- Amazon.co.jp ・本 (193ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102095041
感想・レビュー・書評
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1951年 原題”The Grass Harp”
詩人の東直子さんがお薦めしていた一冊。
「孤独で無力な人たちが、この世界に美しいものを見つけてなんとか生きようとする姿が、心に染みます」とのこと。
アメリカ南部の小さな田舎町、保守的な考え方の人々。その空気感がじんわりと全体を包んでいる。ドリーの言葉。
「聞こえる?あれは草の竪琴よ。いつもお話を聞かせてくれるの。丘に眠るすべての人たち、この世に生きたすべての人たちの物語をみんな知っているのよ。わたしたちが死んだら、やっぱり同じようにわたしたちのことを話してくれるのよ、あの草の竪琴は」
時が経っても変わらないもの、変わっていくもの。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
カポーティの小説で『草の竪琴』を最初に手に取る人は少ないかもしれない。どこかで目にしたカバー装画とタイトルの美しさを忘れられず、ついに読むことができた。
わたしたちが人に何かを伝えたい時、それを伝えるのにふさわしい時と場所がある。まず、打ち明けられる人と一緒にいること。それから、落ち着く場所であること。自分の本性をさらけ出せる場所であること。『草の竪琴』の人々にとってそれは、九月の森の中の樹上だった。
きっかけはタルボー姉妹の、些細な心のすれちがいだった。姉ドリーは家を出て、四人の仲間-語り手である少年コリン、メイドの老女キャサリン、判事の老人チャーリー、飄々とした青年ライリー-と樹上に落ち着く。姉を探してやってきた妹ヴェリーナ。樹に上った妹は、必死で姉を説得する。そこには、いつもの強気な姿はなかった。
“ねえ独りっきりでいるには長すぎるわね、一生涯というのは”。
あたしを棄てないで、姉さんが必要なの、という妹。言うまでもなく、姉にとっても妹が必要だった。お互いにとってお互いが必要だと理解する、心が通じ合うこの瞬間が好き。
最後に、さらさらと弦をかき鳴らす草の穂のシーンが出てきた時、最初に「草の竪琴」について教えてくれたドリーの言葉を思い出した。
本を閉じ、始めに戻り、もう一度読む。
二度目は、より深く胸に刻まれた。コリンたちが「草の竪琴」に耳を澄ませていた時、わたしも隣に立っていたような気分だった。
p6
「聞える?あれは草の竪琴よ。いつもお話を聞かせているの。丘に眠るすべての人たち、この世に生きたすべての人たちの物語をみんな知っているのよ。わたしたちが死んだら、やっぱり同じようにわたしたちのことを話してくれるのよ、あの草の竪琴は」
p9
自分を部屋の置物とか片隅の影のように考え、自分の存在を何かたまたまそこにあったもののように見せる人がいるものだが、ドリーがまさにそうだった。
p12
ドリーの声はティッシュペイパーのすれる音のようにひそやかだった。そして天性の資質をそなえた者のみが持つ、澄み切った、輝く瞳をしていた。ペパーミントゼリーのようにつやのある緑色の瞳。
p34
そう、でもね、風はわたしたちなの。風はわたしたちみんなの声を集めて憶えるのよ。そして木の葉を震わせ、野原を渡ってお話を聞かせるの。あたし、パパの声をはっきり聞いたもの。
九月だった。つんと伸びた真紅のインディアン草の茂る草原を、秋の風がゆるやかに吹き抜け、亡くなった人たちの声を響かせているような、そんな夜だった。
p63
わたしたち誰にとっても、落着く場所などないのかもしれない。ただ、どこかにあるのだということは感じていてもね。もしその場所を見出して、ほんのわずかの間でもそこに住むことができたら、それだけで幸せだと思わなけりゃ。
p70
大切になのは、信頼をもって話し、共感を抱いてそれを聞く、そこにあるんですよ。
p77
「いまわたしたちは愛について話しているのだよ。一枚の木の葉、一握りの種、まずこういうものから始めるんだ。そして愛するとはどういうことなのかを、ほんの少しずつ学ぶのだ。初めは一枚の木の葉、一握りの雨。それから、木の葉がお前に教えたことや雨が実らせてくれたものを受けとめてくれる誰か。容易なことではないよ、理解するということはね。一生かかるだろう。わたしも一生涯をかけた。しかもまだ悟ることはできない。だが、これだけはわかっている。自然が生命の鎖であるように、愛とは愛の鎖なのだということ。こいつは紛うかたなき真実だ」
p79
人は話したけりゃ、話したいことを話せるでしょうよ。相手を傷つけるだけの話し方だったり、忘れてることがいちばんの思い出を引っ張り出したりねえ。でもあたしは、人間はたくさんのことを心の中に秘めておくべきだと思うね。人の心の奥の奥、これこそは人間の良き部分というわけよ。自分の秘密を喋り散らすような人間の中に、いったい何が残ってるっていうのさ。
p151
蛙や秋の虫が、ひそやかに降る雨を祝っていた。
p157
ねえ独りっきりでいるには長すぎるわね、一生涯というのは。
p164
落着いた愛情を持っている人たちに見られるように、感情を昂らせることもなく、認めあってお互いを受けいれていた。
p176
「チャーリーは、愛とは愛の鎖のことだって言っていたわね。あなたも聞いていてわかったと思うけれど、それはこういうことなの。一つのものを愛することができれば」判事が一枚の木の葉を大切に持っていたように、彼女はカケスの青い卵を掌に包んでいた。「次のものを愛せるようになるの。愛は自分自身で持つべきものであり、共に生きてゆくものなのよ。それがあれば、何でも赦すことができるわ。さあ」
p186
乾いて、さらさらと弦をかき鳴らしている草の穂に、色彩の滝が流れていた。僕は、ドリーが話してくれた草の竪琴の調べを、判事が聞きとってくれたらと願っていた。去っていった人々の声を集め、そして語る草の竪琴、人々の物語をいつまでも忘れずに語り伝える草の竪琴の調べを。 -
アメリカの作家に対し具体的な印象を持っていない。こういう作風の人と分かるのはフィッツジェラルド、サリンジャーぐらいかな。
カポーティは「ティファニーで朝食を」を読んだぐらい。
読み始めて、「ティファニー」に収録されていた「クリスマスの思い出」と同じ設定と気付く。以前、この掌編にカポーティーのイノセンスの源泉に近い作品と記したけれど、本編はシンドイ読書だった。事実に即して書かれているんだろうけれど、何か突拍子もない印象だった。「クリスマス」は主人公がもっと幼い頃の話ということもあるんだろうな。
終幕は確かに寂しい心持になったけれど。
松岡セイゴウさんは「遠い声 遠い部屋」をフラジャイルな心の文字で綴られた「夜の文体」であって、いわば「電気で濡れた文体」だ、と紹介している。
探してみようと思う。 -
主人公に関わる、周囲の人たちの人生を見つめ、様々な出来事を体験し、自分らしさを見つける物語。主人公である「コリン」が一体、何者なのか? 何になりたいのかは、最後まで読み通してみないと分からないし、読んでも分からないかもしれない。冒頭にも書いたが、主人公の事に関してはあまり書かれておらず、周囲の人たちの事ばかりが書かれている。それが、この小説の重要な部分なのだろう。余談だが、森博嗣著の「クレィドゥ・ザ・スカイ」の引用小説が、本著であった。その理由が、この作品を読了して分かったような気がする。
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再読。
カポーティは好きな作家なんだけど、これは私が好きな作品とはちょっと違うタイプ。
自伝的要素が強いらしいが、
こういった体験(若しくはこれに類似した体験)があるなら、繊細な感受性が育つのは想像に難くない。
純粋さと愚かさと。
風景が目に浮かぶほど情景描写が素敵で、
ストーリーだけではなく視覚的にもきれいな作品。 -
冗長。とても繊細で綺麗だが、飽きるし好みじゃない。
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主人公の心の拠り所はドリーという存在にあったのだろう。
「樹」は現実からの休息地。そして心象風景。
静かに孤独を見つめるコリンの内面は哀しさを催す。 -
read:The Grass Harp(Capote)
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ノスタルジーやイノセントを主題とした作品を書く場合、多くは独りよがりの美化されたものにしかならない。
けれど、カポーティーの美化は他とは違う。
それは決してきれいではなかったものまできれいに書いてしまうのではなく、あの頃自分が本当にきれいだと思ったものだけを正確に書いているのだ。
だから、彼の小説はどこまでも透明で幼く、美しい。 -
正直途中で、「は?で?」って思うことがあって
解説読んだらどうも私小説だったみたいで。
イッヒロマンじゃなくて日本語的な私小説ね。
作者が主人公で実体験を語るようなものに近い小説だった。
のでなんだか納得。
本人には重要な事柄でも、傍から見たらそうでもないことってあって
それを小説として仕立てられても
作者に共感できない以上無理っていう
それだけの話なんでしょう。きっと。
小説の良し悪しではなくて。
合う合わないの話。
一方的に知られていて、
「大きくなったね」
って言われても
こっちは覚えてなくて
知らないオジサンオバサンの家で寝起きを共にする
そういう心細さなら共感できる。
けどそこで私はオジサンに恋心を頂いたりはできなかったから
その時点で多分ひいちゃうんだろうな、と。
だからイマイチ感情移入できないままに
彼女が死んでしまったので、「はぁ」って思ったんだと思う。
私小説が嫌いなわけではないんですけどね。けして。