泥棒日記 (新潮文庫)

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制作 : 朝吹 三吉 
  • 新潮社 (1968年10月2日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (426ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102119013

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泥棒日記 (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

  • 高校1年の夏休み、
    これで読書感想文を書こうとしたら「職員室を混乱に陥れてどうする」と
    友人に止められたのでやめた。
    代わりに何を選択したのか思い出せない、覚えていない。

    作家・詩人・政治活動家でもあったジュネの自伝的回想録。
    「泥棒」であることを宿命的にアイデンティティとして身に負った男の
    悲哀・惨めさ・滑稽さが、行間から汗のように滲み出す。

    養家で空腹に耐えかね、台所にあったリンゴを食べようと手に取ったところを
    家人に見つかり「泥棒!」と叫ばれた瞬間、
    その言葉が天啓のように頭に鳴り響き「そうか、俺は泥棒だったのか」と納得した少年は、
    以来、そうやって生きようと心に決めた――
    というイメージが、ずっとこびりついていたが、
    幾星霜を経て(笑)久々~に再読したら、そんな場面は存在しなかった。
    脳内で勝手に印象を補足・増強していたらしい。
    補完の結果、自主的に闇の世界に足を踏み入れた青年の、
    貧しいけれど、お気楽極楽自堕落生活……みたいな、
    傍目にはみっともなく映ろうとも当人はゴキゲンといった愉快な物語であるかのように、
    長らく錯覚していた模様。
    何故ジャン少年がリンゴを盗もうとしたと思い込んでいたのかというと、
    単純に絵になるからとも、
    ジャガイモやニンジンを生のまま皮も剥かずに食べるはずはないからな~、と
    考えたから、とも言えるのだけど。
    でも、それは恐らく傷だらけで瘠せた感じの、
    多分、食べてもあまり美味しくないヤツだったんじゃないかな、
    しかも、彼は手に取って口に運ぼうとしたところを見つかってしまい、
    盗みを完遂できなかったんだよね、きっと。
    あくまで想像だけど、大した値打ちのないものを盗もうとして盗み得なかったことが、
    人生の進路を決めてしまったのではなかろうか。
    食べ損なった酸っぱいリンゴを求めての窃盗と放浪、
    犯罪者未満から正真正銘の盗人を目指す諸国行脚……なんてね。

  • 困難で苦しい汚辱へと導く上昇(彼は堕落をそう呼んだ)を遂行。真の犯罪者は刑において輝くとする。完全な人でなしに出会った眩暈。ジュネ版「罪と罰」みたい。到達不可能な無価値性。監獄は囲繞してくれる城、浮浪者の巣窟は奇跡の庭、乞食生活は澱むほど、不動で透明な湖、唯一な表現は煌めき、盗み、同性愛、悪事の概念を塗り変えられた。16〜30歳の間、刑務所や酒場で探求した美しく不幸な犯罪者達との同一化。サルトルやコクト-、三島が絶賛する文学の秘密は反社会の魅力と数多に惚れ愛することに尽くした寂しさの片鱗に読む。

    スリッパを丸める」というスラングを覚えた。「舌を丸めて差し入れながらキスをする」意味。

    D.ボウイのThe Jean Genieは、Jean Genet(ジャン・ジュネ)をもじったものだったらしいです。

  • 再読です。ちなみに十数年前の自分がこれを読んでどう思ったかは全く記憶にないです(苦笑)。ジュネの小説はほとんどがある意味私小説と呼べるんじゃないかと思いますが、そのなかでもとくにこれは私小説っぽい印象。そしていつも思うけれど、このジュネの教養(と言っていいのか)は、天才というよりほとんど突然変異だなあと。彼の生い立ちからして、まともに教育を受けられたとは思えないのに、文才というのは学歴とは関係ないんですよね。(お門違いかもしれないけど、最近読んだ本だと西村賢太とかもある意味ジュネ的なのかも)。

    ジュネには独自の思想や哲学があって、それは社会一般的に見てけして「善」の側に属するものではないのだけれど、その思想の独自性はもとより、それをキチンと他人にわかる言葉に変換して表現することができるというのは、簡単なことじゃないと思います。

    えてして「行動」するタイプの人間は「思索」が苦手で「記録」にも拘泥せず、「思索」するタイプの人間はそれを「表現」するのが不得手だったりしますが、それでも後者がそれを表現する手段を手に入れれば作家や芸術家として成功するのに比べ、前者が表現者として成功する例は稀有なのではないでしょうか。ジュネを突然変異だと思う由縁です。

  • ”泥棒.” 群は、滅する.

  •  1949年発表、ジャン・ジュネ著。泥棒としてスペインやフランスなどを放浪した著者の自伝的小説。社会の底辺に生きる様々な犯罪者達との男色を交えた関係が描かれる。
     いかにもフランス文学といった感じの小説だった。文章はゴテゴテしていてきらびやかで、読んでいてクラクラしてくる。犯罪や男色関係の生々しい描写はほとんど見当たらない。むしろ、それに関する美学の説明がこの本をぶ厚くさせている。
     犯罪をせざるを得ないがために、価値観を引っ繰り返し、それを極限まで美しくさせようとする。いわゆる犯罪小説の中には、そういった思想をもったものは多くあるだろう。だが、これほどまでに、執拗に哲学的に考察しきって、ほとんど反論できない領域に上ってしまったものはほとんどないのではないだろうか。それもやはり、著者自身が根っからの泥棒で、あくまで泥棒の視点で物事を考察しているからだろう。真似できないオリジナリティーだ。
     それにしても、本当に、いつどこで著者は詩的表現を学んだのであろう。普通は、このような犯罪者には学ぶ機会などほとんどないだろう。考えれば考えるほど不思議に思えてくる。

  • 「悪いこと」「みすぼらしいこと」を勝利者の優美な文体で綴っているジュネの半生記のような一冊。
    「徒刑囚の服は薔薇色と白の縞になっている」この一文にジュネの価値観が圧縮されている。犯罪者になる資格、汚いものへの微笑、、、とてもフランス文学的。

    それにしてもこの本を読むと登場人物に同性愛者が多すぎて世の中こんなに多いのかと。笑

  • 普通の人間にとって正真正銘の別の世界の住人である筆者が送る言語という道具を最大限に駆使した自伝的文学。彼の紡ぎ出す言葉の連なりは独創的で繊細な彼の感受性によってたっている。偽ることなくありのままに描き出されている豊穣で粘りつくような世界は目も眩むばかりで底なしに壮麗である。

  • 詩のような美しい文体の小説は衝撃だった。凄い才能だと思う。

  • 以下引用。

    (……)彼はやにわに親元の金を奪いとった。相手の男はパッと立ちあがって、彼を蹴飛ばそうとした。ペペは体をかわして、わたしに奪った金を手渡した。わたしがそれをポケットにねじこんだときには、もう彼のナイフがひらかれていた。彼はただひと突きでそれをスペイン人の心臓に突き立てた。それは陽にやけた大きな男だったが、地面の上に倒れ、その陽やけした顔の色は見るみるうちに蒼ざめてゆき、身体を引きつらせ、身をよじり、そして埃まみれになって息を引きとった。わたしは初めて人が死ぬのを見たのだった。ペペはもう姿を消していた、が、わたしが死人から眼を離して顔を上げたとき、わたしはそこに、かすかな微笑を浮かべながら死人を見つめていたスティリターノを見たのだ。陽が沈みかかっていた。わたしの眼前に、世界のあらゆる国々から来た水兵や兵士やならず者や泥棒たちの群衆のただ中に、死人と、人間のなかで最も美しい男とが、同じ金色の埃の中で一つに溶け合っていた。地球は回ってはいなかった、――スティリターノを乗せて、それは太陽の周囲でただ顫えていた。わたしは同じ瞬間に、死と愛を知ったのだった。(p.51)

    (……)わたしは独りだった。わたしはつつましく道路のいちばん端の溝のわきを歩いていたので、そこに生えている白っぽい草の埃がわたしの両足にくっついた。この難破の状態においても――というのは、この世のあらゆる不幸がわたしを絶望の大海の中に沈めていたのだから――、わたしはなお、ときどきは黒人の恐るべき、力強い一本の枝に齧りつく甘美さを味わった。世界のあらゆる潮流(ながれ)に打ち勝つこの枝は、あなた方の対立を全部合わせたよりも確乎とし、慰めに満ち、わたしの嘆息に値したのだ。夕方近くなる頃には、わたしの両足は汗にまみれていた。それで、夏の夕方はあたしは泥の中を行くわけだった。太陽は、わたしの頭の中を思想のかわりをする鉛で満たすと同時に、わたしの頭を空っぽにした。アンダルシアは美しく、暑く、そして不毛だった。わたしはこのアンダルシアをその隅々まで跋渉し尽した。その年頃ではわたしは疲れを知らなかった。わたしはあまりにも重い悲嘆の重荷を身につけて歩いていたので、わたしはこうして一生さまよいつづけるのだろうと思った。たんにわたしの生涯の飾りとなる一時のことではなく、放浪はわたしにとって実体となったのだった。わたしはわたしが何を考えていたのか忘れてしまったが、しかし神にわたしの悲惨さのすべてを捧げたことを憶えている。人間たちから遠く離れた孤独のなかで、わたしは、ほとんど、全身ただ愛であり、ただ献身であった。(p.105~106)

     わたしは黙ったままでいた。わたしは注意深くわたし自身を観察していたのだ。わたしの裡で、ゲシュタポという言葉が巻き起こした波が、激しく打寄せていた。その波濤の上を、リュシアンが歩いていた。波は乗せていた、彼の優美な足を、彼の筋肉隆々とした身体を、そのしなやかさを、彼の脛を、きらきらと光る髪をいただいたその顔を……。わたしは、この肉体の宮殿の奥深くに完全な悪が棲み、それがこの四肢の、胴体の、この影と光の完璧な均勢を作りなしているのだろうと想像して恍惚となっていた。やがてこの宮殿は徐々に波の中に沈んでゆき、しばらくのあいだ、我々が歩いていた岸辺に打寄せている海のただ中に漂っていたが、やがて次第に液化して、しまいにこの海そのものと化してしまった。言うに言われない安らぎ、優しい感動が、この豊饒な宝庫の中の、このように尊い孤独を前にしたわたしをいっぱいに満たした。わたしはできれば寝入りたかった、眠らずに、この波の上で、両腕を胸に組んで、寝入りたいと思った。外界の陰、空の、道の、樹々の陰がわたしの両眼から入ってきて、わたしの裡に隅々にまで拡がっていった。(p.22... 続きを読む

  • 文字が多い。ところどころ素晴らしく面白い。俺とアル中はもう兄弟分じゃあないんだ。彼は未だ汚辱の中だ。俺とは見てきた世界が違いすぎる。

  • 生きる勇気をもらいました

  • read:The Thief's Journal (Jean Genet)

  • 美とは決して皆が賞賛する様な物のみだけならず、
    皆が避け、侮蔑するような醜さと卑しさの中にも存在するのだということを、
    彼自身の半生を詩的な表現で彩りながら示していく自伝的小説。
    価値観の反転と倒錯。

    著者であるジュネは、父の顔も知らぬ私生児として生まれ、
    盗みと乞食として生計を立てながら、
    人生の半分を獄中で過ごしてきた。

    「私は今でも、人間であろうと物質であろうと、最も卑しい屑に向かって優しく微笑みかけることができる。唾液やげろにさえ、諸君の排泄物にさえ…」
    と述べる彼の目に、世界はどのように見えていたのだろうか。

    全ての落伍者とはみ出し者に、花束を。

  • はじまり
    従刑囚の服は薔薇色と白の縞になっている。もし、この、わたしが居心地よく思う世界を、自分の心の命ずるままに選びとったのだとすれば、わたしには少なくともそこに自分の欲するさまざまな意味を見いだす自由はあるだろう、——それで、花と従刑囚とのあいだには緊密な関係があるのだ。一方の繊弱さ、繊細さと、他方の凶暴な冷酷さとは同じ質のものである。わたしは、従刑囚——か犯罪者——を描くことがあるたびに、その男を数々の花で飾ってやるだろう、そのため彼は花々の下にその姿を消し、そして彼自身一つの巨大な、新しい花となるだろう。人々が悪とよぶものに向って、わたしは愛ゆえに、監獄へとわたしを導いた冒険を今日までつづけてきたのだった。

    P126
    ——16歳から30歳にいたる期間、感化院や刑務所や酒場で、わたしは英雄的な冒険を捜し求めていたのではなく、最も美しい、また最も不幸な犯罪者たちとの同一化を追い求めていたのだ。わたしは、恋する男についてシベリヤへ行く若い淫売婦、あるいは、彼の復讐をするためにではなく、彼を悼んで泣き、そして彼の名を顕揚するために、恋する男の死後も生き続ける淫売婦のようでありたいと・・・。

    P138
    この書物『泥棒日記』は、すなわち、「到達不可能な無価値性」の追求、である。

    P175
    わたしは先刻から語っている人間は、そもそもの始まりから死んでいるのだ、つまり、定着されているのだ。なぜならわたしは、始源の不幸を包含するとわたしが考えた終末以外、他のいかなる終末のためにも生きることを拒否するのだから。——わたしの生涯は伝説、すなわち、読みうるもの、であらねばならぬ、そしてそれが読まれるとき、わたしが詩(ポエジー)とよぶある新しい感動を生じせしめねばならぬ。わたしは、媒介具(プレテクスト)である以外、もはや何ものでもないのだ。

    P263
    大多数の不良少年と同様、わたしは、感化院製となるものを実現させる多くの行動を、熟慮のうえではなく、自然に遂行することもできただろう。そしてわたしは素朴な苦痛と喜びを知り、その生活は、誰もが表明することのできる、月並みな考えしかわたしに抱かせなかっただろう。しかしメトレーの感化院は、わたしの性愛上の嗜好をこそ十分に満足させてくれたが、わたしの感受性を絶えず傷つけていたのだ。わたしは苦しみ悩んでいた。わたしは、頭を丸坊主にされ、穢らわしい制服を着せられて、この卑しむべき場所に拘禁されていることの恥辱感に苛まれていた。——わたしに対するあらゆる非難に対して、たとえそれが不当のものであっても、心の底から、然り、と答えよう——

    彼の自己憐憫は、自己憐憫を、つきぬけている。なんて気持ちいいんだ。

  • 言語の力によって現実世界の価値をことごとく転倒させ、幻想と夢魔のイメージで描き出される壮麗な倒錯の世界。――裏切り、盗み、乞食、男色。父なし子として生れ、母にも捨てられ、泥棒をしながらヨーロッパ各地を放浪し、前半生のほとんどを牢獄におくったジュネ。終身禁固となるところをサルトルらの運動によって特赦を受けた怪物作家の、もっとも自伝的な色彩の濃い代表作。

  • 自分に合わない種類の文だったので途中放棄。

  • 過ぎ去った時を求めるのではなく、過去の生活がその機縁であるところの一つの芸術作品と言い切る、乞食、男娼、売淫、窃盗、裏切り、そして放浪生活を描き、詩的なもの(ポエジー)を現出しようと試みた、自伝的な「到達不可能な無価値性」を追求した書。「盗み」についてこれでもかというほど哲学的に、またジュネの愛する男性犯罪者達の「美」について描かれる。悪の世界について、泥棒について語るのではなく、「泥棒が」語る世界。悪と花はなんと似合うのだろう。「美を得る為に不可欠なもの、それは愛。そして愛をぶち壊すほどの残酷さ。〜ジャン・ジュネ」

  • ジャン・ジュネの『泥棒日記』は、まさしくフランス的だと思う。
    華麗で洒落ていて繊細でいて装飾過多。
    左脳じゃなくて右脳。
    言葉を言葉として考えるのではなく、言葉の持つイメージだけがするりするりと脳の中に染み込んでくる。そして染み込んだそれは、忽ち像を成して広がってゆく。

    たとえば他の本(文章)から、私は時々イメージを思い浮かべたり創作意欲が湧いたりインスパイアされたりするのだけれど、ジュネの文章はそれ自体がまるで美しい絵画のようだと思う。
    だから私はそこから何かを得るのではなく、ただそこにある世界を受け入れ、鑑賞し、味わう。
    まるで言葉が踊っているような感じ。

    こういう文章は苦手な人もいると思うので、積極的におススメはできない。途中ちょっとつまらなく感じたりもするし、尻窄みの印象も否めない。読み終わった後の全体的な評価としては微妙。
    でも私は案外好き。悪くない。
    さらりと読める本に飽きた方、右脳で読むのが得意な方は是非どうぞ。

  • 文学がプラトニックで清貧なものばかりだったらなんてつまらないんだろう。

  • 本屋で何を思ったか
    「ジャン・ジャック・ジュネありますか?」
    と聞いた。
    私の問に店員の浮かべた表情は曖昧で、果たしてルソーそれともジュネ?と考えていたのだと思う。
    いつもながらのこの勘違い、いい加減どうにかしたくなってきた。



    今年の課題図書の一つジャン・ジュネの「泥棒日記」。
    思いの外早くに着手してしまった。
    なんとなしに流れを感じ。
    三島に近い小説を何となくぶつ切りに読んできたその系譜で、波に乗りたかったのだ。
    悪いもんではない。



    読んでの感想は”懐かしい”というものだった。
    好きな部類の小説だ。
    それはひしひしと感じた。たぶん高校時代にこの小説と出会っていたら、私は歓喜していたと思うが、いいのか悪いのか、今は落ち着いて読める。
    理由はどことなく似ているのだ、エルヴェに。
    私は高校時代、本当にエルヴェ・ギベールに熱狂していた。
    一種の恋、とも言えるほどに私は彼に心酔していたのだ。
    エルヴェの何にか、その辛辣さ、潔さ、意地の悪さ、ニヒリズム、美しい瞳。
    なんだろうな。
    私の彼との強烈な出会いは「犬たち」だった。
    読む人が読めばただのポルノ小説だ。
    それを手に取った場所は市の図書館だ。
    何の理由もなかった。唯一言えることと言えば当時私は外国の作品ばかりを手に取っていた。
    外の世界に対するあこがれの出口がそれだったのだ。
    完全に目から鱗だった。
    芸術の分野に性的な表現を用いるのはよく見られるものだ。
    だが、性的な表現の中に芸術を見いだすというのは当時の小童の私には衝撃的だった。
    要は視点の問題、といえば話はそれで片づくのかもしれないが、ポルノをメインとしてものを考えた時に芸術の視点は求められてはいないのではないか、と私はもっともらしく考えてしまったのだ。
    いや、そういってしまうとエルヴェはただのポルノ作家なのかって話になるのだが、もちろん違う。
    でも、残念ながら「犬たち」は、ほぼ当時の私にはポルノとしか受け取れないようなものにしか見えなかった。
    だからこそ、私は誘われたのだ。
    小説の中でここまでかぐわしい、言ってしまえばよいが、いわば生臭いほどにそんな臭気をただ酔わせる存在。
    そしてそう取られてもよいと言える覚悟が見えたエルヴェという存在に、私は驚きをくぐり抜けた先に何かがあるのだと言うことに気がついたのだ。
    エルヴェはいわばきっかけの存在なのだ。


    で、説明が長くなったそんなエルヴェなのだが、彼の文章はどちらかと言えば簡素だ。
    そして見方が曲がっている。
    へそ曲がりとでも言うべきか。
    一方でジュネは、その特殊な生い立ちではあるが曲がってはいない。
    純粋に、正直に、なんとも己がとらえたままのありのままに描いている。
    だからこそ肉々しいし、どうも文章が汗や垢のようなものにじっとりと汚れているのだが、けして穢れてはいないのだ。
    ただ、肉を感じる。
    いい意味でも悪い意味でも。
    特にスティリターノやアルマンに関する記述はまるで自分がジュネになったかのような錯覚を覚えるほど、執拗で、やらしく、そしてうまい。
    それが正直読んでいて、私は嫌いではなかった。
    野性的で耽美的な部分は全くないのにどこかしら、何ともたまらない魅力がある。
    じゃぁ何が似ているのかと考えてみて感じるのはやはり、両者の共通点で一番にあげられる『ゲイ文学』と言う枠組みなのだろう。
    そうひとくくりにするのが私はあまり好きではない。
    でもそうなのだろうとも思う。
    彼らのどこかメインストリームにはない幻想的な世界が美しいのだろう。
    何よりも現実に近い、しかしまるで酔っているかのようにはかない夢に終わってしまいそうな世界。
    そういう世界での文章が私は好みなのかもしれないな... 続きを読む

  • ピカレスク(悪態)文学の最高峰とも言われる作品。
    1人の泥棒(脱走兵∧男娼)の目線を通して既存の価値観に真っ向勝負して、そして敗北する。
    「背徳の美学とは、いかなるものか?」ということが知りたければ是非一度手に取ってみてください。
    ここまで世の中を斜めから見れたら『ホンモノ』だと思います。

    この作品に関連して、
    第一次世界大戦後に欧州でおこったダダイズムや
    デカダンスの概念などを一緒に考察すると
    非常に深みのある社会の一面が垣間見えるように思います。

    このジャンルに興味のある方は。
    ○ランボー「地獄の季節」(これもある意味詩集です)
    ○ボードレール「悪の華」(詩集)
    など読んでみてください。

  • 圧倒的に重い小説でした。
    理解できないことを当然のように並べられ、理解できるかと問われる。
    「理解できない」と答えるしかないけれど、それでもその表現や奥にあるものは何なのか、必死で目を凝らす。
    そんな作業の積み重ねで、読み終えた頃には疲労困憊でしたが、そういう作業と向き合わせてくれる何かがある、そんな小説であるように思います。

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