- Amazon.co.jp ・本 (426ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102119013
感想・レビュー・書評
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高校1年の夏休み、
これで読書感想文を書こうとしたら「職員室を混乱に陥れてどうする」と
友人に止められたのでやめた。
代わりに何を選択したのか思い出せない、覚えていない。
作家・詩人・政治活動家でもあったジュネの自伝的回想録。
「泥棒」であることを宿命的にアイデンティティとして身に負った男の
悲哀・惨めさ・滑稽さが、行間から汗のように滲み出す。
養家で空腹に耐えかね、台所にあったリンゴを食べようと手に取ったところを
家人に見つかり「泥棒!」と叫ばれた瞬間、
その言葉が天啓のように頭に鳴り響き「そうか、俺は泥棒だったのか」と納得した少年は、
以来、そうやって生きようと心に決めた――
というイメージが、ずっとこびりついていたが、
幾星霜を経て(笑)久々~に再読したら、そんな場面は存在しなかった。
脳内で勝手に印象を補足・増強していたらしい。
補完の結果、自主的に闇の世界に足を踏み入れた青年の、
貧しいけれど、お気楽極楽自堕落生活……みたいな、
傍目にはみっともなく映ろうとも当人はゴキゲンといった愉快な物語であるかのように、
長らく錯覚していた模様。
何故ジャン少年がリンゴを盗もうとしたと思い込んでいたのかというと、
単純に絵になるからとも、
ジャガイモやニンジンを生のまま皮も剥かずに食べるはずはないからな~、と
考えたから、とも言えるのだけど。
でも、それは恐らく傷だらけで瘠せた感じの、
多分、食べてもあまり美味しくないヤツだったんじゃないかな、
しかも、彼は手に取って口に運ぼうとしたところを見つかってしまい、
盗みを完遂できなかったんだよね、きっと。
あくまで想像だけど、大した値打ちのないものを盗もうとして盗み得なかったことが、
人生の進路を決めてしまったのではなかろうか。
食べ損なった酸っぱいリンゴを求めての窃盗と放浪、
犯罪者未満から正真正銘の盗人を目指す諸国行脚……なんてね。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
自己の心理を徹底的に見詰め、紡ぎ出される言葉は自己陶酔ではなく他者への羨望の眼差しと孤独。同性愛に限って言えば、ここ日本においてLGBTに訝しげな眼が向けられなくなった時、本書はより美しく輝き、そして解き放たれるのだろう。
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困難で苦しい汚辱へと導く上昇(彼は堕落をそう呼んだ)を遂行。真の犯罪者は刑において輝くとする。完全な人でなしに出会った眩暈。ジュネ版「罪と罰」みたい。到達不可能な無価値性。監獄は囲繞してくれる城、浮浪者の巣窟は奇跡の庭、乞食生活は澱むほど、不動で透明な湖、唯一な表現は煌めき、盗み、同性愛、悪事の概念を塗り変えられた。16〜30歳の間、刑務所や酒場で探求した美しく不幸な犯罪者達との同一化。サルトルやコクト-、三島が絶賛する文学の秘密は反社会の魅力と数多に惚れ愛することに尽くした寂しさの片鱗に読む。
スリッパを丸める」というスラングを覚えた。「舌を丸めて差し入れながらキスをする」意味。
D.ボウイのThe Jean Genieは、Jean Genet(ジャン・ジュネ)をもじったものだったらしいです。 -
1949年発表、ジャン・ジュネ著。泥棒としてスペインやフランスなどを放浪した著者の自伝的小説。社会の底辺に生きる様々な犯罪者達との男色を交えた関係が描かれる。
いかにもフランス文学といった感じの小説だった。文章はゴテゴテしていてきらびやかで、読んでいてクラクラしてくる。犯罪や男色関係の生々しい描写はほとんど見当たらない。むしろ、それに関する美学の説明がこの本をぶ厚くさせている。
犯罪をせざるを得ないがために、価値観を引っ繰り返し、それを極限まで美しくさせようとする。いわゆる犯罪小説の中には、そういった思想をもったものは多くあるだろう。だが、これほどまでに、執拗に哲学的に考察しきって、ほとんど反論できない領域に上ってしまったものはほとんどないのではないだろうか。それもやはり、著者自身が根っからの泥棒で、あくまで泥棒の視点で物事を考察しているからだろう。真似できないオリジナリティーだ。
それにしても、本当に、いつどこで著者は詩的表現を学んだのであろう。普通は、このような犯罪者には学ぶ機会などほとんどないだろう。考えれば考えるほど不思議に思えてくる。 -
以下引用。
(……)彼はやにわに親元の金を奪いとった。相手の男はパッと立ちあがって、彼を蹴飛ばそうとした。ペペは体をかわして、わたしに奪った金を手渡した。わたしがそれをポケットにねじこんだときには、もう彼のナイフがひらかれていた。彼はただひと突きでそれをスペイン人の心臓に突き立てた。それは陽にやけた大きな男だったが、地面の上に倒れ、その陽やけした顔の色は見るみるうちに蒼ざめてゆき、身体を引きつらせ、身をよじり、そして埃まみれになって息を引きとった。わたしは初めて人が死ぬのを見たのだった。ペペはもう姿を消していた、が、わたしが死人から眼を離して顔を上げたとき、わたしはそこに、かすかな微笑を浮かべながら死人を見つめていたスティリターノを見たのだ。陽が沈みかかっていた。わたしの眼前に、世界のあらゆる国々から来た水兵や兵士やならず者や泥棒たちの群衆のただ中に、死人と、人間のなかで最も美しい男とが、同じ金色の埃の中で一つに溶け合っていた。地球は回ってはいなかった、――スティリターノを乗せて、それは太陽の周囲でただ顫えていた。わたしは同じ瞬間に、死と愛を知ったのだった。(p.51)
(……)わたしは独りだった。わたしはつつましく道路のいちばん端の溝のわきを歩いていたので、そこに生えている白っぽい草の埃がわたしの両足にくっついた。この難破の状態においても――というのは、この世のあらゆる不幸がわたしを絶望の大海の中に沈めていたのだから――、わたしはなお、ときどきは黒人の恐るべき、力強い一本の枝に齧りつく甘美さを味わった。世界のあらゆる潮流(ながれ)に打ち勝つこの枝は、あなた方の対立を全部合わせたよりも確乎とし、慰めに満ち、わたしの嘆息に値したのだ。夕方近くなる頃には、わたしの両足は汗にまみれていた。それで、夏の夕方はあたしは泥の中を行くわけだった。太陽は、わたしの頭の中を思想のかわりをする鉛で満たすと同時に、わたしの頭を空っぽにした。アンダルシアは美しく、暑く、そして不毛だった。わたしはこのアンダルシアをその隅々まで跋渉し尽した。その年頃ではわたしは疲れを知らなかった。わたしはあまりにも重い悲嘆の重荷を身につけて歩いていたので、わたしはこうして一生さまよいつづけるのだろうと思った。たんにわたしの生涯の飾りとなる一時のことではなく、放浪はわたしにとって実体となったのだった。わたしはわたしが何を考えていたのか忘れてしまったが、しかし神にわたしの悲惨さのすべてを捧げたことを憶えている。人間たちから遠く離れた孤独のなかで、わたしは、ほとんど、全身ただ愛であり、ただ献身であった。(p.105~106)
わたしは黙ったままでいた。わたしは注意深くわたし自身を観察していたのだ。わたしの裡で、ゲシュタポという言葉が巻き起こした波が、激しく打寄せていた。その波濤の上を、リュシアンが歩いていた。波は乗せていた、彼の優美な足を、彼の筋肉隆々とした身体を、そのしなやかさを、彼の脛を、きらきらと光る髪をいただいたその顔を……。わたしは、この肉体の宮殿の奥深くに完全な悪が棲み、それがこの四肢の、胴体の、この影と光の完璧な均勢を作りなしているのだろうと想像して恍惚となっていた。やがてこの宮殿は徐々に波の中に沈んでゆき、しばらくのあいだ、我々が歩いていた岸辺に打寄せている海のただ中に漂っていたが、やがて次第に液化して、しまいにこの海そのものと化してしまった。言うに言われない安らぎ、優しい感動が、この豊饒な宝庫の中の、このように尊い孤独を前にしたわたしをいっぱいに満たした。わたしはできれば寝入りたかった、眠らずに、この波の上で、両腕を胸に組んで、寝入りたいと思った。外界の陰、空の、道の、樹々の陰がわたしの両眼から入ってきて、わたしの裡に隅々にまで拡がっていった。(p.222~223) -
read:The Thief's Journal (Jean Genet)
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はじまり
従刑囚の服は薔薇色と白の縞になっている。もし、この、わたしが居心地よく思う世界を、自分の心の命ずるままに選びとったのだとすれば、わたしには少なくともそこに自分の欲するさまざまな意味を見いだす自由はあるだろう、——それで、花と従刑囚とのあいだには緊密な関係があるのだ。一方の繊弱さ、繊細さと、他方の凶暴な冷酷さとは同じ質のものである。わたしは、従刑囚——か犯罪者——を描くことがあるたびに、その男を数々の花で飾ってやるだろう、そのため彼は花々の下にその姿を消し、そして彼自身一つの巨大な、新しい花となるだろう。人々が悪とよぶものに向って、わたしは愛ゆえに、監獄へとわたしを導いた冒険を今日までつづけてきたのだった。
P126
——16歳から30歳にいたる期間、感化院や刑務所や酒場で、わたしは英雄的な冒険を捜し求めていたのではなく、最も美しい、また最も不幸な犯罪者たちとの同一化を追い求めていたのだ。わたしは、恋する男についてシベリヤへ行く若い淫売婦、あるいは、彼の復讐をするためにではなく、彼を悼んで泣き、そして彼の名を顕揚するために、恋する男の死後も生き続ける淫売婦のようでありたいと・・・。
P138
この書物『泥棒日記』は、すなわち、「到達不可能な無価値性」の追求、である。
P175
わたしは先刻から語っている人間は、そもそもの始まりから死んでいるのだ、つまり、定着されているのだ。なぜならわたしは、始源の不幸を包含するとわたしが考えた終末以外、他のいかなる終末のためにも生きることを拒否するのだから。——わたしの生涯は伝説、すなわち、読みうるもの、であらねばならぬ、そしてそれが読まれるとき、わたしが詩(ポエジー)とよぶある新しい感動を生じせしめねばならぬ。わたしは、媒介具(プレテクスト)である以外、もはや何ものでもないのだ。
P263
大多数の不良少年と同様、わたしは、感化院製となるものを実現させる多くの行動を、熟慮のうえではなく、自然に遂行することもできただろう。そしてわたしは素朴な苦痛と喜びを知り、その生活は、誰もが表明することのできる、月並みな考えしかわたしに抱かせなかっただろう。しかしメトレーの感化院は、わたしの性愛上の嗜好をこそ十分に満足させてくれたが、わたしの感受性を絶えず傷つけていたのだ。わたしは苦しみ悩んでいた。わたしは、頭を丸坊主にされ、穢らわしい制服を着せられて、この卑しむべき場所に拘禁されていることの恥辱感に苛まれていた。——わたしに対するあらゆる非難に対して、たとえそれが不当のものであっても、心の底から、然り、と答えよう——
彼の自己憐憫は、自己憐憫を、つきぬけている。なんて気持ちいいんだ。 -
ジャン・ジュネの『泥棒日記』は、まさしくフランス的だと思う。
華麗で洒落ていて繊細でいて装飾過多。
左脳じゃなくて右脳。
言葉を言葉として考えるのではなく、言葉の持つイメージだけがするりするりと脳の中に染み込んでくる。そして染み込んだそれは、忽ち像を成して広がってゆく。
たとえば他の本(文章)から、私は時々イメージを思い浮かべたり創作意欲が湧いたりインスパイアされたりするのだけれど、ジュネの文章はそれ自体がまるで美しい絵画のようだと思う。
だから私はそこから何かを得るのではなく、ただそこにある世界を受け入れ、鑑賞し、味わう。
まるで言葉が踊っているような感じ。
こういう文章は苦手な人もいると思うので、積極的におススメはできない。途中ちょっとつまらなく感じたりもするし、尻窄みの印象も否めない。読み終わった後の全体的な評価としては微妙。
でも私は案外好き。悪くない。
さらりと読める本に飽きた方、右脳で読むのが得意な方は是非どうぞ。 -
文学がプラトニックで清貧なものばかりだったらなんてつまらないんだろう。
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彼の小説の中ではこれと、「葬儀」が好きでした。もちろん、「薔薇の奇蹟」「花のノートルダム」もいいです。
ジュネに関しては堀口大学さんの訳も合ってますよ。-
堀口大学の翻訳した「泥棒日記」を探しています。 長岡市立中央図書館の「堀口大学文庫」などでも調べたのですが、未だ発見していません。 もし、も...堀口大学の翻訳した「泥棒日記」を探しています。 長岡市立中央図書館の「堀口大学文庫」などでも調べたのですが、未だ発見していません。 もし、もし、御存知ならば、御教授いただきたいのですが。 Best regards2010/09/25
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