- Amazon.co.jp ・本 (707ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102097045
感想・レビュー・書評
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激しい愛の物語。
画家バルチュスは、こよなくこの小説を愛したといいます。確かにどこかが類似しているかもしれません。それは、暴力的な激しさに尽きると思います。
嵐のような愛の物語なのだと思いました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
嵐が丘の娘、キャサリンと拾われた孤児ヒースクリフの愛憎を巡る物語。
著者唯一の小説で、かなり粗く堅い文体と構成だけれども、それが物語りの雰囲気と合って緊迫感を生み出している。
物語は、嵐が丘という館の女中が、旅人の”ぼく”に現在進行形である人間劇を語って聞かせるという構成。そのため主人公たちとの不思議な距離感もある。
キリスト教圏の小説を読むと、やはりキリスト教の教えというのが根底にあると感じます。またこの堅さは、やはり身分や男女の差の激しかった当時の女性は生き辛かったのかな、とも思います。 -
序盤は他の方々と同様、
登場人物の名前を覚えることに手一杯になります。
キャサリンは2人いるようだし、
嵐が丘の住民達は不可解な関係にある。
「なぜだろう?」
本を読み進める。
語り手はころころ変わります。
コメディ小説とも恋愛小説とも復讐劇ともとれます。
時には語り手が余計な事をして
状況を悪化させてしまい読んでいる身としては
やきもきしてしまったり、
物語の主要人物、
ヒースクリフが何故そこまで
キャサリンに、あるいは嵐が丘に
執着してしまうのだろうかというほど
気が狂ってしまいます。
このまま悲劇で終わるかと思えば、
まるで少女小説かのような甘酸っぱい結末。
一度読んだだけでは、
嵐が丘の良さはまだまだ理解できていないと思うので
忘れた頃にまた読み返したい作品です。
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どういうきっかけで、今頃「嵐が丘」を読むつもりになったのかよくわからないのですが、たぶん、「自負と偏見」を読んだあとで、若干、ビターローストな味にお口を変えてみたいなぁ、と思ったんだろうな・・・
で、持っていたはずの嵐が丘を探す、と、本棚の後ろの方に、ありました。
そして、朝日がさんさんと窓から差し込む、さわやか通勤電車の中で、わたしは寒風吹きすさぶヨークシャーに連れて行かれ、来る日も来る日も、病とわがままと罵詈雑言と暴力におともするはめに。
やった~!えらいぞ自分!
じめじめな暗さに耐えて、よくぞ読みきった!
”わたしが経済的に安定すればあなたのためにもなるんだし、あなたへの愛情と結婚相手の愛情は、種類が違うから、結婚してもわたしたちは今までとかわらずにいましょう(にこっ)”的な、いい考えだと思ったのかのかどうなのか、なんだか能天気な一代目キャサリンの結婚がそもそもの元凶なのだけど、それがここまでの激しくも哀しい恨みと復讐の物語になっていくなんて。
この作品、中学生の時に読んでもナンノコッチャだっただろうな・・・
今読んでも、状況を理解するのにかなり時間をくいました(+ +)
結局、病もわがままも罵詈雑言も暴力も、成仏できない恋心ゆえに、繰り広げられた復讐だったのね…
でも、読んでいるうちに、ヒースクリフの執着心や乱暴さよりも、キャサリンの激しさのほうに興味をつかまれて、「なんちゅー女だ」と思うのとともに、これぐらい、好きなこと言って感情をぶつけながら生きられたらいいなぁ・・・なんてちょっと脱線してました。
ネリーが二代目キャサリンのことを指して「小悪魔」と表現した箇所があったと思うけど、まさにそれ。親子して、不思議な魅力を持ったおそろしい女性であり、そこにはからずもひかれてしまいました。
そして、余計なひとこと炸裂のネリーや、イラッとさせる名人のリントンを筆頭に、登場人物が少ない割に、みんなキャラクターがおかしくて、じめっと暗い中にも、またやらかしてくれたね的な楽しみが、この作品を読む支えになっていたのは確かです。
とはいえ、読み切った時、ようやくこの世界から解放された~!と喜びが押し寄せました。
こんなに疲れる作品はひさしぶり。
同時に、とってもやるせなかった。誰も幸せになることもないし報われてないし。
ヒースクリフの後日談がもう少しあるのかと思いきや、結局、キャサリンの幻に毎夜悩まされ、あっさりと連れて行かれたと聞いて、なんだか拍子抜け。
でもヒースクリフの想いは、周りの人への復讐がいくら完成したところで遂げられるものではなく、それも自分でもわかってたんだろうしね。むなしいけど自分の思うところの天国に行きついたんだろうからよかったんだろうなあ。
正直、読んでいる間はこの作品が嫌いで、早く脱出したくて、「こりゃー星ふたつだな」とか思ってました。
そして、終わりまで来たときには解放感でほっとしたけれど、少し時間が経った今は、もう一度読み直してみたいという気持ちになっているから不思議。
わたしもとりつかれてる!?
その「とりつかれ具合」によって、星よっつです。
でも、次に読むときは、もう少し古い訳のものを探してみようと思います。
やっぱり自分は、外国文学は、古めかしい訳で読むほうが好きなんだと実感しました。 -
想像していた内容よりはるかに激しくて、両家の間で、結婚、死別の繰り返し、いじめあり、復讐ありで、すっかりはまりこんでしまいました。
家政婦のネリーが語るという表現法が、読み手に好奇心を抱かせてくれているようです。
最後まで読み切って、題名の「嵐が丘」の意味が、やっとわかったような気がします。
物語の展開が昼ドラ的で、映画ではどんな仕上がりになっているのか知りたくなりました。 -
強烈のひとこと。
だれも心を寄せられる人物がいない(笑) でも、それでもしばしのあいだ心のなかに人物が住みつくあの感じが残るところが、やはり名作たるゆえんなのだろうな。読書会向きというか。人の感想も聞いてみたい~。
読みはじめ、二種類の訳をいったりきたりしたのだけど、鴻巣さん版は、語りの枠のあり方(誰が語っていて、その人がこの物語のなかでどんな位置づけなのか)が、台詞回しだけでも明確に描き出されていて、すんなり物語に入れた。
考えてみれば、いちばん最初に登場するのが、縁もゆかりもない下宿人て、導入としてはかなり難しくないですか? でも、第三者がいないと語る動機がないからこうせざるを得ないのか。
しかしヒースクリフというのもなかなか難儀な人物で、ひろって育ててもらったけど(よかった)、その養父が亡くなってから徹底的にいじめられ(気の毒)、家を出てどこで何をしたのかわからないけど教養身につけて財産を作り(すごい)、嵐が丘に戻ってきてひたすら自分のいじめた者たちへの復讐をはかり(わかるけど何もそう執着しなくても)、キャサリンを激しく愛し、憎み(激しすぎんよ)……。
ヒースクリフが死んだあとの嵐が丘の、窓が開け放たれて風が通り、キャサリン・リントンとヘアトンが仲よく口げんかしながら会話したり勉強したりしている、あのおだやかな空気が、どろどろの闇世界のあとでは、なにか異世界というか、ファンタジーのようにすら感じられた。E・ブロンテ/C・ブロンテとひとくくりにするけれど、『ジェーン・エア』とはまっったく毛色のちがう作品ですごかったです。 -
☆☆☆
映画の幕が上がる、嵐が丘の鬱々とした屋敷が映る。
英国紳士の上品かつ尊大そうな声のナレーションが始まる。
「1801年――いましがた、大家に挨拶して戻ったところだ。...」
とロックウッドなる紳士が、ヒースクリフ氏が住んでいる「嵐が丘」に訪ねるシーンになる。
人間嫌いのヒースクリフ氏がロックウッド氏にどんな仕打ちをしたか、どんなに「嵐が丘」が妖怪じみ鬼気せまっていたか。二度の訪問で、ものすごい好奇心にかられる。
風邪を引き寝込んだロックウッド氏が退屈紛れに、借りている「鶫の辻」屋敷の家政婦ネリー・デーンから長い長い物語をしてもらうことになる。
ネリー・デーンのナレーション。
「こちらのお屋敷で暮らし始める前は...」
☆☆☆
私は『嵐が丘』の映画は観たことがないが、今回新訳ということで再々読し、読みながら映画のシーンが浮かんでくるような心地になった。解説にもあるように優秀な「カメラワーク」のある小説である。
しかも、あらすじも情景もしっかり覚えているのに、ぐんぐん引き込まれヒースクリフとキャサリンの恋というには恐ろしい我執に圧倒された。要するに古くないのだ。
訳者鴻巣友季子が留意したという、第二の語り手家政婦ネリー・デーンをも主人公にという配慮もあって、物語り全体が引き締まっていた。
ヒースクリフといいキャサリンといい強烈の個性を発揮するのだが、その息子や娘たちや使用人に至っても猛烈な癇癪玉を破裂させ、語り手ネリーも相当なものだし物語の操り手のようでもありすごい。
ずっと昔、河出版「世界文学全集」の8巻、三宅幾三郎訳を読んだときは、この「入れ子」状態がはっきりせず、だだ物語の異常さにびっくりした。
10年前、次に読んだ中央公論社の「世界の文学」12巻、河野一郎訳のときはネリーの語りが謙虚で、登場人物がよくわかりすっきりした面白さだった。
ネリーともどもくんずほぐれつ、嵐のふきすさぶような怒涛の精神放浪は、また異角度の、新発見のこの『嵐が丘』であった。
読んだ方も再読の価値ありだと思う -
轟々と燃える、愛憎と復讐の群像劇。
過激で口の悪すぎるネリーおばさんの弁舌に、終始エクストリーム・ロデオさせられる私。
何度も落馬しつつ読み進んだ荒野の最果て。そこで見た愛の結実と静謐には絶句しました。 -
有志で開いている読書会がきっかけで、世界の名作小説の代表格であるエミリー・ブロンテの『嵐が丘』を数年振りに再読。何度読んでもこの小説の謎と魅力は色褪せないなと思います。今回で読むのが3、4回目だっとこともあり、語り手ネリーの「信頼できなさ」を以前より強く感じたのですが、同時にネリーの語りのうまさがこの小説全体の面白さを創り出していると思うし、彼女の語りが上手いからこそ読者は物語に引き込まれていくのだと思います。
鴻巣友季子訳版は初めて読みました。現代の読者がとっつきやすいよう工夫されている訳出はあまり古典文学に馴染みがない読者には親切である一方、この作品の世界観を損なっているように感じてしまう部分もありました。