幸福な死 (新潮文庫)

  • 新潮社
3.26
  • (23)
  • (45)
  • (154)
  • (23)
  • (2)
本棚登録 : 960
感想 : 58
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (295ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102114087

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  休みの日に何かしなきゃと使命感に駆られることの正体を感じられた気がしました。
    メルソーの幸福の追求の過程を読んで自分が幸せな休みを過ごすことで自分の人生は有意義だと正当化しようとしているんじゃないかと感じました。その一方で帰り際に感じる虚しさはこんなことしても自分の人生は幸福だと言えるのか?独りで無為にどっか行くことが?と自問にも捉えられました。それはわざわざ孤独になることで女たちの存在に幸せを感じるメルソーのように、それが幸福なのかを自分で証明し続けないといけない労苦に感じました。
     自分でもちゃんと読めたわけではないのでこれからより再読していきたいと思えてしまう謎の魅力があり、そこが異邦人を未だに悩みながら読んでいる理由を見つけることにもなりそうだなと根拠なく思ってます。

  • カミュの未発行の作品。もしかすると、読まれることのなかったもの。しかし、それをこれが完成形として出版するのではなく、あくまで、未発表のものであって、彼がどのように試行錯誤しヴァリエーションを考えていたかまでも載せてくれる刊行者の態度のおかげで、カミュという存在に生きて出会える。
    たぶんスタート地点は『異邦人』と同じ。生きるとは、死ぬとは、一体何なのだ。彼はずっとそのことを考えていたに違いない。生きていくことは死んでいくことである。彼にとって、死を考えることは生きることを考えることと同じである。
    生きるとは、理由もなくどういうわけか、ここに存在してしまうことだ。そういう意味でひどく不条理なのだ。けれでも不条理であってもやはり存在できるということは条理でもある。このせめぎ合いを突き詰めたのが『異邦人』。
    この『幸福な死』では、同じ生きるでも、その不条理性から攻めるのではなく、その幸福、善さから攻める。ひとが生きる限り、善く生きないことは不可能。幸福を求めずに生きることはできない。ならば、幸福とはいったい何なのだ。彼はそのための試行錯誤を繰り返して作品を考えていた。細かな時間設定、描写、配置、書いては消して、考えて。それをひとに伝えるために彼はずっと苦心していた。哲学者と違って、彼は緻密に論をたてるのではなく、ことばの感覚が与えるある一定の飛躍をもって、見せようとする。だから、どのようなイメージをみせるかについて、非常に細心の注意を払う。
    幸福というものについて、彼は自然な死と意識された死という二部構成で臨んだ。
    自然な死では、家族やおいする人間、金銭的なものについてから幸福を考える。しかし、それらがもたらすのはあくまで「自然な」死なのである。別にそれが悪いとか、不必要だとか彼は決して言っていない。ただ、それは「自然」なのだ。太古から変わることのない、そういうもの。しかし、人間が生きて存在するということはそういうばかりではない。
    意識された死では、そういうものに煩わされることのない人間が向かう死を考える。なぜ、ザグルーの金を手に入れて満たされたメルソーを扱ったのかは知らぬ。だが、おそらくは、金が在ろうと無かろうと、死ぬことには変わりない、そういうカミュの考えがあってのことだとは思う。幸福に生きるとは、何かが満たされることとは関係ない。それを求められるそこにもう実現している。幸福への意志。これこそが幸福なのだ。
    しかし、この時かれは気付いていなかったのかもしれない。あるいは、わざと書かなかったのかもしれない。この幸福の意志こそ、不条理で、反抗的なものであるということを。メルソーはムルソーと違って、意識的に何かすることはあまりない。メルソーは意志に気づいただけで、意志的に何かをすることはあまりなく、どこか、観察者のようなところがある。カミュがこれを発表しなかったのは、この意志的なものこそ、自分が考えていたものであって、これを書くにはこの『幸福な死』では不十分であると考えたからに違いない。

  • 最後の方にもあったが、storyとしては下手なのかもしれない。しかし、いかにカミュが考えていたのか、その思考が見える点で、とても貴重な資料だった。
    人生をやり直せたら。
    私もメルソーと同じ言葉を言いたい。

  • アルベール・カミュが処女作として書き、生前日の目を見なかったが、あの「異邦人」のベースとなったと言われる作品。
    主人公のメルソーは恋人との関係を持つ、両足の無い不具者で有り富を持つザグルーについての会話の中で金と幸福についての相関性を説かれ、自分の人生を馬鹿にされたとの思いを持つ。
    ザグルーを射殺したことにより、その富を奪い取り、富による幸福を目指し、放蕩をする。最終項に於いてメルソーは死に至るが、奪った富により得た幸福な生は、その死を幸福にしたか、決定的な彼の言は無いので、読者に委ねられる。
    カミュがまだ若くその生活に貧困があった事から求めを小説の中で描きたかったのだろうけど、「異邦人」ほどの哲学性は残念ながら見つけられなかった。但し文体の煌めきはこの頃から際立ってはいると思った。

  • 文章の書き方は異邦人にも通ずるが中々馴染めず非常に読みづらかった。(特に第二部、意識された死・・)カミュによって書かれ夫人の所有物。刊行も作者自身ではなく周囲が行ったもの。前書きにある通り、一つ一つの刊行を軽々しく行わなかったカミュにとってこれは望むかたちなのか、注釈にページ大部分割かなきゃ読み解けないような本でよいのかなど、カミュという人物の探求の為ならとても参考になる本なんだろうけど作品単体としては好きになれなかった。

  • やはり現代で思想や理念を理解するのには、文章の構成が難しく感じた。テーマがやはり不条理を意識して書いているので、物語の中の出来事に何か意味を持たせていると推測して読んでしまうのは、すこしもったいない。主人公の追及していたテーマが最後の章で幸福であるとわかったとき、はじめて理解が出来たと、読者側からは思う。それは現代の人間にも共通する永遠のテーマである。自己実現という考えに結び付いたからだ。ベルナールという医師が出てくるが、「あまりに人生を愛しすぎていて、自然に満足できない」とのセリフが印象的だ。お金を使って水浴を楽しむことではなく、行動し、強引に何かをやること。

  • 没後60年を迎へたアルベール・カミュの話。1957年、カミュは43歳の若さでノーベル文学賞を受賞したのですが、そのわづか3年後の1960年、自動車事故にて亡くなりました。
    その死後に発表された作品もいくつかあり、この『幸福な死』もその一つであります。

    『異邦人』でも、主人公ムルソーが死を前にして幸福感に浸る場面がありますが、ここでも死へ向かふ不条理さが満載であります。それもそのはず、解説によると、この『幸福な死』は、『異邦人』の草稿段階なのださうです。さう言はれると、『異邦人』で読んだやうな記述があつたり、主人公の名前もメルソーで、何となく似てゐます。

    本文はかなり観念的な描写に終始してゐます。一応ストオリイはあるんですがね。
    そのメルソーは金を奪ふ目的で、身体障碍者のザグルーを殺害します。ザグルーは、恋人のタイピスト、マルトなる女性の彼氏の一人でした。ザグルーは嫉妬から殺したのかと思はれましたが、理由は別のところにありました。

    ザグルーから奪つた金で、八時間も働かされてゐる事務所から自らを解放させ、しよぼくれた一人旅をして、「世界をのぞむ家」で三人の女性たちと同居し、さらにその家も去り一人になると、肋膜に異常を覚え病床の人になります。最後は遠のく意識の中で、心は歓喜に浸つてゐたのです......

    なるほど、『異邦人』に似てゐます。しかも『異邦人』がその後世に出てしまつたからには、意味がなくなつた作品かも知れません。本書の存在意義としては、巻末の「ヴァリアントならびに注(ノート)」「『幸福な死』の成立について」が収録されてゐることでせうか。カミュ未亡人が公開した研究者向けの資料のやうです。あまりに詳細でくどいので、わたくしは途中からスルーしてしまつた。

    決してつまらない作品とは申しませんが、『異邦人』を読んだら重ねて本書を読む必要もないかなあといふ感じであります。『ペスト』『シーシュポスの神話』などカミュの主要作品を読んで興味深いと思つたら、一読するのも宜しからうと存じます。

    http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-825.html

  • 作者が刊行しなかった未完のものが死後刊行されたもの
    なので小説としてはよくわからないが
    題名が示す通りその語るところは幸福
    幸福とは何かというようなじこけーはつなことではもちろんなく
    幸福足ろうとするときそれを妨げられないありさまにおかれた生き方を描いて
    人間から新しく哲学とか宗教を見出そうという態度だと思われる
    未完だからたぶん
    一神教を意識した現代思想が老荘思想みたいなかんじかもしれない

  • よく読み解けないところも多かったが、幸福の感覚、肉体の感覚を意識しながら読んだ。

    “明晰”という言葉が何度も出てくる。その言葉から私は、手術の後、酷い痛みがあるのにクリアな意識を保っていたいという理由で鎮痛薬を拒否した人を思い出す。

    選択、反抗、それらを明晰さを失わずし続けるにはなんと強い意思が必要だろう。

    夕暮れがきて夜になり、朝がきて太陽が昇る、その丁寧な繰り返しの美しい描写、わくわくするような季節の移り変わりによる時間の流れにうっとりする。

    パトリスは爽やかな大地と一体となり消滅しつつ存在しているみたいだ。

  • この作品を後編纂だから資料的価値しかないとする人もいるが、そんなこともないだろうと思うのだ。自分ただひとりという可能性もなくはないが、「幸福な死」をひとつの立派な文学作品として愛してやまない人間がこの世には存在するのだから。

    カフカの作品群がそうであるように、またこの作品も偏見なく身近に親しまれるものになってほしいと願う。

    乾いた文体、海、太陽、死、そして「神」。
    作者と読者の距離は「異邦人」のそれよりも近い。この作品は自分にとって「神」に見張られていることを悟っているメルソーが、自らの死場所を探し求める旅のように思える。GODの文字が絶えず空で明滅している、そんなイメージ。水浴は彼にとって一種の自己放棄だし、その氷のような冷たさは神の愛のように身を焼くものなのだから。

全58件中 1 - 10件を表示

カミュの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
三島由紀夫
ドストエフスキー
ドストエフスキー
サン=テグジュペ...
ヘミングウェイ
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×