カリギュラ・誤解 (新潮文庫)

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制作 : 渡辺 守章  鬼頭 哲人 
  • 新潮社 (1971年1月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102114056

カリギュラ・誤解 (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

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  • カミュの戯曲は、サルトルの戯曲より分かり易い。
    サルトルの戯曲は、サルトルの小説より分かり易い。
    サルトルの小説は、サルトルの哲学書より分かり易い。

    いかにカリギュラ、誤解が分かり易いかの説明になったろうか。

    カミュを読んだ後に、安部公房を読み、時代性を理解した。
    分かり易いことが文学の必須事項ではないかもしれない。
    そんな気にもなるかもしれない。

  • カリギュラは、戯曲の一つで舞台はカリギュラの宮殿。最愛の妹であり情婦であったドリュジラを失ったカリギュラは、3日間失踪したのち人々の前に姿を現す。それまで理想的な君主であった彼はその日を境に豹変し、月を手に入れるといった不可能事を求めはじめ、神に代わる者として気まぐれな圧制を敷くようになる。それから3年の間、カリギュラは民から財産を奪い、臣下を殺し、妻を奪い、また自らグロテスクな仮装をして乱痴気騒ぎをするといったことを続ける。臣下は恐れをなしているが、彼に父を殺された少年シピオンや年増の情婦セゾニア、奴隷出身のエリコンらは彼を憎むことができない。しかし、冷静な臣下ケレアは着々と暗殺計画を進める。その計画は回状のかたちで事前にカリギュラに露見するが、カリギュラは自分に逆らうのも休息になると称して、ケレアの前でその証拠の回状を破棄する。そして「死」を題材にした詩のコンクールを開き、反逆のざわめきが響き始めるなかでセゾニアを絞め殺したのち、押し入ってきたケレアたちの手にかかって自らも息絶える。
    1945年9月26日、パリのエベルトー座にて初演。演出はポール・エルトリー、主演はジェラール・フィリップ。当時まだ若手の無名役者だったフィリップの好演もあって記念碑的な成功を収め、50年代にも様々な役者で繰り返し再演された。日本初演は1968年、劇団こだま公演。

    『誤解』(ごかい、仏:Le Malentendu)は、1944年に初演されたアルベール・カミュの戯曲。3幕。舞台はある田舎の小さなホテルで、ここを経営する女性マルタとその母親は、暗い自国を抜け出して太陽の照る海辺の街で暮らすために、たびたび宿泊客を殺して金品を奪っていた。そこに、大昔に家を出ていったマルタの兄ジャンが身を立てるのに成功して戻ってくる。彼は母親たちを救うために戻ってきたのだが、彼女たちの悪事のことは知らず、驚かせる目的で自分の正体を隠したままこのホテルに宿泊する。羽振りがよく独り身と見えた彼は格好の餌食となり、マルタと母親はジャンを睡眠薬で眠らせて川に放り込む。しかし間もなく残されたパスポートから自分たちの肉親を殺してしまったことを知り、母親は絶望して息子の後を追うが、マルタはジャンの様子を見に来た彼の妻マリヤに冷たい言葉を投げつけて去っていく。
    この物語は東欧で実際に起こった事件から着想を得ており、カミュはこの事件を小説「異邦人」(1942年)の中の三面記事として登場させている。後にカミュの古い記録の中から発見された日付のない「序文」の中では、カミュはこの劇を「現代の筋書きの中に宿命という古代のテーマを再び取り上げる」ことを試みたものと記している。「誤解」は「異邦人」「シーシュポスの神話」「カリギュラ」につづく「不条理」を主題にした作品群のひとつで、「カリギュラ」執筆のあと1942年から43年にかけて書かれたが、上演は「カリギュラ」よりも先であった。初演は1944年6月、パリのマチュラン座で、マルセル・エランが演出およびジャン役、マリア・カザレスがマルタ役であったが、初演時は評価されず、その後1945年9月に「カリギュラ」の上演が大きな成功を収めてから再評価された。

  • カリギュラは至高のうちの1つ

  • はじめてカミュの演劇を読んだが、小説を読んだ時よりも、彼が目指していたものが息づいているように感じられた。
    皇帝カリギュラはある時気付いてしまった。ひとは死ぬ。死ぬとはなんだ。そして今、生きているこの俺はなんだ。
    史実のカリギュラの名前を借りただけで、別に発狂したと言われるあのカリギュラではない。このカリギュラは、狂うということさえできなくなってしまった、きわめて目覚めてしまった皇帝なのだ。
    存在するというそのことは、ありとあらゆることが許され、可能という不可解な事態が成立してしまっていることだ。ありとあらゆることが可能であるなら、国家というものの成立も、ひとの生き死にもすべてが可能なはずだ。彼はそれを体現したに過ぎない。プラトンの国家の裏にカリギュラの国家が存在する。ところが、ありとあらゆることが可能なはずなのに、どういうわけか、あの月に触れることができない。どんなに願っても、ケレアやシピオンが感じるものを感じることができない。どうあっても、カリギュラはカリギュラであるから。剣を突き刺されるその瞬間までも、彼は死ぬことができない。存在とは不滅だから。ただ、生きているより他ない。彼が月を求めてやまないのは、届かない絶対的な他者だからこそ惹かれるのである。たとえ、愛人が亡くならなくても、遅かれ早かれ、彼はこの渇きに襲われたに違いない。実際にカリギュラを演じる役者は、この途方もない無限な孤独をその所作で演じなければならない。
    ケレアは誰よりもこのことに気付いていたから、最期に真っ向から切りつけた。まるで自分自身を殺すかのように。シピオンはいつの日か分かち合えることを信じて旅立った。ところが、そんな愛や希望というものは生きるということに目覚めてしまったカリギュラには、あまりに遠すぎる彼岸であった。理由なくこじれていく悲劇ではない。カリギュラがいてしまうはじめから、悲劇だったのだ。
    その点誤解は、人物の交錯が悲劇を編み出していくのかもしれない。しかし、序文でカミュが触れているように、これは悲劇から変貌した反抗の強い力だ。マルタにマリヤは、一見すれば、誰からも認められないというところに沈み込んでいるように見える。ところが、誰からも認められないということは不可能なのだ。認められていないと認めるこの自分がいるからだ。そんなことを忘れ、自らの生の不条理を正当化しているところにマリヤの誤解はある。一方のマルタは、一人というものに突き落とされてようやくそのことに気付いてしまったのだ。悲劇形式の変貌、反抗の力は、この誤解に気付くところにある。悲劇を演じることで、悲劇に反抗する力となる。だから、本質的に誤解は悲劇ではないのだ。

  • 2013.2.7 読了

  • 「カリギュラ」
    ミーハーなので、愛妾兼妹の死という設定や、シピオン・セゾニアとカリギュラの関係性に萌えてすみません。この本でのカリギュラは、暴君でありつつも論理的かつ正直であろうとする魅力的な人間として描かれている。
    「誤解」
    人は求めても需要と供給が一致しなければ孤独なんだなあ。

  • 20130102

  • 衝撃

    読み終わり(6/26)
    p.222迄(6/26)
    読み始め(6/26)

  • もはや絶版。ローマ皇帝の狂気における冴え。傍で見ている分には楽しいんだろうなー。中入るのは嫌ですけど。人物の強弱、セリフ回しに考慮した歴史?戯曲。「誤解」の方も切なく血縁と当たり前に過ごせることのありがたさを感じました。

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