フラニーとズーイ (新潮文庫)

  • 1585人登録
  • 3.61評価
    • (99)
    • (130)
    • (138)
    • (40)
    • (15)
  • 168レビュー
制作 : 村上 春樹 
  • 新潮社 (2014年2月28日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102057049

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
村上 春樹
三島 由紀夫
三浦 しをん
村上 春樹
有効な右矢印 無効な右矢印

フラニーとズーイ (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

  • 蛹の家には、インターホンなどという気の利いたものはない。鍵もかかっていない。葉月はいつも、彼の家の玄関のドアを三回ノックし、返事を待たずに勝手に入る。
    「おはようございますー。……起きてます?」
    蛹は、居間にもキッチンにもいなかった。ベッドルームにもいない。ただ、ベッドの上に村上春樹訳の「フラニーとズーイ」が投げ出してあったので、それを手に取り、浴室に足を向けた。

    「……影響されやすいんですから」

    蛹は、湯船に浸かったまま煙草を吸っていた。
    湯気には、彼が吸っている細いメンソール煙草の匂いが混じっていた。灰皿の代わりに缶ビールの空き缶が置かれていたが、その周りに灰が散らばっていて、灰皿としての役割を正しく果たしているようには見えなかった。
    蛹は何か考えごとをしているようだったが、葉月が戸口に立っていることに気づいて視線を向けた。
    「いいアイディアだと思ったんだ。換気扇が回っているから煙は籠らないし、うっかり考え事に没頭しても、ここなら火事にはならないだろ」
    それを聞きながら、葉月は靴下を脱ぎ、ユニクロのジーンズを膝下までたくしあげると、浴室に足を踏み入れた。
    「どうして、急にサリンジャーなんて読んでたんですか?」
    葉月は、寝室で見つけた本を掲げてみせた。
    「本屋で見かけたから」
    「はあ、そうですか……」
    葉月はしゃがみこみ、値踏みするようにぱらぱらとページを捲った。
    「こういうのって、蛹さんも考えたりしました?」
    葉月は、本に目を落としたまま、問う。蛹は、質問の意図がわからなかったというように、わざとらしく首を傾げてみせた。
    「ええと、それは、どういう意味で? ちなみに、風呂で煙草を吸うのは今やっているけど」
    「ああ、まあ、楽しそうで何よりです……じゃなくて」
    蛹は冗談だと言うように、わずかに笑った。
    「周りがみんなバカに見えた時期があったかってこと?」
    「そうそう。からかわないでくださいよ……」
    「ありそうに見える?」
    「うーん、なんていうか、あなたは色々なものに失望しているように見えるから」
    蛹は、今度は声を出して笑った。そして、違う、というように、煙草を持った手を振ってみせた。
    「フラニーも、ズーイも、腹を立てている。世の中の色々なものに。バカで愚かでみっともない、色々なものにね。期待しているんだよ、期待していなければ腹が立つこともない。もっと知的で、美しくて、よいものであるべきだってね。それが世界の正しいあり方で、現状が間違っていると感じる。フラニーやズーイが感じているのは、そういうことじゃないのかな」
    葉月はしゃがみこみ、膝に両肘を置いて、頬杖をついた。
    そして、よく分からないというように、わずかに首を傾げた。
    「どうしようもなく凡庸で、醜くて、下らないとしても、結局はそれが、今ある姿だろ。それが理想と違っていても、理想に近づこうとした結果であることは間違いない。だからまあ、……諦めるしかないんじゃないのかな」
    「あ、そういう風に着地するんですね」
    「うん」
    それから、蛹は、これが最後と言って、新しい煙草に火を点けた。
    「……ところで、そろそろ逆上せてしまいそうだから、これが吸い終わる前に、少し外してくれないかな」
    「え? 上がればいいんじゃないですか?」
    「あ、うん、君がいいなら、そうさせてもらうけど……」

  • 若いころに野崎孝訳で親しんだ世代です。翻訳については、野崎訳派の方による良レビューがすでにあるので、内容に関することをちょっと書き留めておきたいと思います。

    はじめてこの小説を読んだときから、多少は宗教のことをあれこれ勉強してきた身として、サリンジャーは東洋の宗教にも強い関心があったわけだけど、キリスト教神学についても、かなりいろいろ勉強して考察していたに違いない、という印象を抱いた。

    たとえば、「なあ、ここは神の宇宙であって、君の宇宙じゃないんだよ。そして何がエゴで何がエゴでないかを最終的に決めるのは、神様なんだよ」(240頁)というズーイーの言葉なんかは、正統カルヴィニズムのいわゆる予定説を、現代的にずっとソフトに表現したもののようにも読める。

    また、クライマックスで登場する「太ったおばさん」というのは、キリストの受肉の教説を、これまた現代的なイメージを使って語りなおしたものだろう。

    こういうことについては、もうアウグスティヌスとかの時代からずうっと、いろんな教父たちや神学者たちや哲学者たちや文学者たちが論じたり語ったりしてきたので、単純に「受肉とはこういうものです」とは言えないものなのだけど、いまのところキリストの受肉についての、もっとも(よい意味で)単純で象徴的意味の豊かな表現だと私が思うのは、神学者のカール・バルトによる表現で、それは、キリストとは私たちが知っているこの世界と、私たちが知らない神の世界とを切断する、切断線上の一点なのである、というもの。

    ところで、キリスト教においてイエスという人物が、なぜあれほどの重要性をもつかというのは、イエスその人自身の言行がもつ意味が重要だから、というだけではなくて、キリストと神との関係を神学的に考え抜いて体系化したパウロの教説にも理由があって、そのあたりの話もいろいろ難しいのだけど、でも根本的には、結局人は「神性」というものを、「肉」をもつ者を通してしか予感できない、というのが一番の理由だろうと思う。

    サリンジャーが描いている現代の世界は、キリストを通して、あるいは何を通しても、人がバルトの言う「切断線」を見なくなってしまっている世界だ。フラニーにも、この切断線が見えていない。だから、「鼻の先に神聖なるチキンスープを差し出されても気がつかない」(283頁)。言うまでもなく、切断線は「接線」でもある。

    「太ったおばさん」は、そういう現代の世界に、ふたたび切断線を浮かび上がらせるものとして導入されている。何のために靴を磨くのか。何のために演技するのか。それはつまり、何のために規律ある生活をするのか、何のために仕事をするのか、ということであり、さらに、何のために生活と人を愛するのか、何のために生きるのか、ということでもある。

    それがわかると、この世の「愚劣さ」のせいでヘコんでいる暇はないことがわかるのだ。

  • 2017年21冊目。

    出来事が進んでいくというよりも、かなり対話的な小説だったが、特に後半の「ズーイ」の章に、心に残る言葉がいくつもあった。
    感情的に共感ができたのは、妹のフラニー。
    世の中のちょっとした違和感を極度に一般化し、「すべてを一緒くたにするような攻撃」をしてしまう。
    自分が「何者か」でないと耐えられない性格が、アイデンティティの確保のために物事を極論で整理し、そこに安定を見出しているのではないか、と感じる。
    その極論のせいで見るもの全てが卑しいものに見えてしまう。
    そんな自分をわかっていながら変えられない辛さを抱え、自分への嫌悪に精神を壊していく。

    自己破壊的なフラニーを救うために、ズーイはいくつもの正論を投げかけるが、正論であるがゆえか、フラニーははね退け続ける。
    人に説得されたくない、自分が考えていない人間だと思われたくない、そんな気持ちが見え隠れする。
    曖昧を許せない思慮深さは、時に危険。
    ズーイの言うように、より大きな叡智に繋がっていない知識は、むしろ自分を追い詰めてしまうことがある。
    小林秀雄の言葉を思い出す。

    「自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、最も逆説的な自己陶酔の形式だ」

    力いっぱい崩れることができるほどのエネルギーを持っているのなら、それを自分をしっかり保つことに使う。
    ズーイのこの言葉にとても感銘を受ける。

  • たぶん20歳ころに一度読んでいて、なんかよくわからんな、と思った記憶がある。サリンジャーって高評価だけどよくわからない、と。それから約30年、年をとり、村上さんの訳で、村上さんの解説も読んで、の再読だけど、やっぱり感想は、なんかよくわからんな、だった……。
    確かに、フラニーとボーイフレンドのレストランの場面とか、ズーイとお母さんの会話とか、おもしろいことはおもしろいし、キュートなところもあるし、なんか今テレビドラマにでもできそうだなとか思うけど。単にそう思ってればいいのか? で、それで?とか結局なんなの?とか思わずに?

    テーマが宗教とか哲学っぽいのでよくわからないと思ってしまうんだろうな。「神様」の問題は難しいです……。
    わたしは今、海外ドラマ「グリー」に夢中なので、その「グリー」の1エピソード、神を信じるか、っていうエピソードをふと思い出した。そのなかで使われる歌「One of us」の歌詞、「もし神様がわたしたちのなかのひとりだったら? 家に帰るバスのなかで会う人だったら?」とか。

  • 身近な出来事や人に神様(人のあたたかみも)を見出だすことと、神様の用意した舞台の上で自己表現することは、本当に両立できるのだろうか。読み返して、フラニーがひかれている詩人リルケやエミリ・ディキンソンを、単なる「『フラニーとズーイ』の中に出てくる固有名詞」ではなく、読んでいきたい詩人として考えているわたしは、以前『フラニーとズーイ』を読んだときとは受け取りかたが変わっていた。

    新訳をした村上春樹のエッセイより引用◆今日我々がこの『フラニーとズーイ』を読むとき、おそらく読者の大部分はそこにある宗教的言説を、実践的な導きの方法としてではなく、むしろひとつの歴史的引用として、一種の精神的メタファーとして処理しながら読み進むことになるのではないかと思う。◆
    →キリスト教を、すべて素直に受け入れて、日々の導きとするのは、いまだに難しいけれども、キリスト教はわたしにとってずっと、「精神的なメタファー」ではあると思う。
    2017.8.14




    以前のメモより感想。
    読み終わって何故か、「手仕事は手と心が直接繋がっている」という柳宗悦の言葉を思い出した。それから梨木香歩の『海うそ』や『からくりからくさ』なども。書かれ方(表面の形式)はそれぞれ違うので、どうして似てると感じたかもう少し考えたい。兄妹の会話中でズーイがフラニーに、実際的なこと(「実利的に役に立つこと」ではなく。例えばフラニーの好きな詩人を例にして)と、絶えず祈ることは両立出来るのでは、と言う箇所があります。そのあたりや、兄弟たちの母が毎日作ってくれるスープこそ祈りなのでは、というあたりで、私は手仕事と祈りを結びつける連想をしたのかもしれないです。
     石を磨くのも、織物をするのも、「反復」で、時間もかかりますし、作業なのにそこに色々な思念が入る。それで、織物を題材にした、『からくりからくさ』を連想したのかもしれない。2014.6.18

  •  冒頭に、リルケの「ドゥイノの悲歌・第四歌」を交えた短い会話が有りましたが、この第四歌の内容が、この作品(「フラニーとズーイ」)全体の主題をある程度隠喩で表していると思います。ズーイが読んでいた脚本の内容は、その後のフラニーとズーイのやり取りをある程度隠喩で表していると思います。
    「フラニー」の章で、作者は女性の心理を描くのが上手いと思いました。男性の心理に敏感だったり、少し遠まわしに言葉を喋ったり、気まずくなるとトイレに行ったり。
     この物語は、フラニーとズーイの兄であるバディーが書いているという設定なので(だったはず)、フラニーとズーイに関しての記述は好意的に描かれていると思います。けれど、アカデミック系列の人達に関しては、かなり劣悪に描かれていると思います。これは、バディーが、アカデミックの世界にいながら、それと少し距離を置いている事と関係していると思います。これらの人物を造形して動かしているのは作者ですが、作者の意志に反して登場人物が動いたりする事もあるのでは?と思いました。
     この作品の登場人物達の会話はナイーブな所が有ると感じました。それを強調するために会話に傍点がたくさんあるのだと思います。シーモアの様な人と現実で会ってみたい。
     

  • J.D.サリンジャーが1950年代半ばに発表した小説。ある対談本にてトークのネタに使われていたのですが、未読でしたので読んでみました。

    訳者が"信仰と文学性とが、メッセージと物語とが、渾然一体となって混じり合い、腑分けがほとんど不可能になっている"と語る通り、何が何だか分からないうちに読み終わっていました。

    なんというか、読んでいて非常に疲れます。「フラニー」はサリンジャーっぽい洗練されたややこしさみたいなものが感じられて普通に楽しめたのですが、「ズーイ」は特に後半、付き合いきれない思いでした。ただひたすらしゃべり続けるだけならともかく、本当にイライラさせられる節回し。「お願いだから、もうやめてくれない!」(P.240)というフラニーの叫びに激しく同意します。

    しかし読み終わってから、自分が実はフラニーにとても共感を覚えているということに気づきました。世の中にうんざりして宗教に傾倒し、精神的に非常に参っているという設定、まさに最近の自分に重なるところがあります。それから「『テサロニケ人への手紙』の中にある『休むことなく祈れ』という一節に触発された農夫が、その意味を知るべくロシア中を巡礼していくという内容の本」、なんかすごくおもしろそうじゃないですか。

    きっと、ズーイはその饒舌でもってわたしの痛いところをそこかしこと突き回っていたのでしょう。そしてラストシーンにおいてフラニーはどうやら救助されたものの、自分はどうにも救われなかった。この小説を楽しむだけの余裕が身に付くのは、まだまだ先なのでしょう。

  • グラス家の兄弟、フラニーとズーイ。フラニーは大学生でその年頃にありがちといえばありがちな「みんな馬鹿ばかり」という自尊心の高さや虚無感に悩まされ、宗教的な書物(仏教)に凝り、憂鬱に落ちていく。そんなフラニーを理屈と正論で攻めるにいいだけ攻めておいて、最後、鳥肌ものの理屈でフラニーを憂鬱の底から救い上げる。フロマートカを読んでいる最中にこれを読めて、なんというか幸せ。

  • 『フラニー』より
    「私にわかっているのは、ただこれだけ」とフラニーは言った。「もしあなたが詩人であれば、あなたは何か美しいことをしなくちゃならない。それを書き終えた時点で、あなたは何か美しいものを残していかなくちゃならない。そういうこと。でもあなたがさっき名前をあげた人たちは、そういう美しいものを何ひとつ、かけらも残してはいかない。彼らよりいくらかましな人たちなら、あなたの頭の中に入り込んで、そこに何かを残していくかもしれない。でも彼らがそうするからといって、何かの残し方を心得ているからといって、だからそれが詩であるとは限らない。それはただの、見事によくできた文法的垂れ流しかもしれない。表現がひどくてごめんなさい。でもマンリアスもエスポジートも、気の毒だけでみんなその類よ」(pp.36-37)

    「でもいちばんまずいのは、もしあなたがボヘミアンとか、そういったとんでもないものになったとしても、それはそれでまたしっかり画一化されちゃうということなの。ちょっと違った風にではあるけれど、やはりみんなと同じになってしまう」(p.46)

    「よくわからないんだけど、でもそもそも何か演じたいと思うこと自体が、なんていうのかしら、どうも悪趣味なことに見えてきたの。詰まるところみんなエゴを振りまいているだけじゃないかって」(p.48)

    「私はただ、溢れまくっているエゴにうんざりしているだけ。私自身のエゴに、みんなのエゴに。どこかに到達したい、何か立派なことを成し遂げたい、興味深い人間になりたい、そんなことを考えている人々に、私は辟易しているの。そういうのって私にはもう我慢できない。実に、実に。誰が何を言おうと、そんなのどうでもいいのよ」(p.51)

    「私は人と競争することを怖がっているわけじゃない。まったく逆のことなの。それがわからないの? 私は自分が競争心を抱くことを恐れているの。それが怖くてしかたないわけ。だから私は演劇科を辞めちゃったの。私はまわりの人たちの価値観を受け入れるように、ものすごくしっかり躾けられてきたから、そしてまた私は喝采を浴びるのが好きで、人々に褒めちぎられるのが好きだからって、それでいいってことにはならないのよ。そういうのが恥ずかしい。そういうのが耐えられない。自分をまったくの無名にしてしまえる勇気をもちあわせていないことに、うんざりしてしまうのよ。なにかしら人目を惹くことをしたいと望んでいる私自身や、あるいは他のみんなに、とにかくうんざりしてしまうの」(pp.52-53)



    『ズーイ』より
    「きわめてシンプルなロジックを持ち出すなら、僕の見る限り物質的な財宝――もっと言えば知的な財宝だって同じだ――に貪欲になる人間と、精神的な財宝に貪欲になる人間とのあいだには、違いはまるでない。君が言うとおり、財宝はあくまで財宝だよ。まったくの話さ。そして歴史に登場するすべての厭世的な聖人の九十パーセントまでは、僕に言わせれば、ただのもの欲し顔のつまらん連中だ。基本的には僕ら俗人と何ら変わるところはない」(pp.214-215)(フラニーの厭世思想に対するアンチテーゼ)

    「イエスを全的に愛することができずにいる。そのことは自分でもわかっているはずだ。君には生来、テーブルをひっくり返してまわるような神の子を愛することも理解することもできない。そして柔らかく無力な復活祭のひよこなんかより、神にとっては人間の方が、それがたとえどんな人間であれ――たとえタッパー教授のようなやつであれ――価値があると公言するような神の子を、君は生来愛することもできないんだ」(pp.237-238)
    (人の子は鳥より優れているというイエスの教えにフラニーは拒否反応を示している。フラニーにとって天才以外の人間は、価値ないものに見える... 続きを読む

  • 序編・フラニー、後編(本編?)・ズーイ。二本立て。
    野崎訳は読んだことないが、周囲の評判ではどちらかというと野崎訳が優勢。
    この作品は、人間に神様がいることで何が変わるか? を説いている。作品はある女の子が神への純粋な巡礼を目指すことから始まる。女の子の意識は頑なで、生ぐさを拒否し、まるで仏陀の出家に近い。当然、周囲は驚いて現世に呼び戻そうとする。
    結末としては、女の子のお兄さんが彼女に”神”を見せる。そして、神の存在の作用を説く。私は無神論者だけど、彼女の兄は私の目にも”神”の存在をまざまざと視覚化した。この作品を「バイブル」と呼び習わすファンが多いことにも納得させられる。

  • サリンジャーの作品と言えば「ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ)」と本作「フラニーとズーイ」だろう。
    有名なこの作品をようやく読んでみた。

    サリンジャーは翻訳者の“まえがき”や“あとがき”を作品に加えることを固く禁じていたらしく、この作品でも加えられていない。ただ、翻訳者である村上春樹さんが、時代の異なる作品を読むときにはある程度の説明がないと本当の意味で作品を楽しめないと考え、村上春樹さんの「こんなに面白い話だったんだ!」という小冊子のようなものが挿まれている。

    フラニーとズーイという兄妹の物語で、短いフラニー篇と長めのズーイ篇で構成されている。
    わたしは「キャッチャー・イン・ザ・ライ」よりも断然こちらの作品が面白かった。それは単に読んだ時期の問題で、もっと若いときに読んでいたらまた違ったことだろう。

    フラニー
    全体として会話が多く、文章のリズムがよく読みやすい。
    恋人と会って食事に出掛けるフラニーが、自分の周りに溢れるエゴに参ってしまう。
    「巡礼の旅」という本について、恐らく恋人は興味もなくたいして聞いてもいないのに、ベラベラと喋りつづけるフラニー。そして遂には体調まで崩して倒れてしまう。

    ズーイ
    家族の中で最も整った顔立ちのズーイを中心に家族のことが描かれている。描かれていると言っても作中では殆ど唐突といった感じで家族の名前が出てくるため、脚注がないとよくわからなくて困ることになっただろう。
    兄弟の中には自殺した兄や戦争で死んだ弟もおり、完全ではなくなった家族が感じられる。また成長し自分の考えを持つようになってわかる母親の不十分さを、フラニーもズーイも恐らくは他の兄弟も感じているだろうことも伺える。
    この家族の中でフラニーは知らないうちに、頭でっかちで他者を押し出し自分の中に閉じこもってしまった。
    そんなフラニーに対し、冗談を交え話しかけるズーイ。
    途中フラニーの読んでいた「巡礼の旅」についてから宗教の話になっていき、一時はどこに向かっているのかわからなくなる。しかし、最後にフラニーが電話を受ける場面がとても良かった。

    思った以上に愉しめた一冊だった。
    サリンジャーのこだわりは尊重しつつ、今、作品に出合う読者のために挿んでくれた村上春樹さんの言葉のおかげかもしれない。

  • 宗教的な内容について討議しているような場面もありましたが、サリンジャーが伝えたかったことはそこにはなく、自分はラストの場面に詰まっていた気がしました。純粋な人が、自分の存在価値に迷った時に読むといい本だと思います。ゾーイが言うように自分の存在の意味を他人に見出せるようになると、また一つ大人になれるんでしょう。周りからの賞賛が欲しく成果を求めて仕事をしている自分に気付かされました。シーモアが言うように、自分の周りの「太っちょおばさん」のために仕事ができるようになるといいんですね。そこまで自分は純粋な人間になれるか、また一つ自分が成長するための課題をもらった気がします。

  • 発売して数日経って借りて読みました。野崎さんのよりわかりやすく入りやすいような文体を意識したのが伝わるほど正直読みやすかった。おかげで自分は二人がなにをいいたいのか部分的に理解に苦しんでいたところが「ああ、なるほど」とすんなり入り込めたところがあって、理解が深まった部分では読んでよかったです。のだが!野崎さんのを最初に読んでしまったがためになのか、すべてが簡略化されたようにみえて、あのときの救いに満ちた感動は味わえませんでした。会話の言葉選びにいくつか村上春樹っぽさがでていたのがおもしろかったです

  • もちろん村上春樹訳だから即購入。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」もどうしてこれが推薦図書になるのだろうかと不思議だったが、この本も同じく、なんでまたこんな本を面白いと言って新訳を出すのか、それが第一印象でした。だいたい、村上春樹が好きな本だからということで、自分が何でも好きになれるかというとそういうわけでもない。でも、村上春樹を入り口として、世界を広げたいという思いもあって、翻訳本を読み、ジャズを聴き、ポールスチュアートのスーツを着る。マラソンはしようと思えないけれど。最初の数十ページはそういう気分で読み始めました。そして、お母さんとの会話をイライラしながらも読み通すと、そのあとのフラニーとズーイの会話が次第におもしろくなってくる。とくに話が展開するわけでは何ない。キリスト教の背景をもっと知っていると感じ方も違うのかもしれない。それでも、何となく深いところに持っていかれる。電話での会話。自分のことを評価されたズーイはいったいどう感じていたのだろう。まあ、大作ではないし、正面からドーンとぶつかってくることもないが、脇役くらいで、ズキズキと響くような作品だった。しかし、帯にある「世代を超えて読み継がれる‹永遠の小説›」というのはいかがなものか。

  • 『ライ麦畑…』は、色々なバージョンで3回は読んだと思うけど、こちらはこの訳が初めて。
    小さい頃から、「ワイズ・チャイルド」という番組でもてはやされたニューヨークに住むエリート7人兄弟姉妹の末娘で女子大生のフラニーと、すぐ上の美貌の兄ズーイ。
    周りのものごとが全てエゴに見えてしまい、死んでしまいたいほど落ち込んでしまうフラニーに対する、言葉の曲芸飛行が得意なズーイの、ややこしくて宗教臭い議論の連続は、フラニーじゃなくてもう んざりだけど、たまにハッと、ページに付箋を立てたくなるような事が書かれていたりする 。あとでジワジワ来る小説かもしれない。

    この、ズーイの語り口にサリンジャーの文体の素晴らしさが表れているのだけれど、それを上手く訳せている自信はない……と村上さんは言っています(笑)

  • 他責。

    この言葉を一番に思った。


    ファットレディは己であり
    キリストもそうだ。

  • しゃべりつづけることを考える。

    村上春樹の小説の数ページごとに地獄のミサワの挿絵を入れてゆく、というようなことを誰かがついったーでつぶやいていたのを忘れてしまう前にこの本を読みはじめてしまったということを先に告白しておこう。たぶんろくな感想は書けない。

    巡礼の祈りについて、田中小実昌の『ポロポロ』を思い出した。じぶんが信仰にいるのか、それともそうではないとこにいるのか、わからない、というようなスタンスそのものが文章になった希有な小説だったと記憶しているけれど、この本もそれに近いところがあるのかな、と思う。ってサリンジャーのほうが先輩だわいね。三人称であるところでとてもうまく「はぐらかされている」印象。書いている人間はどこにいるのだ、と、かくれんぼをしているような気分になるのがこのひとの書く小説には多いような気がする。村上春樹訳だからそう思うのかもしれない。

    ほらろくな感想は書けなかった。しかしなんだ、村上春樹の小説に地獄のミサワの挿絵(分量多い目)、いいんじゃないだろうか。

  • サリンジャーに夢中になったのは10代の頃。
    それから10年以上の月日が流れた。
    読んだ当時の記憶はおぼろげで、自分の周りの人間が「エゴだらけ」と
    嘆き悲しむフラニーに共感したことと、宗教的な議論を難しく感じた、
    といううっすらとした感触が残るのみ。
    今、改めて村上春樹訳の本書を読むと、自分が10年の時を経て、大人
    のエゴに憤慨する若者ではなく、清濁合わせ飲んで生きる大人の側に
    立っているのだ、と実感した。
    また、サリンジャーは若者にも大人にも優しい目を注いでいることに
    気付かされた。
    村上春樹訳は会話のウィットに富んだリズム感がいきいきと描き出され、
    引き込まれる。

  • 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に続く村上春樹のサリンジャー新訳シリーズ。

    1990年代に入ってからの村上春樹の作品のテーマの1つは、人間の背後にある「システム」のストレンジさを描き出す点にあると僕は思っていて、この「フラニーとズーイ」から感じたのが、まさにその点だった。本当に戦うべきなのは、「システム」を表象する何かなのではなく、その背後に隠れている「システム」そのものであるというメッセージがこの訳では強まっているように思う。


    「もし君がその〈システム〉に戦いを挑むなら、君は育ちの良い知性のある娘として、相手を撃たなくちゃいけない。なぜなら敵はそこにいるからだ。何も彼の髪型やらネクタイが気に入らないから戦うわけじゃないだろう。」
    (本書p234より引用)

  • もっと極端な話かと勝手に思い込んでいたけど、普通に面白く普通にいい話だった。妹思いで、親思いで、兄さん思いな(だけど、いまいち相手にはそれが伝わっていない?)ズーイにグッときた。フラニーは……自分の部屋に閉じこもりゃいいものを、家族に丸見えの居間で落ち込むあたり、つっぱってるわりに甘えくさっていて、まあ、そこがいとおしくもあるんだけど。村上さんも解説で書いてるように、昔読んだときより面白さに気づけたって声をよく聞くけど、たぶん若い頃は誰もがフラニーで、自分しか見えてなかったからかな?
    というと、気になるのは、歳とってから良さがわかるような作品なのに、サリンジャーが若者のバイブルみたいにありがたがられていたのはなぜ?ってことだけれども、それはともかくとして、シーモアの物語もぜひ読みたくなりました。

  • 学生の頃に野崎訳を読んで以来の再読。今から50年近く前に書かれた作品なので、どうしても古さを感じる箇所があり、逆に今と変わらない若者の本質、世間の胡散臭さを感じる箇所の両方があって興味深く読んだ。
    村上訳の「フラニー」はイマイチな感じがしたが「ズーイ」は意味の通りが良くなり、あえて英語をそのまま日本語に置き換えたかのようなドライな文章がいい効果を出している。
    そしてズーイの(少々乱暴な形で露出してしまう)家族への愛が胸にしみる。彼よりもチャーミングに「I love you」を他の言葉で言い換えることのできるキャラクターを他に知らない。

  • この小説の刊行は1961年。アメリカで大きな価値の転換が起り、政治的にも、文化的にもカウンターカルチャーが続出していた頃だ。本書の前半には特にこうしたことの反映が顕著である。大統領選挙、ライフ誌、その他諸々の「ノーマルなもの」(それを代表して体現するのがレーンだ)への反抗が語られる。物語の後半は、もっぱらズーイの議論が展開されるのだが、その到達点が精神的な達観にあるとすれば、ズーイの執拗さと我意の強さは、いささか辟易するところ。思想的には臨済禅の公案を思わせるが、行動からは、むしろチベット仏教に近そうだ。

  • ずっと前に読んだけど、村上春樹が新訳を出したからまた読み直した。

    自分のことをどうしようもない人間だと思ったり、言葉が過ぎて自己嫌悪になったり、ぐちゃぐちゃになるところが人間らしい。

    フラニーがレーンとデート中に何回か席を立って本を開いているところ印象に残っている。レーンが何回も「何を読んでるの」って聞いてるのになかなか答えないのもなんかわくわくした。

    サリンジャーは解説とか書いたらだめな人らしくて、冊子でエッセイが入ってる。

  • 祝新訳!文庫化!

    新潮社のPR
    「東部の名門の大学に通うグラス家の美しい末娘フラニーと俳優で五歳年上の兄ズーイ。物語は登場人物たちの都会的な会話に溢れ、深い隠喩に満ちている。エゴだらけの世界に欺瞞を覚え小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニー……ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で、自分の殻に閉じこもる妹を救い出す。ナイーヴで優しい魂を持ったサリンジャー文学の傑作。――村上春樹による新訳!」
    http://www.shinchosha.co.jp/blog/special/205704.html

  • 正直、自分にはまだ良さがわかってない!また少し成長してから読みたい本!

全168件中 1 - 25件を表示

フラニーとズーイ (新潮文庫)を本棚に「いま読んでる」で登録しているひと

フラニーとズーイ (新潮文庫)を本棚に「読み終わった」で登録しているひと

フラニーとズーイ (新潮文庫)の作品紹介

名門女子大に通うグラス家の美しい末娘フラニーと俳優で五歳年上の兄ズーイ。物語は登場人物たちの都会的な会話に溢れ、深い隠喩に満ちている。エゴだらけの世界に欺瞞を覚え小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニー……ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で、自分の殻に閉じこもる妹を救い出す。ナイーヴで優しい魂を持ったサリンジャー文学の傑作。――村上春樹による新訳!

ツイートする