臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ

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著者 : 大江健三郎
  • 新潮社 (2007年11月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (218ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103036197

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臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつの感想・レビュー・書評

  • 書棚にあった本。実に面白かった。大江健三郎にどう取りついたものかしばらく悩んでいたのだが、この本は時間を言ったり来たりしながらの美しいフィクションになっている。個人的には著者や「障害を持った息子」があまり登場しないから息が詰まる感じがしなくてよかったのかもしれない。主人公は「アナベル・リー」なのだ。同時に「自身を語る」を読んで、深く大江健三郎に共感したのだった。本当に真摯に生きている人だなあ。

    ささいなことだけど、本文と帯にあるit's only movies, but movies it is、、って文法的にはこれでいいんでしょうか。

  • あまりに仰々しいタイトルに、別の詩があるのかと思いました。日夏耿之介訳だそうで。
    原文は;
    My beautiful Annabel Lee,
    Chilling and killing my Annabel Lee.
    ほらーこんなにシンプルじゃん!
    私が読んだのは新潮文庫・・・ググッたら阿部保訳でした。

    「ロリータ」とか絡んできて、え?アナベル・リーって・・・んな幼女寄りの少女って設定だったの?とびっくり。
    ハイティーンくらいに思っていたので。うーん。おぢさんたち、深読みし過ぎじゃないのかなあ。

    ポーの詩は島田雅彦の「ユラリウム」が好きだったなあ。

  • 近年の大江作品は初めて。正に「なんだ君はこんなところにいるのか」と声かけたくなる再会感。絡みつく執拗な文体もすっきりして大江も柔くなったなぁ‥なんて思ったら足を掬われた。気づけばグロテスクな生々しさに朦朧としてた。サクラさんのアーアーという呻き声を頭にこびりつかせたまま放置ですか大江さん‥と恨みごと言いたい。彼女が幼少時のトラウマ〈アナベルリイorロリータ〉から〈メイスケ母〉に憑依することで復活していく様は芯から震えた。これからも大江には「やあ!」と気軽に再会してこてんぱんにやっつけられたい。それがいい。

  • 大江の所謂「後期の仕事(レイター・ワーク)」につながる作品であるとともに、『さようなら、私の本よ!』でも言及されているナボコフの代表作『ロリータ』にインスパイアされた作品でもある。二十世紀で最も小説家らしい小説家として、ナボコフの名を挙げる大江は、ナボコフがらみの物語を作る試みについて前作だけでは物足りなかったらしい。

    『ロリータ』の主人公ハンバート・ハンバートがニンフェットに惹かれるようになった原因はE・A・ポオの詩「アナベル・リイ」を思わせる少女に寄せる愛がもとであった。エリオットをはじめ、詩の引用の多い大江だから、ポオの詩から始まる作品があっても不思議ではない。しかし、今回の作品は少し毛色が変わっている。限りなく作家自身に近い小説家が語り手であるのはいつものこととしても、呼称としてKenzaburoという作家自身の名前がそのまま出てくる。そればかりではない。小説中に新潮文庫版『ロリータ』の解説が引用され、その内容が作品の中に登場するヒロインにつながっていく。つまり、創作と事実の垣根がこれまで以上に低く設定されているのだ。

    「私は十七歳の時、創元選書『ポオ詩集』でこの詩を発見し(実在する、私にとってはまさにそのような少女に会うことがなかったとはいわない)、占領軍のアメリカ文化センターの図書室で原詩を写した。」と、日夏の訳詩を紹介した後で、大江は女性記者に「あなたはロマンチック・ラブの小説を一冊も書いていません」と言われたことについて触れ、「確かに「ロマンチックな小説」こそ書かなかったけれど、私が十七歳の時に出会った幻想のアナベル・リー、そして現実のアナベル・リーは自分から一瞬も去ったことがない」と、解説の末尾に記す。自作の小説ではない。他の作家の、しかも文庫本に附された解説の文章中に挿入された個人的な逸話のようなものを伏線として一篇の小説を書き上げるなど、ナボコフを向こうに回して、大江もなかなかやるわい、と思わせる。

    私は散歩中、駒場時代の旧友木守に声をかけられる。木守と私は三十年前共に映画を作っていたが、事情があって挫折していた。突然の来訪はその再開を促すものであった。映画はクライスト作『ミヒャエル・コールハースの運命』を下敷きに、作家の郷里に伝わる一揆を描いたもので、サクラという国際的女優が主演する予定であった。サクラには少女時代に撮影された「アナベル・リー」をモチーフにした映画があり、私は松山の占領軍のアメリカ文化センターでその映画と、同じ少女を撮った裸の写真を見ている。その少女こそ後に映画スターとなったサクラその人であり、私の「幻想のアナベル・リー」であった。映画は、スキャンダルが原因で頓挫するのだが、サクラは断念できない。木守は真相を明らかにするが、その衝撃でサクラは病気がぶり返し入院生活を送ることになる。木守が現れたのは、彼女の恢復を示すものであった。

    東京大空襲で孤児となったサクラは預けられていた屋敷で進駐軍の将校の保護を受ける身となる。ロシア系の言語学者でもあるデイヴィッドはナボコフを思わせる。しかも、彼には少女の猥褻写真を集める趣味があり、サクラと彼の関係はロリータとハンバートのそれに擬されている。クライストの『ミヒャエル・コールハースの運命』を、自身の『M/Tと森のフシギの物語』に出てくる「メイスケさん」の逸話とを関連づけ、大江ワールドの中に引き込んでしまう力業は、文学から文学を作るブッキッシュな作家大江健三郎、自家薬籠中のものである。

    トラブルに巻き込まれた作家の悪戦苦闘ぶりを一種悲哀に満ちた眼差しで自虐的に見つめ、自身を滑稽視してみせることが多い大江の作品は、決して後味のいいものではない。しかし、いつもは肉体的にも脆弱で無様な姿ばかりをさらす「私」がリーチの差のある木守を殴るというマッ... 続きを読む

  • 装丁が古風で何年か前に買って積読だった一冊。
    どこまでがフィクションか、
    どからがノンフィクションなのか
    久しぶりに読んだ著者の本に
    そうそう、こんな感じと。

  • 「レイト・ワーク」の中では、『水死』とともに傑出した出来栄えではないかと思う。

  • ノーベル文学賞を受賞して、まだ存命にも関わらず、おそらく近年の大江健三郎の作品は国内で売れてる、読まれているとは言えないだろう。
    作家は名声を得て歳を取ると、自らの政治的発言に心酔したり、過去の人間関係に依存したりする。
    今でもなお「個人的な体験」を書き続け、それを作品という形に仕立て上げ、出版が許されるのは誰も何も言えないから、か?
    晩年の作品はもはや本人とその周辺、身近な人々だけがニヤリとするようなエピソードで構成されており、読者に疎外感を与えることによって、もはや批評することさえ許されない。
    きっと、後世に残るのは初期の作品だけだ。

  • 美しい文章だった。
    どちらかというと『水死』の方が好きだったけれど、それは深さ、ひいては長さの問題ではないかと思う。あるいは、この小説の方がよりストーリーらしきものがある、ということだと思う。より言葉そのものを味わうための、ストーリー性の排除ということを考えた。もちろん、小説である限り、ストーリーはあるのだけれど。
    大江の他の作品ももっと読んでみたい。

  • 純文学に出てくる女性って、魅力的に描かれているようでも、なんか雑だ。一枚フィルターを通して見ているようで、もやもやする。

  • タイトル買い。プロローグ、エピローグを除いた本質的な部分が水っぽくて、何も記憶に引っかからなかった。
    もっと極端なエロかグロかに転んでも良かったような気はするけど、そもそもこの人の本を読んだのは初めてなのでなんとも言いがたい。これがこの人の作風なのかな?

  • 大人の青春小説は、どうやら甘くはないようだ。
    アナベル・リイとはエドガー・アラン・ポーの詩にうたわれる少女の名であり、夭折したポーの妻のことを示しているとも言われる。
    アナベル・リイ以外の詩にも見られるポーの一種偏執狂的な「若く美しい、死せる少女」への愛は大江にとっても感じるところがあったのだろう。
    ナボコフ「ロリータ」に登場するロリータの友人にしてニンフェットたるアナベルとも絡めてストーリーは展開される。
    途中大江作品の原風景とも呼べる四国の逸話を織り交ぜながら、大江本人である作家、映画プロデューサーの木守、女優のサクラさんの三人が一つの映画を作るために奮闘する様は、彼ら登場人物が四十代の中年として描かれているにもかかわらず、一種青春小説のような爽やかさをも呈している。
    一枚の写真(正確には映画のフィルム)からアナベル・リイの幻影が立ち現れるまでは。

    だが「﨟たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」というポーからそのまま取ったタイトルは、この本においては決して悲観的なものではない。
    初期作品(それこそ、芽むしり仔撃ちのような)にある瑞々しく鋭角的な線は薄れ、「芸術家としての作家」から「文化人としての作家」へと姿を変えてはいるものの、展開の緻密さや救済に至る描き方などはその力をいや増し、小説に確かな手ごたえを与えている。
    ただ、「芽むしり仔撃ち」「万延元年のフットボール」「ロリータ」など、頻繁に大した説明もなく書籍名や作家名が登場するため、楽しく読むためには多少の予備知識があると良いと思われる。
    また「アナベル・リイ」についても、作中で引用されている日夏訳は一見ではなかなか難解な部分があるため、平易な英語である原文か阿部保訳をあらかじめ参照しておくと良いのではないだろうか。

  • 「水死」とは兄弟のような作品。切っても切れないような。大江健三郎作品はある程度の長さから立ち上がってくるものがあると感じるせいか、まだこの程度の長さ、中篇的な長さでは消化不良な部分もあって。しかし、最後にかけてたたみかけてくる感じは圧巻で、何故、そんな方向に行ってしまうのか、と。「光」の存在が唯一の光だったか。(10/5/5)

  • 先を読まずにはおれない「ムナクソ悪い」作品。幼児愛、老化、テーマはともかく、読み始めると引き込まれてしまった。「ロリータ」「ミヒャエルコールハース」を読んだらもっと意味が分かるのかな。

  • 実は存命の作家というのはあまり興味がなく、初大江健三郎本。サクラさんの人生に同情こそすれ克服したまでは理解出来るが、それを人前で吐き出すのは単なるマスターベーションでしかない。私小説風というか公私混同っぷりと昨今の児ポ法推進派が喜びそうな登場人物の行動と覚悟はしていたが余りのヒダリ臭さが鼻についた。初めて読んだからわからないが、作品の登場人物はこんなに自分周辺もしくは主格が「大江健三郎」自身なのか?批判的な事ばかり書いたがおもしろかった。

  • パレスチナ出身の米思想家エドワード・サイードが2003年死亡 白血病に苦しみながらも楽観的「体調もひどいし、イスラエルとパレスチナの状態も悪かったのだから、あれは意志的な楽観主義だったのだと彼の弟子たちが教えてくれました。サイードは『人間がやることだから、最後には良くなる』と言っていたそうです。その話を聞き、僕も『意志的な楽観主義』を示す小説を書いてやろうと思った。それが、この小説です。もう一作、書くつもりです」

  • 誰の訳で読んだのかはわからないけれど、アナベル・リイの詩には思い入れがあったので、日夏耿之介訳の言葉づかいに驚いた。ああ、こんな言葉があったのかと思った。それと同時に、過去と現在を行き来する物語、『万延元年のフットボール』や他の大江作品とも通じる物語、として、興味深く読んだ。永遠。忘れていても、知らなくても過去や血は自分の中で継続中。といったようなことを感じた。

  • タイトルとモチーフに惹かれて手にした初の大江作品。なので今までの作品の方向性は知らないままなのですが、重厚でありながら断片化された文体は、引き込まれるようでもあり、読み辛くもあり…。かなり読み手を選ぶ作品ですね。どうも読解力の無さを責められているような気になります(被害妄想…)/(2008.02.19読了)

  • 大江さんがまた新しいところに向かってる気がする。古義人の立ち位置が変わった。

  • いつの頃からか、この作者の作品を読んだと素直に人に言えなくなりました。本当に書かれていることを理解できたかと問われ、答えるのが気恥ずかしくなったからです。さて今回も、最後まで読みました。芳醇なイメージが頭の中を占領し尽くして、いつもの空間を忘れさせました。読後、心豊かな印象があります。

  • なんとなく大江健三郎さんの著作は難しそうで敬遠していたのだが、そんなことはまったくなくスルルと読めた。独特のリズム感に慣れるまでは多少時間を要したが、郷里の伝説に絡めた物語は、どこまでが小説でどこからが現実なのかが曖昧で混乱する。深い森を俯瞰しているようななんともいえぬ読後感。

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