この人を見よ (新潮文庫)

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著者 : ニーチェ
制作 : 西尾 幹二 
  • 新潮社 (1990年6月22日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102035078

この人を見よ (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

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  • これは紛れもないニーチェの遺書だ。
    己を見つめた深淵からのぞかれてしまったニーチェがいずれ戻っては来ないことを予期してしたためた、彼の「考え」の軌跡だ。
    池田某も言っていたが、こういう深淵に惹かれるのはやはり一種の病と言っていい。哲学という病理。すべてのひとに開かれているわけでは決してない。憑りつかれてしまうのだ。それはある日突然。ダイモンと呼ぶか、ツァラトゥストラと呼ぶか、啓示と呼ぶかはそれぞれ別で。もう戻ることは決してできない魅惑の塊。
    ニーチェは自分の生き様を悟って、いつ戻れなくなってしまってもいいように、自らの生きたことば、すなわち自分自身を見ようとしているのだ。序文で言っている。説教ではない、偶像を打ちこわし、それでもなおここにある、ひとりの「わたし」これを見よ。これこそ、人類の革命である。この「わたし」はそれを信じ最後まで実行した、そのことばを聞き入れよ。
    ことばがある限り、自分は死なぬ。ことばの尽きるそこへ行くとき、それこそ、この「わたし」が尽きる。そこへ向かう覚悟はもう十分にできている。あとは待つだけだ。
    彼のことばはきわめて自然で、やれ定義だとか理由だとかそんなことばを悟性の力でこねくり回すことなく、彼自身がことばとなって語りだしている。病気が蝕めば蝕むほど、とても実直で明朗なことばそのものが紡がれる。存在とはもともと不条理にできている。
    彼が紡ぐのは、どこまでも「反抗」だ。おそらく、カミュの反抗は彼の魂を継いでいる。カミュの場合は、神に向けられるはずの刃をわざとちらつかせながら背を向ける、刃を突き刺してしまったニーチェよりもマイルドではあるが。正しさ、善、幸福、そういったものを掲げるたびに、不正、悪、不幸、そういったものが生まれてしまう。清浄を求めるたびに、汚濁が生まれてしまう。ならば、清浄を求めることをやめて、滅ぼしてしまえばいいだろう。ニーチェはそのあらゆる美しいとされる「理想」を殺してゆく。全き肯定は同時にあらゆるものの否定となる。そんな理想は怨恨だ。そして最後は神にその刃を向ける。価値の価値転換とはここにある。価値など求めてはならぬ。価値など壊してしまえ。だが、それは同時に自らに刃を突き刺すことに変わりない。価値などない、とするのも同時に価値だからである。どうあがいても神の愛から逃れられない。それはドリアン=グレイが自らの肖像画に突きたてた刃と同じである。
    彼は真に価値の価値転換に辿り着くため、戻ってこなくなった。だがだからといって、ツァラトゥストラの啓示やら何やらをそのままにしておくのは、自分に課された宿命ではない。種さえ蒔いておけば、あとは然るべき時に必ず芽生える。実際カミュがその種をしっかり育てた。彼は自分の仕事に自ら幕を下ろした。その真面目な生き方がことばとなって生きている。

  • いやー内容が頭に入ってくるまで、きつかったー。自分の思考力からすると背伸びしすぎたんだろうかな。半分すぎたぐらいからようやく、言わんとすることがおぼろげながら理解できてきた。思考レベルがとんがりすぎて、みーんなお馬鹿さんに感じちゃうんだろうと。特に宗教を基準軸にしている人を糾弾している。ニーチェ理論では
    、ほとんどの人が偽善者だ。だがそれが真実なんだろうなと、説得力ある論旨だった。だが、偽善者が悪なのか?ニーチェの思想が善なのかはともかく、俯瞰的視点の質がちょっと向上したきがする。中島義道さんのシリアス版みたいなイメージ。あぁ自分。しょぼい。
    ニーチェの定番、ツァラトストラも読みたくなりました。

  • 栄養の問題と密接に関係しているのは、土地と風土の問題である。
    抒情詩人というものの最高の概念を与えてくれたのはハインリヒハイネ。幾千年にも及ぶあらゆる国々を探しても彼に匹敵するほどの甘美でそして情熱的な音楽を見つけ出すことには成功すまい。
    ドイツ、世界に冠たるドイツ。ゲルマン人こそが歴史における道徳的世界秩序であった。
    国家偶像視、ドイツ狂、純血主義、反ユダヤ主義あんどを危険の芽として予知的に喝破する先見の明は1880年代からすれば驚くほど早い。

  • ニーチェ自身による彼の思想の解説書。

    ・私はいつだって「多数との共存」にだけ悩んできた。p71
    ・生の反対が神。p192

  • 爽快感とともに荒々しさを兼ね備えた一冊。
    時代は変わるが普遍的に価値転換を唱える人の力強さを感じられる。

  • 一度これではないな、と感じたニーチェの「この人を見よ」であるが虚無の脱却という観点で読むと色々と発見があるのだなということがようやくわかり始めた。途中までかなりすいすい読めたのだが、突如根拠なく現れた女性差別的言説による脱落。それ以上読む気を失った。グロタンディークといいニーチェといい、狂気の寸前には女性蔑視的な思想が絡むにはなぜなのだろうか。。それまでの冷静さが失われ、正直具合が悪くなるほどきつい表現だった。それまでのところ彼が他にレッテル的に差別視していたのはドイツ人ぐらいか。それ以降、さらに謎に狂いはじめるかんじ。。最初の二章はいいところもあったのに残念。そんなかれが賞賛するフランスが今の私には一つか二つ前の流行に見えるのは偶然ではなかろう。

    回復とはまた一種のデカダンスの再発、悪化、周期的反復を意味する。

    ニーチェ:視点を転換する術、を身につけた。私にだけ「価値の転換」が可能である理由。


    デカダンであるだけの人間はいつも自分に不利な手段方法を選ぶ(ニーチェはデカダンの対立者でもあり、状況を悪化させぬように本能的にいつも適切な手段方法を選んでいる。)克服に必要なのは自己を抑制して一切の人の助けを拒否しようとする絶対的孤独に入りうるエネルギー?(自分自身の管理、自立)

    人を助けることによって引き出される依存心、そしてどうでも良さ。。。。

    本質的に健康である人には逆に病気であることが、生きる事、より多量に生きることへのエッセンスに。
    病の中で生を新たに発見する。(この感覚わかるな….)

    私の活力が最低だったあの数年こそが私がペシミストであることをやめた時期に他ならなかった。(極限までひどい病に陥るとなんとなく、生きる方向への逆向きのベクトルが働く気がする。)

    出来のよい人間はempowermentできる人間ということだろうか?
    彼が美味しいと感じるのは、彼の健康に役立つものだけ。
    彼の食欲は健康に役立つ限度が踏み越えられると消失する。
    傷を受けると彼はその治療の薬を感じ当てる。
    彼は都合の悪い偶然ごとを己の利益になるように利用する。
    要するに彼に死をもたらすのでない限り、彼を強化するのである。

    自分にプラスにならないものは捨てる勇気。全ては彼のためになるようになる。
    ーこれがデカダンの対局。

    いろんな苦痛をごまかして何か現状を維持しようというように生きると、自分が本当に望んでいるものが何かもよくわからなくなってくるわけなのだが。

    ニーチェは隣人愛に対して不信感をもっている。
    隣人愛とは元来が弱さ、同情はデカダン者流の間でだけ美徳と呼ばれるのだ。
    ー同乗者を批判する理由:彼らが恥じらいの念、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心遣いというものをとかく失いがちであり、同情がたちまち賎民の匂いを放って無作法と見分けがつかなくなるからだ。(つまりこの同情が偉大な運命、痛手にうごめいている孤独、重い罪責を担っているという特権の中へ差し出がましく差し伸べられると、かえってそれらのものを破壊してしまいかねない。


    同情の克服は高貴な徳の一つ。
    ツァラトゥストラの誘惑。救いを求める悲鳴が彼の耳に聞こえてきて、同情が最後の罪のように彼を襲い、彼を彼自身から離反させようとする。
    ここで己を失わずにいること、おのれの使命の高さを純粋に守り抜いて、いわゆる無私の行為として働くずっと低い、近視眼的な衝動にほだされぬことがツァラトゥストラが経なければいけない試練。恐らくは最後の試練。ー彼の力に対する真の実証。

    究極の超越的視点、俯瞰がそれを必要とする。


    誰しも自分と同格の者たちを相手として生活したことがないものは、同県・報復という概念を持ちにくい。
    他者から愚かしい仕打ちを受けたら、できるだけ急いで賢さをこちらから送り届けること。仕返しは相手が愚かしさをその後やめるような方法において。犯人が私に感謝を表明する機会を見つける。沈黙は性格を悪くするので、どんなに乱暴な言葉でも喋った方がいい。沈黙者は心の細やかさと礼儀にかけている。

    ルサンチマン(恨みの感情)から解放されていること。熟知していることーこれが病気のおかげ。

    魂をルサンチマンから解放することーこれが快癒への一歩。
    (つまり今は恨みを溜め込んだ状態であるから、今克服すべきところはそこか)
    これをのさばらせないでおくことが、その人物の豊かさの証明。

    敵意は敵意によっては止まず。友愛によって敵意はやむ。

    デカダンスに陥っていた時代には復讐や恨みの感情を有害なものとして自分に禁じ、生が力を獲得して再び豊かになり、誇らしくなってきたときには、すぐさま私はそれを自分の下にあるものとして禁じた。

    助けてくれる人、にはあまり近づかない方がいい。は真実かもしれない。特にその見返りを求めていると確信できる場合には。

    人の成長度を知るにはどれほど強力な敵対者を、ーあるいはどれほど手ごわい問題を、求めているか見ればいい。
    つまり戦闘的な哲学者は、問題に対しても決闘を挑む。”自分と対等の相手”に勝つこと。自分と対等の問題。..いまの自分にふさわしい問題。
    どこにあるんや….となるとそれはやはり宗教紛争問題な気がしてならない。
    これが誠実な決闘の第一前提。

    戦いの4条件
    1:勝ち誇っているような事柄だけを攻撃する、事情によってはそれが勝ちほこるようになるまで待つ。
    2:同盟者が見つかりそうにもない事柄、私が孤立し、私だけが危険にさらされるであろう事柄だけを攻撃する。自分を危険にさらさないような攻撃は、公の場において一度として行ったことがない。これが行動の正しさを判定する私の基準。
    3:私は決して個人を攻撃しないー個人をただ強大な拡大鏡のように利用するばかりである。つまり、一般に広がっているが把握しにくい害悪を、はっきりと目に見えるようにするために、この拡大鏡を利用する。ドイツの老いぼれた本のドイツ的教養の世界で納めた成功を攻撃した。ワーグナー、シュトラウスへの攻撃。
    ーー抜け目ない、すれっからしの人間と混同し、末期的な人間を偉大な人間と混同している我々の文化の虚像、その本能の雑種性を攻撃した。
    4:個人的不和の影などはいっさい帯びず、いやな目にあったというような背後の因縁がない、そういう対象だけを攻撃する。
    攻撃することは私にとっては好意の表示であり、場合によっては感謝の表示(お互い高め合えるかんじか)

    もっとも真面目なキリスト教とは、キリスト教に対する攻撃さえも好意的に受け取る(批判発展の可能性を信じているからだろうか?)
    私の人間愛はその人に対する我慢(わかる….)


    対等に興味範囲が似ていて議論できる相手、それが私が求めている何か。見つかりそうにないのは、まだ自分の興味、自分の戦闘能力がどこにあるかがわからないからなのだろう。

    結果が悪いと自分が行ったことを判断する正しい目を失いがち。両親の呵責:真実を歪ませる一種の「魔女の目」であるように思われる。
    自分のある行為が失敗した場合、失敗したからこそ、なおさらその行為に対して敬意を持ち続けるーこの方が私の道徳律にかなうー

    「ひとごとではなく当のお前が、どのようにしてお前自身に栄養をつけるべきか、力、ルネサンス式の徳、道徳酸(偽善)に侵されぬ美徳において、お前として最大限に到達するためには?」
    理想的目標ー古典的教養

    栄養ー土地・風土
    風土が新陳代謝に及ぼす影響、その阻害と促進の力は非常に大きい。一旦土地と気候の選択を誤ったものは己の使命に疎遠になるばかりか、およそそれと別れてしまいかねない。つまり使命と顔を合わせなくなる。(あ!パリはこれだ…..日本も東北における緊急時のみの異常状態を除けばそうか。じゃあロンドンかイスラエル?)

    新陳代謝のテンポは精神の足が敏捷か遅鈍かに正確に比例している。「精神」そのものが実は新陳代謝の一種に他ならない。
    才気ある人が現に住んでおり、過去にも住んでいたところ、機知と洗練度と悪意とが幸福を得るための要件をなしていたようなところ、天才がほとんど必然的に住み着いたようなあれこれの場所を比べてみよ。

    どれもみな空気が素晴らしく乾燥している。
    パリ、フィレンツェ、エルサレム、アテナイ。
    ”乾燥した空気、澄んだ空”すなわち活発な新陳代謝、巨大とさえ言える多量の力を絶えず獲得しうる可能性をもつこと。

    ニーチェの場合は風土による精神鈍化(風土についての本能的敏捷さを欠いたばかりに、狭量な、卑屈な人間になり、視野の狭い専門家、気難し屋に成り果てる)を”病”によって回避した。病がニーチェを強制的に理性へ、現実世界の中での理性への役割についての熟考へ導いた。

    ニーチェの場合には生命の危険を経験した場所には湿度が関わっている。
    (いまいましい理想主義を押し付ける土地ーバーゼル、ベネツィア。。)

    私のすべての失策はこの理想主義。
    一種の「無私」:他者と自分の間の距離の忘却、誰に対しても自分自身を平等化する、という過ち。(理想主義)

    ついで重要なのは各自に応じた休養法の選択。

    精神が独特である程度に応じて、その精神に許された選択の幅、すなわちその精神にとって有益なものを選択する幅はだんだん狭まってくる。

    ”懐妊”によって精神は、そして根本的には身体全体が不可避に深い緊張状態に陥るのだが、そのとき外部からのあらゆる刺激があまりにも激しく作用し、あまりにも深く食い入る。
    そういう時、人は偶然を、外部からの刺激をできるだけ避けなければならない。一種の自己籠城こそ、精神的懐妊のとるべき第一の本能的機略。

    読書以外の他人の思想の拒絶。
    ヴィクトル・ブロシャールの「ギリシアの懐疑家たち』
    ニーチェはフランス的教養をしか信じない。ドイツで高い教養を誇っているものはもれなくフランス系統。(なにその傾倒w)
    誠実な無心論者としてスタンダールは少なからず貴重。「神がなしうる唯一の弁解は、実は自分は存在していないのだということだ。」


    狂気の原因は疑惑ではなくて、確かさを確保したいということなのだ。
    われわれはみな真実に当面することを恐れている。
    強烈極まる現実性を生み出す幻想力は、行為、途方もない行為、犯罪をなしうる強烈極まる力と両立しているばかりでなく、
    前者はまさに後者を前提としている。

    芸術家にはヨーロッパ中でパリ以外には故郷はない。(形式的問題に真摯)

    栄養、土地と気候、休養の選択について命令を与えるのは自己保存本能。それが紛れもなく現れるのは自己防衛本能として。”趣味”
    趣味の支配権:然りということが「自己喪失」を意味するような場合に否と言えと命令するだけでなく、否をいうことをできるだけ少なく少なくすることを命ずる。=年中否を浴びせる必要があるだろうものから逃れろ、と命ずる。
    われわれの大きな出費は小さな出費の積み重ね。甚だしい窮乏を招く。人は絶えず防衛の必要にせまられると、すっかり弱ってしまって、防衛能力を失くしかねない。

    もう一つの自己防衛の機略は、できるだけ稀にしか反応しないこと。自分の自由(イニシアチブ)を取り外され、単なる反応薬に成り下がるとう憂き目にあいそうな状況や関係から身を引くこと。本を引っ掻き回して検索ばかりしていると、自分で考える力を失くしてしまう。
    一種のデカダン。
    天分あり、豊かで自由な素質を持つ人が30代で読書擦り切れ火花、思想を発するために人に擦ってもらわなければならないマッチに成り下がっている。ー1日の始まる早朝に本を読むことーそれを私は悪徳と呼ぶ。

    ”人はいかにして本来のおのれになるか”
    前庭として本来のおのれをいささかも予感していないということがなければならない。
    この観点からすれば、人生の様々な失策さえ、それなりの意味と価値がある。=一時的な横道や回り道、道草、手控え、本来の任務とは無関係のあれこれの任務に真剣に骨をおってみること。
    「汝自身をしれ」ということが破滅への処方であるときには、おのれを忘れること、おのれを誤解すること、おのれを小さくし、狭くし、汎用化することが理性そのもの。ー隣人愛、他者と他物のために生きることがもっとも固い自我性を維持するための保護手段。(この時私の原則に反して例外的に無私性衝動を味方にする)

    本能があまりに早く「おのれを知る」ことは危険以外の何物でもない。大げさな言葉、身振りには注意。
    そういう状態を保っているうちに、あの組織化作用をもつ「理念」、支配の座に就く使命を受けている「理念」が、真相においてだんだん成長してくる。(自己組織化の話と似てきた!)それが次第にひとを横道や回り道から連れ戻す。
    ”価値の転換”という任務のためには、かつて一個人の中に住んでいた能力よりはるかに多くの能力が、必要であっただろう。
    また、とりわけ相反する能力が、互いに妨げたり、破壊したりしないで、同居していることが必要であったのだろう。
    諸能力の位階序列、諸能力間の距離、結合しているものを引き離すが、互いに敵対関係にはさせない術。これとあれを混同させない、妥協もさせない、驚くべき多元。しかも混沌の正反対。これが私の本能の、予備の作業、その長期にわたるひそやかな営みであり、名人芸。

    この本能が行う高級の庇護は実に妙を極めていて、そのために私は、私の内部に何が成長しているかを予感させることさえしなかった。
    ニーチェは何かを求めて努力したという記憶がない、自分の広々とした未来を静かな海を見るような気持ちで見ている。その海面には何の欲求のさざ波も立っていない。
    何事かが現にある状態と違ったようになることをいささかも望むことがない。私が違ったものになることを望まない。
    リチュル。(師):あの愉快な桁外れの気性。心理に達するためにさえ、真道をえらぶ。

    およそ身振りを必要とするものは偽物。絵に描いたような威容をつくった人間には誅せよ。

    運命愛ー何事も、それが今あるあり方とは違ったあり方であれと思わぬこと、未来に対しても、過去に対しても、永遠全体にわたって決して。
    必然的なことを耐え忍ぶだけではなく、隠蔽もしないーあらゆる理想主義は必然的なことを隠したてる虚偽ーそうではなくて必然を愛する事。
    (いや、理想主義さえも必然といないのか!?まさにそれが耐え難い必然だ。)

    理想主義を捨てようという理想の脆弱さ。人は理想を持たざるを得ない?(つまりどこかの範囲で区切って内部観測の最適化を求めざるを得ない)気がする。その解消点がまさに極端な一元性を突き詰めることによってヒントが見えるのではないか?という視点。
    そして視点としては散りばめられた断片的に集めた情報がいかにも組織化されないために、体系立てた知識の必要性と、適切な参考文献の方向づけを与えてくれる人….? 自分でやれというならそうするのだが。

  • 率直に言えば妄想的で自意識過剰な人が戯言を言っているように受けた。
    でも少し距離を置いてみれば、自分もそういう妄想に囚われることはしばしばあるし、それを大真剣に、精神的に追い詰められている自分を何とか助けようとするかのように書かれた、なんというか思いの誠実さみたいなものは感じた。書いていて太宰治を思い出した。自分の精神を削って書いているような感じ。恥ずかしい部分をさらしてる感じ。それを世に出したことは感謝しないといけないと思った。

  • 結局何が言いたい?

  • たまに哲学書でも読んでみようかと思って手を出してみたら、まぁー難しい。最初から中盤ぐらいまでは、単なる自惚れと自己満足かなーと思ってたけど、そしてそんな見方も決して間違ってはいないとは思うんだけど、ニーチェが発狂する直前に書かれているということを前提にすると、ところどころ面白い部分もある。
    それでも、今の自分には「ところどころ」しか面白い部分は分からなんだ。

    ドイツ人とキリスト教を毛嫌いしてる感があるけど、これが書かれたのが19世紀末で、そこからナチスが出てきてドイツが一気に狂ったという歴史を知っている今からすれば、ニーチェの先見の明は凄かったんではないか、という印象もあります。

    ま、もう少し時間を置いて、改めて読んでみようかな。

  • 「言葉」でなく「心」で理解できた!

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