馬たちよ、それでも光は無垢で

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著者 : 古川日出男
  • 新潮社 (2011年7月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (132ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103060734

馬たちよ、それでも光は無垢での感想・レビュー・書評

  • 311を越えて、フクシマの作家が物語るとは、こういうことなのだと。
    陳腐な表現だけれど、言葉の力を感じずにはいられない。
    何度も何度も、涙が出そうになった。
    ラストがすこしこんがらがった糸のようになってしまっているのだけが惜しい。
    彼の世界観が合う人にはぜひ、読んでもらいたい。

  • 書いていいのか、書けるのか。
    しかし小説家として、書くことで表現しなくてはならない。
    その迷いと葛藤。

    最後の数ページは、なんだか感動した。
    光が未来を感じさせる。


    ☆をつけるタイプの本ではないと思ったので付けません。

  • あの日を境に、Fukushimaの持つ意味が変わってしまった。
    住んでいる人にとっても、世界にとっても。そして、かつて住んでいてそこから出た人にとっても。

    福島県は、浜通り、中通り、会津地方、と3つの地域に区分けされる。福島県民にとってはごく当たり前の、しかし他県の人はそうそう知らない、知る必要もなかったそんなことすら、今では全国的に知られる。
    湖の中にぽつんと小さな島があって、そこにいつも風が吹いていたことから「吹く島」と呼ばれ、「吹く」に幸福の福を当てた…と子どもの頃に"郷土の歴史研究"で調べた福島は、今や世界中にとってFukushimaとなり、その字面はなんだか、住んでいる人住んでいた人たちの実感とは離れた、遠い知らないもののようにも見える。

    「新潮」7月号に掲載されたものが、7月30日の奥付で出版されるという、おそらく異例のスピードの単行本化。
    その時、その直後、それ以後、古川日出男が何を見、何を考え、何につき動かされて相馬へと向かったのか、それはこのスピードでこそ熱をもって伝えられる、という判断なのだろう。

    熱と言っても熱血ではない。
    Fukushimaを出た人が、かつて住んで暮らしていたFukushimaに感じる、小さなわだかまりというか懺悔のようなもの。喉にささった魚の小骨のようなもの。
    それを努めて冷静に書き記そうとする。

    そうなのだ、「311とまとめられることには抵抗がある」。
    その抵抗を持ち続けるのが、作家の役割かもしれないよ。

  • 「ベルカ、吠えないのか?」や「アラビアの夜の種族」など
    で好きな作家の一人であった古川日出男氏の作品「馬たちよ、それでも光は無垢で」を読了。ついこのあいだに会った仙台空港にある飛行機整備系の会社の工場長であった高校の同級生の話を聞いたあと、あの3.11の惨事を少し忘れかけている自分に気付き、少し重いだろうと読まないで積んであったこの本をひっくり返し読んでみた。著者が相馬市なので震災後の原発禍のなか相馬市近辺を移動しながら感じたこに、移動の中で彼の著作で東北六県を舞台にした「聖家族」の主人公との無意識のうちの会話を織り交ぜ書き下ろした物で、福島出身社ならではのノンフィクションでありながらも不思議なフィクションが混ざる読み物だった。小説家として何も出来ない無力感と戦いながらも、いまその災禍の中で感じた事を書き残さではと言う強い意志で書き下ろした文章であり、ずんとくる重い物を受け取り、やはり原発は確実に排すべきと再度思った。小説家としての福島の災禍に際しての貴重なチャレンジである本作品を読むのに選んだのがArchie Sheppの"Black Ballads"。力ある音色に元気がもらえるなあ。

  • 2016/2/24購入
    2016/3/27読了

  • <閲覧スタッフより>
    福島県出身の著者。かつて東北六県を舞台に書いた大作『聖家族』の主人公兄弟に思いを巡らせながら、相「馬」市を目指す。そこで見たもの、感じたものとは?言葉も時間の感覚も失った「神隠しの時間」を経て書かれた物語。

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    所在記号:913.6||フル
    資料番号:10225394
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  • あの日たまたまリアルタイムでみたテレビの映像と、そのとき感じた衝撃を思い出した。
    そして、忘れてはいけないことを簡単に忘れている自分を思い知らされた。
    福島の小説家としてこれを書きあげたことがすごいと思う。

  • とてもとても暑い作品だった。古川日出男のグルーヴィーな感じってのに対して、半ば飽きがきていたここ数年、ついに古川日出男は脱皮したかなぁ、と。熱があった。惰性がなかった。すばらしい小説だった。この次の作品が楽しみだわ、これは。(12/7/4)

  • 福島出身の著者が自己を回復するために書いた文章の数々。論ずる術を持ちません。

  • 東日本大震災を、福島出身である古川氏が語る。
    語る、というのもなにか違う。
    ノンフィクション、ルポルタージュ、でありながら、フィクション。
    内包されるものが大きい。
    静かに混乱の中で綴られたような物語。

    震災、
    それから、馬。

    古川氏の小説は入り込むまで時間を要することが多々あるけれど、これはすっと入れた。
    そして、すっと終わった。
    不思議な感触が、残る。

  • 3.11後、車で福島第一原発に向かう福島出身の著者。
    報道、実際に目の当たりにする惨状、動物たち、そして自らの作品である『聖家族』、その登場人物が、入れ替わり立ち替わり現れ、融合していく。
    小説ではないしルポルタージュとも言えない。
    あくまでも「小説家である自分」を中心に据えて、福島を見つめている。その視線と思考をたどる文章。
    複雑な想いを抱きながら、とにかく自分は見なくてはいけないという衝動を抑えきれない様子が伝わる。


    しかし、こういう未曽有の自然災害において、小説や小説家って何ができるのでしょうか。
    私はどうしても、甚大な被害を被った被災者の方々に思いを馳せてしまう。
    家を、職を、家族を、故郷を無くした方々は、正直読書どころではないんじゃないか。私は、自分が同じ立場だったら少なくともそうだと思う。
    これを読んでいるような、私も含めて、無事に日常を送ることのできている人間には伝わるものはあっても、被害の中心にいる人間は?
    想像を超えた悲しみと残酷さを、修辞でまとめられたら、腹が立ちはしないだろうか。

    というこんな想像も、所詮無事だった者のお節介となるのかもしれない。
    悩む。

  • 震災関連の書籍を読む中で、いちばん響いたのは、この本だった。
    ............................................................................................................
    はじまりに。
    P5 目は閉ざすことができるはずだった。それが視力の特性でもあるから。このことで聴力とは性質を異にするはずだった。鼓膜には、蓋がない。ところが網膜には目蓋という蓋そのものの器官がある。とすれば容易なはずだった。にもかかわらず、できない。テレビの報道を注視しつづけて眼球の表面が乾き切る。ただし堰を切るような潤いはある。涙が落ちるのだ。涙がぼろぼろ落ちるのだ。そんなことが一時間に何度起きるのか。頻度を確かめることができなかった。一時間、という単位が消えていた。一日が二十四時間ではないのだ。テレビからはCMが消えている。区切りが消えている。わずか一日の間に起こるはずのないことが起きていて、展開する——展開しつづけている。その体感をひと言にまとめるならば、時間の消滅だった。具体的には日付の意識の、そして曜日の感覚の喪失だった。この体感を、もしかしたら私は命名できる。〝神隠しの時間〟と。・・・

    P9 どうして書きつづけたのか。
    書きたい、と感じていたからだ。他に理由はない。私の内面の必然性だし、衝動だ。しかも途切れない衝迫だった。
    だった、と記すしかない。二つの仕事をキャンセルしたのだから。構想を立てて執筆するような種類の小説は、もう書けない。そもそも書こうと思えないのだ。いや、何も書けないわけではなかった。短いものはしたためた。私は〝神隠しの時間〟の内部に囚われている間にも、求められる原稿があれば応じた。それが直接的に機能する言葉ならば、渾身の思いで吐き出した。文学が無効だとは思わなかった。一瞬も疑っていない。しかし種類が問われたのだ。散文ならばどんな散文か、どんな文体か。想定される読者は誰なのか。私はここ数年、小説を誰でもにむけて書いてきたように思う。すなわと、想定しなかった。それが通用しない。

    P24 私に罪がないと言えるか。のうのうと生きている理由を述べろ。
    声。

    P26 その地に立たなければならない。この衝迫はいったい何なのか。私は解析しようとする。被爆を強いられるべきは自分だ、被爆しろと考えているのは、わかる。一種の自殺衝動だ。そんなものが自分の内側にまだ残存していたという事実に驚く。たしかに二十代にはあった。しかし二十七か八で終熄した。・・・自己憐憫は結局のところ他者と世界を憎むことだ。まずは憎しみを棄てよ。もう口にするな。
     ・・・私には「生まれてきてしまった」との想いがある。ある種の後ろめたさだし、自己憐憫をどこかで越えているのが確かに感取される罪の意識でもある。

    声がする。行け。お前が被爆しろ。あるいはただ、見ろ。私は福島県の中通りに生まれた。私は浜通りに行かなければならない。
    どうしたら苦をともにできるのか。

  • 2012年24冊目。
    132頁。




    京橋図書館で借りる。

  • 古川作品は、難解で感度をチューニングするのに時間がかかるのだが、これに関してはついにチューニングが終わらないまま最後まで来てしまった。
    それだけあの日のことは作者を、そして我々を混乱させてしまったのだ。
    まだ自身への問いかけをやめてないし、もちろん答えも見つかってない。

  • 福島県出身の作者だからできること、
    彼が小説家としてあり続けるために書かずにはいられなかったこと。

    渾沌とした記憶をたどって行き来する意識の果てに、
    「聖家族」の主人公が現れる。
    そして馬たちの話。
    小説という虚構の中に現実には叶わない贖罪を、愛を、慰撫を込める。
    それこそが小説に見出された希望かもしれない。
    少なくともこの文章の中で、「彼」は自在に動き回り、それを果たす。
    作者の希望。

    あの日、あの場所にいなかったあの場所の人間が思う震災のすがた。
    被災地やフクシマや3.11や、
    その他さまざまに記号化されてしまうあの場所。
    本当にあったものが、今もあそこに生きる生き物たちが、記号の中に。

    それは正史には決して登場しないものたち。
    人であれ動物であれ、
    真実その存在数の大きさはどこにも反映しない。
    それでも生きているものたちがいることを知る。
    繋いできた命があることを知る。

    そして、降る放射能。
    私たちは何に祈ろう、なにを祈ろう。

  • 福島県出身の小説家「古川日出男」が震災から一月後、福島を訪れる。独特の文体の筆者。詩的で、
    刺さるような言葉繰りと、自身が過去に書いた東北を舞台にした小説の主人公への回想もはさみ、ノンフィクションの枠を越えたものになっている。

  •  この作品は、「小説家としての作者の自己回復」の物語である。その点をどう評価するかで、議論が分かれると思う。わたしは、問題があると思う。

  • 古川日出男による東日本大震災に関する独白的記録。
    一部物語を含んだノンフィクションである、としたい。

    私自身、あの日、普段いるはずの場所ではない京都にいた。
    そして古川日出男も普段いるはずの東京ではなく京都にいた、と言う。
    「あちらからは弾かれていた」という言葉に共感しつつ、それでも決定的に違うのは、古川日出男が福島県出身であるということ。
    彼は向かう。東北へ。
    「どうしたら苦をともにできるのか」と。
    「つねに自戒しろ。真実、見る行為をしろ」と。

    東北を描いた自身の小説『聖家族』と深くコミットしながら、被災地で自分の見たこと感じたことをただ独白のように綴っていきます。
    無防備なまでに正直な姿勢と語り口は、なんというか、下手なTVの映像よりもずっとまっすぐに心に届く。

    『聖家族』を読んでいないと関連する部分については理解しづらいけれど、それでもこの経験と小説を書くという行為とを結びつけなければ、という思いは十分伝わってきます。

    間もなく一年が経とうとしているこの時期に、この本と出会えてよかったと素直に思えました。

  • 古川日出男さんの著書。

    ここに描かれていることは、正しく〈出来事〉なのだ。
    『記憶/物語』(岡 真理:著)流に表現すれば。
    現地の状況を描写する部分を読んで、そう痛感した。

    ラストは、希望が感じられる。古川さんの祈りなんだと思う。

  • 福島出身の作家が、けれどその日は京都にいたことで駆られる「行かねば」の思い。
    見るままの現実と感じるままの思いとわき上がる思考と、けれど留まる時間感覚と、混とんとした頭の中をそのまま文章にしてみせてくれたように感じた。
    大きな視点での日本の流れと東北と。馬たちの歴史と現実…いろいろと考えさせられた。

    最後に出て来る白馬が、なぜか東山魁夷の描く白馬となって、福島を彷徨っているかのように感じた。

  • 震災の時間を書きとめた本。
    独白に近く読みにくい。
    心の中をそのまま文章にしたかのよう。
    そこが、つらく。途中まで。

  • 震災ののち、破壊の爪あとが今なお残るその地に向かうことにする福島出身の小説家。圧倒的なその被災の現状を目の当たりにしながら、小説家自身の行うべき仕事と、その地へ未来の希望が生まれ出ずることを願ってつづられた、私小説の体裁をとられた物語。
    語りの口調で時に乱暴に時にやさしく、この震災と向き合う。絶望と絶望と絶望が押し寄せている地、けれど、時間を失ったこの地には、時間を越えた存在が手を差し伸べてくれるのではないか。そう願わざるを得ない、かの地への祈りを感じた作品でした。

  • 贖罪としての小説。おそらくは身内でありながら部外者としてしか振る舞えなかった戸惑いに対する。震災の途方のない巨きさ故に上滑りしていく現実に楔を打つべく自著の大作『聖家族』が召還される。単なるログや論考では釣り合いがとれないのだ。

  • なんと素直な本なのだろう、というのが率直な感想。

    地震があった、そのことにショックというか、その衝撃はその時日本にいた、日本という国を故郷に持つ誰もが持っていた「言葉にならない」感情だったのだろう。

    だからこそ、筆者はその「言葉にならないもの」を「言葉を操るもの」しかもその震源地を故郷とするものとしての「何か」に駆られて言語化しようとした。その試行錯誤。

    筆者の小説ー東北を舞台とする小説と、実際の震災後の東北との境界線があいまいになり、そして筆者は言葉を、歴史を重ねていく。その思考の狭間を、無垢に受け取るしかない。そういう本。

    ストレートに突き刺さる、「地震」という衝撃の、言語化への試み。

  • 中通り出身の著者が震災後の福島県に戻り歩く。3.11以降福島に起きた「それ以外の日本」との断絶を、「外」にいる当事者として追体験し、繋ぎ直すためにこの本が書かれたのではと思う。途切れてしまった物語を再構築する効用はまさに小説のものだが、この作品では著者が自分に部外者として書くことを許さないために、手記に近い印象を受ける。福島県を被災地として美化する文章は一切ない。ただ、馬たちの歴史に託して福島が受けてきた困難を辿り、今また置き去りにされようとする現実に「うなるどなるだまる祈る汗す」(作中句引用)のみ。
    自作の登場人物の声を踏み切りに、一気に再生へ飛翔するラストシーンが美しい。当事者であり小説家であろうとする著者の祈りが溢れて、「外」にいる私をまっすぐに打つ。

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馬たちよ、それでも光は無垢での作品紹介

震災からひと月、作家は福島浜通りをめざす。失語する景色、不可視の放射線、傷ついた馬たち。極限の現実の果て、ついに小説は導かれる。そして「彼」、被災地に現れた「彼」、『聖家族』の狗塚牛一郎は作家に語りはじめた-。祈る。想像する。光を求めて言葉を刻む文学の軌跡。

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