復活(上) (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.73
  • (46)
  • (66)
  • (82)
  • (6)
  • (2)
本棚登録 : 732
感想 : 49
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (371ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102060186

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 久しぶりにレフ・トルストイの長編に挑戦する。

    ただ、長編といっても、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』を読了してしまうと、この『復活』は分量的には物足りないと思ってしまう、←もはやここまでくるとロシア古典文学に毒されていると言っても良いかもしれない。

    まだ上巻を読了したばかりだが、この『復活』はっきり言って最高に面白い。そして読みやすい。
    『戦争と平和』のように途中でトルストイの戦争に対する訳わからない独白とか入ってこないしね(笑)。

    本書は、ロシア貴族のネフリュードフがたまたま陪審員を務めていた裁判で自分が若かりし頃に恋仲になった純情な美少女が売春婦に身を落とし強盗殺人事件の被告として登場したというところから始まる。ネフリュードフはあの美少女だった彼女がなぜ約10年の月日を経てこうなってしまったかにショックを受け、自分がその原因を作ってしまったのではないかと思い悩み、彼女を救い出そうとする物語である。

    いや、マジで面白い。
    ロシア古典文学を読んでいて、ここまでページタナーな本は初めてだね。

    早速、下巻に進んでいこう。

  • 冒頭にほど近い2章。「女囚マースロワの生いたちはきわめてありふれたものだった。」の書き出し。この語り口、しびれる。この一節で、よし読むぞ!とモチベーションが一気に高まった。なんとも巧い語り口である。ちなみに、マースロワの生いたちは、全然ありふれたものではなく、波乱に満ちた転落人生なのであった…。

    公爵ネフリュードフは、陪審員として出廷した裁判で、かつて自分が捨てた女マースロワ(カチューシャ)と“再会”。娼婦となっていたカチューシャは、覚えの無い罪を問われ、誤った判決を負わされる。そして、ネフリュードフは、この時から、カチューシャの身を救うべく奔走を開始。貴族の立場やコネを頼って、司法関係者や政治的な有力者へ、再審を求める嘆願活動を続ける。

    ネフリュードフとカチューシャのラブロマンスか、と思いきや、そうでもない。それ以外を描く場面が多い印象なのである。
    ネフリュードフのゆく先々で、19世紀末のロシア社会の諸相が詳らかにされてゆく。貴族出の司法官僚は、多少の冤罪の発生は司法制度の必要悪で「やむなし」とわりきる。貴族階級が社会を制度を担い、改善や改革など望めぬ、硬直し停滞した空気を感じさせる。
     
    ところで、“トルストイ節”である。
    過日、大作「戦争と平和」を読了したのだが、この「復活」も「戦争と平和」と同様の “トルストイらしさ”を味わえる。物語の道々で過剰なまでに人物描写を彫り込んでいくのだ。例えばカチューシャが収監されている監房では、同室の女囚十数名全員について、詳細に描く。弁護士事務所を訪ねた場面でも、待合室の人々の服装から仕種までこと細かに描写。弁護士事務所で描かれた人達は、その後の物語展開には全く関係してこなかったのだが、それでも、描きこまずにいられないのがトルストイの性のようだ。
    さらに、もうひとつの“トルストイ節”が、人生観や人間観に関する薀蓄的表現。
    「ふつう世間では、泥棒とか、人殺しとか、(中略)自分の職業をよくないものと認めて、それを恥じているにちがいない、と考えがちである。ところが、実際にはまったくその逆なのである。」(第1編44章。)とか、
    「人間というものはそれぞれ固有の性質をもっているもの…(中略)善人とか、悪人とか…(中略)、分かれて存在しているという考え方えある。」、「だが、人間とはそのようなものではない。」
     (第1編59章)
    かように、“人間とは” 論がときおり現れる。 本筋からの寄り道逸脱と知りつつもなお語らずにはいられない様子である。こうした「トルストイ節」は、彼の長編の味わい・魅力のひとつで、楽しんで読み進めた。
     

  • 安定のトルストイ。たまに読みたくなるんだよなーこれ読んだら戦争と平和だけ残るから寂しい。
    人間がイキイキ動く。ネフリュードフの青臭さがたまらない。青春パンク。トルストイの晩年の作だから、彼もそれでうまくいくなんて思ってないし、絶望も深いし、今のところネフリュードフは跳ね返されてばかり。
    話が厚い。ストーリーは単純なんだけど、重さをもって伝わる。

  • 以下引用。

     何十万という人びとが、あるちっぽけな場所に寄り集まって、自分たちがひしめきあっている土地を酷いものにしようとどんなに骨を折ってみても、その土地に何ひとつ育たぬようにとどんな石を敷きつめてみても、芽をふく草をどんなに摘みとってみても、石炭や石油の煙でどんなにそれをいぶしてみても、いや、どんなに木の枝を払って、獣や小鳥たちを追い払ってみても――春は都会のなかでさえやっぱり春であった。(冒頭)

     ふつう世間では、泥棒とか、人殺しとか、スパイとか、売春婦などというものは、自分の職業をよくないものと認めて、それを恥じているにちがいない、と考えがちである。ところが、実際はまったくその逆なのである。世間の人びとはその運命なり、自分の罪悪や、過失なりによって、ある特定の立場に置かれると、たとえそれがいかに間違ったものであろうとも、自分の立場が立派な尊敬すべきものに見えるように、人生ぜんたいに対する見方を、自分に都合よく作り上げてしまうものなのである。そのような見方を維持するために、人びとは自分の作り上げた人生観なり、人生における自分の位置なりを認めてくれるような仲間たちに本能的にすがりつくのである。もちろん、われわれにしても、その腕のよさを鼻にかける泥棒とか、淫蕩を自慢する売春婦とか、残忍ぶりを誇る人殺しなどについては、驚きあきれざるをえない。しかし、われわれがあきれるのは、これらの人びとの仲間や雰囲気があまりにも限定されたものであり、われわれ自身がその外に置かれているためである。しかし、自分の富すなわち略奪を誇る金持ちとか、自分の勝利すなわち殺人行為を誇る軍司令官とか、自分の権力すなわち圧政を誇る権力者などの間にも、やはりこれと同じ現象が生まれているのではないだろうか? われわれはこれらの人びとの中に、自分の立場を正当化するために、人生観や善悪の観念の歪曲を見出さないのは、そのような歪曲された観念をもつ人びとがはるかに多数をしめ、しかもわれわれ自身がそこに属しているからにすぎないのである。

  • 新年最初の読書はそれなりに思想的なものを、と何となく毎年意識しているのだが、今年はトルストイを選択。「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」は読んだが、宗教的なメッセージ性の強い晩年の作品を読むのは初めて。
    過去に自分が犯した道徳的な罪、その結果人生を踏み誤った女性・カチューシャが無実の罪で裁かれようとしている現場に偶然立ち会ったことをきっかけに、まさに「眼の中の梁に気づく」ようにして、自分が犯した罪の大きさ、生きにくさを避け自分が身を置く社会の"常識”に迎合することで曇らせてしまった純粋な精神、社会を覆う不公平・不条理・不誠実なシステムなどを、真直ぐ見られるようになっていく主人公・ネフリュードフ。開かれた目で世間の歪みを直視し、子どものような純真さをもってその不当さに疑問を抱き、そうした思いを素直に自らの行動に取り入れていく彼の姿は美しく、過去の暮らしからの誘惑や不条理な社会を前にしての無力さなどの人間くささも合わせ、読む者に共感や感銘を与える。
    祈りは人前で行なうものでないように、贖罪もまた他人の承認によってなされるものではなく…ネフリュードフの魂の真の「復活」のためには、カチューシャが彼の愛を受け入れるという赦しによって単純にこの物語を終わらせるわけにはいかないのはある意味で当然。ただ、“正しさ”によって正せない社会の不合理さを前に、個人における精神的な正しさの回復(まさに「復活」)を終着点として「完」とするのは、クリスチャンから見ても理想主義的に過ぎるという印象が残る。ドストエフスキー作品ではそこへの到達を目標として様々に迷い、はいずりまわり、時にたどり着けないまま絶望に至る、個人における精神的な救済という境地に、この作品では主人公たちがあっさりたどり着いてしまうという点も、いささか非現実的。とは言え、トルストイ自身の人生を考えると、この作品が彼にとって大きな意味を持つものであり、重要な物語なのだということは理解できる。結局、ネフリュードフは、トルストイが「こうありたかった」という人生を歩む、トルストイにとっての理想の自分なのではないだろうか。全二巻。

  • 裕福で理想を持ち明るい未来を夢見ていた青年が、成長するにつれて私欲につけこまれるようになって大きな過ちを犯す。当時はそれほどまでに大きな過ちではなかったが、ある日の裁判によってその過ちを省み、人間性を取り戻すために奔走する。
    理想主義の純真な青年が私欲を満たすことになんの悪も感じなくなったのは軍隊に行ってから。このあたりに著者の批判的な意志が感じられる。ネフリュードフ、カチューシャ、権力者、女囚人、政治犯、農民たち、それぞれが盲目的に考える善と悪の違いがおもしろい。肉体的でなく精神的な活動こそが人間に与えられた最も高貴な部分であり、これをしなければ堕落してしまう。しかし世間一般としては正しいことが悪とされ、悪が正しいとされるから、自分では無く他人を信じてしまうことに陥りがち。そうなると結局は堕落の道をあゆみ、主人公も同様の軌跡をたどるが、カチューシャと思いがけず裁判で再会し、エゴに近い考えだが彼女を救うことで自分も救われようとする。さあどうなる!?

  • 読書会のため再読。

    古くならない…

  • トルストイの作品は学生時代に「アンナ・カレーニナ」を読んで以来。学生時代はトルストイは読みにくい印象だったけど、「復活」は読みやすいと感じました。
    ロシア上位貴族ネフリュードフは自身が陪審員として出席した裁判でかつて愛し、妊娠後に捨て去った小間使いカチューシャが容疑者として捕まったことを知り、激しい自責の念が起こる。カチューシャへ犯した罪を償うためにネフリュードフは行動するが…
    カチューシャがネフリュードフに捨てられ、出会った男女にことごとく利用され、弄ばれ娼婦にまで身を堕とした結果、かつてネフリュードフが愛していたときから身もこころも変貌してしまっていたのは、まあ、過去がこうなら結果そうなってしまうだろうなという印象。ネフリュードフは後悔し、彼女を助けようとしますが、彼女がネフリュードフと再会すれば昔の愛らしかったカチューシャに戻ってくれるだろうと考えていたのはつい失笑。そんな甘くないだろと。
    また、ネフリュードフは自分の土地を耕す農民達の暮らしぶりを見て、彼らに相当の利益が得られるよう直接交渉を始めますが農民達には全く理解されず。
    ネフリュードフの行動は今のところ空回りしていますがこのまま報われずに終わるのかな。

  • 愛の理念のもと、人間の復活とは何かを問う後期の大作。老トルストイは世の中にはびこる虚偽と悪に鋭く厳しい眼差しを向ける。殺人事件の陪審員として法廷に出たネフリュードフは、容疑者の娼婦が、かつて自分が誘惑して捨て去った叔母の家の小間使いカチューシャであることに気づき、良心の呵責にさいなまれる。

  • 弱い自分を見据えて揺れ動く姿。
    でも、疲れる。

全49件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

一八二八年生まれ。一九一〇年没。一九世紀ロシア文学を代表する作家。「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」等の長編小説を発表。道徳的人道主義を説き、日本文学にも武者小路実らを通して多大な影響を与える。

「2004年 『新版 人生論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

トルストイの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×