- Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102063019
感想・レビュー・書評
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1922年第一次世界大戦後 狂騒の20年代アメリカ
絢爛豪華な邸宅で夜ごと盛大なパーティを開く謎めいた男、それがギャッツビー。彼の資金力の影には
黒い噂が流れていた。
若かりし頃、全くストーリーに入れきれず挫折。
たぶん、グレートの意味を間違えていた事と、翻訳の流れが掴めなかった事が敗因。
村上春樹氏が人生で巡り合った重要な一冊とし
宝塚月組で、この夏上演決定してるし
オリラジのperfect human のMVはオマージュらしいし 何回か映画化もされてるし
英語で書かれた20世紀最高の小説 第二位らしい
やっぱり 読めないとちょっと悔しい。
幼児期から自身の成功を夢見ていたギャッツビー。
家出、戦争、失恋。資金調達の為這い上がる。
過去の恋を手に入れる為だけの、虚栄だらけの邸宅、パーティ。元恋人さえも彼の虚構の一部。
過去を取り戻せない現実を受け入れない。
華やかなパーティの片隅に佇む哀愁。元恋人の家を見つめる寂寥感。それらと狂乱めいたパーティとの対比。そして全ての喪失。
アメリカは世界恐慌の時代となり ギャッツビーの栄華と共に狂騒は終焉する。
おーっ、なんか掴めた気がしてきた。
映画見ちゃお。詳細をみるコメント2件をすべて表示-
ひまわりめろんさん新潮文庫めちゃくちゃ表紙がカッコイイやないかーい!新潮文庫めちゃくちゃ表紙がカッコイイやないかーい!2023/06/03
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おびのりさん背表紙で勝負。背表紙で勝負。2023/06/03
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1925年、フィッツジェラルドが29歳のとき、小説の舞台と同じロングアイランドでパーティー三昧の日々を送りながら書いた作品。
ギャツビーとデイジーの再会シーンと、終盤のプラザホテルのスイートのシーンが最高に面白い。
ギラギラしすぎて空回るギャツビーが愛おしい。
1920年代のアメリカを調べるきっかけをくれる。 -
豪邸に住み、派手なパーティーに明け暮れる成金ギャツビー。しかしその真の目的は、かつての恋人で今は人妻のデイズィを取り戻すことだった。
翻訳のせいかちょっと読みにくかった。ストーリーは淡々とし過ぎていて、ギャツビーや語り部ニックにあまり感情移入もできなかった。
デイズィに見捨てられたギャツビーが、ただただ哀れだった。 -
はじめは文章の言い回しに苦戦したけれど、最終的にはたたみかけるように読めてしまった。
実現しかけた夢が一瞬で崩れ去る虚しさや脆さを感じた。
財だけでは人は判断できないが、財がないとその女性に近づけなかったギャツビー。それにかけた彼の人生は、彼にとってどうだったのだろう。 -
ニックはニューヨークの証券会社に就職してイーストエッグに家を借りた。隣には豪邸があり、夜な夜な派手なパーティーを開いていた。ある日ニックは館の主、ギャッツビーからパーティーへの招待を受ける。ギャッツビーはニックの従姉妹ディズィのかつての恋人で、既に結婚している彼女を取り戻そうとパーティーを開いていた。
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学生の頃読んでいるはずなのに…全然覚えていなくて…先日レオ様の映画を見たので原作に再度挑戦してみました。
これは『ライ麦畑でつかまえて』と並んでアメリカの青春小説の金字塔らしいのですが…ライ麦畑には夢中になれたけど、こちらには同調出来なかった。たぶん若い時に読めば共感出来る所もあったのでしょうが…でも忘れちゃってる位だから私とは相性が合わなかったのでしょう。
ギャッツビー個人に関しては
「お前はアホか!」
とハリセンチョップで頭を叩いてあげたいけど、ストーリーは意外と面白かった。
ディズィの夫のトムには愛人がいる。愛人にも夫がいる。そしてディズィはギャッツビーに再会してときめいている。とは言ってもトムもディズィも離婚する気などない。だけどギャッツビーにはそれがわからない。
失ったものは取り戻せない、ニックが諭しても解せない。夫婦は愛情だけで繋がってわけじゃない。ギャッツビーのディズィへの思いも愛情というよりも執着のようで共感は出来ない。
この話は表向きは恋愛がテーマのようだけど、それ以上にギャッツビーの経済的コンプレックスが大きくフューチャーされている。金持ちになれば彼女が戻ってくる…なんて考えること自体…あまいな -
1957年の訳を1974年に改訳出版したもの。レッドフォード主演の『華麗なるギャツビー』公開に合わせたのだろう。ギャツビーの口調が他人と上手に話せない人のそれなので、変人度が高い。こんなぎこちない人がかつて両想いになれた理由がわからないほど。ただ野崎訳では女性陣の口調も独特で、二人称が「あんた」なのだ。「あんた、~してくださる?」とか言うので出自が見えない。成金性を出したかったのかもしれない。
初めて読んだときはギャツビーの「まごころ」が踏みにじられる悲劇を感じたのだけれど、今回は、ギャツビーも彼女のためにというより彼女を手に入れられる自分のためにがんばったんだなあという気持ちになった。その分、ギャツビーがプールでどんな思いにふけったかを語り手が想像する場面が胸に迫る。それが正解だったかどうかはわからないけれど、夢がかなわないなら生きていても仕方ないって、そんなことないのに。
語り手は東部にあこがれてニューヨークに出てきて、幻滅して西部に帰る。都会で放蕩の限りを尽くしたフィッツジェラルドがそのような結末を用意したことに、いろいろしんどかったのかしら、と想像したりする。自分にちょうどよく欲望を満たすというのはそんなに簡単ではないのかもしれない。 -
英語読めないからダメだけど
きっと流れるように美しい文書で
書かれてるんじゃないかなと思った
当時のアメリカの世相の知識とか
そういうものがあれば
もっとイメージしやすかったかもしれない
海外の作品はそういう意味でも難しい
主人公の立ち位置や雰囲気が
村上春樹の小説に出てくるタイプに
似てる気がする
村上春樹の翻訳バージョンの
グレートギャツビーもいつか読んでみたい
2022年新潮文庫の100冊のうちの1冊 -
映画『華麗なるギャツビー』を先に観ていたので
案外読みやすかった。けど、映画のが華やかさが伝わりやすかったので好きです。
ニューヨーク旅行前に。 -
いつどのページを開いても何かを感じることがてきるマスターピース。デイジーの浅はかさに、ギャツビーの繊細さに、トムの俗悪さ無骨さに、ジョーダンの無責任さに、ニックの絶望に、身を浸す幸せ。
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大学時代、米文学史の授業で習ったのがきっかけ。その後じわじわと再読する度好きになっていく。授業中に観た映画の(ディカプリオ主演ではない)目の看板がとても印象的で、再読の度に映像が蘇る。
パーティーに来ていた人達は享楽的に集まっていただけとはいえ、誰一人として葬儀に出席しなかったのは恨みでも買っていたのかと勘繰りたくなるほど切ない。ニックと出逢えたことだけがギャツビーにとって救われたのだろうか。
映像でかなり補完されたところがあるので、そろそろ新訳が出ても良い頃かと思う。 -
映画、宝塚、共に視聴済み。
前知識があったからなんとなくわかったが、何が起こったのか分かりずらい箇所があった。
一途な想いから、ラストは悲しきギャツビー。
パーティにはどこからともなくたくさんの人達が来るのに、葬式には1人しか来ない。父も来てくれたのは幸い。
改めて映画等をまた見直したくなった。
また、村上春樹訳をいずれ読んでみたい。 -
村上春樹が激推ししている一冊ということで手に取った。
英語の小説を日本語に訳したものなので、世界観がそのまま伝わってきたわけではないが…
前半は正直誰が誰?どういう展開?
とついていけない部分が多くて読むことを放棄しそうになったけれど、後半は怒涛の展開で面白かった。 -
第一次世界大戦後の頃の狂騒な時代のアメリカがよくわかる。
成り上がり者。金持ちと貧乏。西部のモラルと東部のモラルと言う違う意識の存在。アメリカンドリーム。。。
全ては主人公ニックの言葉にこの物語は集約されている気がする。
『ー今にして思えば、この話は、けっきょく、西部の物語であったートムもギャツビーも、デイズィもジョーダンも、それからぼくも、みんな西部人である。そしてぼくたちはたぶん、ぼくたちを東部の生活になんとなく適合できなくさせる、何か共通の欠陥を持っていたのだろうと思うー…ギャツビーは、その緑色の光を信じ、ぼくらの進む前を先へ先へと後退してゆく狂躁的な未来を演じていたー…こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでいく。』
デイズィの罪を被って殺されたギャツビーの死後、その真実は埋もれたままで時が過ぎている。デイズィがどういう気持ちで生きているのかわからないまま物語は終わっているが、歪んだ富裕層に対する著者の批判も込められているのでは、とも思う。 -
感想はもう一回読んで!
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・「ひとを批判したい気持ちが起きた場合には、この世の中の人がみんなお前と同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみるのだ。」
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1925年 F・スコット・フィッツジェラルド (野崎孝 訳)
久しぶりに文学作品を読んだ。アメリカ文学界でも「20世紀最高の小説」とまで言われている今作品。
読む前にデカプリオ版の映画を観たのでストーリーは何となく覚えてる(何となくってとこがミソ!)
余りにも有名なお話。主人公ギャッツビーが大好きなデイジーと一緒になるためにとにかくお金が必要で汚い仕事をして成金となり、お金を手には入れたけど一足遅くデイジーは他のお金持ちトムと一緒になってしまう。
ギャッツビー曲線ともいわれるくらいにアメリカはアメリカンドリームと言いながらどんなにお金持ちになっても出自を問われる。
なかなか幸せにはなれない。
とは言え、とにかくギャッツビーは一途で健気でそして、涙の最後。
そんなギャッツビーにフィッツジェラルドは自信を投影してニックの目線で冷静に描いたのでしょうか?
翻訳は村上春樹もしてたのでそちらを読もうかと思ったのだけど、少しググっみると野崎孝版の方がお勧めって複数の方のレビューがあったので野崎孝版を読みました。
家の本棚にあったのだけど、一体いつのんやって思うくらいに黄ばんでた。
言い回しとかも古くて、そして難しくて意味が分からない部分とかがあり、その部分を調べるとやはり、同じように同じ部分で躓いてる方々がいてほっとした(なんでや!!)
ギャッツビーがニックやトムに「親友」って呼びかけるところが、、ううううん、オリジナルにはなんて書いてたんだろう?見てもわかんないと思うけど(笑 -
1925年発表
第一次世界戦後の狂乱狂騒20年代米国。
証券会社勤務でNYにやってきたニック。
週末に盛大なパーティーを催す隣人
ギャツビー邸。対岸には伝統的富裕層の邸宅
悲しきアメリカンドリーム。
米国人のお気に入りの一冊らしい。
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再読。
フクロウ眼鏡男のように生きたい。 -
色とりどりだが、淡くて、どこか空虚な感じが終始漂っている印象。
富裕で軽薄な人々がきらびやかなパーティーに明け暮れ、乱痴気騒ぎを起こす様が本書の中核か。
ギャツビーが、一人の女性を求め、どんな手段だろうが、なりふり構わず成り上がり、彼女を手に入れようとする、宿命的な一代記は、少々力強さに欠ける感じがした。
とにかく、金、軽薄、淡い陽光を受ける島嶼部の街並み、繊細ですぐに人生の暗部に落ち込む人々、それを皮肉に眺める主役の落ち着き、こういったことが読後に残った印象である。 -
野崎孝訳・新潮文庫・平成2年2月25日発行・42版を読んだ.
ニック・キャラウェイの語りで綴られるジェイ・ギャツビーの波乱に満ちた物語だが、1920年代のアメリカ東部では列車が主要な交通手段であり、勿論車はあるが、いわゆるアメ車ででかい感じがする.フィッツジェラルドの生涯の一部を暗示するような内容だが、彼の死後西部から訪ねてきた父親の言動が物悲しい.ギャツビーといろいろあったビュキャナン夫人・デイズィがこの物語の主人公のような気がしている.したたかな女だ. -
好きじゃないです。
それでも最後のほうは、おお、と思いながら読めたのでもしかしたらまた読むかもしれない。取りあえず初読に良い印象は残りませんでした。二度めはたのしいといいな -
よく分からないものは分からないでいい。
繊細さ、というのが一つのキーワードであると思いますが、デイジーを求めた先に幸福があると信じ切れなかった、あるいは確実にないであろうと見当をつけていたギャツビーの心情、精神状態の描写にこそ、本作の魅力があったのかな、と思ったり思わなかったり。
原文で読まなければ魅力半減本という話も聞きますので、そのうち挑戦しようかなと思いますが。
「私はアメリカというものを知らなさすぎる」とレビューされた方がいますが、正にそれかも知れません。 -
内容は難しかったけど、文章の中にある情景が浮かび、あっという間に読んだ。
アメリカ(西部と東部)について、自分がいかに無知か分かった。
これを気に勉強したくなった。
何回も何回も読めば良さが分かる…気がする。 -
最近、「名作」というものが無性に読みたいワタシ。
今まで、フィッツジェラルドの本(特に本作」はハルキストっぽくて、なんとなく敬遠していた。
しかし、「長いお別れ」(チャンドラー)の後書きで、
チャンドラーの描く語り手「マーロウ」と、フィッツジェラルドの描く「ぼく」は似ている、と。
(ちなみにその後書きは、村上春樹氏。)
そんなこと言われたら、気になるよね。
確かに、似ているかもしれない。
「テリー」と「ギャツビー」も同様。
まだ、そこまで読み込んではいないから、具体的にどこ、と言えるところにまで達してないけれど。
肝心のストーリーは、戦後のアメリカ、N.Y.が舞台。
ギャツビーの、かつての恋人デイズィへの想い。
一途って言っていいんだよね、これは。
時代背景についても、不勉強でなんとも言えないけれど、
分かればもっともっと面白いんだと思う。
ただ「長いお別れ」のように無条件でストーリーを楽しむ、軽い読書には向かないかも。
もう一回読みます。 -
ギャツビーの丁寧な話し方に惹かれる。
ニックの事を「親友」と呼ぶのもいい。 -
煌びやかなバブル時代だからこそ際立つ空虚さを強く感じるストーリーでした!