- Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102057032
感想・レビュー・書評
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不思議なタイトルの中編が2つ。大好きなグラース家シリーズもこれで読み終わっちゃったけど、ここまで読んだからこそ改めてまたナイン・ストーリーズを読み返したいな。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」
結婚式に現れない花婿シーモア。かけつけていた弟バディは身元を隠しながら、非難轟々の参列者と共に会場から引き上げるための車に乗り込むが……。
車内での緊迫感ある会話がおもしろかった。
「シーモアー序章ー」
4大学で文学を教えながら何冊か本を出版する作家(著述家)になった40歳のバディが、兄シーモアについて書き綴った散文のようなもの。
私はこれまでシーモアという人物をどこか概念じみた神秘的な存在に感じていたんだけれど、バディによって語られる意外な人物像やエピソードの数々を読んで親近感をおぼえ、初めて立体的になった気がした。
バディがまだ全然名もなき書き手だったころから、いちばんの読者であり、いちばんの理解者で在り続けたシーモア。
〈かつてシーモアは、われわれが一生の間にすることは、結局聖なる大地の小さな場所を次から次へと渡って行くことだ、と言ったことがある。彼は絶対に間違いなのだろうか? 〉
良い文章だなぁ。大工よ、の方でも思ったけど、物語の終わり方、締め方、閉じ方にとても好ましい余韻を感じる。
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グラース家の長男シーモアに関する二篇。どちらも次兄バディによる手記で、シーモアに対する親愛を至るところに感じることができます。
『ナイン・ストーリーズ』『フラニーとズーイー』に続く三部作目なので、他の二作品を読んだ後に本書を手に取った方がシーモアの魅力がより増します。
『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』
妹ブーブーからシーモアが結婚することを聞いたバディは、ブーブーの依頼(という名の指示)もありどうにか時間を繕って式へ赴く。しかしシーモアは自身の結婚式当日に「幸せすぎる」という理由で現れなかった。
舞台はおおよそ車内とアパートの一室という限られた空間。新婦側親族のシーモアへの(当然の)辛辣な批判を中心に、まるで演劇を見ているように全ての登場人物が終始生き生きとコミカルに映ります。シーモア本人は登場しない中、会話の流れやバディとブーブーのやりとり、残された日記などを通してシーモアという人間像が徐々に浮き彫りになります。単発の読み物としても十分楽しめる、グラース家の魅力が光る作品です。
ささやかな1コマですが、ご老人の“Delighted(喜んで)”の下りはつい頬が緩んでしまうくらい大好き。
『シーモア-序章』
シーモア亡き後にバディがシーモアについて思うことをつらつらと綴る。
特にストーリーもなくバディの一人語りなので読みにくさはありますが、グラース家の人々が無条件にシーモアを愛し多大な影響を受けていることが伝わる一篇です。 -
感情のままに流される人を眺めながら、そんな人や世の中を逆手にとって自身の内面を高める生き方に、幾分救われた気持ちになる。期待してなどいなかったから。
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「バナナフィッシュにうってつけの日」を読んでから、いつかは読まなくてはと思ってた本。
でも、読まなくても良かったかも。
「大工よ、」はバナナフィッシュの前日譚。グラース家の長兄、シーモアの結婚のドタバタを次兄バディが語る。子供の頃から天才で、兄弟姉妹でラジオ番組を持っていたというのは、フラニーとゾーイでも語られていたこと。所謂、世間と折り合いが悪い性格がうっすら伝わってくる。でも、浅い描写で終わっていると思う。
大工よ、…のタイトルは、文中に出てくるけれど、このタイトルにする理由ある?
「シーモアー序章ー」。しっかり読み終えたのは、翻訳家の優れた仕事のお陰。しかし、こんなに文章を読む喜びの無い読書って何だろう。普通だったら、さっさと途中で読書を辞めてたと思う。
次兄バディは40になり、小説家であり、大学での教職にも就いている。サリンジャーの分身のなのか。しかし、シーモアのことをダラダラ語っているけれど、何も語っていないと云っていいぐらい中身がない。
あとがきによれば、「大工よ、」がニューヨーカーに発表されたのが1955年11月。表紙の折り返しには、「大工よ、…」と「シーモアー」が刊行されたのが1963年。
この時間の間に作家としての才能が尽きたんじゃないのかな。
村上春樹さんや柴田元幸さんもサリンジャーは重要な作家だと聞く。だけど、チョッとした才能はあったんだけど、それが尽きて隠棲したんじゃないの。みんな勘違いして、有難がっているんじゃないかと思う。
「ライ麦畑」は村上訳のキャッチャーも読んだ。「フラニーとゾーイ」「ナイン・ストリーズ」も読んだ。結局、心が動かされことはなかった。もう。これでいいかな。 -
ナインストーリーズ、フラニーとズーイーに輪をかけてクセのある二編の短編集。饒舌な文章(名訳!)なのに不思議とすらすら読めてしまう。「大工よ〜」のラストの一文が秀逸で、何度読んでも惚れ惚れします。
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謎と魅力の多いシーモアに迫る作品。
ようやくここまでたどり着いたという感じ。サリンジャーにとっても、このシーモアという人間ひとりを追うことに、書くことの一生を費やしたのではないのだろうか。
「ほんとう」そのことを求めてやまないシーモアという人間にとって、目に映るあらゆる現象のまばゆいほどの輝きに焼き尽されてしまいそうだったに違いない。
シーモアのあらゆる言動が、周囲の人間にとっては不可解なものに映るかもしれない。けれど、そのひとつひとつが彼の誠実さに裏打ちされたものであるからこそ、忘れられない、愛されるべき存在であるのだろう。
インドや中国、日本の東洋哲学に通じていたようで、バディの語りを通じて、シーモアというひとつの境地をじっと考え続けていたに違いない。生きること、信仰、サリンジャーにとっては精神というひとつの同じ蓮の上のことだったのだろう。
シーモアの序章とあるが、おそらくは概観・概要といった方が正確か。グラース家の時間的な始まりではなくて、シーモアという人間を少しでもとらえようとするバティの精神の軌跡なのだ。だが、このとらえどころのないひとりの人間の概観を描こうとするには、あまりに彼の魅力を捨象してしまう。だからこそ、書き、考えながら時間をいったりきたりして、少しずつ何かとどめようとしているのだ。
シーモアの自殺について探求していくというよりかは、シーモアという存在に深く根を下ろそうとしていく。自殺についてどうして死んだのかというより、この人物はいったいなんなのか、その言動をひとつひとつ紐解いていくよう。自殺という現象さえも、シーモアという人間の一部であるかのよう。
ことばが続かないほど、バティはシーモアのことを好いていた。簡単にことばが紡げてしまったら、それこそ、シーモアを間違って歪めてしまうのではないのかと恐れているのが伝わってくる。
サリンジャーにとっても、このシーモアについてとっかっかるということはひとつの区切りだったのだろう。グラース家がこの後どう続いていくのか、追っていきたい。 -
これはいやあ、もうわたしの知ってたサリンジャーじゃない。いよいよグラース家に踏み込んだ内容になっていますが、大工よ〜はまだついていけるんだけれども、シーモア序章については本当にバディがひたすら、しかも脈絡なくシーモアについて語っていて、それがすごく分裂的でなんだかもう読んでいてつらくてつらくて。大工よ〜はシーモアの結婚式の日のおはなしなんだけれども、ぐっと読ませる感じがあってわたしは面白く読んだ。サリンジャー大好きだからハプワーズまできちんと読もうかと思っていたけれども、これはもしかしたら無理かもしれない、と感じた。とりあえずバナナフィッシュにもどってもう少しシーモアについて読みたいかな。完全な沈黙までのサリンジャーの軌跡を追うのは思ったよりも難解で、かつどんどん分裂的で不安定で小説の型と呼んでいいのかというようなものになってきて怖くて、心が折れそうになる。
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難解であることは間違いない。
「バナナフィッシュ日和」から一連で読みながら、バディがシーモアで、サリンジャーでもあるように思えた。
死ぬことによって永遠になり、バディの中で、生き続けているのかと。
本来、人は成長しながら産道を何度かくぐり抜けていく、その先に次の自分がいるように思う。自意識が肥大し、抜け出せなくなったシーモア(自分)をサリンジャーは殺したのかもしれない。
くぐり抜けずに留まった自分を自分の中で飼い続けた結果が、「シーモア序章」のように思えた。
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柴田元幸さん翻訳の「ナイン・ストーリーズ」を読み返していたら、
野崎孝さんの翻訳のが読みたくなって、交互に読んでいたら、
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」がどうしても読みたくなって読んだ。
ああ、忙し、忙し!
サリンジャーをはじめて読んだ10代の時は、
「サリンジャーとアーヴィングだけあれば、他に本いらない!」なんて
思い詰めていた時もあったなあ。
好きすぎて、
ほとんど誰ともサリンジャーの作品については話せなかった。
(弟と「ナイン・ストーリーズ」についてちょっと話すくらい)
最近になって、久しぶりにアーヴィングの「ガープの世界」を読んだときは
あまりの残酷さにのけぞり、
今回久しぶりに「シーモア -序章-」を読んで、
あんなにも心酔していたシーモアの事がちょっと面倒くさく感じた。
これが大人になると言うことかしらん。
シーモアの結婚式にやってきた弟バディ、
シーモアが式にやってこないと言うトラブルが発生し…
家まで来てくれたシルクハット紳士が心の支えだね。
この本で言えば、「シーモア -序章-」って、私には非常に読みづらく、
「大工よ…」ばっかり読んでいたけど、
今回は「シーモア」の方が色々私の為になることが書いてあった。
十分すぎるほど大人になって、
シーモア的生き方が最高とは思わなくなった私だけれど、
私にとって大事な本であることは変わりない。 -
大工〜は、サリンジャーの意識や心を覗く鋭い視線が好きです。
両作とも、バナナフィッシュの読解本。大工〜バナナフィッシュの背景の物語。
シーモアの印象ははっきりいって読みにくい!わからない!であった。なぜサリンジャーがこの方法をとったのか気になるところ。これは読者だけでなく、彼のためという色の強い作品なのかもしれない。
この中では、シーモアがなぜ死んだのかという疑問を解説していると、背表紙には書いてある。わたしは、前半の言葉に尽きるのではないかと思う。つまり、やっぱり絶望したのではないだろうかと思う。もしくは、大工と組み合わせると、世間に溶け込もうとした結果なのかもしれない。
そしてもう一つ気になったのは、この小説を通してバディは、バディを含めたシーモアに対する態度、姿勢について述べていることである。悲劇的なものに惹かれる我々、そして、シーモアの手紙の中で語られる自身の感情に従うということ。あまりシーモアを神格化するなというシーモアに対するあり方を述べられているように思う。
終始バディが、シーモアのことを一生懸命に語っているが、それはいつまでもしっくりこない。なんだかいつまでも曖昧であるように思う。シーモアのことをよくわかりたいと思いよんでみたが、曖昧なままである。
よくわかりたいと思ったのは、現実的にシーモアがよくわからないからだ。理想的すぎる。でも理想だからそうなのだろう。あいまいなのは理想だからだ。現実にはシーモアは死んでしまうのだ。
願わくばわシーモアが書いたものを読んでみたいと思う。シーモアは絶対にまちがいないんだろうか。
フラニーゾーイのように、愛のようなものが、また最後で語られている。 -
「バナナフィッシュにうってつけの日」がだいすきだった。シーモアのことがもっと知りたくて、「フラニーとゾーイー」を読み、もっともっと知りたくて、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」を読んだ。
サリンジャーにとって、シーモアはどういう存在だったのかな。 -
この作品も折に触れ何度も何度も読み返している。私にとっての安定剤的な存在。読むたびにバーウィック夫人が好きになってしまう。
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シーモアの結婚のお話で、これがバナナフィッシュにつながるわけですね、ふむふむ。
結局なんで自殺なのかわからなかったです。一気に読まないと内容がつながらなくてダメです。一週間かけて読んだからパァだよ〜(^O^) -
【本書より】いっそのこと、世界じゅうの人たちがみんな同じ顔つきをしていればいいと彼は言った。誰に会っても、これは自分の奥さんだ、お父さんだ、お母さんだと思うだろうし、みんなはいつどこで会っても互いに腕をまわして抱きつくだろうし、そうなれば『とてもいい』と言うのである──「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」より
【本書より】彼がエースを持っているときそ知らぬ顔をするのはちょっとした苦労だった。というのも、そういうとき彼は、妹の表現を借りれば、バスケット一杯の卵を持った復活祭のうさぎのようににやにやしていたからである。「シーモア」より -
大工よ〜は破茶滅茶に良かった。結婚式に現れなかったシーモアと、そのシーモアの弟であることを隠して新婦側の人間たちと交流することになってしまったバディの緊張感が物語を引っ張る。出てくるキャラクターも個性的で、思わずくすっと笑ってしまうような感じもあって豊かな短編だと思った。そうそう、こういうのが読みたいんだよ、という感じだった。サリンジャーは長編も良いが、短編の切れ味もまた素晴らしい。
シーモア序章は、正直ハプワースと同様、読めたもんではなかった。何を言っているのかさっぱりわからないし、そもそも小説でもないような訳のわからない文章。生き生きとした小説を書くサリンジャーが、晩年?というか後期に入っていくとこういうぐるぐる回って出口のないような謎の文章ばかり書いていくようになったのは本当に残念なことだ。未発表原稿などもあるという噂だが、おそらくこういうテイストのものなんじゃないかと思う。 -
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」の方はとても好き。特にシーモアの日記が。
「シーモア序章」の方は、手探りで書かれている感じが生々しく、「地下室の手記」に通じるような自家中毒の感じがあり、でもさすがに錯綜しすぎていて疲労した。 -
文章はするする読めるものの、何を言いたいのか内容がまったく頭に入ってこない(特に「シーモア序章」のほう)。サリンジャーの過去作を全部読んでいないから?当時のアメリカ社会の様子を知らないから?それとも英語の原文で読んでいないから?
そもそもこの文章は読者に伝えよう、理解させようという意図がないのかもしれない。もしそうだとしたら、そこにあるのは作家の傲慢さではないか?この文章が出版された当時は「あのサリンジャーが書いた」という理由で多くの人に求められて読まれたものなのかもしれないが、時代を経て作家の知名度が薄まるにつれて、この文章を読むこと自体が無意味になってくるのではないか? -
だいじな自転車をありがとう
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内容ではないのだけど、やはり翻訳する方は揃えたほうが読みやすいかもしれない。
個人的には野崎孝さんの「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」の方が好み。
内容的にはシーモア〜の方が、“シーモア”についてバディが語る場面が多く、より“シーモア”に関する中身があってなかなか興味深いのだけど、なんともお2人の日本語の使い方(?翻訳の仕方?)に困惑してしまい、少し、読むのに手間取った。
とはいえ、ナインストーリーズをまた手に取りたくなる。シーモアのことを知れば知るほど、他の兄弟についても知りたくなる。
とても中毒性のある作品たち。