贖罪〈上〉 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102157237

感想・レビュー・書評

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  •  たった一言で、姉とその恋人の人生を台なしにした少女の”償い”の物語。
     1935年の夏の暑い日、13歳のブライオニーは幼なじみの青年ロビーから姉のセシーリア宛ての手紙を託され、好奇心からそれを盗み読みしてしまう。その内容に衝撃を受けた彼女はロビーを姉から遠ざけようと考えるが、その日の夕方2人が密会しているのを目撃。セシーリアとロビーは互いの気持ちを確かめ合っていたのだが、難しい年頃のブライオニーはロビーに強い嫌悪感を覚える。
     そして夜遅くに、ブライオニーの従姉・ローラが屋外で男に襲われる事件が発生。犯人の顔を見ていなかったにも関わらず、ブライオニーはロビーがやったと警察に証言してしまう。作家になることを夢見る少女の、自分が作り上げた正義の妄想に浸る危うさと思春期特有の潔癖さ、頑ななまでの思い込みによってロビーは刑務所送りとなる。
     上巻ではロビーにとって「運命を変えた悪夢の一日」が、優雅で格調高い文章によってゆったりと描かれる。その緩やかな時間の流れが、彼の人生を狂わせたものがほんの些細な選択ミスであったことを残酷に際立たせていき、ふと自分の日常生活の中でも「取り返しのつかない言葉」を放つことへの恐怖を実感させられる。

  • 読み終えたとき、私は憤りと感動と衝撃でひどく混乱した気持ちになってしまった。作者に騙されたことに傷ついたが、そもそもこれはお話、フィクションだとわかって読んでいたのだから、「ひどい!騙された」とショックを受けるのはそもそも変なのだ。そんなことでイチイチ怒ってたら物語なんて読めない。にも関わらず、私は本当に動揺した。いや事実と混同したのではなく、ちゃんとフィクションだと頭で理解していたのに、私はこの物語にのめりこんでいて、ロビーもセシーリアもブライオニーも何とか過去を乗り越えて、幸せになって欲しいと願っていたのだ。
    読後、3日経つが、物語とは何だろうと考えずにはいられない。この本にはいくつかの仕掛けがあるが、メタフィクションにありがちな実験性がみじんも感じられない。上巻のきらめくような豊かな表現と下巻の苦痛に近い凄まじい表現と、普通に文学として素晴らしい。特に上巻はある1日を人物の視点を変えながらゆったりと描く。全然時間が進まなくてびっくりしたが、その悠々さに気持ちよく身をゆだねていると、上巻後半の不穏な結末に一気に持っていかれる。下巻は一転、第二次大戦のフランスからのダンケルク撤退を描くが、特に退却してきた兵士たちを迎える病院の場面にさしかかった時、手が止まり何日か読む気がしなかった。辛いからと言って飛ばすわけにもいかず、ここを乗り越えないとと意を決して再開したが、泣きながらうめきながら必死に読み進んだ。言葉というのは恐ろしい。映像や写真はケガや死体をある程度「物体」として見ることができるが(もちろんテレビや映画レベルなので本当にすさまじいものもあると思うが)、文章は否応なく私の脳に入ってきて勝手に想像させるのだ。他の本で読むのが辛い場面にあたったとき、ダメージをできるだけ減らそうと私はよく心の動きを止めて読もうとする、そしてそれはまあまあ成功するが、贖罪はダメだった。本当にうめきながら読んだ。
    まとめきれないが、物語とは語りとは騙りとは何か。作者とは何か。小説の深淵を考えるとともに、普通に登場人物たちの幸を願ってやまなくなる本。

  • 何という長い序章だったのだろう。ここまで来て、やっと物語は動き始める。社会階層と恋愛、思春期、家族。これらのテーマがないまぜになって、それぞれの思惑は交わることなく、物語は太い骨格を表し始めた。

    とにかく人物、心情描写に舌を巻く。

  • ”アムステルダム”が素晴らしかったんで、それならばということで手に取ったマキューアン作品。兄が帰ってくる期待とか、従兄弟との諍いとか、隣人と姉の葛藤とか、とかく比喩表現の連発で緩やかに進行する前半、正直ちょっとかったるく思えたりもしました。いざ兄が帰って来てから、引きこもる母が登場したり、従兄弟が派手な喧嘩をしたり、徐々に不穏な気配が高まっていく。その果てに起こる暴行事件。いかにも冤罪。”贖罪”というタイトルの意味が浮かび上がってくるであろう後半戦、その展開に期待しつつ、心して読ませていただきます。

  • とある夏の、長い長い一日に降り注いだ、
    それぞれの新しい自分、
    新しい想い、
    その変化はいずれも喜ばしいものであったはずで、
    そこから人生の広がりと深みが訪れるはずだったのに。

    それぞれの視点から語られる一日と、
    そこに繋がるまでの現実的時間や、
    心的現実の複雑な絡み合いが、
    なんとも言えない複層をなしており、
    これぞ文学だから実現しえる同時性!



    映画作品を先に見て、
    結末を知っているにも関わらず、
    純粋な文学の面白さに強力に惹き込まれる。

    映画では、ブライオニーの初恋と嫉妬として表現されていたような一連の心の動きは、
    危うくも確かに誰しもが体験する、
    無邪気と無知という幼児性と、
    それ故の潔癖さ、
    そこから脱して大人になったのだという勘違いと、
    知性が驕りを駆り立てた結果といった、
    情緒発達の過程であったのか。
    そのほうが、物語の奥行きがぐっと増す。

  • 再読、★評価は読了後に。
    それにしても特にブライオニーの人物造形、誰にも身に覚えがある厭らしさを完璧に表現しきっていて少々辟易するくらい。これで訳が完璧だと言うことないけど、それを言うと原作を読めばといつもの結論になるし、、、
    この本はまず映画を観てから読んだのだけれども、それでも衝撃的だったという初読時の記憶あり。映画もなかなか捨て難い出来だったことも考えると相当のハイクオリティ。さてさて楽しみに進みますかね、下巻に。

  • 以下引用。

    ブライオニー自身にブライオニーが大切であるのと同じくらい、セシーリアにもセシーリアは大切なのだろうか? セシーリアであるというのは、ブライオニーであるのと同じくらいに鮮烈な体験なのだろうか? 姉もまた、意識と動作が形作る、砕ける寸前の波のような境界線のうしろに本当の自分を隠し持ってり、顔の前に指を立ててそのことを考え込んだりしているのだろうか。人はみなそうなのだろうか、たとえば父親は、ベティは、ハードマンは? 答えがイエスであるならば、この世界、人間たちの織りなす社会は、二十億の声を抱えて耐えがたいほどに込み入っているのであり、すべての人間の思考は同じ重要さで主張しあい、人間ひとりひとりの生への要求は同等に強烈で、人はすべて自分が特別な存在だと思っているが、じつは特別な人間などいないわけだ。(p.65)

    ブライオニーが感じていたのは、自由を目の前にした人間の興奮、善と悪やヒーローと悪役の面倒なもつれあいから解放された人間の興奮だった。三人の誰も悪人ではなく、かといってとりたてて善人でもない。決まりをつける必要などないのだ。教訓の必要などないのだ。ただひたすら、自分の精神と同じく生き生きとした個々の人間精神が、他人の精神もやはり生きているという命題と取り組みあうさまを示せばいいのだ。人間を不幸にするのは邪悪さや陰謀だけではなく、錯誤や誤解が不幸を生む場合もあり、そして何よりも、他人も自分と同じくリアルであるという単純な事実を理解しそこねるからこそ人間の不幸は生まれるのだ。人々の個々の精神に分け入り、それらが同等の価値を持っていることを示せるのは物語だけなのだ。物語が持つべき教訓はその点に尽きるのだ。(p.72~73)

  • 物語とは一種のテレパシーだ。インクで紙に記号を書きつけることによって、自分の精神から読者の精神へと思考や感情を伝えることができるのだ。
    ~(上巻p67より)

    人間を不幸にするのは邪悪さや陰謀だけではなく、錯誤や誤解が不幸を生む場合もあり、そして何よりも、他人も自分と同じくリアルであるという単純な事実を理解しそこねるからこそ人間の不幸は生まれるのだ。
    ~(上巻p73より)

  • この精密さと美しさは何だ。
    その辺の小説家はこれを読むと力が抜けてしまうのではないか。

    日の長い夏のイギリス田園風景を舞台に、官能的に磨き上げられた描写と、巧妙に積み重ねられている(と気付かせない)プロット。

    例えば(ネタバレ注意)、

    第3部で結婚式に行ったのは土曜になっているけど、元々それを知らせた父親の手紙では日曜だったはず。読み返して気付いたのですが、最初はおかしいな、こんな間違いあるのかなと思いました。

    しかしこの不整合こそ、物語が贖罪のために書き直され、一方の物語とすりかわったつなぎ目なんですね。どうして日曜ではなく、「6月1日 土曜日」になったのか。作者の心理という省かれた物語を考えたとき、もう一度悲しくなりました。

  • マキューアンらしい繊細かつ緻密な描写が素晴らしい。上巻の中盤までは少し退屈な感じもあるけれど、中盤からは一気に引き込まれていく。
    最後の最後にこの小説のメタフィクショナルな構造が明かされて、贖罪の不可能性について語られていく部分は、見事としか言いようがない。

著者プロフィール

イアン・マキューアン1948年英国ハンプシャー生まれ。75年デビュー作『最初の恋、最後の儀式』でサマセット・モーム賞受賞後、現代イギリス文学を代表する小説家として不動の地位を保つ。『セメント・ガーデン』『イノセント』、『アムステルダム』『贖罪』『恋するアダム』等邦訳多数。

「2023年 『夢みるピーターの七つの冒険』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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