革命か反抗か―カミュ=サルトル論争 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (174ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102114094

作品紹介・あらすじ

歴史を絶対視するマルクス主義を批判し、暴力革命を否定し、人間性を侵すすべてのものに"ノン"と言い続けることを説いたカミュ。彼の長編評論『反抗的人間』の発表をきっかけにして起きたサルトルとの激しい論争を全文収録。カミュ、サルトル二人の思想の相違点を知るとともに、現代における人間の尊厳、自由について考えさせる必読の書。ほかにF・ジャンソンの二論文を収める。

感想・レビュー・書評

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  • (2015.12.26読了)(2015.12.23借入)
    副題「カミュ=サルトル論争」
    サルトル関連の本を読んでいるついでに、薄そうだったので手を出しました。
    カミュが1951年に出版した長編評論『反抗的人間』をめぐる論争の本です。
    『反抗的人間』についての批評をフランシス・ジャンソンさんが、『現代』に書いたら、それに対して、カミュが反論してきたので、サルトルとジャンソンさんがそれに答えているものを、一冊にまとめたものです。
    『反抗的人間』を読んでから読むべき本なのかもしれませんが、『反抗的人間』を読んでからこの本を読んでも、わからなさ加減は、変わらないだろうと思います。
    「異邦人」「シジフォスの神話」「ペスト」にも言及されていますが、そちらの方は、ずいぶん前に読んでいるので、雰囲気はわかります。
    何が問題になっているかは、あとがきに訳者がわかりやすく書いていますので、助かりました。
    「この論争の中心は、歴史をどういうふうに解釈し、これに参加するか問うか、参加するとすればどういう態度をとるべきかという点にある。」(171頁)
    「『反抗的人間』は、カミュの反共産主義の立場をはっきりうち出したものである。」(172頁)
    「カミュの言う反抗的人間は、いかなる場合でも人間性を尊重し、人間の尊厳を失わずに、許される限りの自由と幸福を手に入れようと努力する。」(173頁)

    【目次】
    アルベール・カミュあるいは反抗心(フランシス・ジャンソン)1952年5月
    『現代』の編集長への手紙(アルベール・カミュ)1952年8月
    アルベール・カミュに答える(ジャン・ポール・サルトル)1952年8月
    遠慮なく言えば…(フランシス・ジャンソン)1952年8月
    あとがき

    ●マルクスのことば(108頁)
    「<歴史>はなにもしない……すべてなすのは人間であり、現実の、生きた人であり、<歴史>は、固有の目的を追求する人間の活動性にすぎない」
    ●革命(130頁)
    カミュよ、革命というものは、人間によって、人間としての存在する権利をかちとろうと努力する普通人によって、成しとげられるものであり、ことに彼らによって成しとげられるものである。

    ☆関連図書(既読)
    「異邦人」カミュ著・窪田啓作訳、新潮文庫、1954.09.30
    「シジフォスの神話」カミュ著・矢内原伊作訳、新潮文庫、1954.11.15
    「ペスト」カミュ著・宮崎嶺雄訳、新潮文庫、1969.10.30
    「実存主義とは何か」サルトル著・伊吹武彦訳、人文書院、1955.07.30
    「水いらず」サルトル著・伊吹武彦訳、新潮文庫、1971.01.25
    「悪魔と神」サルトル著・生島遼一訳、新潮文庫、1971.12.25
    「サルトル」海老坂武著、岩波新書、2005.05.20
    「サルトル『実存主義とは何か』」海老坂武著、NHK出版、2015.11.01
    (2016年1月6日・記)
    (「BOOK」データベースより)amazon
    歴史を絶対視するマルクス主義を批判し、暴力革命を否定し、人間性を侵すすべてのものに“ノン”と言い続けることを説いたカミュ。彼の長編評論『反抗的人間』の発表をきっかけにして起きたサルトルとの激しい論争を全文収録。カミュ、サルトル二人の思想の相違点を知るとともに、現代における人間の尊厳、自由について考えさせる必読の書。ほかにF・ジャンソンの二論文を収める。

  • これを収録するなら、まず『反抗的人間』の収録をしてください。
    ジャンソンもサルトルもカミュもお互いに読んでいるからああいう手紙のやり取りができるけれども、文脈のわからないまま読んでも、カミュのことばに触れることができず、ただジャンソンとサルトルがまくしたてるのをうんざりしながら読むだけだ。得られたのは、いかにカミュが誤解されているかということだ。
    カミュは哲学畠に生きた人間ではないから、ことばでがちゃがちゃ書き立てるのではなく、論理の飛躍の力で伝えようとする。そこが魅力であり、誤解の元ではないかと感じる。この論争を難しく面倒なことにしているのは、カミュのことばではなく、哲学とか批評とか称しているジャンソンとサルトルの方にある。
    まずはジャンソン。かみつくところがカミュとは違うのだ。カミュは右翼とかマルクスとかどうでもいいのだ。反抗し続けた結果、それが保守的だとか進歩的だとか取られるにすぎない。カミュの反抗はもっと存在に根を下ろしている。歴史を無視したり、人間を否定しているのではない。誰よりもそういうものの存在を感じているから、あえて反抗しているのだ。カミュの反抗とは、ニヒリズム的なものではない。どうあがいても歴史から逃れられない、人間という存在から逃れられない、そんなものが存在しないということから逃れられない、だからこそ、わざと自覚してその中で生きることで、その逆を語るのだ。神に反抗することで、神を強く認めているのだ。カミュは生きる世界がこの「存在」から始まることに無力にも「反抗」しようというのだ。ヘーゲルが存在を認めるところから始めたのに対し、カミュは存在に反抗することで存在に迫るのだ。これを「神の愛」「神に許されている」とするなら、なぜこの存在は今ここにいるのか。彼はひたすらにその「愛」に反抗し続けて、し続けて、どんなに反抗し続けても「許されている」というこの事実にある意味では絶望して、しょうがない生きてやっているのだ。その存在から生まれた世界だとかイデオロギーとかは存在という本質の前には作り物にしか過ぎない。この世界が作り物だと自覚して生きるのと、そうでないのとでは大きな違いがある。別に彼は道徳主義者などではない。あえて道徳的に生きてやっているのだ。カミュの中庸とは右翼と左翼の中間というものではない。彼の中庸は、どちらでもあり、どちらでもない、ひとつの存在のことを言っているのだ。どうしてこれがわからない。カミュに問うなら、どうしてそんなまでして生きて書いてやっているのだとか、反抗しているお前は誰だと問うべきだ。彼は貧困とかブルジョワとかそんなところに立っていない。批評家であるはずなのに、どうしてそういうものを外して読んでやれないのだろう。そんなところにかみつくようでは、ひとのことばを聞いたり読んだりすることにはなっていない。ジャンソンは「われ反抗すゆえにわれら存す」ということばをもっと考えるべきだ。「われ」が反抗する、孤独であり異邦人であるはずのこの「われ」がどういうわけか「われら」という多と共にあるというこの飛躍にカミュは驚いているのだ。連帯しようとしてするのではない、気付いたら連帯してしまっていたのだ。コミューンをカミュが訝しがるのは、必然性の伴わない連帯だからだ。存在に基づかない連帯だとか革命だとか騒ぐから、彼は避けるのだ。彼はそんな小さいところで生きてはいない。
    お次はサルトル。ジャンソンと自分は違うというところをいたく強調して述べていたが、編集長であるサルトルがジャンソンの批評を載せるということは、やはりジャンソンのことばを認めていなければ掲載などということはできない。ジャンソンのことばに一理あるというサルトル自身の立場を表明しているという行動に他ならない。カミュが編集長と編集長の批評家を厳密に区別しようとしなかったのはそのためだ。
    サルトルとカミュの大きな違いは、どうにも逃れられないこの存在、(サルトルのことばでは「歴史」)を認めて生きるか、反抗して生きるかという違いである。サルトルの姿勢は、どうあがいても逃れられないなら仕方ない、認めるしかないよね、という感じ。だから、カミュと違って、そこに迫ることはできない。カミュに言わせてみれば盲従であったりとか屈服とか言うのではないか。どうもこの辺がサルトルはやっぱり「学者」なのだ。探究すればするほど、わからなくなる。わかってしまっては「学問」は成立しえないから。カミュの飛躍はあえて反抗してみせることで逃れられない歴史を強く認めているというところだ。うそをつくことで、誰よりも真実を語る。歴史の変革を強く望めば望むほど、歴史という大きな存在は何も変わらない。革命なんか達成しえない。だったらそのことを自覚して生きればいいじゃないか。シーシュポスの生き方は反抗的であると同時にきわめて達観した生き方なのだ。
    したがって、「自由」というものもふたりは違ったものとして考えている。サルトルは「自由とは、今日、自由になるためにたたかう自由な選択肢」というが、カミュはそんなこと痛いほど知っている。シーシュポスは石を戻しては転がされ、戻しては転がされ、戦い続けた先にどうあがいても自由であることを認めずにはいられない、そう知ってなあんだと微笑んで、今度は「あえて」石をもとに戻しに行くのだ。自由とはカミュにとって戦わずとも初めから実現している、そんなものだということだ。サルトルが戦えというより先に、カミュはすでに戦う必要性を感じなくなっていたのだ。それがサルトルには生ぬるく見えたのかもしれない。歴史に最良の意味を与え続ける必要はない。だって、歴史が在る、すでにそのことがもう最良の意味を持っているからだ。真に革命というのは、この人間では考えることが不可能だからだ。変化するということは、変わるものと変わらないものがあるからだ。革命を志向すればするほど、何も変わらない。真に何かが変化したというのは、誕生とか始まりと同じでどうにも言えないようにできているからだ。カミュが黙ったのはサルトルに負けたからではない。そんなところをもう通り過ぎていたからだ。その代わり彼は最期まで書き続けた。ごちゃごちゃ言うより先に、書くことで示し続けた。
    彼は最期まで反抗してみせたのだ。

  • 高校生の時に英語の課題で読んで「英語にも実存文学にも」挫折したきっかけとなった作品.
    読み返してみたら「理屈っぽいおじさんたちの小難しい鍔迫り合い」か,コレ⁈
    ってなった途端面白くなってしまった.
    理路整然とカミュの矛盾点をつく(まぁ,一部を取り上げた揚げ足取りとも言える)サルトルとジャンソンに対し,「殴ったな?誰にも打たれた事ないんだぞ〜僕ちゃんを殴ったな〜っ!」って感情的に反論するカミュ…まぁ,ざっくり言うとそんな感想.
    とりあえず,読むの,疲れた.
    純粋にそれぞれの作品を「小説として」読んだ方がいいな,コレ.
    …口直しにヘッセでも読み直そう…

  • 革命か反抗か―カミュ・サルトル論争
    (和書)2012年05月05日 20:57
    1969 新潮社 カミュ, 佐藤 朔


    最近、実存主義というものを勉強しようと思い、取り合わせが興味深く感じたので手にとってみました。

    この本の内容とはあまり関係ないけれど、読んでいて創作意欲というものについて感じるところがあった。

  • われわれは歴史をたえずつくるが、歴史もまたわれわれをつくる。そしてわれわれが歴史によって、しばしば「つくりなおされる」危険は重大である。

    反抗的人間を読んでないから、ほとんど意味がわからん。しかし、シーシュポスの神話は僕の最重要本。サルトルは、存在は本質に先立つ、くらいしか知らないから、嘔吐と存在と無は読みたいなぁ

  • アルベール・カミュの「反抗的人間」を
    「現代」という雑誌(ジャン・ポール・サルトル)で
    フランシス・ジャンソンが批判したことに端を発した、
    「カミュ=サルトル論争」を収録した本。

    ものすごく高度なんだけれど、
    所詮は口喧嘩でしかないという印象。

    サルトル側が革命に身を投じないカミュをフルボッコにしていて、
    ちょっとカミュが可哀そうでなんか見てらんない。
    いや、読んでらんない。

    結局、
    カミュもそこに乗っかって罵声を浴びせているので、
    まぁどっちもどっちです。

    カミュがハブられた瞬間、
    という歴史的な意義は高いのだろうけれど、
    それだけ。

    勝者であるサルトルもその後、
    構造主義のレヴィ・ストロースにばっさり。

    なんかサルトルは、
    今の橋下徹大阪市長みたいだなぁ。

    ということで、
    どちらも罵り合いはやめましょうよ。

  • 高校生の頃、サルトルゼミで、サルトルを読んでいました。ちょっとした解説や批評、文学以外はちんぷんかんぷんでした。この本を読んで、カミュに興味をもち、カミュの本もたくさん読みました。そういうきっかけを与えてくれた本なので、感謝しています。
    論争の表面的な言葉は、原文によらないとニュアンスが伝わらないと諦めているので、特に気にはなりませんでした。

    この本を読んで、カミュが好きになったことを記録します。それまでは異邦人しか読んだ事が無く、どう理解したらいいか分からずに、好きとも嫌いとも言えませんでした。本書を読んだ後、カミュの出ている翻訳はかたっぱしから読みました。

  • ケンカをしたいだけなんだろう。知識人の痴話喧嘩。資本と社会、貴族意識に揺らぐフランスで、頭はいいが、どちらも正解と言い難い論者二人の話し合い。多分現代ならどうでもいいこともあるでしょう。アカデミーなサルトルの勝ちなのかな。

  • すべての革命は人間を神格化しようとつとめて、真の革命を裏切ることを証明すようとするのだ。ところでヘーゲルの弁証法は人間の国と神の国が一致する次期を最高の総合としている。だからスターリンはヘーゲルの精神的な子孫の一人となり、コミュニスムは本質的に人間と神を等しくさせ、地球を持って、人間が神となる王国とし、最後に人間の宗教をつくる途方もない企てとなる。
    カミュの超越的原理はと、いったいなんであろうか?
    革命的な企ての中心で、反抗がイキイキと保たれるなら、その正統性の根源である一種の絶対的要求と、いらいらした寛大さを表明しつづけるながら、反抗は革命的な企ての健全性にかならず貢献するだろう。
    結局マルキシズムだけが革命的となるだろう。なぜならマルキシズムだけが今日革命運動において、軍事力と警察力を持っているからだ。
    ロシア革命までは自己の生活が脅かされていると感じるのはプロレタリアだけだった。ところが今は同じ脅威がブルジョアジーの上にものしかかりはじめた。これまで世界の中で働いてた暴力は一方的だった。

  •  サルトル・カミュ論争を集めた論文集。F.ジャンソン(サルトルの弟子で、「現代」誌の書き手の一人)が、カミュの『反抗的人間』に対しての反論を書きつづる所から始まる。
     カミュとサルトルとは、同時代の人間ではあるが思想的に全く異なる人間である、それがこれを読んで決定的に見える点である。この頃のサルトルは、贖罪の身にすでに浸っているのだろうか。革命かそれとも…、と2択を自分と相手に求める。同調するならば仲間で、そうでなければただの論敵である。一方、カミュは違う。そもそも、彼は特殊条件下であれば、原則を曲げてもよいというような人だった。暴力を否定しない。サルトルの論はいささか卑怯かな笑

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