「二年間の休暇」で KiKi が感じていた「できすぎ感」みたいなものの正体は、やっぱりこちらの作品にあるリアリティに多分に影響されたものであったことが確認できました。 あっちの作品とこっちの作品で大きく異なる点の1つに「少年たちが既に顔見知りだったか否か」というポイントがあると思うんだけど、「二年間の休暇」では無人島に漂着した少年たちの行動規範に「協力し合って生き延びるんだ」という強い合意が常に存在したけれど、この「蠅の王」ではその行動規範自体がものすごく緩い・・・・。 これはやっぱりそれなりの統率・秩序があった寄宿学校で暮らしていた子供たちが漂流したのか、たまたま今回の旅で一緒になった子供たちが漂流したのかの違いによる部分が大きいと思うんですよね。
とは言っても、やっぱり小さな子供達というのはあの「二年間の休暇」の中の下級生たちほどは聞き分けの良いものではないのが本当だと思うし、漂着生活の中では着るものに不自由したり、髪が伸び放題になってボサボサになったりするのが自然だし、森に自生する果実を手当たり次第に食べていたらお腹を壊したりするのもリアルで、そういう面ではやはりこの作品の方が真実味はあると感じられました。
「二年間の休暇」では漂着した少年たちの中にたまたま貴族趣味の少年たちがいて彼らが「腕の良いハンター」だったという前提条件さえありました。 だから、食肉を得るためには島に自生する動物を銃で撃ってそれから捌くというどちらかというと洗練された(?)手段で行われていたのに対し、こちらの少年たちは時代こそ下れど銃を持ちません。 そのため彼らは食肉を得るために野性の豚をなぐり殺すという、結果は同じでもどこか凶暴性があるように感じられる手段になってしまっているのが印象的です。 そしてその延長線上に彼らが好んで歌い・踊る、あのセリフがまるで物語の通奏低音のように流れます。
「獣ヲ殺セ! ソノ喉ヲ切レ! 血ヲ流セ!」
時代背景的には「二年間の休暇」の方が古い時代に起こった出来事なんだけど、どちらかと言えばあちらの物語は環境こそ変われど少年たちがやっていることは常に「普通の生活ができていた頃」の延長線上にあります。 そこに比べてこちらの物語の少年たちの生活は文明社会から一気に狩猟時代に突き落とされた感があり、そのギャップの中で喘いでいる印象があります。
この物語は色々な読み方のできる物語だと感じます。 でも、その中で KiKi がもっとも強く感じたのは、この物語のメインの対立軸の主である少年たち(ラーフ、ピギー、ジャック、ロジャー)は誰もが無人島という閉鎖された、さらには限られた資源という環境の中で心理的・集団的な秩序を何とか見出そうと躍起になっていたんだということです。 ラーフやピギーが範としたのは彼らがそれまで暮らしていた文明社会で習い覚えた「理性的な秩序」とも呼ぶべきものです。 他方、ジャックやロジャーが範としたのは軍隊的な統率・・・・とでも言うようなもので、そこにはこれまで彼らが「大人から守られる前提がある世界」の中で経験してきた「理性的な秩序」だけでは子供達だけで生き延びることは困難であると本能的に感じていたんじゃないかと思えるものがあるんですよね。
まだ彼らの対立が決定的なものになる前、ジャックは「狩猟隊」兼「狼煙見張り隊」を率いていました。 彼は狼煙をバカにしていたわけでも必要ないと考えていたわけでもない(もしも必要ないと考えていたならそもそも狼煙の見張を率先してやろうとは言わないと思う)けれど、「皆で食べられる肉が必要」>「狼煙の見張り」ということで、狩猟を優先します。 まさにその時、彼らが漂着した島の沖合を船が航行していました。 狼煙が消えてしまっていたことにより「救助された可能性」を失ったことに苛立ったラーフはジャックを執拗に責めます。 KiKi はここがかなり重要な分岐点だったと感じます。
確かにあの瞬間、狼煙が上がっていれば「救助された可能性」はそれなりにあったと思います。 でも、結局物語の最後の最後、実際に彼らが救助されたのは狼煙な~んていう可愛いものではなく、ラーフを狩るためにジャックたちが放った火が燃え広がり、島全体に及んだ火災によって発生した空を覆うような黒煙によってだったことを考えると、仮にあの時、狼煙が上げ続けられていたとしても沖合を航行していた船に「気がついてもらえなかった可能性」だってあったわけです。 その場合には「狼煙」よりも今日の命を繋ぐための「肉」の方が大事だったこともありうると思うんですよ。 でも彼らは半ば意地の張り合いのような形でお互いがお互いの是を、さらには自分の非を認めようとしません。
その後、様々な紆余曲折を経て、ジャックたちは著者の言うところの「蛮人化」をしていきます。 その中で本来仲間であったはずの2人の少年の命が奪われるに至ったことは悲劇としか言いようがありません。 でもその悲劇の一番の原因となっていたのは「蛮人化したジャックたち」ではなく、実は人間が弱いがゆえに誰もが持つ「恐怖心」だと思うんですよね。 妄想かもしれないけれど彼らの心を占め始めていたまだ見ぬ「獣」に対する恐怖、「闇」に対する恐怖、「このままここで朽ち果てるのかもしれない」という明日をも知れぬ恐怖。 そんな恐怖を克服するためにジャックたちは「力」を求め、体にペインティングを施し、原初的な宗教儀式のようなものを執り行うに至ったのだと感じます。
これは言ってみれば安定した集団生活を志向する1つの手段にすぎず、ラーフやピギーがこの一見無秩序に見える集団をまとめるために、「理性的な秩序」のアイコンとも言うべきほら貝やのろしに執着したのと大差はないように KiKi には感じられます。 つまり彼らは結局対立に至ったわけだけど、この物語に描かれているのは「善と悪」とか「理性と本能」とか「文明と野蛮」といったような現代人が好む概念上の対立ではないと KiKi には感じられるのです。 文明社会の中で暮らす私たちはともすると忘れがちになるけれど、実は人間というこの弱くてしょ~もない生き物が「生き抜く」ためにはそんな思想的・哲学的な綺麗事では片付けられない部分がある・・・・・そんな風に感じました。
印象に残ったのは物語の最後、少年達が救出される場面です。 ピカピカの制服に身を包んだ士官が蛮人化した少年たちを前にこんなことを言います。
「なかなか面白そうに遊んでいるじゃないか。 (中略) 今まで君たちは何をしていたんだい? 戦争ごっこかい、それとも?」
少年たちが潜り抜けてきた悲惨な日々を知る読者には、「なんとまあ、能天気な!」と思わせずにはいられないセリフですが、これが文明社会に生きる、ラーフ達が常に頼りにしたいと思っていた大人の言葉なんですよ。 ここに KiKi は著者のある種の皮肉のようなものを感じずにはいられません。
そしてラーフはこの士官との会話の中で KiKi にはどうしても納得のいかないセリフを吐きます。
士官 「戦死者はいないだろうな? 死体は?」
ラーフ 「二人だけ死にました。 二人とも消えてなくなりました。」
ここでラーフが意識しているのは、自分たちを襲う獣だと勘違いして恐怖にかられたあまり自分達自身が手を下してしまったサイモンと、事故で失ったピギーの2人のみです。 物語の冒頭で彼らが起こした山火事以来姿を見せない「顔にあざのあるちびっこ」のことは忘れてしまっています。 もっと言えば「ちびっこが全部で何人いたか?」は最初から最後まで分かっていなかったわけで、そのちびっこたちがここでの生活の中で何人欠けちゃったのかは実は分かっていないのです。 ラーフにとってサイモンやピギーといった年長の仲間たちは名前を持つ個人として、その死も記憶されているのに、ちびっこたちは名前を持たない「ちびっこ達」という集団に過ぎず、数にも入れてもらえていないのです。
もちろん KiKi はこのことでラーフ個人を責めたいと思っているわけではありません。 ラーフがちびっこたちの総数を把握していなかったのはあながち彼の責任ばかりというわけではない(点呼したくても遊び興じることに夢中なちびっこたちはラーフには管理不能だった)こともよくわかります。 でも、それならラーフが常にちびっこたちのことをリーダーとして気にかけていたのか?と言うなら、必ずしもそうとは言い切れない描写が多々あったことも事実です。 それでもラーフはこの島に漂着した直後に皆から選ばれたリーダーだったし、彼自身もこの士官に「自分がリーダーである」として名乗り出ました。 この集団に秩序をもたらすことができなかった原因の1つは、彼のこのリーダーシップの欠如にもその一因があることは確かです。
この物語は「子供の漂流物語」の体を取っていますが、実はここに描かれているのは人間社会そのもののような気がします。 そして「十五少年漂流記」と異なる最後の1点は、ここで救出された少年たちが戻る世界は決して平和で安定した社会ではないということです。 この島で過ごした間に「理性的な秩序」に背を向けるかのような生き方を選択し、実行してきたジャックたち。 そんな彼らと対立し、最後は自分自身が狩られる立場に追いやられたラーフ。 そんな彼らが戦時中の世界に戻った時、どんな生き方をすることができたのか?? 暗い想像しか浮かんでこないのが悲しい・・・・。