フラニーとズーイ (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102057049

作品紹介・あらすじ

名門女子大に通うグラス家の美しい末娘フラニーと俳優で五歳年上の兄ズーイ。物語は登場人物たちの都会的な会話に溢れ、深い隠喩に満ちている。エゴだらけの世界に欺瞞を覚え小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニー……ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で、自分の殻に閉じこもる妹を救い出す。ナイーヴで優しい魂を持ったサリンジャー文学の傑作。――村上春樹による新訳!

感想・レビュー・書評

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  • 大切にしたいと言葉がたくさんありました。
    中でもこの言葉が一番好きです。

    「世の中には素敵なことがちゃんとあるんだ。紛れもなく素敵なことがね。なのに僕らはみんな愚かにも、どんどん脇道に逸れていく。そしていつもいつも、まわりで起こるすべてのものごとを僕らのくだらないちっぽけなエゴに引き寄せちまうんだ。」

  • フラニーが持ち歩いていた1冊の本の話が印象的だった。一番面白かったのは、恋人のレーンの発言を無視して、フラニーがひたすらその本がどんな本なのか話している場面。

    ズーイの語りが長く、言い回しのせいか、母とのやりとりでは要所要所はわかるものの、大分頭に入ってこなかった。なんとなく言いたいことはわかるものの、太ったおばさんが実は誰なのか?など、ネット上の解説を読んで初めて納得できるところがあった。

    『巡礼は旅を続ける』
    『巡礼の道』(続編)
    p149

    「イエスの祈りについて自分がやっていることを、君はどう考えているんだ?」p212
    という確信的な質問をフラニーにするズーイ。
    そして「あなたが言いたいのは、私はイエスの祈りから何かを得たいと思っているということね。〜そんなことくらいわかってるわよ!やれやれ、私のことをそんな馬鹿だと思っているわけ?」と興奮しだすフラニー。
    その後、ズーイの語りが長すぎる笑
    最後まで口出ししないで、のようなことを言いながら話が長すぎるし興奮してきたしでフラニーがもうやめて!と言っても、すぐ終わるって。と言いながらまだ続ける笑
    フラニーと共に、ズーイの語りにうんざりしながら読み進める。

    「この家族は誰もかれもが自分のろくでもない宗教を、それぞれ違うパッケージで身につけている」p221

  • 不器用ではあるが、優しいズーイが魅力的。
    ユーモアを交えた対話で、何としてもフラニーを救おうとする家族愛が、ひしひしと伝わってきた。
    登場人物、とりわけズーイのお洒落な言い回しに憧れる!

  • エゴだらけの社会に辟易し宗教本にはまってしまった女子大生のフラニーに対して、兄ゾーイが救いの手を差しのべるという話。『フラニー』と『ゾーイ』というタイトルの2編からなる連作小説となっている。1編『フラニー』ではレストランで彼氏との会話、2編『ゾーイ』では自宅でゾーイとフラニーとの会話、という場面の切り替わりがほぼなく、1対1の会話でほぼ成り立っている一風変わった本である。んー正直、フラニーの厭世的な気持ちはなんとなくわかるが、ゾーイの長ったらしい説教で心を病んだ妹を救えるのだろうかと疑問が残る。

  • 初めて読んだサリンジャーの作品、そしてアメリカ文学。なんというか洗練されていて理解が難しかったが、なんか心に残る作品でした。村上春樹訳で、村上春樹風味な訳し方もありハルキストとしては、読んでて楽しかったです。アメリカ文学を読むキッカケにもなりましたし、もっと読んでみたいと感じました。

  • なんとなくイメージしていたのとは違い、大きな動きのない物語。
    簡単に言えば、今で言う「中2病」のような状態に陥ったフラニー。救い上げようとする兄のズーイ。読んでみるとズーイも中々な病み具合ではあると思うし、心配する母親だって若干心配な状態だ。ただ、大人になるまでには必ず通る道で、むしろどのように浮き上がっていくのか?引き上げてもらうのか、自力で上がってこられるのかそこに個性や心の強さ・弱さが出ている気がする。

  • 若いころに野崎孝訳で親しんだ世代です。翻訳については、野崎訳派の方による良レビューがすでにあるので、内容に関することをちょっと書き留めておきたいと思います。

    はじめてこの小説を読んだときから、多少は宗教のことをあれこれ勉強してきた身として、サリンジャーは東洋の宗教にも強い関心があったわけだけど、キリスト教神学についても、かなりいろいろ勉強して考察していたに違いない、という印象を抱いた。

    たとえば、「なあ、ここは神の宇宙であって、君の宇宙じゃないんだよ。そして何がエゴで何がエゴでないかを最終的に決めるのは、神様なんだよ」(240頁)というズーイーの言葉なんかは、正統カルヴィニズムのいわゆる予定説を、現代的にずっとソフトに表現したもののようにも読める。

    また、クライマックスで登場する「太ったおばさん」というのは、キリストの受肉の教説を、これまた現代的なイメージを使って語りなおしたものだろう。

    こういうことについては、もうアウグスティヌスとかの時代からずうっと、いろんな教父たちや神学者たちや哲学者たちや文学者たちが論じたり語ったりしてきたので、単純に「受肉とはこういうものです」とは言えないものなのだけど、いまのところキリストの受肉についての、もっとも(よい意味で)単純で象徴的意味の豊かな表現だと私が思うのは、神学者のカール・バルトによる表現で、それは、キリストとは私たちが知っているこの世界と、私たちが知らない神の世界とを切断する、切断線上の一点なのである、というもの。

    ところで、キリスト教においてイエスという人物が、なぜあれほどの重要性をもつかというのは、イエスその人自身の言行がもつ意味が重要だから、というだけではなくて、キリストと神との関係を神学的に考え抜いて体系化したパウロの教説にも理由があって、そのあたりの話もいろいろ難しいのだけど、でも根本的には、結局人は「神性」というものを、「肉」をもつ者を通してしか予感できない、というのが一番の理由だろうと思う。

    サリンジャーが描いている現代の世界は、キリストを通して、あるいは何を通しても、人がバルトの言う「切断線」を見なくなってしまっている世界だ。フラニーにも、この切断線が見えていない。だから、「鼻の先に神聖なるチキンスープを差し出されても気がつかない」(283頁)。言うまでもなく、切断線は「接線」でもある。

    「太ったおばさん」は、そういう現代の世界に、ふたたび切断線を浮かび上がらせるものとして導入されている。何のために靴を磨くのか。何のために演技するのか。それはつまり、何のために規律ある生活をするのか、何のために仕事をするのか、ということであり、さらに、何のために生活と人を愛するのか、何のために生きるのか、ということでもある。

    それがわかると、この世の「愚劣さ」のせいでヘコんでいる暇はないことがわかるのだ。

  •  別に、村上春樹の訳だからいいんじゃなくて、もともと、けっさくなんですよね、きっと。でも、まあ、春樹が訳したから読み直して気付いたわけで、やっぱり、村上春樹さまさまということでしょうかね。

  • グラース家七人兄弟の末の妹と弟、学生であるフラニーと俳優であるズーイの話。
    フラニーの章では、レストラン(知的にとんがった学生たちに人気)の食事をはさんで、とある一冊の本についての宗教談義に興奮したフラニーと、彼氏のレーンが会話をする場面が大半となる。
    熱に浮かされたような状態のフラニーの相手をするレーンは大変だな。

    ズーイの章では、そんなフラニーの心身不調を心配した母親が、妹の目を覚まさせるよう兄であるズーイに頼む。
    小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニーと、殻に籠るフラニーを助けようとするズーイとの白熱した議論にはとにかく圧倒された。

    「君は大学のキャンパスを見渡して、世界を、政治を見渡して、夏期公演を一シーズンだけ見渡して、出来の悪い大学生たちの会話を耳にして、あっさりこう思いこんでしまうんだ。すべてはエゴだ、エゴだ、エゴだ。そしてまともな知性を備えた女の子がやるべきことは、そのへんにごろんと寝ころんで、頭を剃って、イエスの祈りを唱え、自分をほのぼのと幸福な気分にさせてくれるような、お手軽神秘体験を神様に求めることなんだと」

    「もしおまえがイエスの祈りを唱えるなら、おまえは少なくともそれをイエスに向かって唱えなくちゃいけないんだよ。聖フランチェスコやシーモアやハイジのおじいさんをひとまとめにしたものに向かってじゃなくてね。イエスを頭に描き、彼だけを思い浮かべて、お祈りは口にされなくちゃならない。そして彼の姿は、おまえがこうあってほしいと思う彼の姿じゃなく、ありのままのものじゃなくちゃならない。おまえは事実ってものにまるで直面していないよ。そういう事実に目を向けないという間違った姿勢がそもそも、今回の心の乱れをおまえにもたらしているものなんだよ。そしてそうしている限り、おまえはそこから抜け出せないんじゃないかね」

    ズーイの言葉は厳しい。
    もうやめてあげて!と読者である私が止めに入りたくなるほど追い詰められるフラニーが気の毒になってしまった。フラニー、みんなの妹。シーモアに会いたい、という小さな願いがもう決して叶わないことが可哀想だった。
    でも最後の最後、ズーイがシーモアから教わったことによってフラニーを救い出すところは真に感動する。
    シーモアは、『ワイズ・チャイルド』に出演するズーイに「太ったおばさんのために靴を磨くんだ」と言った。シーモア的な表情を顔を浮かべて。
    太ったおばさんというのが実は誰なのか。フラニーとズーイは議論の果てで、その正体にとうとうたどり着いた。
    私には気づくことができるだろうか?私は、太ったおばさんのためになにができるだろう。

  • 最初、「フラニー」の章を読んでいて、んー、この話どこに行ってしまうんかな、とやや不安に。
    しかし、「ズーイ」の章を読むほど、不安がハラハラドキドキ感に変わって、楽しかった読後。

    俗物とか、高尚とか、救いとか、そういう崇高な話を引っくるめてポーンと横に置いてみる。
    (いや、多分、そういう系の話はきっと誰かが既にしてくれているはずだから)

    大学生にもなって厨二病をこじらせちゃったことを自覚もしているフラニーちゃんと、コイツ俺に似てんなーと思ってるからこそ、その醜態をいつまでも身近に晒さんといてくれ!と願う兄ズーイくんのお話。

    世界の矮小さを知っている自分が、ストイックに魔法の言葉を唱えたら?

    そんなフラニーちゃんに、いやいや、矮小と見下しているシステムから目を逸らしたって、魔法の国なんて行けないから、救いとかないから、なんならイエス様も矮小なとこあるからーっ、と木っ端微塵にしちゃうズーイ。

    分かるー。
    身内だから、もう見ていられない感じ。

    そんなズーイに、私はシーモアお兄ちゃんと話したいの!アンタなんかと話したくないの!と拒絶するフラニーちゃん。

    母も妹も、死んでしまった兄、今はここにいない兄をぼんやり見つめている。
    それを面白くないと思いながらも、ズーイ自身の言葉ではフラニーに届かないことも知る。
    そこで、一つ間をおいて、苦しみながらも彼らに「なりきる」ズーイのくだりが、ここのスピードがすごくゆっくりする所が、すごく好きだ。

    こんな風に言いたいんじゃない、こういうことでもない、ああでも、伝えたいソレは確かにあって、ソレはきっと君には伝わるはずなんだよ。

    ズーイがどんどんシティーボーイ?から、お兄ちゃんになっていくのに、なんかじーんときた。

  • 2017年61冊目。(再読)

    特にフラニーの言動・仕草から、いちいち色々勘ぐって読み込んでしまう。
    心が狭い・エゴむき出しの自分に気がついてしまった時に感じる罪悪感。
    それはむしろ、罪の意識を覚えることで浅はかな自分を相殺し、自分を高貴な立場に持っていこうとするための戦略にも思える。
    訳知り顔で得意気になっているエゴ剥き出しな人たちを許せず、嫌気がさし、一般化・画一化して蹴散らしたくなってしまう衝動は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデンに似ているな〜と思ったり。
    そういう劣等感の裏返しで出てくる周囲への反骨心のようなものの描写が、サリンジャーの小説の中でとても好き。
    ===================
    2017年21冊目。(初読:2017年5月3日)

    出来事が進んでいくというよりも、かなり対話的な小説だったが、特に後半の「ズーイ」の章に、心に残る言葉がいくつもあった。
    感情的に共感ができたのは、妹のフラニー。
    世の中のちょっとした違和感を極度に一般化し、「すべてを一緒くたにするような攻撃」をしてしまう。
    自分が「何者か」でないと耐えられない性格が、アイデンティティの確保のために物事を極論で整理し、そこに安定を見出しているのではないか、と感じる。
    その極論のせいで見るもの全てが卑しいものに見えてしまう。
    そんな自分をわかっていながら変えられない辛さを抱え、自分への嫌悪に精神を壊していく。

    自己破壊的なフラニーを救うために、ズーイはいくつもの正論を投げかけるが、正論であるがゆえか、フラニーははね退け続ける。
    人に説得されたくない、自分が考えていない人間だと思われたくない、そんな気持ちが見え隠れする。
    曖昧を許せない思慮深さは、時に危険。
    ズーイの言うように、より大きな叡智に繋がっていない知識は、むしろ自分を追い詰めてしまうことがある。
    小林秀雄の言葉を思い出す。

    「自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、最も逆説的な自己陶酔の形式だ」

    力いっぱい崩れることができるほどのエネルギーを持っているのなら、それを自分をしっかり保つことに使う。
    ズーイのこの言葉にとても感銘を受ける。

  • この世界では、誰もがエゴを持っている。それは聖人も同じだった。自分の憎む対象は自分の心の中にも居る、その理屈に愛憎が表裏一体だと自ずと気づかされる。
    今一番、誰にも救いになりえる物語だと思う。

  • 蛹の家には、インターホンなどという気の利いたものはない。鍵もかかっていない。葉月はいつも、彼の家の玄関のドアを三回ノックし、返事を待たずに勝手に入る。
    「おはようございますー。……起きてます?」
    蛹は、居間にもキッチンにもいなかった。ベッドルームにもいない。ただ、ベッドの上に村上春樹訳の「フラニーとズーイ」が投げ出してあったので、それを手に取り、浴室に足を向けた。

    「……影響されやすいんですから」

    蛹は、湯船に浸かったまま煙草を吸っていた。
    湯気には、彼が吸っている細いメンソール煙草の匂いが混じっていた。灰皿の代わりに缶ビールの空き缶が置かれていたが、その周りに灰が散らばっていて、灰皿としての役割を正しく果たしているようには見えなかった。
    蛹は何か考えごとをしているようだったが、葉月が戸口に立っていることに気づいて視線を向けた。
    「いいアイディアだと思ったんだ。換気扇が回っているから煙は籠らないし、うっかり考え事に没頭しても、ここなら火事にはならないだろ」
    それを聞きながら、葉月は靴下を脱ぎ、ユニクロのジーンズを膝下までたくしあげると、浴室に足を踏み入れた。
    「どうして、急にサリンジャーなんて読んでたんですか?」
    葉月は、寝室で見つけた本を掲げてみせた。
    「本屋で見かけたから」
    「はあ、そうですか……」
    葉月はしゃがみこみ、値踏みするようにぱらぱらとページを捲った。
    「こういうのって、蛹さんも考えたりしました?」
    葉月は、本に目を落としたまま、問う。蛹は、質問の意図がわからなかったというように、わざとらしく首を傾げてみせた。
    「ええと、それは、どういう意味で? ちなみに、風呂で煙草を吸うのは今やっているけど」
    「ああ、まあ、楽しそうで何よりです……じゃなくて」
    蛹は冗談だと言うように、わずかに笑った。
    「周りがみんなバカに見えた時期があったかってこと?」
    「そうそう。からかわないでくださいよ……」
    「ありそうに見える?」
    「うーん、なんていうか、あなたは色々なものに失望しているように見えるから」
    蛹は、今度は声を出して笑った。そして、違う、というように、煙草を持った手を振ってみせた。
    「フラニーも、ズーイも、腹を立てている。世の中の色々なものに。バカで愚かでみっともない、色々なものにね。期待しているんだよ、期待していなければ腹が立つこともない。もっと知的で、美しくて、よいものであるべきだってね。それが世界の正しいあり方で、現状が間違っていると感じる。フラニーやズーイが感じているのは、そういうことじゃないのかな」
    葉月はしゃがみこみ、膝に両肘を置いて、頬杖をついた。
    そして、よく分からないというように、わずかに首を傾げた。
    「どうしようもなく凡庸で、醜くて、下らないとしても、結局はそれが、今ある姿だろ。それが理想と違っていても、理想に近づこうとした結果であることは間違いない。だからまあ、……諦めるしかないんじゃないのかな」
    「あ、そういう風に着地するんですね」
    「うん」
    それから、蛹は、これが最後と言って、新しい煙草に火を点けた。
    「……ところで、そろそろ逆上せてしまいそうだから、これが吸い終わる前に、少し外してくれないかな」
    「え? 上がればいいんじゃないですか?」
    「あ、うん、君がいいなら、そうさせてもらうけど……」

  • 身近な出来事や人に神様(人のあたたかみも)を見出だすことと、神様の用意した舞台の上で自己表現することは、本当に両立できるのだろうか。読み返して、フラニーがひかれている詩人リルケやエミリ・ディキンソンを、単なる「『フラニーとズーイ』の中に出てくる固有名詞」ではなく、読んでいきたい詩人として考えているわたしは、以前『フラニーとズーイ』を読んだときとは受け取りかたが変わっていた。

    新訳をした村上春樹のエッセイより引用◆今日我々がこの『フラニーとズーイ』を読むとき、おそらく読者の大部分はそこにある宗教的言説を、実践的な導きの方法としてではなく、むしろひとつの歴史的引用として、一種の精神的メタファーとして処理しながら読み進むことになるのではないかと思う。◆
    →キリスト教を、すべて素直に受け入れて、日々の導きとするのは、いまだに難しいけれども、キリスト教はわたしにとってずっと、「精神的なメタファー」ではあると思う。
    2017.8.14




    以前のメモより感想。
    読み終わって何故か、「手仕事は手と心が直接繋がっている」という柳宗悦の言葉を思い出した。それから梨木香歩の『海うそ』や『からくりからくさ』なども。書かれ方(表面の形式)はそれぞれ違うので、どうして似てると感じたかもう少し考えたい。兄妹の会話中でズーイがフラニーに、実際的なこと(「実利的に役に立つこと」ではなく。例えばフラニーの好きな詩人を例にして)と、絶えず祈ることは両立出来るのでは、と言う箇所があります。そのあたりや、兄弟たちの母が毎日作ってくれるスープこそ祈りなのでは、というあたりで、私は手仕事と祈りを結びつける連想をしたのかもしれないです。
     石を磨くのも、織物をするのも、「反復」で、時間もかかりますし、作業なのにそこに色々な思念が入る。それで、織物を題材にした、『からくりからくさ』を連想したのかもしれない。2014.6.18

  • 『フラニー』より
    「私にわかっているのは、ただこれだけ」とフラニーは言った。「もしあなたが詩人であれば、あなたは何か美しいことをしなくちゃならない。それを書き終えた時点で、あなたは何か美しいものを残していかなくちゃならない。そういうこと。でもあなたがさっき名前をあげた人たちは、そういう美しいものを何ひとつ、かけらも残してはいかない。彼らよりいくらかましな人たちなら、あなたの頭の中に入り込んで、そこに何かを残していくかもしれない。でも彼らがそうするからといって、何かの残し方を心得ているからといって、だからそれが詩であるとは限らない。それはただの、見事によくできた文法的垂れ流しかもしれない。表現がひどくてごめんなさい。でもマンリアスもエスポジートも、気の毒だけでみんなその類よ」(pp.36-37)

    「でもいちばんまずいのは、もしあなたがボヘミアンとか、そういったとんでもないものになったとしても、それはそれでまたしっかり画一化されちゃうということなの。ちょっと違った風にではあるけれど、やはりみんなと同じになってしまう」(p.46)

    「よくわからないんだけど、でもそもそも何か演じたいと思うこと自体が、なんていうのかしら、どうも悪趣味なことに見えてきたの。詰まるところみんなエゴを振りまいているだけじゃないかって」(p.48)

    「私はただ、溢れまくっているエゴにうんざりしているだけ。私自身のエゴに、みんなのエゴに。どこかに到達したい、何か立派なことを成し遂げたい、興味深い人間になりたい、そんなことを考えている人々に、私は辟易しているの。そういうのって私にはもう我慢できない。実に、実に。誰が何を言おうと、そんなのどうでもいいのよ」(p.51)

    「私は人と競争することを怖がっているわけじゃない。まったく逆のことなの。それがわからないの? 私は自分が競争心を抱くことを恐れているの。それが怖くてしかたないわけ。だから私は演劇科を辞めちゃったの。私はまわりの人たちの価値観を受け入れるように、ものすごくしっかり躾けられてきたから、そしてまた私は喝采を浴びるのが好きで、人々に褒めちぎられるのが好きだからって、それでいいってことにはならないのよ。そういうのが恥ずかしい。そういうのが耐えられない。自分をまったくの無名にしてしまえる勇気をもちあわせていないことに、うんざりしてしまうのよ。なにかしら人目を惹くことをしたいと望んでいる私自身や、あるいは他のみんなに、とにかくうんざりしてしまうの」(pp.52-53)



    『ズーイ』より
    「きわめてシンプルなロジックを持ち出すなら、僕の見る限り物質的な財宝――もっと言えば知的な財宝だって同じだ――に貪欲になる人間と、精神的な財宝に貪欲になる人間とのあいだには、違いはまるでない。君が言うとおり、財宝はあくまで財宝だよ。まったくの話さ。そして歴史に登場するすべての厭世的な聖人の九十パーセントまでは、僕に言わせれば、ただのもの欲し顔のつまらん連中だ。基本的には僕ら俗人と何ら変わるところはない」(pp.214-215)(フラニーの厭世思想に対するアンチテーゼ)

    「イエスを全的に愛することができずにいる。そのことは自分でもわかっているはずだ。君には生来、テーブルをひっくり返してまわるような神の子を愛することも理解することもできない。そして柔らかく無力な復活祭のひよこなんかより、神にとっては人間の方が、それがたとえどんな人間であれ――たとえタッパー教授のようなやつであれ――価値があると公言するような神の子を、君は生来愛することもできないんだ」(pp.237-238)
    (人の子は鳥より優れているというイエスの教えにフラニーは拒否反応を示している。フラニーにとって天才以外の人間は、価値ないものに見えるからだ)

    「君はエゴについて語り続けている。しかしね、何がエゴであって何がエゴでないか、それを決めるなんて、まったくの話、キリストその人でもなきゃできないことなんだよ。なあ、ここは神の宇宙であって、君の宇宙じゃないんだよ。そして何がエゴで何がエゴでないかを最終的に決めるのは、神様なんだよ。君の大好きなエピクテトスはどうだい? あるいは君の大好きなエミリー・ディッキンソンはどうだい? 君はエミリーが詩作の衝動を感じるたびに、そこに座り込んで、そのいやらしいエゴに満ちた衝動がどこかに去ってしまうまでお祈りを唱えていたらよかったのに、と思うのか? いや、もちろんそんなことを思うわけがない! しかし君は、お友だちのタッパー教授のエゴなんてどこかに消えてしまえばいいと思っている。それは違うものなんだと思っている。たしかにまあ、そのとおりかもしれない。違うものなのかもしれないよ。しかしエゴについて十羽一絡げにわめき立てるのはやめてもらいたい。僕の意見を僭越ながら言わせてもらえるなら、この世界のいやらしさの半分くらいは、自分たちの本物のエゴを用いていない人々によって生み出されているんだ。そのタッパー教授からしてそうだ。君が彼について話すことを聞いている限りでは、彼が使っているのは、彼のエゴだと君が考えているものは、実はエゴなんかではぜんぜんないという方に、僕はほとんどすべてを賭けてもいい。それは違ったものなんだ。もっとずっと汚らしく、浅いところにある代物だ。(…)たとえばルサージがそうだ。僕の友人であり、雇用主であり、マディソン・アヴェニューの精華とも言うべき男だ。君は彼のエゴが、彼をテレビ業界に運び込んだと思うかい? まさかまさか。彼にはエゴなんかもうありやしない。もともとそんなものがあったとしてだけどね。彼はそれをばらばらにして趣味に変えてしまったんだ。僕のしっているだけでも、彼は三つの趣味を持っている。そしてその三つとも、彼の家の一万ドルもかけた地下室のでかい工作室に揃えられた電動工具やら万力やら、その他あれこれの道具類と関係している。自分のエゴを、本物のエゴをしっかり使っている人間には、趣味のために割く時間なんてありゃしないよ」(pp.241-242)(ズーイはフラニーの言うエゴは、エゴでなく趣味だと言う。そしてフラニーの言う天才たちは、本物のエゴを発揮していると言う)

    「もし君が宗教的な生活を目指しているのであれば、君は今すぐ知るべきだ。この家族の中で今も続けられている宗教的行為を、君は一つ残らず見逃してしまっているってことを。誰かが持ってきてくれた神聖なるチキンスープを飲もうというだけの分別さえ、君には具わっていない。この気違い屋敷(マッドハウス)の中で、ベッシーがみんなのところに持ち運んで行くチキンスープこそが、まさにそれなんだ。だから教えてくれ。僕に教えてくれ。君が外に出て行って、この広い世界のどこかにいる導き手を――グルだか聖者だかそんなものを――探しあてて、その人物に正しいイエスの祈りの唱え方を教えてもらおうとしたって、それがいったい何の役に立つだろう? だいたいもし君がそういう資格を持つ聖人に出会ったとして、君はどうやってその相手を本物だと見分けるんだ? 鼻の先に神聖なるチキンスープを差し出されても気がつかないっていうのに? それについて君はどう思うんだ?」(pp.281-282)(誰もが神性を持っている、フラニーが軽蔑しているような俗物や母親のベッシーでさえも。その神性は、ただチキンスープを配るという行為の中でも発揮される。多くの人はそこに宗教的行為を感じていないのだが)

    「君は今から終末の日に至るまで、イエスの祈りを延々と唱え続けることができる。しかしもし君が宗教的生活において唯一肝要なことは『脱離』なのだと認識しなかったら、君はただの一センチだって前には進めないはずだ。脱離だよ。そこにはただ脱離あるのみなんだ。欲望を持たないこと。『渇望を棚に上げてしまうこと』。そもそもこの欲望という代物こそが、もし君が本当のことを知りたければ教えてやるけど、俳優を俳優たらしめるものなんだ。君はどうして、既に自分が知っていることを、わざわざ僕の口から言わせたりするんだ? どこかの地点で――もしそう思いたければどこかの前世で――君は俳優になりたいとう渇望ばかりでなく、優れた俳優になりたいという渇望を抱いたんだ。君は今そいつに絡めとられてしまっている。君は君自身の渇望のもたらした結果を単純にどこかに放り出して、あっさり退出することなんてできないんだ。原因と結果だよ。なあ、原因があり、結果があるんだ。君に今できるただひとつのことは、唯一の宗教的行為は、演技をすることだ。もし君がそう望むのなら、神のために演技をすることだ。もし君がそう望むのなら、神の俳優になることだ。それより美しいことがあるだろうか? もし君がそう望むのなら、少なくとも君はそれを試してみることができる。試してみることには何の不都合もない」。(pp.285-286)(現代人が囚われいるエゴ、欲望、他者にどう見られているかの問題から離れるためには、人の賞賛を求める俳優になるのでなく、ただ神のために演技をすることだという指摘)

    「俳優である限り君は演技をすることを要求されているんだという事実すら、君がいまだにわかっていないのだとしたら、こんなことを話しまくっていったい何の意味があるっていうんだ?」(p.287)

    「とにかく靴は磨くんだ、と彼は言った。おまえは太ったおばさん(ファット・レディー)のために靴を磨くんだよ、彼はそう言った。何のことを言っているのか、僕には理解できなかったけど、彼は例のあのきわめてシーモア的な表情を顔に浮かべていたので、僕は言われたとおりにした。太ったおばさんのっていうのが何を意味するのか、彼は説明してくれなかったけど、それ以来番組に出るたびに、とにかく太ったおばさんのためにせっせと靴を磨いた。君と二人であの番組に出ているあいだ、ずっとそうしていた。君は覚えているかな? 磨き忘れたことはたぶん二回くらいしかないと思う。そしてその太ったおばさんの姿が、僕の頭の中にものすごくくっきりと、鮮やかに形作られた。そのおばさんはね、一日中ポーチに座って、蠅を叩きながら、朝から晩まで馬鹿でかい音でラジオをつけっぱなしにしているんだ。その暑さたるやすさまじいもので、彼女はたぶん癌を抱えている。そして――どう言えばいいんだろう。とにかく、シーモアがどうしてあの番組に出る前に僕に靴を磨かせたのか、はっきりとわかった気がした。それは筋のとおったことだった」
     フラニーは立ち上がっていた。彼女は顔に当てていた手を離し、両手で受話器を持った。「彼は私にもそう言った」と彼女は電話に向かっていった。「太ったおばさんのために、何か愉快なことを言うんだよと、シーモアは一度言ったことがある」。彼女は片手を受話器から離し、少しのあいだ頭のてっぺんに置いた。それまからまた両手で受話器を握った。「彼女がポーチに座っている姿を、私は思い浮かべたことはなかった。ただねものすごく――なんていうか――ものすごく太い足を思い浮かべた。静脈が走りまくっているやつ。そしてすさまじい籐椅子に腰掛けているの。でも彼女はやはり癌を抱えていて、そしてやはり一日中ラジオをすごい音でつけっぱなしにしているの! 私のもおんなじだった!」
    「うん、うん、わかった。ひとこと僕に言わせてくれないか……ねえ、聞いている?」
     フラニーは極端なまでに集中した顔で肯いた。
    「俳優がどこで演技をしようが、そんなことは僕にはどうでもいい。それが夏期公演であろうが、ラジオであろうが、テレビであろうが、君が想像できるかぎり最高にファッショナブルで、最高に栄養がいきわたってて、最高にゴージャスに日焼けした観客で埋まったブロードウェイの劇場であろうが。でも僕は君にひとつとんでもない秘密を打ち明けよう――ねえ、僕の話を聞いているかい? そこにはね、シーモアの言う太ったおばさんじゃない人間なんて、誰一人いないんだよ。そこにはあのタッパー教授さえ含まれているんだ。彼と同類のお仲間もひとまとめにしてね。シーモアの言うところの太ったおばさんじゃない人間なんて、どこにもいやしないんだよ。君にはそれがわからないのか? その秘密が君にはまだわかっていないのかい? そして君にはまだわかっていないのかい――なあ、よく聞いてくれよ――その太ったおばさんというのが実は誰なのか、君はまだわからないのか? ああ、なんていうことだ。まったく。それはキリストその人なんだよ。まさにキリストその人なんだ。ああ、まったく」(pp.288-291)
    (合理的思考の世界から禅的論理展開を持って離脱。太ったおばさんの中に神がある。太ったおばさんこそ神の子、キリストであるという大転換。カタルシス、救済)

  • マイプレシャスリストという映画で主人公が大事に持っていた本。
    サリンジャーは初めてだったけど舞台を見ているような感じだった。
    兄妹間でしかわからないことがある。親にはわからないこと。
    親にしかできないこともあるけど、兄妹にしかできないこともある。
    誰もが一度は陥りそうな、エゴの気持ち悪さに気がついてしまうフラニー。
    周囲の人を批判することよりも気にすべきことは自分の召命を全うすることでありそれをイエスは全て見ている。
    フラニーにとって演技をすることこそが祈りを唱えること。

  •  本書や『ナイン・ストーリーズ』を十代の頃に読んだとき、それらは自分のために書かれた物語のように思えた。煌めくような鋭い文章の中に、切実さと願望と諦めの悪さが渦を巻いていて、私は彼等とシンクロするように痛みを感じた気になっていた。
     二十歳を過ぎて社会人になってから読み返したとき、ギミックに溢れた、浮世離れした散文としか感じられなかった。そして、そこに自らの成長を見出しすらした。
     四十歳を前にしてグラース家と再会したとき、彼等のユーモアに満ちたドタバタを懐かしむとともに、変えることのできなかった自己がこちらを覗いているような気がした。でもそこには、赦しや少しの諦めがあって、思考と感情の迷宮を楽しみ、愛おしむ余裕があった。これが、歳を重ねるってことなのだろうか。
    補足 私はフラニーのキャラクターが好きだけれど、物語を進展させるのは、やはりズーイなんだなと思った。

  • 『フラニー』
    60ページほどで、ほぼほぼレストランでのフラニーと恋人レーンとのワンシーン。美しい長い一筆書きのようで、フラニーがいかに精神的に参っているか伝わってくる。彼女は亡き兄シーモアの持っていた宗教書にドハマりしていて、彼女の周りの、いかなる普通の精神のものも受け付けない状態になっている。彼女の厭世的な長広舌はサリンジャーの人となりを表しているような気がした。

    『ズーイ』
    反対に『ズーイ』はちょっと長すぎる印象を受けた。前半のズーイとベッシーとの風呂場でのやりとりが無くなっても、後半だけで十分意味が通じるんじゃないだろうか。導入としてはちょっと長いなと思ったが、後半が良かったのですべてよし。やはり肝はズーイの軽妙な語りで、とくにラストが印象的だった。

    フラニーは初めから「シーモアと話したい」と言っていたが、ズーイは間接的にシーモアの言葉を引用することでフラニーを納得させる。「太ったおばさんじゃない人間なんてどこにもいやしないんだよ。その太ったおばさんというのが実は誰なのか、君にはまだわからないのか?それはキリストその人なんだよ。まさにキリストその人なんだ。」

    フラニーのキリストへの思いや祈りも憑きものが落ちたように彼女から去っていく。それはキリストすら、彼女が感じていたくだらないものの一つに含まれるということを、彼女が理解したからだろう。あるいはキリストこそが、彼女が感じていたくだらないものを含むと言うべきかもしれない。解釈が難しいところではあるけれど、ストンと腑に落ちる終わり方だった。

  • たぶん20歳ころに一度読んでいて、なんかよくわからんな、と思った記憶がある。サリンジャーって高評価だけどよくわからない、と。それから約30年、年をとり、村上さんの訳で、村上さんの解説も読んで、の再読だけど、やっぱり感想は、なんかよくわからんな、だった……。
    確かに、フラニーとボーイフレンドのレストランの場面とか、ズーイとお母さんの会話とか、おもしろいことはおもしろいし、キュートなところもあるし、なんか今テレビドラマにでもできそうだなとか思うけど。単にそう思ってればいいのか? で、それで?とか結局なんなの?とか思わずに?

    テーマが宗教とか哲学っぽいのでよくわからないと思ってしまうんだろうな。「神様」の問題は難しいです……。
    わたしは今、海外ドラマ「グリー」に夢中なので、その「グリー」の1エピソード、神を信じるか、っていうエピソードをふと思い出した。そのなかで使われる歌「One of us」の歌詞、「もし神様がわたしたちのなかのひとりだったら? 家に帰るバスのなかで会う人だったら?」とか。

  • グラス家の兄姉のうちの二人、フラニーとズーイをそれぞれ主人公にした2編から成る作品。
    宗教的な思想を背景に、悩めるフラニーと、それに介入するズーイというのが大きなレイアウトかな。ズーイの部分が大半で、いかにフラニーの悩みが宗教的にも不完全であるかを徹底的に、それこそ読者もうんざりするくらい徹底的に指摘しつつも、根底には兄弟愛があり、最終的にはかわいい妹を救っていく。
    ズーイと母であるベティの描写が大変に魅力的であるというのが一番の感想。
    ズーイの喝破する部分は、うんざりしつつも楽しめた。でもやっぱり少しうんざりして。
    それでも、さすが、と唸らされるようなエスプリの効いた言い回しが随所に見られ、それがズーイのかわいげを演出し、ひいては筆者の偉大な文章力を垣間見ることができた。

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