人生論 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102060179

感想・レビュー・書評

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  • 本書のタイトルは「人生論」であるが、内容は「生命」についてのトルストイの考えがまとめられた論文である。いきなり本文から読み始めるより、巻末にある翻訳者・原卓也氏の「解説」を先に読むほうが、予備知識が得られるので、少しは理解しやすくなると思う。

    自分の場合は、最初から読み始めて、ぼやーっとした理解のまま読み進み、最後の「解説」を読んで、ある程度頭の整理ができたように思う。もちろん、消化不良もたくさんある。

    まず、「解説」を読んで、ロシア語と日本語の違いが、本書のタイトルに影響していることがわかる。日本語でいう「生命」「生活」「人生」「一生」というような言葉は、ロシア語ではすべて「ジーズニ」という一語で表現されるらしい。であるので、トルストイは「生命」について論じたのであるが、最初の訳でその「ジーズニ」という単語は、「人生」と翻訳され、それで本書は「人生論」となったようである。

    翻訳者の「解説」に、本書のエッセンスに関する記述があったので、そのまま引用する。

    ”トルストイはこの論文の中で、人間の生き方を「生存」と「生命」とに区別して考えている。「生存」とは、人間の一生を誕生から死までの時間的、空間的な存在として捉え、その期間における個我の動物的幸福の達成を一生の目的と考える生き方をいう。これに対して「生命」とは、人間の一生を誕生と死という二つの点で区切られることのない、永遠につづくものとして捉え、その間、自己の動物的個我を理性的意識に従属させて生きることをさす。”

    単純化していうと、生まれてから死ぬまでただ「生存」しているような生き方と、自分の命を永遠と捉え(=生命)、理性的に生きる生き方とがあり、後者の生き方こそが真の幸福をつかめる生き方であると結論づけている。

    これを仮に「生存の生き方」と「生命での生き方」とすると、たいていは「生存の生き方」に終始しているとトルストイはいう。その生き方の人は、生まれてから死ぬまでの間に、なるべく快楽を感じられるよう、また苦しみから少しでも逃れられるよう頑張って生きる。

    しかし、世の中の誰もがそれを互いに求めており、競い合っているという。快楽の獲得競争であり、苦悩の押し付けあいの中で生きている。いわば利己的な生き方であり、せいぜい人と比べて、ある一部だけは自分が勝っていることに満足を感じ、そうでないときに不満を感じ苦悩を感じる。どちらかというと、欲求が満たされず、苦しみから逃れらないことが多く、苦悩と煩悶の連続と感じるのが、この生き方の人生である。

    しかも最後には、すべてが無に帰する「死」があり、それが訪れる恐怖と隣り合わせで生きる人生では、真の幸福は絶対に得られないという。

    では、トルストイがいう、真の幸福を獲得できる生き方とはどのような生き方なのか。

    「生存」の生き方が、自身のための幸福追求であり、自己愛のみの動物的な生き方であるのに対し、そこに理性を取り込み、自己愛のみから脱却し、他者の幸福を志向する生き方が重要であるという。

    愛の大きさを分数式に例えるユニークな発想が示されていた。分子は他者に対する好意や共感、分母は自分自身に対する愛とする。分子の大きさで愛の大きさを測るのが一般的な考えだが、むしろ分母の大小を考えることが、「生存の生き方」で終わるのか、そうでないのかに関係すると。

    もう一つは、生命の永遠性をトルストイは訴えている。肉体は滅びても、生命は始めもなければ終わりもなく永遠に存在し続けるものと捉える。これは仏教的な発想に近い。

    肉体が滅びたら終わりと考えるのが「生存の生き方」だが、「生命での生き方」はそうではなく、ある意味「死」の恐怖は伴わない。

    このような表現があった。
    「動物的個我は、自己の幸福の目的を達成するのに用いる手段である。人間にとって動物的個我とは、働くのに用いる道具である。」

    動物的個我とは、生まれてから死ぬまでの「生存の生き方」の意味だが、これはこの一生の肉体は、永遠の生命により幸福の目的を達成するための手段であり、道具であるとトルストイは言っているのだと自分は理解した。

    そう考えると、他の人から小さな快楽を奪い合ったり、苦しみを押し付けあったりする生き方にのみ固執するのは、単なる道具に固執しているだけであって、全く真の幸福追求に無関係の生き方のように思えてくる。

    そういう小我を捨てて、永遠の生命を感じながら他者への愛に全力を尽くす生き方が最も幸福な生き方であるとトルストイは述べているのだと理解した。

    この論文をトルストイが書くきっかけとなったのは、自身が大病を患い、死をも直感したことだったという。随所に聖書の引用はあるが、この考えは宗教の範疇を越えていたようだ。「正教の教義に対する不信を植えつけ、祖国愛を否定している」という理由で、当時発禁処分となっており、後年に世に出たものである。

    トルストイ自身も「人は常にあらゆることを、信仰を通してではなく、理性を通じて認識する。前には理性を通じてではなく、信仰を通じて認識すると説いて欺くことが可能だった。」と述べているように、本書の考えも自身の理性から紡ぎ出されたものであろう。

    自分は、仏教の思想に多くの共通点を感じたが、トルストイが仏教の影響を受けて述べたものではなく、偶然そのような結論となったという点にも非常に興味深く感じている。

    理解不十分の点も多いが、とりあえず一回目読了時のメモとして記しておきたい。

  • 大人ならこういのもちゃんと読んどかなきゃなと思い、チャレンジしましたが、やはり撃沈しました。しかし、思ったよりそこまで難解ではなかったです。

  • 自分の理性
    「理性は人を幸福に導く」自分を信じて、理性が意識するがまま生きることによって幸福を得ることができる。過去信仰がその理性を左右したが判断するのはあくまで自分自身であると。現代、「理性」とは道理によって物事を判断する心の働き、とある。人は様々なヒト・コト・モノによって心が動かされるが、より多くのヒト・コト・モノに遭遇できることはトルストイの生きた時代とは違い幸運だと思う。よって判断できる材料をできる限り集め、自分に快適、且つ心地よい道が許され、自信を持って前に進むべきなのだ。

  • これまでずっと新しい定義に出会うたびに納得した風にして、でもどこか矛盾を感じていた疑問に対する答えを見つけられた一冊。これまで読んできた本の中で最も有益で有効で善良な一冊だと感じた。
    生命とは何か、なぜ生きるのは苦しいのか、幸福とはないかというあまりに捉え難い抽象的だけど当事者であり過ぎるあらゆる生への答えを、どこまでもロジカルに教えてくれた。

  • 本書は小説ではなく生命に関する論文であるが、トルストイを文豪たらしめているその表現力は存分に満喫することができる。多彩な比喩を用いたその表現は、人生、苦しみ、死といったものと対峙した人間の心情を鮮明に描き出し、トルストイの思想を説得力を持って表現する。これらの比喩の多さ、斬新さ、的確さはそれだけでも本書の醍醐味の一つと言える。以下に一場面を引用する。

    「真の生命の発現とは、動物的な個我が人間をおのれの幸福の方に引き寄せ、一方、理性的な意識は個人的な幸福の不可能さを示して、何か別の幸福を指示するということにある。人ははるか遠くに示されるこの幸福に目をこらし、見きわめることができぬため、最初はその幸福を信用せず、個人的な幸福の方に引き返そうとする。しかし、ひどく漠然と幸福を指示している理性的な意識が、あまりにも疑う余地のなり確信に充ちた様子で個人的な幸福の不可能さを示すために、人はまた個人的な幸福をあきらめて、指示されるその新しい幸福にふたたび目をこらす。理性的な幸福は見当たらないが、個人的な幸福がこれほどはっきり粉砕されてしまった以上、個人的な生存をつづけてゆくことは不可能であり、その人間の内部には動物的なものと理性的な意識との新しい関係が確立されはじめる。その人間は真の人間的な生命に向って誕生しはじめるのである。」(本書p.71より)

    身に覚えのある人は少なくないだろう。今まで幸福の要素であると信じて疑わなかった、成功体験や賞賛、肉体的・精神的快楽といったものが突然、無意味で空虚な幻想のように感じられ、それらをいくらかき集めても幸福には到達できないのではないかという疑念が自然に沸き上がってくるのを感じる。より高尚な人生の意義のようなものを求めてみるも、なにもそんなものは見当がつかず、一方でホルモンの分泌によって与えられている幸福感のみは、たしかに自分が感じている実在するものであるような気がすることから、その幸福感の追求こそが人生の意義であると納得しようと試みる。しかし、一度空虚に見えてしまった今まで幸福と思われていたものに対して、意味を再付与することは到底できず、困り果てる。これこそが、トルストイの表現するところの「真の生命の誕生」の体験に他ならない。

    しかし、現代を生きる多くの人にとっては、こんなことをいつまでも考えていても始まらないし、今日も明日もやるべきことがたくさんあるのだから、こんなことは見て見ぬ振りをして現在よりマシと思われる未来の実現のために無心に行動するというのが妥当な選択であろう。もしくは、「理性的な意識によって生み出されるやりきれない内的矛盾」から逃れるため、「人生のこうしたがんじがらめの状態をひと思いに断ち切って、自殺」するという選択をとる人も少なくない。だがトルストイは、ここからさらに論を進める。肉体的・精神的快楽を求める存在としての動物的個我と理性的な意識を明確に分離した上で、理性的な意識にこそ人間の本質たる生命の存在を認め、この「理性的な意識を満足させうるような幸福だけが真実」であり、「個我の幸福の達成だけに向けられる人間の活動は、人間の生命の全面的否定に他ならない」と述べる。さらに、その理性的な意識を満足させる幸福とはなにか、そして、幸福と対極に感じられる苦しみや死とはなにか、三次元空間の比喩、円錐体の比喩、案山子の比喩などの斬新な表現を用いて論を展開する。

    以前よりトルストイの作品に興味があったが、個人的にどうしても小説全般が苦手という事情があり、本書を手に取った。本書も魅力溢れる作品であったが、小説に苦手意識のない人にはぜひ「戦争と平和」などの小説作品をおすすめする。

    -----------------------------
    以下に、本書の内容についての反駁、および異なる解釈を述べる。

    まず、肉体の死後も生命が存在し続けることの論証についてである。筆者は、キリストが死後も多くの人の精神に作用し続けていることを論拠に、生命が永遠に存在し続けることを述べている。つまり、現存する者への精神的作用に生命の存在を見いだしている。この生命の理解を採用すると、キリストのみならずアッラーやゼウス、さらには小説やアニメなどのフィクションの登場人物すらも人々の精神に作用していることを否定できない。しかし、これらのフィクションの存在に人間の生命を認めるのは無理があるように感じられる。

    そこで、二つの新しい解釈を提案する。一つ目は、生命の働きとして本書では世界との関係の構築こそ本質としているが、ここに前提として手段たる動物的個我の支配の条件を付け加えることが必要であると考える。これにより、フィクションの登場人物と実在する人物との間に差異が生まれ、実在するもののみを生命と認識できる。しかし一方で、これでは本書の根幹とも言える生命の不死を証明できなくなる。なぜなら、肉体を失った時点で動物的個我の支配が不可能となり、フィクションの存在との差異が消失するためである。ここで、二つ目の解釈を提案する。本書の中でトルストイは頻繁に、理性的な意識は空間的時間的な束縛を受けない、それらの束縛を受けるのは動物的個我のみである、と述べている。それにも関わらず、生命が死を経験しないことを述べるために、肉体の死後の生命の存在を認識しようと試みている。ここに、矛盾が生じている。すなわち、そもそも時間的束縛を受けない理性的な意識の不死を述べるためには、肉体の死後の時間的存続を述べる必要はないはずであり、逆に、生命が肉体の死後も時間的に存続し続けていると認識可能であることは、理性的な意識の時間的束縛と同義である。つまり、次のように説明出来る。人間の生命たる理性的な意識は、その働きとして動物的個我の支配を前提とするため、肉体の死後は存在し得ないが、理性的な意識は動物的個我と異なり時間的空間的束縛を受けない故、肉体の死と同時に生命の死を経験することはないと言える。こちらの解釈の方が合理性と妥当性に優れるように感じられるが、どうであろうか。

    • Y.K.さん
      真の人間的な生命にまだ向かえてません
      真の人間的な生命にまだ向かえてません
      2020/11/08
    • C.U.さん
      考えることをやめずに真摯に自己と対峙しましょう。
      考えることをやめずに真摯に自己と対峙しましょう。
      2020/11/08
  • 『人生論』トルストイ メモ
    ◯内容整理
    ・「動物的個我」と「理性の法則」という考え方。動物的個我は、生命とは誕生から死までの期間である、その限られた生命の中で幸福は人生を達成しなければならない、みたいな考え方。目に見える(偽りの)生命。人間は目に見える人生こそが自分の人生という確信に陥ってしまった。
    →人間の幸福は、理性的意識の覚醒=動物的個我の幸福の否定によってはじまる。
    ・動物的個我における時間的、空間的条件は、真の生命に影響を与えない。(限られた人生の中でどう生きるか、みたいなことは、真の幸福には影響しない。真の幸福ではない)
    →理性への従属を通じて幸福を志向する力は、向上させる力であって、時間的・空間的制約を持たぬ生命の力そのもの。(時間と空間がx,y軸なら、理性的意識はz軸のイメージ?)
    ・真の生命は時間と空間にかかわらない。

    ・人間の幸福は、動物的個我を理性の法則に対して従属させること。
    →動物的生存を生命とみなすのをやめたとき、はじめて真の生命が始まる。
    p95「生命を維持する食物を作るためにある鍬を使い惜しむ人間は、使い惜しみすぎて、食物や生命まで失う」

    ◯理性的意識とは
    ・動物的個我としての自分自身(この人生で何を達成すべきだろうか...みたいな)よりも、他の存在を愛するような状態を目指す。
    ・これによって、それまで個我の幸福に向けられていた活動全てを、全世界の幸福の達成に向けた活動に変えられる。
    ・真の愛は、動物的個我の幸福を否定する際にのみ可能。
    ・愛とは、自分、すなわち自己の動物的個我よりも他の存在を好ましく思う感情。
    ・他人に対しては悪意を抱くときに「わたしはどうでもいい、わたしは何もいらない」と言い、ほんのいっときにせよ、何一つ自分のために望まぬようにさせてみるとよい。
    →そうすれば、それまで閉ざされていたすべての人に対する好意が心の奥から奔流となってほとばしりでるのを認識するだろう。
    ・ここで言う他人は、家族や友人のような選ばれた人への愛(動物的個我の一時的な幸福を増大させる対象)のみならず、自分以外の全てに対する愛。

    ・生命とは世界に対する関係であり、生命の運動とはより高度な新しい関係の確立であるから、死とは新しい関係に入ることである。
    →(解釈)人との関係の中に自分の生命は存在し、新しい人や世界との出会いの中で新しい関係を築いていく、ということが生命の仕事。人(世界)との関係の中で、愛を増大させていく。
    ・人は死んでも、大切な人の心の中に思い出として生き続ける。世界とその人との関係は、死後も強く残された人々の中に作用し続ける。
    →自己の動物的個我を理性のうちに従属させ、愛の力を発揮した人は誰でも、自己の肉体的生存の消失後も他の人々の中に生きつづけ、現に生きている。
    ・関係を確立することが、生命の仕事。

    ◯感想
    自分に引き寄せると、動物的に、エゴイスティックに自分の幸せだけを考えるのではなく、「わたしはどうでもいい、わたしは何もいらない」と唱えて、理性的に生きてみよう、と考えた。
    また、新しい人々と出会って、関係を築いていくという点は、ストンと腹に落ちた。自分自身、人は接する人との関係の中で磨かれていく(作りかえられていく)ものだと思っているので、どんどん新しい出会いに向かって踏み出していく人生にしたいと思った。
    椎名林檎&トータス松本『目抜き通り』の歌詞の、「あの世でもらう批評が本当なのさ」というフレーズを思い出した。自分が死んだときに、自分との思い出が生き続ける人をどれだけたくさん作っていけるか(たくさんの関係を確立していけるか)
    「関係」という言葉は自分の人生にとってとても重要な考え方だと思う。どういう人と生きて、どういう関係を築いていくか。そこに人生の本質があると思う。そんなことを考えさせられた。

  • “ジョン・レノンは亡くなったが、彼の想いは、♪イマジンと共に今も世界中の人々に受け継がれている。これこそ、彼の生命が生き続けていることだ。” 
    本書のトルストイの論旨は、上記のようなことだろうか。
    トルストイ曰く、
    理性的な意識のもとに、肉体的な個我を、従属させる。それこそが、真の生命だ。 他の生命への愛を志向して生きる者は、例え肉体が滅びても、それは生命の死ではない。
    以上が、本書の思想の骨子のようで、三十五章を通じて、繰り返し述べられる。だがしかし、私は、正直、肯んずることはできなかった。極端な考え方と感じた。

    講演「生命についての概念」の草稿がベース、と巻末解説にあり。その表題のほうが、「人生論」よりもまだしっくりくる内容と思われた。 ロシア語では、「生命」も「人生」も、ジーズ二 という一語で表されるため、訳者はあえて「生命」の訳語に統一したという。 そうした事情もあり、内容は、少々わかりづらく感じた。
    この新潮文庫版を読了後、書店で、岩波文庫版を少々立ち読みした。岩波訳のほうが幾分やさしいように思った。

  • トルストイが晩年に残した本。現代科学が定義する「生命」に関して、痛烈な批判を展開しながら、人間が手に入れ得る新の生命、本当の幸福について議論して行く。

    トルストイはまず、「個人の幸福の最大化が生命の目的である」であると現代科学によって信じられている事関して、幾ら自らの幸福を最大限にしようと行動した所で、いずれはその幸福感が個人から消え去り、その時に常に辛苦をなめねばならず、幸福を追求する存在として根本的な矛盾を抱え込んでいると指摘する。

    その指摘を踏まえ、「個人の幸福」ではなく、心からの「他者の幸福を願う」その指向性こそがあるべき幸福の姿であり、ある人間が「他者の幸福」を求めて存在する様になる時、現代の一般多数が持つ間違った生命の観念から離れ、その人間の新しい生命が生まれる時だと説く。

    また、そのような目覚めた人間は新たに生まれるだけでなく、この世にとどまらない永遠の生命をも手に入れると続ける。死とは単純に肉体的な消滅にすぎず、自らとこの世界の関係を絶ちきる訳ではなく、その自らがもたらしたこの世との関係は残り続けるので(e.g.他者の心の中)、真の生命に目覚めた者は死を畏怖すべき事象とは捉えない。

    むしろ、一般的に、死というものが断続する事なく続く自我の「線」を断ち切る出来事だと認識されている事のほうが間違いであり、人間は時間の経過とともに常に同じ存在であり続ける訳はないので(昨日の自分と今日の自分の間では明らかに「眠り」という自我を断絶させる事象が起きている)、死をもって自我の消滅に狼狽するのは滑稽で仕方ない、との事らしい。

    ・・・。内容はかなり深遠であり、是非とももう一度読みたいと思わせるないようではあったが自分の中でのこの本の中身に対する拒絶反応は否めない。

  • この本は生命について書かれている。

    幸福とは動物的個我を超え理性に従うことで達成される。
    また、彼は愛を語り死をこの本の中で説いた。

    「人」として生まれたこと、
    そして理性を持っていること。
    これがとても大切なことなのかもしれない。


    本書にはたくさんラインマーカーで線引きをし、
    ドッグイヤーで気になるところを目立たせました。

    結果読み終わったころには思い出深い一冊になりました。


    ところどころキリスト教徒の教えなどもでてきますが、
    とても納得させられる作品です。

    死については腑に落ちないところがあったので
    何度も読み返してみたいと思います。

  • 【感想】
    人間が生きる意味はまさに、他者に尽くすことであるという一言に尽きる。
    理屈では分かるものの、これが中々難しい。生命の法則が相互奉仕にあることも理解できる。だが、現実世界を生きるには絶えず闘争に打ち勝たねばならないという意識もある。ゲーム理論的には、お互いに協力し合うことが両者にとって最善なのだろうが、出し抜いた側はより一層恩恵を受けられる(欲を充足できる)。ここに、一人一人の人間が陥りがちな個人の幸福を願う動物的個我の問題点が発露する。

    頭でまずは理性を自覚する、生命の至上命題を理解することが、社会が幸せになるための大きな一歩なのであろう。その方策として考えられるSDGsや社会起業家の出現等に鑑みれば、理性に従属する動物的個我の発現は今後大いに期待できるのではないだろうか。

    【メモ】
    何物も個人の幸福を追求するならば、それは死への絶え間ない接近にすぎない。故に真の意味での幸福はありえない(その場合、死によって全てが無に期すためである)。

    この個人の幸福を追求する動物的個我を理性へと従属させること(生命活動そのものである愛の認知※愛とは特定の人に向けられるものではなく、自己の動物的個我よりも他の存在を好ましく思う感情)で①幸福を実現することができると同時に、②死の恐怖を克服する(死が存在しなくなる)ことにつながる。

    ①生命の法則は闘争ではなく、存在同士の相互奉仕。
    ②動物的個我による生存を重視する人は、生命とは身体と結び付いていると考えるため、身体の消失は生命の死であると感ずる。しかし、人の自我や世界との関係性は肉体の消失によって発生するものではないため、理性における生命に死は存在しない。(例:亡くなった方々の思い出や記憶が連綿と現在に引き継がれていること、生前よりも一層影響力をもつこと等)

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著者プロフィール

一八二八年生まれ。一九一〇年没。一九世紀ロシア文学を代表する作家。「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」等の長編小説を発表。道徳的人道主義を説き、日本文学にも武者小路実らを通して多大な影響を与える。

「2004年 『新版 人生論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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