田園交響楽 (新潮文庫)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (140ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102045046

感想・レビュー・書評

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  • 牧師たるもの聖人に近いのかと思いきや、全くもって俗世的。
    盲目の愛は自由だし、否定しないけれど、妻のアメリーが気の毒すぎる。
    盲目のジェルトリュードに音楽で色の濃淡を教えていくシーンはよかった。

  • 小品ながら主人公である牧師の、葛藤し悲劇に至るまでの道程をきれいに描いた作品。さまざまなアイロニーがこの作品にこめられていて、そうした対立を日記という体裁をとりながら赤裸々に明らかにしていく文体が魅力的だ。
    ひょんなことから拾った無知で汚く盲目な少女ジェルトリュードを、牧師が引き取り自分好みの教養を与え始めたが、美しく知性豊かに育ったジェルトリュードと相思の恋愛感情を持つにいたるという少女愛。これに所帯疲れし細かいいさかいが絶えないが牧師の行動の行く末を見抜いている妻アメリーとの距離感と、キリスト教教義にパウロ的厳格さを求めて父と一線を画す長男ジャックのジェルトリュードへの想いが交叉し、牧師の苦悩を深めていく。その中心にいるジェルトリュードは牧師の恣意的な導きもあり純粋な心を持つ美少女であったが、開眼手術が成功すると同時に真実を知る・・・。
    「恋は盲目」というお題がぴったりのラストだが、物語を通して救いだった盲目のジェルトリュードの純粋さが、ええっ!そうなるか!?とびっくり。うーむ。この急転直下の悲劇的展開で、実は牧師以外は皆、救われたことになるのかな?
    雪深いが春には緑いっぱいになる山村背景が、この物語の展開によく合っている。

  • (あらすじ)
    牧師である主人公は耳の聞こえない老婆の葬儀に出向いた。老婆の身内は目の見えない若い娘が一人、まともにことばも話せないこの少女を牧師は引き取る。妻に反対されながらも、忍耐強くことばを教え、教育していくうち少女・ジェリュトリュードは美しく知性的になっていく。

    牧師はジェリュトリュードに対して慈愛だけでなく恋心を抱いていた。でも本人はまるで気が付かずにいた。

    友人の医師によってジェリュトリュードは開眼手術を受け、手術は成功する。目が見えるようになって、彼女が見てしまったものは…
    ーーーーーーーーーーーーーーーー
    チャップリンの『街の灯』という映画で、盲目の少女の目が開いた後…哀しい結末を迎えますが、この物語の結末はそれよりもさらに哀しく刹那い。

    物語の主題とは少しズレますが、フランスというカトリックの国でプロテスタントである事は、それだけでも受難なんだと思う。この牧師も頑張っていたと思う。カトリック寄りの彼の息子との会話に、そういった見解の相違が垣間見える。どちらがいいとか言うのではなく。

    神西さんの日本語が美しいです。

  • 20世紀フランスの作家ジッド(1869-1951)の小説。高校時代以来、約20年振りの再読。以下の主題を読み取った。

    〇宗教と自己欺瞞

    盲の少女に対する牧師の献身は、一見すると神の教えに沿った慈悲と良心に基づく無私の行為であるかのように見えながら、一皮剥けば男から女へと向けられる類の実に地上的でエゴイスティックな俗情から発するものであった。

    しかも当の牧師自身は、自らの内なる俗情に対して、無自覚なのか敢えて目を背けているのか、いづれにせよ“盲目”である。「ひとの不具、純真、無邪気さにつけ込むなどとは、じつに卑劣きわまることじゃないか」。「・・・、自分が何を欲しているのかさえ、ろくに解っていはすまいしね」。少女を愛しはじめた息子に対するこれらの言葉が、何より自分自身に当てはまるものだということに、彼は気づいていない。

    そして、自らの卑しい感情を何か崇高なものであるかのごとく偽装するために、神や宗教の概念を持ち出して自己正当化を図る。それは神の権威を利用した自己欺瞞である。神に責任転嫁するかのごとき牧師の言動は最早滑稽で、彼の精神的な浅ましさを際立たせる。神こそいい面の皮だ。「主よ、この不透明な肉体のうちに棲む一つの魂は、その中に閉ざされながら、あなたの恵みの光の来て触れる時を、待ち望んでいるに違いありません。私の愛の力が、この魂から恐ろしい闇を払いのけることを、主よ、あなたはお許し下さるのでしょうか。・・・・・・」

    しかし、自分の内なる卑しさを高められた何かであるかのごとく自己自身に対して偽装しようとする態度は、我が身を振り返ってみても、ありふれたことではないかと思う。例えば、自分を大仰な物語の主人公に仕立てることで、自分の情けない感情や無様な行為にも意味があるのだと錯覚しようとするように。例えば、ある同情心が実際は身も蓋もないエゴイズムから発しているのに、自分としては純粋な救済のポーズをとろうとするように。本当は心のどこかで自分という存在のつまらなさを分かっていながら、尚もそこから目を背けようとする精神的弱さ。そこに神をも利用しようとするほどの、必死なまでの図々しさ。身に覚えがあるからこそ、牧師の言動の痛々しさが一層切実に感じられる。

    およそ宗教というものは、古来より、卑しい俗情を隠蔽し正当化するための尤もらしい語彙と方便を提供するものとして機能してきたのではないか、と考えてしまっては飛躍のし過ぎか。

    〇言葉による魂の分裂、カトリシズム批判

    盲目の少女というのは、純粋無垢を象徴する存在と云える。牧師に引き取られた当初は、彼女は人語を解さず、白痴で動物的ですらあった。言葉を知らないということは、世界が概念によって分節化されるということを解さないということであり、同時に自己を含めた人間が内面/外面に分裂してしまっているということを知らないということである。世界も自己も、存在が限定=否定の作用を被っていない、具体的に云えば宗教や文化や社会の規範によって抑圧も断片化もされていない、まさに無垢な状態と云える。「もし盲目なりせば、罪なかりしならん」。

    しかし、そうした前言語的な境位へのロマン主義的な憧憬にとどまり続けることは、現実的には不可能だ。牧師の少女に対する"啓蒙"が始まる。まずは不定形な感覚を束ねて名づけるための言葉を教えることから始め、次第に少女は"教化"され人間的な内面を備えていくようになる。そこで本質的なことは、言語を覚えるということであると思う。言語を習得することで精神的に"開眼"されていったが、その一方で自己と他者とに於ける内/外の分裂、則ち嘘を知るようになるだろう。世界が語彙や概念によって断片化され始める、その全体性が毀損され始める。

    肉体的にも"開眼"した少女が自殺を図る前に牧師の息子(カトリックに改宗していた)から最後に聞かされたのは、聖パウロの"言葉"だった。「われ曾て律法なくして生きたれど、誡命きたりし時に罪は生き、我は死にたり」。カトリックの教えによって、世界も人間も、ただ在りのままに在るということは不可能になってしまった。なぜなら律法としての宗教であるカトリックは、生まれたときは未だ何者でもない全き自由の存在であるはずの人間を、生まれながらにして罪を負っている存在に変質させてしまうから。自分は罪人なのだという自己規定を強いてくるから。世界とそこに於ける生とを無条件に肯定することが不可能になってしまった。予め否定され・毀損され・罪を帯びさせられた存在としての、世界と生。ジッドがカトリックに我慢ならなかったのもこの点ではないか。

    ジッドは生とその自由とを在りのままに肯定したかったのではないか。その彼が聖書から次の言葉を引いている。「われ如何なる物も自ら潔からぬことなきを主イエスに在りて知り、かつ確く信ず。ただ潔からずと思う人にのみ潔からぬなり」。

    「人はみな喜びへ赴かねばならぬ」。これがジッドの希求するところではないかと思う。

  • 「盲人が盲人を導く」
    あらすじに書かれていたこの意味が最後になってようやくわかった。

    主人公である牧師の日記形式で書かれた文章なので、牧師の主観目線にどうしてもなってしまう。
    牧師のジュリトリュードへの接し方が慈悲の気持ちから個人的な性愛に変わっていったのも、他人の目線(妻や息子など)から見たときにかなりの違和感に映ったのだろう。
    それが牧師目線で見ると、おかしいのは自分では無く周りだという結論になるのが面白い。

    キリスト教的倫理観や聖書の知識などを事前に知っておくとより深く物語を読めるのだろう。

  • うーん。
    奥さんの不満や苛立ちを理解してる上に、自分の失態がイラつかせる事も自覚してる。この辺の洞察はニヤリとさせられる。バカじゃないだよ。

    でもね、自分で作り上げた理想の女性に惹かれる。
    男の人にありがちな独りよがりのロマンチシズムが周りを不幸にする。平たく言うとそう言う話かしら?
    うーん。

  • 牧師と盲目の少女ジェルトリュードの話。
    身寄りを亡くした娘を、牧師は初め聖職者として隣人愛をもって受け入れる。しかし生活を共にしてゆくうち、その愛は、一人の少女へと向けられた、個人的な性愛へ変わってしまう。

    神西清の訳は格別。主人公が牧師なだけに、自分が聖書に明るくないのが残念だった。雪解けに少女の覚醒が映し出されているところも美しい。無垢な愛を貫くことはやはり難しいのか。

    まぁ、彼女できたことないんだけど。

    • ともひでさん
      聖書は一回読んでおくといいかも、めっちゃ長いけど。
      洋書(ほぼ読んでない)とか聖書のフレーズをいじったネタがたまに出てくる
      聖書は一回読んでおくといいかも、めっちゃ長いけど。
      洋書(ほぼ読んでない)とか聖書のフレーズをいじったネタがたまに出てくる
      2020/03/09
    • ともひでさん
      ブクログへようこそ!
      ブクログへようこそ!
      2020/03/09
  • 無垢な少女を自分好みの女に育てたいという潜在的願望と欲望の発露は源氏物語然り本作然り男性は多少なりとも持っていそうに思います。聖職者のふりをしてエゴの塊みたいな神父に心底嫌気がさした。ジェルトリュドを穢したくないがため隠し事をしたことで彼女の不信を買い、ジャックは父に恋路を阻まれたことから大人になった。子供のままでいておくれという驕りが招いた悲劇。村上春樹の本でもよく彼女を傷つけて何かを「損な」わせているが、悲しいかな結構それはちょっとした不注意で日常的に起こるのだ。ため息でちゃう( ´ー`)フゥー...

  • 狭き門、背徳者で有名なフランス人作家ジッド。ノーベル文学賞も受賞している。
    舞台はスイスの田舎。盲目の少女と彼女の世話をする牧師とその家族の人間模様を描く。
    登場人物の心理に着目すれば、揺れ動く恋愛模様がみれるし、教育学から考えると、障がい者教育の在り方が考えられる。また、ジッド本人に着目すれば、宗教的葛藤が現れてくる。たくさんの読み方ができてとてもおもしろい。
    ’みえる’ことや’しる’ことは、積み上げられた関係や愛は儚いものだと教える。一度わかってしまうと、この世界で変わらず思いを抱いてゆけない。何が幸福かなんて、追い求める本人にさえわからないというのに、どうしてひとは探してしまうのかな。
    神様の愛は与え続けてもなくならない。そんな風に命あるひとが愛することなどできるでしょうか。

  • 100ページもない小説なのに深すぎる!
    「もし盲目なりせば、罪なかりしからん」の命題を徹底的に追及して生まれた悲劇。世界の美しさを聞かされて育った盲目の娘が開眼して見たものは人間の憂いに満ちた顔・・・。
    心に響くのはやっぱり古典作品だな~。

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