ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

  • 新潮社
3.65
  • (549)
  • (538)
  • (1051)
  • (115)
  • (22)
本棚登録 : 7161
感想 : 607
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102057018

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • サリンジャーの短編集。ということであるが、イメージの沸かないタイトルだ。オレンジのカバーなのもなんかイメージが沸かない。

  • 収録作品の登場人物には悲惨な結末を迎える者や、報われない者もいるが、彼らを描き出す作者の目線は愛に満ちているように思った。読んでいてとても心地よかった。

  • 某少女漫画のアニメの話題に使われているということで、「バナナフィッシュにうってつけの日」のみ読みました。

    読解力がないため、他者の解説を読んでやっと奥深さに気付けました。

    話の進め方、突然のラスト、このようなお話はとても好きですが、スラスラと読めずに何度が断念しました。

  • 【不自由を書くのが上手すぎる】

    この短編集の妙はこれに尽きると思う
    時代・格差・戦争によって心身の価値観を損なわされ、選択肢が狭められた人物が
    いかに無意識に自分自身の思考、行動範囲を狭められているのか、そしてそれを自分では気付けないでいるのかを描くのが上手い

    氏の作品一つひとつが難解と受け取られるのも、まさにここに起因すると思う

    もちろん、当時の異国の時代背景や戦争のリアルを日本人目線では掴めないのは大きい
    (原作で読めないのも十分ハンデだ)

    しかしそれ以上に私たちが一回でこの作品の本質を読み取れないのは、登場人物が自身の不自由に無自覚だからだ

    この短編集に出てくる登場人物らはほぼ全員、いかに自分の行動や発言が時代・格差・戦争によって制限を強いられているのか、その本質的なところには尽くが無自覚だ

    その言動がいかに不自由を強いられているのかを描いているのに、しかしその言動を取る登場人物は尽くその不自由さに無自覚だ

    だからあまりにもさらりと描く
    それが生々しい
    既にそうなってしまった人間の結果だけを描くことで、逆にその登場人物の今日に至る喪失の厚みを読者に押し付けてくる

    行間がとにかく重たい短編集だった

  • 新年1発目
    テディとエズミが好き
    哲学くさい説教くさいのが好きだなわたしは

  • 文章の表現と構築を楽しむ感じ。しっかりスルメのように咀嚼して咀嚼して味わう感じ。
    最後のテディは、内容が好き。

  • テディだけ、生まれ変わりの信仰や合理科学への疑問を語らせている感覚。
    子どもというより、もっと無垢であることが、無知であることが、真に物事を知っている、という感じ。

  • 『バナナフィッシュにうってつけの日』
    〈あらすじ〉
     ミュリエルは両親の反対を押し切って精神疾患を抱えていると思わしきシーモアとホテルで過ごしていた。シーモアは浜辺で女の子のシビルとバナナフィッシュを探す。その魚は、バナナがどっさり入っている穴に入ると、行儀が悪くなり豚のようにバナナを食い散らかす。食べ過ぎたバナナフィッシュは穴から出られなくなって、最後にはバナナ熱に侵され死んでしまうそうだ。シビルと別れたシーモアはエレベーターで彼の足を見てくる女性に抗議し、507号室へ戻る。眠っているミュリエルを見ながら自分のこめかみに銃を放った。
    〈冒頭〉
     ホテルにはニューヨークの広告マンが九十七人も泊り込んでいて、長距離電話は彼らが独占したような格好、五〇七号室のご婦人は、昼ごろに申し込んだ電話が繋がるのに二時半までも待たされた。
    〈末尾〉
     そしてツイン・ベッドのふさがっていないほうのところへ歩いて行って腰を下ろすと、女を見やり、拳銃の狙いを定め、自分の右のこめかみを打ち抜いた。
    〈感想〉
     シーモアとシビルのやり取りがたまらなく愛らしくて、気持ちがいい。少女の突拍子もないユーモアとセンスについて行けるということは、何か別の世界への切符を持っているみたいで羨ましくなる。手を取ってやること。女の子にとって嬉しいのは手を取ってもらうこと、上手にエスコートすることで、絶対にその逆ではない。

     そしてバナナフィッシュ。この救いがたい、奇妙な魚がどんな姿形をしているのか気になって仕方がない。三日月型に沿った躰で、口は目の前で上向きに付いて、鋭い歯がついているかもしれない。

     バナナ穴なんて残酷だ。とても意地の悪くて頭の良いこどもが、遊びで作った罠かもしれない。その穴へ這入ると、とても行儀が悪くなって最後にはバナナ熱に侵されて死ぬなんて、バナナは例えば金銭みたいなものかもしれない。
     『千と千尋の神隠し』の千尋の両親を思い出した。神様の供物として用意されていた食べ物に手を出して豚に変えられてしまう両親。
     もう一つは『グレート・ギャッツビー』のギャツビーが演じた紙幣の舞散らかる乱痴気騒ぎのパーティー。
     
     「実に悲劇的な生活を送る」バナナフィッシュと聞いて、わたしたちはバナナを手に入れるために生きているとも例えられる。
     わたしたちはたくさんのバナナが欲しい。たくさんのバナナを手に入れるために、非常な努力を支払って、僅かなバナナを手に入れる。あるひとは僅かなバナナを得るために奴隷のように働き、その人たちが得られる僅かな休息とバナナ分だけ働いて、たんまりとバナナが手元にやってくる人もいる。
     でもその誰もが住んでいるのが、バナナ穴と言えるのかもしれない。

     シーモアがEVで足を見るなと女性に抗議した場面が印象に残る。彼によると、勝手に人の足を盗み見ていたことになる彼女の習性も、実にたくさんの人が自然にしていることではないかと思う。

     「足元を見る」ようは値踏み。本当は入っていないけれど、それが見られたくないとシーモアの隠しているイレズミと繋がっているような気がする。シーモアが見られたくなかったのは、何だったんだろう。

     イレズミ、バナナフィッシュ、足、モットカガミミテ。

     シーモアはsee moreでもっと見てになる。でも本人は見られることに極度の拒否感情を示す。二つともまともな足とないはずのイレズミ。

     まだなんともつかめないので、シーモアの自殺に至った動機なんかは、引き続き考察していきたい。

    〈引用〉
    『荒地』T・Sエリオット 
    『ちびくろサンボ』ヘレン・バナマン


    『コネティカットのひょこひょこおじさん』
    〈あらすじ〉
     メアリ・ジェーンは、大学を同じ年の同じ月に中退したルームメイトのエロイーズの家を訪れる。エロイーズの娘、ラモーナは、妄想の彼氏と自分ぼ世界に籠っており、メイドは役立たず。亭主のルーとの生活にもうんざりしている。
     エロイーズは死んだ恋人のウォルトをしきりに懐かしんでは泣き夜は更けていく。
    〈冒頭〉
     メアリ・ジェーンがやっとのことでエロイーズの家を見つけたときにはもう三時近くになっていた。
    〈末尾〉
     「メアリ・ジェーン聞いてよ。お願い」エロイーズは啜り泣きながら言った「あんた、一年のときのこと覚えてるわね。あたしはボイシーで買ったあの茶色と黄色のドレスを着てた。そしたら、ミリアム・ボールからニューヨークじゃそんなドレス誰も着てないよって言われてさ、あたし一晩じゅう泣いてたんじゃない?」エロイーズはメアリ・ジェーンの腕をゆすりながら「あたし、いい子だったよね?」訴えるように彼女は言った「ねえ、そうだろ?」
    〈引用〉
    ・『聖衣』ロイド、ダグラス
    ・ハワード、ギャリス
    ・ジェーンオースティン
    ・L、マニング、ヴァインズ
    〈感想〉
     ああ、この人はきっととっても死にたいのに、死ねないんだろなぁとそう思った。エロイーズ。恋人を事故で亡くした、専業主婦。
     自分の母親もそうだったからよくわかる。ニコチンとアルコール漬けの、絶望した病的な専業主婦。専業主婦になると病むのか、病んでいる人が専業主婦になるのかは分からない。エロイーズはお手伝いさんもいるので、家事、育児は指図するだけだ。

     最も大切な人に死なれてしまったら、それ以降に好きになる人は、その人以下ということになるのだろうか?どうやらそうらしい。愛が無くてもこどもは作れるし。

      “尼さんやなんかになるんならともかく、さもなきゃ人間、
      笑ってるほうがいいんだよ(p,51)”
      “おかしいか、さもなきゃ優しいか、どっちかなん
      だ。(p,51)”

     一緒になるなら、面白い人か、優しい人にしておきなというアドバイスはとてもしっくりくる。笑っているほうがいい。笑えなくなったら終わりかもと思う。

      “最初に一つ進級すると、袖に金筋がつく代わりに、袖をもぎ
      取られることになるだろうって~将軍になるころには、素っ裸
      になっちゃって、お臍に小ちゃな歩兵のバッジがくっついてる
      だけで、あとはなんにもないんじゃないか(p,53)”

     ウォルトの言ったのは、階級や役職が上に上がれば上がるほど、現場から離れ、実際的な部分から遠ざかることだと思う。勲章や評価が、まるで衣類を一枚一枚剝ぎ取っていくように、理性や判断力を奪っていく。裸の王様理論だ。

     悲しい生きものだ。娘のラモーナは妄想・空想癖が酷く、エロイーズを困らせる。ウォルトにまるで少女のような愛され方をした彼女は、彼が死んでから、そんな風に優しくしてくれる人を失ってしまった。

      “亭主というものは、あんたのことを、男の子にそばへ寄られ
      ただけでもむかむかして、ほんとに吐き出しちまう女なんだ
      と、そんなふうに考えたがるものなんだ”

     亭主に奴隷のようにかしずくか、その所有物のように扱われるかの家庭生活を送ること、なんだか、結婚の絶望を物語っているみたいに感じられた。

     エロイーズの話し方、語尾なんかは、だろ?とか、だな、のさが特徴的で印象に残る。

    『対エスキモー戦争の前夜』
    [あらすじ]
     たまったタクシー代を払ってもらうべく、ジニーはセリーナのアパートへ寄る。
     彼女を待っていると、髭面でパジャマの彼女の兄・フランクリンがやってくる。彼は、指を怪我しており、彼女の姉ジョーンをぶっているとけなし、飛行機工場で働いていた過去、心臓が弱いことを語って聞かせる。
     彼は、窓の下の人通りを眺め、その阿呆どもは60歳以上が参加することエスキモー戦争の徴兵委員会に行くところだと言った。彼からサンドイッチを受け取り、彼と入れ替わりに目鼻立ちの整ったエリックがフランクリンを呼びにやってくる。彼は、保護し、世話していた浮浪者の作家が今朝、彼の部屋から忽然と姿を消した話をし、『美女と野獣』を見に行くところだと語った。
     セリーナが姿を現すと、お金はもう要らない、今夜遊びに来るかもとジニーは言った。
     家に帰る途中、ポケットに隠した、フランクリンのサンドイッチを彼女は捨てられずにいた。
    [冒頭]
     ジニー・マノックスが土曜の午前にセリーナ。グラフとイースト・サイド・コートでテニスをするのがこれで五週連続して続いたことになる。セリーナはミス・ベーズホアの学校に通うジニーのクラスメートであった。ジニーはセリーナのことを学校でも最高に食えない子だと思うー
    [末尾]
     数年前、復活祭の贈物にもらったひよこが、屑籠の底に敷いた鋸屑の上で死んでいるのを見つけたときにも、捨てるのに三日もかかったジニーであった。
    [感想]
     サンドイッチが捨てられなかったジニーは、フランクリンのことを気に入ったんだろなぁと思うと少しほっこりする。
     髭面で、目鼻立ちもばらばら、口も悪いのに、フランクリンはどこか憎めない、どころか愛らしくくさえ見えてきてしまう。拗ねていじけたこどもっぽさと、でも気に入った人には優しくしたいという、こちらに優しさが向いているからだろうか?
     反対に、エリックの如何にも「おじょうさん」に話すような、浮ついた感じに、ジニーが反応して「いいえ」が連発される会話の応酬がこぎみよい。

     飛行機工場を経て、フランクリンは完全に戦争を良しとする国や戦争を指示する人々、それら空気感を揶揄している。もしかすると、徴兵されないが、戦争にくびったけの高齢者への意趣返しをこめた60歳以上の老人が参加するエスキモーとの戦争なのかもしれない。相手がエスキモーなのはなんでなんだろうか?こちらには一切接触もしてこなければ、攻撃すらしてこない、戦争の意志が無い相手としてなら、戦争への一方的な論理への揶揄なのかもしれない。

     フランス式喫煙術や、自分を見舞ったアクシデントへの卑下なんかは、ボケツッコミみたいな軽妙さがあって、フランクリンの魅力がぐっとつまっていた。

     

     


    『笑い男』
    [あらすじ]
     二十五人の少年、コマンチ団は青年の団長に連れられて、野球場や美術館へと繰り出していた。団長の〈笑い男〉の話は私たちに大人気だった。
     内容は、金持ちの宣教師夫妻の一人息子が中国の山賊に攫われて、顔面を万力で挟まれて、ヒッコリーの実のような頭の形に、口は楕円形に固定されてしまった。
     山賊は少年を芥子で作った仮面をかぶせて手元に置いていたが、やがて少年は動物と仲良くなり、山賊をねじ伏せ、信頼できる仲間とともに暮らすようになり、探偵父娘に狙われるようになる。
     コマンチ団は〈笑い男〉に憧れていた。
     団長がガールフレンドのメアリをコマンチ団に同行させるようになり、彼らは次第に打ち解けていく。ある日、髪を整えオーバーを着てきた団長は、バスに乗り込まなかったメアリと球場で話、喧嘩別れのようになってしまった。
     帰りのバスで私たちは〈笑い男〉の結末を知る。
     仲間の斑狼ブラックウィングを探偵父娘に捕らえられた〈笑い男〉は、交渉の場で銃弾を浴びる。死体を確認しようとした父娘に仮面の下を見せつけてショック死させると、動物に自分の危険を、仲間の小人オンバに伝えさせ、救助に駆け付けさせる。
     小人からブラックウィングの死を聞くと、差し出された手を拒み彼は、絶命した。
     バスから降りた私は、電柱に引っかかった赤いティッシュペーパーを見て、震えるのだった。
     
    [冒頭]
     一九二八年、私が九つのときである。私は〈コマンチ団〉という団体の一員で、団結心のきわめて旺盛なメンバーであった。学校のある日には、午後の三時い、われらコマンチ団の団員二十五人が、一〇九丁目のアムステルダム街通りにある公立第一六五小学校の男子児童専用口から外に出て待っていると、きまって団長の車が迎えに来てくれたものであった。
    [末尾]
     それから数分たって、私が団長のバスを降りたとき、真っ先に目に映ったのは、街灯の柱の根もとに引っかかったあま、風にはためいている一枚の赤いティッシュ・ペーパーであった。それは芥子の花びらで作った誰かの仮面のようであった。家に着いたとき、私は歯の根も合わぬほどにふるえるのを抑えることができなかった。そして、すぐに床に入るように言われたのである。
    [感想]
     子どもの頃の“忘れがたい人”を、自分でも思い浮かべてみると、おいちゃんと呼んでいた叔父さんのことを思い出す。川へ魚取りを連れていってくれるか、トイザラスへ好きなものを買えと連れて行ってくれるかした。
     団長は、無償ではないにせよ、子どもたちに真正面から向き合って、時間を過ごしてくれた貴重な大人だ。すべての子どもたちの傍にこんな大人がいてくれるわけじゃない。奇跡的なめぐりあわせなのだ。団長と同年齢だった自分には、こどもたちの遊びに本気になって付き合ったり、こどもたちと長い時間を過ごすなんて考えがそもそも思い浮かびもしなかった。いつもいつも、焦ってはいるけれど、かと言って何をすれば良いのか分からず、ただ自分勝手にいたずらに時間だけが消費されていったような気がする。自分の独善さに嫌気を覚える。

     こどもたちに強烈な印象を植え付ける「笑い男」の話が〈コマンチ団〉のDNAやイズムのように流れていく。奇怪で恐怖を与える容貌を持っているために、社会から受け入れない、笑い男。彼は、動物を愛し、信頼関係を結び、自らを惨憺たる人生に引き込んだ山賊たちの追っ手を交わし、打ち克ち、信頼のおける仲間と暮らすことになる。
     コマンチ団の子どもたちは、みんな自分が笑い男の子孫であるかのように熱望していく。仮面ライダーに男の子がはまるような単純な憧れと、醜い顔に変えられ、芥子のお面なしには人前に姿を見せられなくなったこの笑い男が、それでも、人望と信頼を集めるまでの仲間思いな人物で、身の危険を厭わないことに畏敬の念を禁じ得なかったのかもしれない。
     仲間。という原体験をコマンチ団と笑い男が基礎づけていく。

     ガールフレンド、メアリ・ハドソンの登場で、コマンチ団ハドソンは団長の柔らかく湿った一面を発見することになる。メアリとの失恋、別れにかけて、リンクするように、笑い男もまた、最愛の仲間である斑狼のブラックウィングを失う。
     悲嘆にくれているはずの笑い男の表情は、それでも、無理矢理に形を変えられてしまった、笑ったままの顔で、やはり笑っているようにしか見えないように“恐ろしい笑いを笑った”。

     団長の失恋にはなんらかの事情があったのかもしれない、例えば、団長の身体特徴である

      “身長は5フィート3インチか4インチのずんぐりした体躯~髪
      は黒く、生え際の線が極端に低く、鼻は大きくて派手で、胴の
      長さほぼ脚の長さに匹敵するくらい(p,94)”

     が、メアリの両親の何らかの人種差別的な信仰に引っかかったのかもしれない。団長の笑い男の話しもまた、彼の身体特徴による、社会的蔑視や差別的言動に因ったものなのかもしれない。
     笑い男の悲しみは団長の悲しみそのものを体現してきたのかもしれない。

     団長の思い出話はメアリとの別れと笑い男の死とで結ばれる。
     
     赤いティッシュぺーパーの出現が、これまで笑い男の中で戯画化され、物語のなかで受容されてきた悲しさややり切れなさに対峙した人間の慟哭を、物語の外に引きずりだしたような印象を受ける。笑い男の物語と団長の様子の変容へ繋がり、遂に少年であるわたしにまで、正体や詳細の理解できないままに、不調和の恐怖を伝染させる。

     どこか、バナナフィッシュを見つけたと、シビルに囁かれたシーモアの愕然っぷりを思い出す。
     ひとの心にしっかりと刻まれてしまった、絶望の記憶。それを持っている人には、分かるのかもしれない。この、紛れもない絶望の原体験の全容が。

    『小舟のほとりで』
    [あらすじ]
     メードのカサンドラは、ミセス・スネルと坊ちゃんに盗み聞かれたことを奥さんに聞かれないかと気をもんでいた。女主人のブーブーが帰ってくると、息子のライオネルがしょっちゅう家出をする話を二人に言い聞かせ、今家出の最中の息子の説得に向かった。
     ライオネルは湖に停泊させてあるボートで舵を握っていた。ブーブーは海軍の提督の口調を真似て暫く息子と話していたが息子は拗ねている。拇指と人差し指で作った輪っかで、ブーブーが軍隊のラッパのような音を立てて出すと、もう一度とせがむ息子に、家出しない約束をしたのにどうして家出したのか聞かせてくれたら、もう一度やって見せようと言った。
     小舟には誰も乗っちゃいけないという息子は、デッキの上にあった水中メガネを湖に投げ捨てた。ブーブーがポケットから出したキーホルダーに興味を持った息子に、これも捨てちゃったほうがいいんあじゃないかなと渡すと、息子はそれも湖に捨てた。ブーブーを見上げた息子の眼は涙で溢れていて、泣き出した。
     息子を抱きあげ、あやすブーブーにライオネルは、カサンドラが父親のことを「でかくてだらしないユダ公と言った」と伝えた。「ユダ公ってなんのことか知ってるの?」と母親が訊くと、ライオネルは「ユダコは空に挙げるタコの一種だよ、糸を手に持ってさ」と答えた。ふたりはかけっこして、家に戻った。

    [冒頭]
     秋も終わりに近いある小春日和の昼下がり、四時を少し回ったころであった。昼からこれで十五回、いや二十回にもなるだろうか、メードのサンドラが、台所の湖に面した窓際から、またもや口をキュッと結んで引き返して来た。

    [末尾]
     「分った」と、ライオネルは言った。
     二人は家に戻らなかったー歩いては。駆けっこして戻ったから。ライオネルが勝った。

    [感想]
     母親にも、息子にも、それからふたりの関係性もいろいろ。
     ブーブーが素敵だった。すべての母親が男の子を理解できてるわけじゃないし、すべての息子が一般的な男の子の趣味嗜好にあてはまるものでもないけれど「インディアンみたいにあぐらをかき」「相棒。海賊。悪党め。わしは戻ったぞ」「軍隊ラッパを口笛で吹けたり」する母親は、男の子にしたらちょっと自慢な母親じゃないだろうか?

     湖に浮かんでる小舟とその中に座ってる男の子、桟橋からしゃがんでこどもに目線の高さを訪ねて、ごっこ遊びの雰囲気のまま、ずけずけとは大人のことば、視線、論理では立ち寄らない。

     『ライ麦畑でつかまえて』でホールデンが、こどもがライ麦畑で追いかけっこをして、崖に落ちないように抱き上げてやりたいんだと言ったり、『笑い男』で団長がコマンチ団のこどもたちと一緒になって目一杯時間を過ごしてくれたり、本作のブーブーとともに、こどもを愛してやまない人物たちとこどものやり取りが愛らしくてたまらない。

     「家出の理由」をどうしても話さない、ライオネルの傷ついて、突っ張った心が次第に解れていく。『コネティカットのひょこひょこおじさん』に出てきた、妄想癖のラモーナも、エロイーズと泣いていた。傷ついたり、怖かったり、嫌なことがあったとき、こどもたちは訳も分からず、表現する言葉もなければ、コミュニケーションも取れない。

      “ライオネルは物を言うとき息継ぎの呼吸が飲み込めず、たいてい一か所は妙なところで切って
      しまうものだから、強調するつもりの言葉の調子が高くならず、逆に下がってしまうことがよく
      あった。(p,127)”

     表現の拙さはこどもにとって、まさにうまく息継ぎができなような苦しさだ。(ここでの描写が秀逸すぎる)

     それでライオネルは家出をして黙りこくっていた。

     家中で足音を消して歩き回ったりするのも、そのスパイじみた行動には、メードが父親の悪口を言っていた背景から考えられる。どこかしらに、悪意のこもった、特定の人間には聞かれてはならないような話をするときにとるひとの態度をライオネルは感じ取っていたのかもしれない。

     彼にとって大好きな父親を誹謗中傷されることは、彼自体が攻撃されているのとなんにも変わらない。

     “「坊や、ユダ公って何のことだか知ってるの?」
      「ユダコってのはね、空に上げるタコの一種だよ」と、彼は言った「糸を手に持ってさ」
      (p,134)”

     自分が母親だったら、そういった息子を誇りに思うかもしれない。

     小舟から水中眼鏡とキーホルダーを投げ出す場面から、自分の感情との折り合い、世界との折り合いを着けていく息子と、それを抱きしめる母親の情景には痺れるものがあった。
     投げやりや、八つ当たりまで受け止める愛が眩しく、湖面に映し出されていつまでも光っている。(2023/05/17 15:31)


    『エズミに捧ぐー愛と汚辱のうちに』
    [あらすじ]
     六年前に知り合ったイギリスの女性からの結婚式の招待状が届く。生憎、結婚式に出席することは出来ないが、彼女と知り合った秘話を紹介することにした。
     一九四四年イギリスデボン州にて、ノルマンディー上陸作戦の訓練を私は受けていた。空輸歩兵団に配属される前日、町の教会で催されてたこどもたちの聖歌の練習に聞き入っていた私の視線は、なかでももっとも綺麗な歌声を持つ少女に注目された。
     教会を引き上げ、喫茶店でお茶を始めた私のもとに、先ほどの美声の少女とその弟らしき少年、家政婦らしき女性も入店してくる。少女は私の席へ歩み寄り、私が先ほど教会で練習を見学していたことを訪ねて、相席することになった。
     少女の名はエズミで、手首にはクロノグラフの腕時計が付けられており、今はなき父親の形見なのだという。弟のチャールズもわたしに興味を示して、じゃれついてくる。訥々と貴婦人のマナーを抑えながら身の上を語る少女とそれに聞き入る私は、約束を結ぶ。短編小説を書いていた私が、エズミのために一編の短編を書き上げるということだった。内容は汚辱について。私は、部隊の一連番号と軍事郵便局の番号を書いて渡し、エズミは自分から手紙を送ること、私の体の機能が損なわれないよう祈って別れた。
     場面は変わり、私も依然として登場するが、正体の知られない人物による記述が始まる。
     ヨーロッパ戦勝国記念日の一九四五年五月八日から数週間たったある日の夜十時三十分。見習曹長Xは退院して、後遺症を抱えたまま、駐屯している、自らが逮捕したナチスの下級官吏の女性の家の一室で手に取った、『未曾有の時代』(ヨーゼフ・ゲッペルス)に「おお、神よ、人生は地獄である」という書き込みを見つける。私は「諸師よ、地獄とは何であるか?つらつら考えるに、愛する力を持たぬ苦しみが、それである、と、私はいいたい」(『カラマーゾフの兄弟』ゾシマ長老)とその下に書き込んだ。
     相棒のZ伍長に、震える手や、痙攣する頬、嘔吐のことを冷やかされながら、習慣になっている彼の出す手紙の添削を頼まれた。机に散乱する封の切られていない手紙や小包を払いのけると、緑色の紙に包まれた小箱を見つける。幾度も転送された形跡があった。
     開封されると、エズミからの手紙、それに彼女の父親の形見のクロノグラフが、ガラスが割れた状態で入っていた。長い間ぼうっとしてから、急に快い眠気を感じた私は「本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機ーあらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね」と心に語った。

    [冒頭]
     つい先日私は、航空便で、ある結婚式への招待状を受け取った。式は四月十八日にイギリスで行われるという。私としては、なんとしても出席したい結婚式だったので、招待状を見たときは場所がイギリスだって、飛行機を使えば費用はともかく、行けないこともないと思った。
    [末尾]
     エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機ーあらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間にもどる可能性を必ず持っているからね。
    [感想]
     エズミから結婚式の招待状を貰った現在の→エズミと出会った作戦参加前(過去1)→エズミから時計と手紙を貰った作戦後(過去2)。この汚辱へと至る時系列の順序が、他の順番ではしっくりこないほどに完成されていてぞっとした。
     戦争の幕間劇にも似たエズミと私との邂逅が、教会で歌われる聖歌の練習、聖歌の音色が物語の基調になって耳を傾けることができる。ジャズ歌手として金稼ぎをして三十になったら引退して、オハイオ州の農場に住むことを、もうすでに目標にしている少女。
     北アフリカで亡くなったという彼女の父親は、北アフリカ戦線に兵隊として参戦していたのだろうか?
     彼女がオハイオ州へ農場への隠遁を夢に見るのは、家族と平和を奪っていった戦争と戦争に熱狂する世界からの逃亡じゃないかしらとも思う。

     私の性格も、どこか自分の命そのものに対してすっかり折り合いがついている乾いた雰囲気がたまらない。
     
      “ガスマスクそのものは~捨ててしまったのだ。敵が毒ガスを使うとなれば、こんなものがあっ
      たところで、私には間に合うようにかぶれはしないことを十分承知していたのである(p,139)”
      “雷も弾丸と同じこと、やられるにしろ、やられないにしろ、こちらでどうにかできることでは
      ないのだから。(p,140)”

     まさに「今すぐにでも人生を去っていくことのできる者のごとく(『自省録p,24』アウレリウス)」だ。
     随所に散りばめられた世捨て人とも、達観者とも言える雰囲気が、「アメリカ人にしては、なかなか知的な感じにみえますわ(p,147)」というエズミのお褒めの言葉を引き出す。

     エズミは高慢ちきな、マセガキとして映らなくもないけれど、将来を計画し、自分のことを語る言葉を持っていて、自分に何らかの訓練を施すような芯の強さも持っている。ちやほやされることや、特別扱いされることに喜びを感じて、そのために媚びを振りまくという幼さはない。どこ老成したような、気苦労の窺えるようなませ方をしている独特な少女だ。

     ロリータ(ナボコフ)を思い浮かべてみると、「わたしの見たアメリカ人って、やることがまるで動物みたいなんですもの(p,147)」のエズミのセリフが刺さって笑ってしまう。
     またチャールズと一度失敗したやり取りのチャンスをきちんと撤回する場面が愛らしい。でもここは愛らしい以上の意味が読み取れてもいいところだ。
     “コネティカットのひょこひょこおじさん”のエロイーズはウォルトの言葉を一生涯宝物にするだろうし、“小舟のほとりで”で、ライオネルがブーブーに救われたことも一生涯の救いになる。“笑い男”も然り。人と関わるその時間は、本当の意味でチャンスなのだから。

     本作だけでなく、サリンジャーの小説には、アメリカを風刺し、さりげなく揶揄する場面が登場し、それがまた魅力的でもある。

      “「ユーモアのセンスがないから人生に太刀打ちできないって、父は言うんです」~
      本当の苦境に立ち至ったとき、ユーモアの間隔では役には立たないと思うと言った。(p,153)”

     ユーモアばかりの会話を繰り広げた別れた私を、本当の苦境が襲う。

      “「お身体の機能がそっくり無傷のままでご帰還なさいますように」(p,161)”

     暗示された通りに、私の体の機能は損なわれる。エズミから届いた緑の小箱を、手紙が出されてからも、傷病者になってからも、時間が経過した後に“私”の手に握られたことが、ぐっとここでの情動を強いものにしてくれる。私の身体の機能は損なわれていて、エズミとの思い出は、未だ身体の機能がまともだった頃の憧憬を伴って思い出される。

     手紙に日付や時間まで克明に記されているのがまた素敵だなと思った。
     共有された時間やそこで芽生えた絆の具体性がぐっと醸されて、思い出は記録的要素を伴ってその強度を高める。つまり数字には固定する力があるということだ。

     クロノグラフをエズミから私に届けさせるというのが素晴らしいアイデアだなと嫉妬する。時間を記録するもの、クロノグラフ。箱を開けると、その時計のガラスは壊れているのだった。きちんと動くかは確かめていない。まるでクロノグラフが私とリンクしているような結びつきを演出させる。

     そうして“エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機ーあらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間にもどる可能性を必ず持っているからね。(p,176)”にて、
     “「ユーモアのセンスがないから人生に太刀打ちできないって、父は言うんです」~
      本当の苦境に立ち至ったとき、ユーモアの間隔では役には立たないと思うと言った。(p,153)”への意趣返しを行うことになる。
     機能が損なわれた私はユーモアで太刀打ちすることになる。

     約束の短編小説は、エズミからのオーダーに沿ったまさしく汚辱と愛についての短編となる。
     一つの作品が生まれることになった必然性とその背景そのものが一つの作品という形を取って産声を上げるという、相当に痺れる作品だった。

     「愛する力」を持っていた私は、だからこそ六年後の冒頭でこの短編を書けているのかもしれない。(2023/05/18)

    『愛らしき口もと目は緑』
    「あらすじ」
     銀髪の男リーがベッドで紫と見紛うほどの青い瞳の女と寝ているところへ電話がかかってきた。
     相手は、同じ弁護士事務所のアーサーだ。今日のパーティーの後で妻のジョニーが帰って来ないのだと言う。耳を傾けるリーに興奮したアーサーは浮気性の妻の愚痴を散々に語り始めた。パーティーでは決まって台所に行っては、男といちゃつき、どんな男でもすごくイカすと言う色狂いさ。テレビや新聞を見てはそれで頭が良いのだと思い込み、その夫婦生活で露呈させる彼女の愚かさを聞かせる。同時にアーサーは彼女と生活するには、自分が弱すぎると語る。彼女に強く出て言うことを聞かせるような力強さが自分にはないと。
     が、アーサーはそんな彼女のことを「哀れな女」と言って、それゆえに別れることができないのだとも言う。彼女には気のいいところもあって憎めないという。別れようと思う時に思い出すのは「愛らしき口もと目は緑」と彼女に当てた詩だという。

     落ち着いて帰りを待つようにと説得して電話を切ると、女は灰皿をひっくり返したり、リーが話したことを、何と言ったのかをもう一度聞こうとする。再び電話がかかってくる。
     相手はアーサーで、ジョニーが帰って来た知らせだった。
     リーはコネティカットのどっかに小さな家を買って、二人の生活をやり直したいという。ここニューヨークの自分たちの知り合いはみんあノイローゼのようなものだからと付け加える。
     頭痛を理由に、電話を切ったリーは、落としたタバコの世話をしようとした女に向かって「いいからおとなしく座っておれ」といい、女は黙って手をひっこめた。
    [冒頭]
     電話が鳴ったとき、白髪まじりの男は、女に少なからず気をつかいながら、いっそ出ないでおこうか、と、訊いた。女の耳にそれは、遠くで言ってるようにだけれど、ともかく聞こえたことは聞こえたので、彼女は男の方に顔を向けた。片方の目ー灯りを受けているほうの目=は固くつぶり、開いている目は、意識してつぶらに見せているにせよ、とても大きくて、色は紫と見まごうほどの深い青だ。
    [末尾]
     今度も女はすぐさま話しかけた。が、男は返事をしなかった。そして火のついている煙草をーそれは女のだったけれどー灰皿から取り上げると、口へ持って行きかけが、煙草は指の間から滑り落ちた。女は焼け焦げをつけまいとして、男が拾おうとするのに手を添えようとしたが、男は、いいからおとなしく座っておれと言い、女は手を引っ込めた。
    [感想]
     アーサーは①気がおかしくなって幻覚でも見ていたのか➁リーをはめるためにあえて噓をついたのか③本当にジョニーが帰ってきたすると、リーの隣にいる女はジョニーではないのか④リーへの気遣いなのか。

     ③はないとして、電話での、お互いの顔や周囲の状況が知れない音声のみでの会話回しとう環境がまず改めて考えると独特だよなぁと思う。
     それから、冒頭と末尾でのリーの女に対する扱い方が180度変わってしまっているところが、笑えるところでもあり、リーという男への変容を語るポイントでもある。
     
     アーサーによれば、このニューヨークでアーサーやリーの界隈、弁護士事務所とその顧客たち、例えば、きっかけがあれば無料法律相談に預かれるとパーティーでコンタクトしてくる人間や、もしくは気軽な接触でも全てが法律関連、仕事関連に捉えられてしまうよな職業病的考えを持つ彼ら、彼らが仕事を取り寄せる場にもなっているだろうパーティー、コネティカット流の大はしゃぎをする夫婦……その界隈/周辺はノイローゼで、その要因はここニューヨークという場所にあるらしい。

     それを考えると、なんだか、ジョニーと不倫しているリーが、そんなノイローゼ界隈の狂った住人のようにも映りだしてくる。

     電話の切れ目切れ目で、リーの隣にいる女がとる態度は、リーの状況を理解しているとは言い難いような間抜けなことばかりをしているわけで、奇しくも、アーサーの語るジョニーの愚かさにリー自身が納得せざるを得ないように自然と追い込まれていくのがわかる。
     もう二度目の電話を切ったあとでは、アーサーがジョニーに相応しい男の態度と言った態度で接し始めているし、もしアーサーが噓をついたのだとすれば、ジョニーにへの未練をしっかり断ち切るために、全て承知の上でリーにぶちまけることで、再確認するような意図もあったのかもしれない。

     なるほど、自分が今抱いている女とうのは、こんなにもろくでもない女だったのだな。

     リーがそう思い始めている一方で、アーサーは額面通りに受け取るのなら、ジョニーを許し、ジョニーの愚かさや哀れさを認めた上で、愛そうとしている。二人が会話を終えるころには二人の意志が綺麗そっくりに入れ替わっている。

     もしくは、アーサーの混乱がリーへと受け継がれたという見方も面白い。リーにしてみれば、自分が感じていたジョニーへの性的魅力が削がれた上に、そんな自分への悔恨も滲み出てくるわけだ。
     電話を通して、揺れ動いていくリーの心理がやっぱり、読み返してみて面白い処かもしれない。(2023/05/20 )

    [考察]
     〈参考〉
      論文 「愛らしき口もと目は緑」について 
       BO01070L045.pdf (bukkyo-u.ac.jp)

    ・「無垢と欺瞞」というそれまでのテーマとの乖離
    ・アーサーがリーに、ジョーニーが帰宅したという噓をついたのはなぜか?
       ・アーサーがリーを心配させないためについた嘘→リーのアーサーに対する良心の呵責によって、ジョーニーとの関係を終わらせる→正直者が最終的には得をするという、トルストイの『イワンの馬鹿』のような物語(『戦争 PTSD とサリンジャー』野間正二)
     「起こしてしまったんじゃないか」「どうして切ってしまわないんだ」アーサーのリーへの甘えと信頼
       ・アーサーの精神的破綻を示すものであるという可能性:リーの沈黙は同僚アーサーへの動揺。
       ・アーサーは巧妙な策士であったという可能性:ジョーニーを貶すことで、アーサーのジョーニー擁護の言質を引き出す。しかし、ジョーニーには電話の内容が聞こえていないので、もしリーが完璧主義を貫くのであれば、アーサーのジョーニー批判にも黙って相槌を売って、適当なところで切り上げただろう。リーはそこまで頭の切れる男ではない。

     完璧な男を演じるリーならきっとジョニーを庇う発言をすると予想した上での、アーサーの罠。
    ・インターテクスト:〈参考〉Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E3%83%86%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E6%80%A7
    間テクスト性。テクストの意味を他のテクストとの関連によって見つけ出すことである。テクスト間相互関連性と訳されたり、英語からインターテクスチュアリティーと呼ばれたりすることもある。

    ある著者が先行テクストから借用したり変形したりすることや、ある読者がテクストを読み取る際に別のテクストを参照したりすることをいう。但し「間テクスト性」という用語自体、ポスト構造主義者ジュリア・クリステヴァが1966年に作り出して以来、何度も借用され、変形されてきた。

    批評家ウィリアム・アーウィンが言うように、この用語は使用者によって十人十色の意味を持って今日に至っており、クリステヴァの本来の見方に忠実な者から、単に引喩や影響と同義のものとして使う者まで様々。

     

    『ド・ドーミエ=スミスの青の時代』
    [あらすじ]
     私は、母の死後、その再婚相手の継父ボブとニューヨークのリッツ・ホテルで日限を取らずに暮らし、美術学校に通う19歳の青年で顔はエル・グレコにそっくりだった。パリの全国青少年美術展で金賞を三つ金賞を獲得した私は学校が嫌いだったし、ニューヨークも嫌いだった。誰もが椅子取りゲームに興じているような喧騒のなか、週のうち三日は歯医者の椅子に座り、残り二日が画廊を見て回ったが、アメリカ人の絵は舌打ちのでるようなものばかり。宵の口には読書をして過ごし『ハーヴァード古典叢書』を、それを置く場所がないとボブに言われたために、依怙地になって読破し、夜が更けると絵を描いて過ごした。
     ホテル滞在10ヶ月、フランス語の新聞・雑誌を十六種類も購読していた私は、「〈古典巨匠の友〉美術通信教育講座」の講師求人募集を見つけ即座に惹かれる。オノレ・ドーミエを大叔父に持ち、両親の最も古い友人にピカソがいる作り話を皮切りに手紙をしたためる。ピカソの助言で展覧会に出品した事はないが、私の作品はパリでも、新興成金ではない家庭に飾られ、辛辣な批評家のお墨付きも得ている。妻を癌性潰瘍で亡くして以来、握らなかった筆だが、最近被った財政的な痛手を機に今回の話を前向きに考えている旨などを書き、作品を添えて送った。即座に採用される。
     学校は不可解な印象を与える、日本人ヨショト氏と東洋人の夫人の二人きりで、下級アパートの二階にあった。通された下宿部屋には椅子の代わりに座布団が並び、出される和食らしき食事は口に合わない。おまけに夜には、動物の鳴き声のような呻き声が聞こえ、中々寝付けない始末。29歳であること、身分の詳細を偽装で塗り固めたことがばれぬかびくびくしながら、それでも、わたしは喜び勇んでこの生活に耐えようとした。
     翻訳から始まって、郵送されてきたデッサンの上にトレーシングペーパーを重ね、原画を修正する業務に取り組む。そこへ、明らかに別格の才能を感じさせる、修道女アーマ氏の絵画に私は、震撼させられる。長文の手紙を書き、是非とも一度お会いしたい旨を念押しして郵送する。アーマ氏からの返信を待つ合間、早くもここでの生活に辛さに耐えていた。
    間もなく届いたアーマ氏からの返信じゃ、監督者の神父のもので、そこには、彼の権限ではどうにもならない理由から、彼女が通信教育を辞退する旨が記されていた。
     混乱した私は、ここから離れようとした外出先で不思議な体験をする。タキシードを着て通りかかった、学校のアパートの一回にある整形器具店のショーウィンドウのなかに生身の人間がいることを発見する。緑と黄と紫のシフォンのドレスを着た三十がらみの屈強な女が、木製のマネキン人形の脱腸帯の紐を締めていた。こちらの視線に気づいた彼女に、微笑すると、彼女は常軌を逸した狼狽ぶりでバランスを崩して尻餅を着いて倒れると、立ち上がって顔を赤くしたまま、片手で髪を撫で上げると、再び作業に戻った。
     そのとき、突然現れた太陽が飛んできて、目がくらみ、再び目が開くと、女性の姿が消え、二重の祝福を受けた世にも美しい琺瑯の花の花園が微かな光を放っていた。
     「シスター・アーマには自らの運命に従う自由を与えよう。すべての人が尼僧なのだ」と日記に書いたその後、一週間もたたずに〈古典巨匠の友〉は認可を受けていなかったために閉校する。荷物をまとめて、ロード・アイランドに向った継父に合流すると、美術学校に戻る六~八週間を水着の女の子たちを眺めながら過ごし、アーマ氏にはその後二度と連絡しなかった。

    [冒頭]
     こんなことをしても実は何の意味もないのだけれど、もしかりに何らかの意味があるのならば、わたしはこれから語るこの物語をば、その価値は問わぬにしても、ほんの微かながら粗野磊落な好色の匂いぐらいはところどころにとどめておりはせぬかと、それを唯一の心頼みに、今は亡き、粗野磊落にして好色お継父。ロバート。アガドギャニアン・ジュニアの思い出に捧げたくなる気持を禁じがたい。
    [末尾]
     だが、バンビ・クレーマーからは今でもときどき手紙が来る。最近の便りによると、彼女はさらに手をひろげて、自分のクリスマス・カードのデザインを始めたという。あの筆さばきがなくなっていなかったならば、これはちょっとした見物になるだろう。
     
    [感想]
     最大の謎「ショーウィンドウ事件」は何だったのか?が残ってなかなか次の話に移れない。
     エル・グレコに酷似した顔、赤い口髭、タキシード。これらの特徴を備えた私。それに対して、緑と黄と紫のシフォンのドレスを着た三十がらみの屈強な女が、“常軌を逸した狼狽ぶり”を見せたのは何故か?マネキン人形に脱腸帯を付けていたことと関係があるのか?私の容姿に関係があるのか?修道女アーマ氏との関係は?マグダラのマリアとの関係は?

     例えば、脱腸帯はキリストを磔刑にした際の拘束具を思わせる。マグダラのマリアは娼婦から、キリスト復活の際に、キリストから自らの肉体に触れることを窘められたというエピソードがある。ショーウィンドウの女性がマグダラのマリアと仮定すると、キリストを描いてきたエル・グレコ/キリストを想起させる顔であるエル・グレコ、に似た顔の持つ私が、タキシードのような正装で、脱腸帯を締めている彼女の前に立ったのは、聖書の再現に似た状況かもしれない。
     
     その時の私はと言えば、遠回しにその監督者のジンマーマン神父から、接触、面会を禁じられたアーマ氏に、会うために再読手紙を書いて、面会の手段まで計算していた。もちろん、年齢と顔の知れない彼女にたいして、あわよくば俗世界へ引き戻そうというよな、エデンの園追放を目論むような、下心をふんだんに持ち合わせている私だ。

     そんな彼に、神の啓示のような突然の光明が差されるできごとは、彼への警告であったり、もしくはアーマ氏を神が守ったとも言えなくはないか?

     そんな想像ができる。年齢・身分、ありとあらゆる詐称を働いて職にありついた私もさることながら、「〈古典巨匠の友〉美術通信教育講座」も認可を受けていない、詐称学校だ。つまり、全員が噓つきだということになる。
     みんなが身分を騙っているなかで、唯一(確証はないが)身分を詐称せずに、正直な身の上を開示しているのがアーマ氏だということがアクセントになっていると感じた。フー・マンチュ物語の形容詞を頂いた、不可解な男の日本人ヨショト氏は、夜の呻き声や(アジア・日本的習慣だから、分からなくもないが)寡黙で、西洋にあっては異質なものに映る生活習慣、例えば、一列縦隊になって家の中を進み、儀礼的に行われる食事などが、アーマ氏とは対比的にアングラな印象を深めている。

     読んでいて楽しいころは、前半のホテルの不良お坊ちゃま暮らしの詳細で、5フィートの本棚に並ぶ古典の名著を10カ月未満で読破してしまったり、夜が更けてから、絵画制作に熱中したり、学校に少なくとも身体だけは出席しているような生活の全体像がユーモラスで好き。

     歯医者と画廊を行き来し、ニューヨークの雑踏にうんざりして、都市に対して皮肉な視線を投げかけるような、プチペシミズムが匂い立っていて素敵だ。

      “願わくはニューヨークから人間を一掃したまえ、われを一人にーひ・と・り・にーしたまえと
      祈ったのだ。これこそはニューヨークにおいても途中で紛失したり遅延したりすることなく先方
      に届けられる唯一の祈りであって、おのれの手に触れるものが片端から孤独の結晶に変じるのを
      発見した。(p,204)”

     後半にかけて、何だか面倒臭いなと感じ始めしまった要因は、ヨショト氏のもとで送る生活のデティールとその描写が薄く、その性質も悪戯な惰性さに溢れているからかもしれない。
     届く絵画も無理に情報が広められているといった感じがあった。

     さて、他の読了者の感想を読んでみると、自分の感想の幼稚さにうんざりしてしまう。

     わたしが問題にした「ショーウインドー事件」は「使徒言行録九章〈パウロの回心〉」という意見を見た。はじめ、イエスの信徒を迫害していたが、ダマスコという町へ近づいた時、まばゆい光に包まれ、復活したキリストに出会い、迫害者から信仰者へと変化。その後手紙を使った宣教活動に取り組む。というもの。

     実際に、私は、この後、退学させた生徒四人に手紙を送って復学させていた。

     では私は、どう回心したのか?
     ここがまだ不可解なところではあるが、アーマ氏への執着がきれいさっぱりになくなり、素人絵描きに対して寛容になっている。

      “聖フランシスの癩者に対する態度と、簡単に魂が昂揚して日曜日にだけ癩者に接吻する尋常な
      人間の場合と、この両者の精神の発露の姿の差は、単に程度の相違にすぎぬと言うーもしくは
      ほのめかすーことにもなりかねぬ(p,246)”

     「それまでは近づくことを恐れていたハンセン病患者に思い切って近づき、抱擁して接吻した。するとそれまでの恐れが喜びに変わり、それ以後のフランチェスコは病人への奉仕を行うようになった。(ウキペディア)」

     私の回心も、その日を境に永続するような決定的なものだったのだろうか?
     その後のわたしは、水着の女の子に興味と情熱の大半を傾ける、フツーの男の子に変わっている。顔も年齢も分からない修道女に欲情しなくなり、どこか年相応になって垢ぬける。なんだか焦燥感や苛立ちのような毒気が抜けていくような。

     彼は、またニューヨークに帰ったのだろうか。それほど嫌いではなくなった美術学校に、今度は躰だけではなく、気持ちも通うことにななるのだろうか。

     人生ってそれほど悪くはないなと思えるのなら、それはそれで幸せかもしれない。でもそれはそれで、どこか退屈だろうとちょっぴり思いつつ初読の感想を終えたい。(2023/05/24 16:06)
     
    〈記録〉
      “「喜び」と「仕合せ」の最も著しい違いは「仕合せ」は固定であるに反し、「喜び」は液体だ
      ということだ”
    〈参考文献〉
    ・ https://naoko-mt.blogspot.com/2012/03/blog-post.html?m=1 (「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」__自意識と救い「naoko-note」)
    ・ https://syosaism.com/de-daumier-smiths-blue-period/ (サリンジャー「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」虚栄にまみれた若者と幻想からの覚醒「文芸スノッブ」)
    〈調べ〉
    ・パウロの回心( パウロの回心 | 校長ブログ | 中学校・高等学校|聖ヨゼフ学園 (st-joseph.ac.jp) )キリスト教徒を迫害していたパウロ(この時はまだサウル)が、ダマスコという街に近づいた時、復活したキリストに出会い、迫害する者から熱心な信仰者へ変わりました。パウロの回心と言われる出来事です。まばゆい光と「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞き、しばらく目が見えなくなりました。目は後に見えるようになるのですが、「目から鱗が落ちる」という言葉は、パウロの回心のできごとから生まれたとされます。この後パウロはキリスト教を広めるために大きな働きをしました。その中心となるのが何通もの手紙です。新約聖書では福音書に次ぐ大切なものとなりました。
    ・アッシジのフランチェスコ()
    1182年 - 1226年10月3日
    ・フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士
    ・この時期のヨーロッパは人口と経済が飛躍的に伸長し、それに伴った急速な都市化が進行して、新しい時代の制度が模索されている時期であり、戦乱も絶えなかった[15]。イタリアの諸都市においては、神聖ローマ皇帝のドイツ勢力(皇帝派)とローマ教皇の勢力(教皇派)が対立すると共に、都市内の領主や貴族・騎士と平民が対立し、都市間の争いと複雑に絡み合っていた。アッシジは皇帝派を後ろ盾とする貴族や騎士階級が治世権を有する都市であったのが、1198年から1200年にかけて反乱が起きて平民勢力によって貴族や騎士たちが町から追放されている。町を見下ろしていた、ドイツ軍が駐留するための要塞もこのとき破壊された。 
    あるとき、それまでは近づくことを恐れていたハンセン氏病患者に思い切って近づき、抱擁して接吻した。すると、それまでの恐れが喜びに変わり、それ以後のフランチェスコは病人への奉仕を行うようになった。ローマに巡礼に出かけて、乞食たちに金銭をばらまき[24]、乞食の一人と衣服を取り換えて、そのまま乞食の群れの中で何日かを過ごしたという伝記もあるが[25]、これは史実かどうか疑わしいとも言われている[26]。
    アッシジ郊外のサン・ダミアノの聖堂で祈っていたとき、磔のキリスト像から「フランチェスコよ、行って私の教会を建て直しなさい」という声を聞く。これ以降、彼はサン・ダミアノ教会から始めて、方々の教会を修復していった

    Q1:ヴィクトル・ユゴー通りと鼻のない男とぶつかってしまった話にはどんな関わりや意味があるのか?/ユゴーの作品に「笑う男」があり、「ナインストーリー」には「笑い男」と題された作品がある
    Q2:修道女アーマが通信講座を監督者のジンマーマン神父から差し止められたのは何故なのか?/手紙にあった彼の権限ではどうにもならぬ事情とはなんだったのか?
    Q3:ショーウインドウの女性は何で私を見て、顔を真っ赤にして狼狽していたのか?/私の顔がエルグレコに告示じていたことと関連するか?8本の歯を抜かれていたことととは?/その女性とは、修道女だったのだろうか
    Q4:ヨショト夫妻のどちらかのうめき声らしきものは何?
    Q5:技術の面でバンビー・クレーマー嬢の技術を借りた~とは何の技術だろうか?/両脚を少し開いて立っている感じを出そうと~意識的に用いた技術
    [参考文献]
    ・『ハーヴァード古典草書』
    ・『フー・マンチュ物語』サックス・ローマ
    ・「彼らのあやまちをゆるせ」(マタイ伝六章十四節)
    ・アベラールとエロイーズ

     
    『テディ』
    [あらすじ]
     舷窓からオレンジの皮が海に浮いているのを見たテディ。もしもそれを見なかったら、オレンジの皮がそこにあるのを知らないし、知らなければオレンジの皮が存在しているとは言えなくなる。オレンジの皮が浮かんでいるというのは、僕の頭の中から始まったことだからだ…。考え込んでいたテディはマカードル氏から、彼が妹に持たせた氏のライカを持ってくるようにと云いつけられて船室を出た。
     6歳の妹、ブーパーは、ライカを放り投げて、スポーツ・デッキで少年・マイロンを従えて、デッキ・ゴルフの円盤を搭のように積み上げていた。彼女と10時半にプールのあるEデッキで待ち合わせると、彼は、サン・デッキに行って家族のデッキチェアに腰掛け、毎朝10時に付ける習慣の日記を書き始めた。
     彼が手帳を閉じると、先ほどジムで彼に話しかけてた青年が再び話しかけてきた。ボブ・ニコルソンと名乗った青年は彼とおしゃべりを始める。両親はあるがままのぼくたちを愛することはできない。彼らはぼくたちを愛する理由を愛しているのが大部分だ。愛情について彼はそう語った。また、エデンの園でアダムが食べた林檎のなかに入っていたのは、論理ということ。有限界を抜け出すには真っ先に論理を脱却すべきだと言う。大部分の人が物をあるがままに見たがらないこと、生死のサイクルを嫌い、楽しいはずの神のもとにとどまろうとしないで、始終あたらしい身体を欲しがっていることを嘆く。彼は、自分が今から向かうプールで、たまたま水替えかなんかの日にあたり、底を覗き込もうとした自分を、何も知らない妹が押して死んでしまうこともあると言う。でもそれは、なるようになっただけで、なにも怖がるようなことはないと言う。

     二人の話は、彼の応じたインタビューで教授連中から質問された、自分はいつ死ぬのかの問や、教育制度は何を変えたらいいか、大人になったら何を研究して見たいかを話して彼は、妹との待ち合わせに向った。
     青年が後を追いかけ、「プール入口」の扉開けて、階段を下りていくと、階下からつんざくような幼い女の子の悲鳴が響き渡った。
    [冒頭]
     「快適な日もクソもあるか、坊主、たった今その鞄から降りないと、ひどい目に会うぞ。噓じゃないからな」と、マカードル氏は言った。マカードル氏は今、二つ並んだツイン・ベッドの内側のほう、つまり舷窓から遠いほうのベッドにいる。
    [末尾]
     ニコルソンがその階段を中ほどまで下りるか下りないうちである、つんざくような悲鳴が長く尾を曳いて聞こえたー幼い女の子の声に違いない。それは四方をタイルで張った壁に反響するような、遠くまで響き渡る悲鳴であった。
    [感想]
     テディに何か悲劇が起きたのだろうか。死んでしまったのだろうか。

     テディという存在そのものが物語で、オレンジの皮だったのかと読み終えてらは漠然とした気持ちになる。もちろんテディが死んだという直接的な表現は書かれていないし、悲鳴を発した女の子がブーパーとも書かれていない。

     ただ、物語を読み始めて、読み終える。頁を開いて閉じるということは、海に浮いたオレンジの皮が沈んで視界から消えてなくなるのと同じことだ。後には頭のなかにしか残らなくなるのも同じこと。

     ここへ短編集のエピグラフ“両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?”ー禅の公案ーを考え直す。指パッチンすれば片手でも問題ない…そういうことを言ってるんじゃないのは確か。互いを叩くことで発せられる音が、片手の音はどう発せられるか。森のなかで人知れず木が倒れたとき、木は音を立てたと言えるのだろうか?耳の

  • *バナナフィッシュにうってつけの日
    交錯した、猥雑な世界。
    突然の最後。

    *コネティカットのひょこひょこおじさん
    みな自分を少し演技しているような。
    猥雑。

    *対エスキモー戦争の前夜
    物語の捌きはスッキリしてる。
    終わりは突然。

    *笑い男
    見事なストーリーテリング。至福かつ切迫の物語。

    *小舟のほとりで
    母子の温かさ。尊厳を奪う差別は子供にも刺さる。

    *エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに
    愛らしい話と思いきや、一転して、ハードボイルドな展開に。

    *愛らしき口もと目は緑
    えっ?どういうこと?

    *ド・ドミーエ=スミスの青の時代
    詐欺と虚言

    *テディ
    子供性への疑問。だが?最後の悲鳴は、、

  • 『笑い男』『愛らしき口もと目は緑』『テディ』は、なかなかおもしろかったです。しかし、この三編も含めて全体的に「何が言いたいんだろう」と思う作品ばかりで、わかりやすいエンタメ作品とは違います。

全607件中 1 - 10件を表示

サリンジャーの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
村上 春樹
三島由紀夫
ジャック ケルア...
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×