]恋に落ちて長い時を経て、再開した子持ちの男女は夫婦になろうと話している。しかし、互いの子どもの人数を数えると13人で不吉な数だ。ひとり子供を減らすべく、居合わせた夫人に養子を打診した挙句、数え間違いで12人だったことがわかる。
    [感想]子だくさんの男女とひとりしか子どものいない人間とでは、こどもに対する価値観が全く違っているのが描かれる。少佐とエミリーの価値観では、家庭>こども、なのであって、夫人にとって、こども>家庭という価値観対立の構図が面白い。ただ、13という数字の不吉と、こどもひとりの存在が天秤にかけられる心理は気になる。迷信深さという一種の価値観と、それを裏付ける論理はどこか未知の世界と言った風で覗いてみたくなる。しかし、このふたりが根っからの悪人ということではなく、こどもには真っ当な教育を受けさせてやるという親の義務があり、自分たちを中心とする家庭を持とうという、価値体系もありきで、面白い。

    〈家庭〉~幻想という霧のかかる落とし穴~
    [あらすじ]結婚相手を探すジェイムズは、貞淑な良妻賢母の型に入るような女性を嫌悪していた。その候補として親類が紹介した女性のもとへ午後のお茶に招かれて向かうなか、お茶の間で繰り広げられるだろうよき妻としての女性の振る舞いにげんなりし、その足で芸術家の女友達のもとへ訪れる。奔放で家庭を感じさせない彼女ならと、差し迫った親類の手前で彼女を結婚相手にすることにした。家庭にはいった彼女は全く、貞淑な良妻賢母として振る舞っていた。
    [感想]どんな女性も家庭において妻になる。そんな結婚と家庭にまつわる皮肉。もしくは選択の皮肉。『宵闇』も自分の選択によって墓穴を掘る。自分の選択による誰をも責められない損害、このもう諦めるしかないという不条理が刺さる。そんな墓穴を掘る人間は、いつも自らの甘さによって不幸を引き寄せている。ジェイムズにしてみれば、結婚や家庭への漠然とした想像と軽視がそもそもの原因で、相手をよく知るという過程をすっ飛ばし、さらには、責任もって当初の女性と向き合わなかったことも、結婚全般への考えの甘さから出てくるのだろう。
     結婚への軽いノリ。よく言われる「結婚は勢い」という風潮への警鐘にも聞こえてくる。そして、今一度、家庭は誰のためにあるのか?を考えると、『利己的な遺伝子』と、全然満足できない利他的な個人を想わずにはいられない。

    〈セルノグラツの狼〉~想い出の証明~
    [あらすじ]古城に住まう家族は晩餐で、老女の召使いから城に纏わる伝説を耳にする。かつての城主セルノグラツの家族が死ぬとき、村じゅう、森じゅうの吠えるというものだった。さて、どうして老女が知っているのか、召使いの身分で、ふてぶてしく伝説を言って聞かせる彼女に避難の視線が集まる。それからしばらくして、老女の臨終の間際、彼女の語った伝説の通り獣が吠え、異常気象が起こった、翌日の新聞には老女がセルノグラツの末裔だったことが記されていた。
    [感想]“想い出しかもっていないものは、その想い出を特別大切に守り、そっとしまっておくもの”に端を発し、真実とそれを信じない者とで物語を構成する。『宵闇』『開いた窓』では見事騙しぬかれる人物サイドに面白味を与えていて、実際に面白かったのが、噓→真実、への観念変化だ。読者は、書かれていることことを真実と受け取りながら読むので、三人称では著者に騙されることになり、一人称では人物に騙されることになる。疑っている読者というのは、書かれていることが嘘であると信じたがるために、真実が織り込まれた虚偽に面食らう。
    〈セルノグラツの狼〉は真実→噓への観念変化を起こす。『宵闇』『開いた窓』と随分違った感想を連れて来る。滑稽さが削がれて、啞然と立ち尽くしてしまうような感覚だ。真実がいつだって隠されているものでそこへ到達することの困難さを含めて“真実味”として真実を捉える人にとってはお誂え向きかもしれない。人々は真実を遠ざけたがる。反対に日常は噓に塗れていると意識する。
     老女が実際には、噓を付いているとも限らない。気候的な条件と動物の習性を使い、自分の死をもって噓を真実に変えてしまうのはフレドリックブラウン『笑う肉屋』にも見た。ただ、これも確かではない。老女にしてみれば、一族の威厳を後世に残す機会でもあって、財産を持たない彼女の望みだったともとれる。

    〈おせっかい〉
    [あらすじ]領地をめぐって争っている隣近所の男二人が、対面すると、そのまま倒木の下敷きになって遭難する。危機の共有で、友情が芽生え始めた男が声を挙げて助けを呼び求めると、狼が近づいてくる。
    [感想]まさに“おせっかい”のせいで身を滅ぼしかける話。争っているものが一番気を着けなきゃいけないのは眼前の敵じゃない。見えない敵だろう。争いの無益さと、当事者の盲目性の風刺が刺さる。

    〈ある殺人犯の告白〉
    [あらすじ]死体の男と自分の衣服を取り変えた男は、自分を殺した犯人として、死刑されることになった。彼は自分のことを“特殊の教育や性格がなかった、その犠牲者”だという。

    [感想]「自分を自分自身で証明する手段の無さ」これが恐ろしい要素として話の軸になっている。“無罪であるべき罪の償いとして、死ぬ羽目になった”というのが、広く冤罪にも共通するのではないかと感じる。つまり、全員が無罪であるなかで、無罪であること以外に特徴のないのが人々の一大共通点になっているような場合、自分も同じように無罪であるとき、無罪の人々の中からどうやって自分という個を見いだすのか?罪は大勢から個人を特定する。罰というのは、常に個人であって、大勢を罰することは出来ない。ここに、匿名性の安全と記名の危険の反転が見られる。彼が無実を証明するためには、記名する必要があった。世間一般の信念に対抗する、強い個が必要だったのに、それができなかった。
     この物語は、すべての匿名的人間にその危険性のある災いについて書かれていると感じ、恐ろしく思った。

    〈ラプロシュカの霊魂〉~偽善と嫉妬~
    [あらすじ]金持ちには、返ってくるのが分かってるから、気前よく金を貸す守銭奴ラプロシュカは、そうではない収入の低い人間に、僅か少額でも金を貸して返ってこないことを酷く恐れていた。ある日“わたし”はそんな彼を揶揄うつもりで、二フランを彼から借りて、しばらく返せないことを告げると、彼は辛労がたたって死んでしまう。それからというもの、ラプロシュカの亡霊に付きまとわれるようになった彼は、金持ちから渡った金が、貧乏人の手に渡るのを阻止し、その金を再び食うに困らない金持ちの手に与えることによって、ラプロシュカを成仏させることに成功した。
    [感想]貧乏人がいつも注意しているのは、金持ちの動向ではなく、自分と同じような貧乏人が自分より恵みを受けていないかという、同族への視線。施される偽善を心の底から罵りながら、偽善による施しが決して自分以外の手に渡らぬように見張っている。この浅ましい自意識は、自分のなかにも往々にして存在するなぁと嫌な気持ちになりながら考えていた。
     幸運とか恵とか、才能とかまで、きっと自分と似たような境遇にある人と自分とを同じテーブルの上に載せて、嫉妬したり、まるで自分が損したような気持ちになる。士農工商の身分制度に生きた人、ヒエラルキーに生きる人は、自分と同じ階層の人間を「公平であるべき」と見なしているのかもしれない。偽善を叩く人間は、その偽善を施される側の人間で、その不平不満の声は、同じように施される側に向いていくというゾッとする人間描写がここにあった。

    〈七つのクリーム壺〉~~
    [あらすじ]銀婚式を迎える夫妻も元に、親戚で、盗癖のある青年が祝いにやってきた。悪評高い彼だが、財産を相続して大金持ちになったということで夫妻は目を見張っていた。身なりも立派で言動も立派だったが、すでにたくさん届いている贈り物に興味を示して止まない。その後、ふたりはクリーム壺の数が減っていることに気づき、彼の入浴中に、彼の部屋に入って私物を漁り、クリーム壺を奪取する。風呂から出てきた彼は叔母と選んだ贈り物のクリーム壺が何者かに盗まれたことを告げる。盗癖ある青年には家族がいない筈で、ここに来たのは一族で同名の別人だったことに気付く。言い訳をするために、夫が引っ込んでいる隙に夫人は、夫に盗癖があることを青年に告げ事なきを得る。
    [感想]被害者だと思い込むことで、加害者へと変貌するスイッチ。これは笑うどころか、本当によく陥りやすい罠だと感じる。疑うことのジレンマで、疑うことで逆にどんどん選択肢が狭まっていく状態になる。もっともらしいそぶり、状況、言動。疑わしきは罰せず。とは疑う側が陥る、この独特な心理状況に対する警句でもあるのかもしれない。
     妻の言い逃れも面白い。銀婚式を迎えようとする夫婦に備わっていそうな絆の微塵もないところが笑いを誘う要素でもある。そして、たった今、夫が盗癖のある人物に仕立て上げられしまったのをまざまざと見せつけられると、そもそも最初に説明にあった盗癖のある青年が、本当にそうなのかは疑わしい情報へと変わってしまう。
     いわゆる、前提というものに、引っ張られることのこの上ない危険性を身をもって知ることの出きるお話になっている。

    〈盲点〉
    [あらすじ]叔父を訪ねてきた甥は、親戚の不可解な状況での事故死に関する、証拠を持ってきた。それは死んだ親戚による日記で、コックとの不和とその暴虐的な言動が記されていた。叔父はその手紙を受け取ると暖炉に投げて燃やしてしまう。そのコックは今、叔父に雇われていて、叔父はその料理を痛く気に入っているという。
    [感想]身内を殺した殺人犯にもかかわらず、手放せないコックの料理って、どんなに美味しいのだろう!!と気になってしまうけれど…。〈ある殺人犯の告白〉に共通する点。“ありふれた”という点で、人の生死が識別される一つの哲学が見えてくる。このコックなら、冤罪で殺されはしないだろうと感じてしまう。無実の人間がその冤罪によって死んでいくなか、片や、有責の人物が蔵匿によって生きながらえるという不条理。でも、納得できてしまう部分も多い。罰が人から与えられる以上、罪だと判断する人間がいなければそれは罪に問われはしない。『パフューム ある人殺しの物語』を思い出した。裁けない罪は罪じゃない。罪の他者性。それらが滲み出ている。

    〈総感想〉~意図された死角とその盲点~
     “良い人”だと思える人間が独りも出てこない短編集は初めてだった。
     “良い人”が出てこないということは“良いこと”も出てこない訳で、被害者に抱きがちな憐みや同情、加害者に抱きがちな憎しみや嫌悪と言った単純な感情はここでは皆無だ。
     悪を持つ被害者、善を持つ加害者とに挟まれながら、どこかそれを読んでいる自分のなかで居心地悪そうにしている自分を発見する。
     特に『平和的玩具』『肥った牡牛』『話し上手』で善的なものはけちょんけちょんに潰される。気持ちがいいくらいだ。戦争ごっこで塗り替えられる道徳的玩具、牛に破壊される居間、非道徳的なおはなしを喜ぶ少年少女。この鮮やかな善破壊の珍味がくせになる。
     『ビザンチン風オムレツ』『宵闇』は偽善者にとっては手痛いものだし、『七番目の若鶏』『ラプロシュカの霊魂』では美化されがちな弱者を切って捨てる。
     「罪」を巡って『ある殺人犯の告白』と『盲点』は対をなして「ありふれた」者に対しての、見方を考えさせられる。繰り返し登場する作り話の天才ヴェラもあり、話を鵜吞みにして既定路線と予定調和にずっぷりと使っている態度を改めさせられる。なんというか、きつけ薬のような性質を持っているお話が多い。
     最後に収録された短編のタイトルが「盲点」なのけど、すべての物語に「物語の死角」があることを、意図された死角とその盲点について仄めかしているように思える。「盲点」や「13人目」「マルメロの木」なんかは、人物の動機が独特で面白い。風刺を楽しむだけではまだ味わいきれない作品の良さでもある。
     でも、一番激震の走ったのは冒頭「二十日鼠」だ。盲人と健常人の間で繰り広げられ、成立して(しまって)いるコミュニケーションと、その誤謬による裏返しは、収録作品すべての物語を読み終えた後でも新鮮だった。「思い込み」が自由にどこまでも内的な物語を作り出し。外的な事実で一気に幕を引く。自分で積み立てた積み木を自分で崩すような、破壊性がたまらない。

  • ぼんやり読んでしまうと、結末の面白さが「えっ?なんで?」となってしまった。
    まあ、完全に私が悪いのだけど。
    他の訳でも読んでみたい。

    印象に残っているのは「話上手」。
    道徳的でつまらない話をする伯母に代わって、子ども達を引き付ける、救いのない話をする男。
    話中話であるバーサの話は、とんでもないよい子であることが裏目に出て死んでしまうという、確かになんでその話を選んだよ、と言われて当然のお話。

    「宵闇」も良かった。
    若者が、旅の最中にトラブルに巻き込まれ、お金を持ち合わせていないので貸して欲しいと頼む。
    きっかけとして購入したという石鹸が見せられるなら、とゴーツビーが話すと、落としたと言って慌てたように立ち去る。
    結局は、適当な話をしてゴーツビーを騙そうとしたんだろうと片付けようとすると、若者のいた場所から石鹸が見つかって……。
    しかし、ここで終わらない所が、すごい。

    後味を悪くしすぎず、それどころか、ニヤッと笑える余裕まで持たせてくれる。

  • リドルストーリーの古典を集めた「謎の物語」にサキの『宵闇』が採られていて、アイロニカルなオチが印象深かったので、他の作品も読んでみよう、という流れでたどり着いた作品集。
    『宵闇』以上の作品はなかったかな。
    「十三人目」は、バツ2の女性とバツ1の男性との間の会話が漫才のようで楽しめた。

  • 皮肉なユーモア短編集。笑いでコーティングされた残酷さがときどきのぞいて見えてひやっとする。最後の一行で毎回ひっくり返してくるのが面白くて、最後まで楽しめた。

    あまりひやっとしないで済む「肥った牡牛」、「話上手」、「マルメロの木」、「ラプロシュカの霊魂」あたりが好み。

  • いただいたまま手に取る機会がなかったが、我々がイギリスに持つイメージが凝縮されたような、いかめしい文体と暗いユーモアに何度もニヤついたり虚を突かれたり。
    ”泊り客の枕もとにサキを備えておかなければ女主人として完ぺきとは言えない”というルーカスの批評はなるほどである。

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著者プロフィール

Saki.
1870 - 1916.
作家・ジャーナリスト。
本名はヘクター・ヒュー・マンロー(Hector Hugh Munro)。
インド帝国警察に勤務したのち、ジャーナリストとして活躍。
そのかたわら数多くの短篇小説を執筆し、
短篇の名手と称される。第一次世界大戦時に軍に志願し、
フランスにおいて絶命。
近年の邦訳に
『サキの思い出 評伝と短篇』
(エセル・M・マンロー、ロセイ・レイノルズ、サキ 著、
花輪涼子 訳、彩流社、2017年)、
『四角い卵  白水Uブックス』(和爾桃子訳、白水社、2017年)、
『平和の玩具  白水Uブックス』
(和爾桃子訳、白水社、2017年)、
『けだものと超けだもの 白水Uブックス』
(和爾桃子訳、白水社、2016年)、
『クローヴィス物語 白水Uブックス』
(和爾桃子訳、白水社、2015年)、
『ウィリアムが来た時』(深町悟訳、国書刊行会、2019年6月)、
『サキ短編 『スキャンダルの行方』 Kindle』
(サキ全訳プロジェクト訳、Amazon Services International,
Inc.、2019年)、
『サキ短編 『ビザンチン風オムレツ』』
(サキ全訳プロジェクト訳、Amazon Services
International,Inc.、2017年)、
『サキ短編 『ラプロシュカの魂』『困った雄牛』』
(サキ全訳プロジェクト訳、Amazon Services
International,Inc.、2017年)ほか。



「2019年 『鼻持ちならぬバシントン』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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