学生との対話

  • 309人登録
  • 4.03評価
    • (21)
    • (27)
    • (14)
    • (1)
    • (1)
  • 35レビュー
著者 : 小林秀雄
制作 : 国民文化研究会  新潮社 
  • 新潮社 (2014年3月28日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (205ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103082071

学生との対話の感想・レビュー・書評

並び替え:

表示形式:

表示件数:

  • ☆5(付箋23枚/P205→割合11.22%)

    この会を本にすることが出来た編者は言う。
    (小林秀雄は講演を本にすることを酷く嫌った)

    先生は、はじめにこんな話をされた。「うまく質問してくださいよ」、「問題がなければ質問しないわけですからね。問題が間違っていれば、質問しても仕方ないわけです。うまく問題を自分でこしらえて、質問をこしらえなければなりません」。
    先生は、対話を進めていけば自問自答になる。さらに進めば「答えを予想しない問いはない」ところにいく。だから「問答を実らせる力は問いのうちにある」とおっしゃったこともある。

    立て方が正しければすでにそれが答えになる。批評、文筆、歴史家の知恵の書。

    〇科学は、本当に物を知る道ではなく、いかに能率的に生活すべきか、行動すべきか、そういう便利な法則を見いだす学問なのです。
    それもたいへん必要なことだけれども、見誤ると、科学さえやっていれば僕らは物を知ることができると思ってしまう。
    「そっちの原因は何だ?」「そっちの原因はこうだ」
    「じゃ、あっちの原因は?」「あっちの原因はこうだ」。
    これ、無限でしょ?原因は無限に、いくらでも調べることができる。一体、これが物を知ることですか?

    〇カントは、物が―物質でもいい、精神でもいい、世界でもいいですが―本当は何であるかということは、学問で証明することは不可能なのだと証明したでしょ?
    科学は、実在とは何かを知ろうとしているのではないのです。実在の<関係性>を調べるのが科学です。実在の本質 、つまり物自体とはどういうものであるかを調べるのは形而上学です。その形而上学が不可能であるということをカントは証明しました。

    〇学生D:
    われわれ学生はいかなることを理想とすべきか、また個人と全体との関係はどうあるべきか、それが理屈としては わかりますが、実感として湧いてこないのです。先生はどうお考えですか。

    小林:
    君に実感として湧いてこない理想を、私が君に与えることはできない。孔子が「憤せざれば啓せず」と言ったように、あなた自身が憤することが大切だ。理想というものは、人から教わるものではない。
    参考にするものはいくらでもあるが、理想に火をつけるのは君だろう?
    孔子は続けて「悱せざれば発せず」とも言っています。口でうまく言えず、もぐもぐさせているくらいでなければ、導いてやらないというのです。こういう教育はだんだん少なくなったが、原理としては、これが亡びるということはない。
    だから、君の質問には、僕は答えられない。いまどういう理想をもったらいいか、ああ、それはこうだよということ は言えない。君が発明したまえ。学問には必ず自得しなければならないものがあるのだ。
    個人と全体の問題もやはりそうですよ。自分だったらどうするか、ということになるわけです。だから本当の知恵などというものは、そんなにたくさんはないのです。


    ああ、いいですね。学ぶという事は厳しいことでもあって、それが楽しい。
    最後にもう一つ、女子学生の質問から。

    〇女子学生D:
    先生は「昔の人の心を知るのには、昔の心を持っていなければならない。今の人はみんな、現代の心を持って昔の心を見ているだけで、そこには想像力がまるで働いていない」という旨をおっしゃいました。
    では今の私たちが古人の心を知り、その心を持つためには、想像力だけで十分なのでしょうか。

    小林:
    十分です。想像力という言葉を、よく考えてください。想像力、イマジネーションというのは、空想力、ファンタジーとはまるで違う。でたらめなことを空想するのが空想力だね。だが、想像力には、必ず理性というものがありますよ。想像力の中には理性も感情も直感もみんな働いている。

    歴史を知るには、想像力だけで十分なのでしょうか?
    →十分です。

    この言い切り、思考の経験。痺れました。

    ***以下抜き書き**

    ・諸君は本居さんのものなどお読みになら ないかも知れないが、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」という歌くらいはご存知でしょう。
    この有名な歌には、少しもむつかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。先ず第一、山桜を諸君ご存知ですか。知らないでしょう。山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分かるはずはないではないか。宣長さんは大変桜が好きだった人で、若い頃から庭に桜を植えていたが、「死んだら自分の墓には山桜を植えてくれ」と遺言を書いています。その山桜も一流のやつを植えてくれと言って、遺言状には山桜の絵まで描いています。花が咲いて、赤い葉が出ています。山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の 桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。
    …宣長さんは遺言状の中で、お墓の恰好をはじめ何から何まで詳しく指定しています。何もかも質素に質素にと指定していますが、山桜だけは本当に見事なものを植えてくれと書いています。今、お墓参りをしてみると、後の人が勝手に作ったものですが、立派な石垣などめぐらし、周りにいろいろ碑などを立てている。しかし肝心の桜の世話などしてはいないという様子です。実に心ない業だと思いました。

    ・今の歴史というのは、正しく調べることになってしまった。いけないことです。そうではないのです、歴史は上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るとい うのは、古の手ぶり口ぶりが、見えたり聞えたりするような、想像上の経験をいうのです。

    ・歴史を知るというのは、みな現在のことです。現在の諸君のことです。古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇って来る。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の動きなのです。こんな簡単なことを、今の歴史家はみんな忘れているのです。「歴史はすべて現代史である」とクローチェが言ったのは本当のことなのです。なぜなら、諸君の現在の心の中に生きなければ歴史ではないからです。それは史料の中にあるのではない。諸君の心の中にあるのだから、歴史をよく知 るという事は、諸君が自分自身をよく知るということと全く同じことなのです。

    ・もう一つ重要なことは、歴史は決して自然ではないということです。現代ではこの点の混同が非常に多いのです。僕らは生物として、肉体的には随分自然を背負っています。しかし、眠くなった時に寝たり、食いたい時に食ったりすることは、歴史の主題にはならない。それは自然のことだからです。だから、本当の歴史家は、研究そのものが常に人間の思想、人間の精神に向けられます。人間の精神が対象なら、それは言葉と離すことはできないでしょう。

    ・学生A 先生がフロイトについて話されたところで、精神は生理的要因にあまり影響されないと言われたと思いますが、実際の生活で全面的にそういうことが言え ますでしょうか。

    小林 無論、生理的なものと精神的なものは絶対に密接な関係があるんです。ですから、生理的な原因から説明することのできる精神現象はたくさんあります。けれど、フロイトは、異常な心理を扱った心理学者です。
    そんな異常な心理は、いわゆる解剖学的な、肉体の生理学的な原因からでは、とても説明ができそうもない。生理的には全く異常のない、すこぶる健康な患者が出てくるわけですからね。

    ・カントは、物が―物質でもいい、精神でもいい、世界でもいいですが―本当は何であるかということは、学問で証明することは不可能なのだと証明したでしょ?科学は、実在とは何かを知ろうとしているのではないのです。実在の<関係性>を調べるのが科学です。実在の本質 、つまり物自体とはどういうものであるかを調べるのは形而上学です。その形而上学が不可能であるということをカントは証明しました。

    ・もう一つ、庶民という問題があるね。庶民は物を考えなかったなんて、これは嘘です。そんなものは今の色眼鏡で見た考え方です。もう少し、昔の学者の生活を調べなければいけない。伊藤仁斎という人は材木屋の息子で、学問が好きで、独学を続けた。やがて京都で塾を開いて、ひたすら月謝によって彼は生活したのです。その月謝というのはどこから来たか。これはあらゆる階級から来たのです。無論、農民もいます。町人もいます。公家もいます。武士もいます。
    彼らは学問が面白かったのですよ。面白くなくて、どうして百姓が来ますか、町人が来ますか。

    ・学生B 社会のあらゆる分野が専門化されていく時代に、現在の教育制度はどのように変えて行ったらよろしいでしょうか。

    小林 学問の分化をはばむ理由は何もない。学問が分化しながら進歩するのは当然でしょう。しかし教育の問題となると、学問の分化以前のことで、「学ぶ」という基本的な意味が考えられていなくてはなりません。教育論などという大問題は、私にはお話しできないが、さしあたり考えるに、現代の教育に一番欠けているのは感情の教育でしょう。情操の教育が一番欠けているのではないですか。
    学校の先生方が、生徒を美術館に連れていったりしますが、きわめて形式的なことです。あれは美術に関する知的教育をやっているのであって、美しいということを感じる力が育成 されるのかどうか、そこはまったく考えられていない。

    ・もう一つ悪いのはジャーナリズムの趣味です。戦後の青年はどうだとか、いまの青年はどうだとか、騒ぎ立てすぎるのではないですか。戦前の人と戦後の人の間の思想の食い違いというようなことなど、お互いに捨てるがいいのです。これは一種の猜疑心です。
    いくら外面的なことが変っても、少し深い問題とか、微妙な問題に入ってみると、戦前も戦後もない大問題が人生にはたくさんあります。いまの世の中がむずかしくなったとか何とかいうけれども、敏感で利口な人には、人生がやさしかったことなど一度もありません。

    ・学生C 先生は、学問とは知る喜びである、道徳とは楽しいものであると言われましたが、私には苦しいことのほ うが多いのではないかと思えます。いかがでしょうか。

    小林 喜びといっても、苦しくない喜びなんてありませんよ。学問をする人はそれを知っています。嬉しい嬉しいで、学問をしている人などいません。困難があるから、面白いのです。やさしいことはすぐつまらなくなります。そういうふうに人間の精神はできているのです。子どもの喜びとは違うのです。
    喜びというものは、あなたの心の中から湧き上がるのです。僕が与えることのできるものではない。学問が喜びであるか、苦しみであるか、というような質問は、質問自体がおかしい。それはあなたの意思次第です。

    ・学生D われわれ学生はいかなることを理想とすべきか、また個人と全体との関係はどうあるべきか、それが理屈としては わかりますが、実感として湧いてこないのです。先生はどうお考えですか。

    小林 君に実感として湧いてこない理想を、私が君に与えることはできない。孔子が「憤せざれば啓せず」と言ったように、あなた自身が憤することが大切だ。理想というものは、人から教わるものではない。参考にするものはいくらでもあるが、理想に火をつけるのは君だろう?孔子は続けて「悱せざれば発せず」とも言っています。口でうまく言えず、もぐもぐさせているくらいでなければ、導いてやらないというのです。こういう教育はだんだん少なくなったが、原理としては、これが亡びるということはない。だから、君の質問には、僕は答えられない。いまどういう理想をもったらいいか、ああ、それはこうだよということ は言えない。君が発明したまえ。学問には必ず自得しなければならないものがあるのだ。
    個人と全体の問題もやはりそうですよ。自分だったらどうするか、ということになるわけです。だから本当の知恵などというものは、そんなにたくさんはないのです。

    ・歴史家ならば、自分の心の中に、藤原の都の人々の心持ちを生かすという術がなければいけない。つまり、歴史家には二つ、術が要る。一つは調べるほうの術。そして調べた結果を、現代の自分がどういう関心をもって迎えるかという術です。

    ・批評というのは、僕の経験では、創作につながります。僕は、悪口を書いたことはありません。少し前には書いたこともありましたけれども、途中から悪口はつまらなくなって、書かなくなった。悪 口というものは、決して創作にはつながらない。人を褒めることは、必ず創作につながります。

    ・科学は、本当に物を知る道ではなく、いかに能率的に生活すべきか、行動すべきか、そういう便利な法則を見いだす学問なのです。それもたいへん必要なことだけれども、見誤ると、科学さえやっていれば僕らは物を知ることができると思ってしまう。
    「そっちの原因は何だ?」「そっちの原因はこうだ」「じゃ、あっちの原因は?」「あっちの原因はこうだ」。これ、無限でしょ?原因は無限に、いくらでも調べることができる。一体、これが物を知ることですか?

    ・人生というのは、大きな芝居みたいなところがありますが、さまざまな俳優がいろいろ面白いことをしているのを客席から見ているだ けではいられなくなる。僕らはその芝居の中へ入って、自分も俳優になろうとします。それが人生だよ。そして、そこで働くものが認識なのです。

    ・人間は、自分の得意なところで誤ります。自分の拙いところではけっして失敗しません。得意なところで思わぬ失敗をして不幸になる。言葉もそれと同じだな。あまり使いやすい道具というのは、手を傷つけるのです。

    ・僕は自分の子供の頃をよく振り返ってみるが、親父のことなんか、みんなお見通しだったね。ああ、親父はこういう性質を持っているなと見抜いていたよ。いい性質もあった。悪い性質もあった。僕は14、5歳の時に、そのくらい見抜いたね。諸君だってそうだろう?子供ってみんなそういうものだよ。非常に敏感なものだ。子供の教育と かなんとかって、今やかましいことを言うけれど、子供に対して少し恥じればいいんだよ。

    ・昔は、『増鏡』とか『今鏡』とか、歴史のことを鏡と言ったのです。鏡の中には、君自身が映るのです。歴史を読んで、自己を発見できないような歴史では駄目です。

    ・経験、経験と一口に言うが、自分が本当に何を経験したかなんて、実はよくわかっていないものなんだよ。本当の経験の味わい、経験のリアリティなどというのは、自分でもよくわからないんだ。何か強烈な経験をした時、直かに来る衝撃が強いでしょう?その強い衝撃で、みんな我を忘れていますよ。その時、自分が本当に何を言ったか、何を感じたか、どう行動したか、どう変化したのか、どんな意味があるのか、本当に強烈な経験をした 場合、なかなか知りえないものです。

    ・女子学生D 先生は「昔の人の心を知るのには、昔の心を持っていなければならない。今の人はみんな、現代の心を持って昔の心を見ているだけで、そこには想像力がまるで働いていない」という旨をおっしゃいました。では今の私たちが古人の心を知り、その心を持つためには、想像力だけで十分なのでしょうか。

    小林 十分です。想像力という言葉を、よく考えてください。想像力、イマジネーションというのは、空想力、ファンタジーとはまるで違う。でたらめなことを空想するのが空想力だね。だが、想像力には、必ず理性というものがありますよ。想像力の中には理性も感情も直感もみんな働いている。

    ・どうして宣長までたどり着いたか、確かなことは言えません。ただ、感動から始めたということだけは間違いない。感動というのは、いつでも統一されているものです。分裂した感動なんてありません。感動する時には、世界はなくなるものです。感動したときには、どんな莫迦でも、いつも自分自身になるのです。
    これは天与の知恵だね。人間というのは、そういう生まれつきのものなのだな。感動しなければ、人間はいつでも分裂しています。だけど、感動している時には、世界はなくなって、自分自身と一つになれる。自分自身になるというのは、完全なものです。莫迦は莫迦なりに、利口は利口なりに、その人なりに完全なものになるのです。つまり、感動している正体こそが個性ということですよ。

    ・「無いにも有るにもそんな事は実はもう 問題で無い。我々はオバケはどうでも居るものと思った人が、昔は大いに有り、今でも少しはある理由が、判らないので困って居るだけである」―柳田国男

    ・先生は、はじめにこんな話をされた。「うまく質問してくださいよ」、「問題がなければ質問しないわけですからね。問題が間違っていれば、質問しても仕方ないわけです。うまく問題を自分でこしらえて、質問をこしらえなければなりません」。先生は、対話を進めていけば自問自答になる。さらに進めば「答えを予想しない問いはない」ところにいく。だから「問答を実らせる力は問いのうちにある」とおっしゃったこともある。

  • まぁ、何というか、ちょっと変わった(偏屈な)人だなぁと思いつつも、書いてあることは、結構、今まで自分が漠然と思っていたことを、言葉にしてくれた、みたいなところもあったから、読みやすかった。

    一番の衝撃は…このやりとりが、もはや一世代も二世代も昔の学生たちの話、ってことね。
    今も昔も、ほんま変わらんなー!問いの感じが!!(笑)
    答えも、今でも十分通じるね。
    それかま最後に残された衝撃でした。

  • 2017年4月9日に紹介されました!

  • 浅薄な私からすると十分に吟味されたかに思える学生の質問を一刀両断していく小林秀雄。
    なんとも高い次元でのやりとりに己を恥じてしまう。

    答えをひたすらに見つけようとするのではなくうまく質問するために努力するべし、というのは確かにそうかもしれない、と納得。

  • 学生の質問の意味がよくわからないんだが、小林秀雄はその意図たるを知り噛み砕いて返答できる、ってところが彼の懐の深さで、中には噛み合わなかった学生もいたようですが、その的中率たるや相当なものだと思います。あとから神話をコケにするのは誰でもできるけれど、じゃあなぜそうした話が生まれたかというと説明できないわけで、それを当時の人間になったつもりで考えましょう、っていうのが歴史といわれれば、やはりそうなんだろうなあと、それは数ヶ月前レベルの話でもそうだよなあと。

  • 元から苦手意識があったけれど、読めば理解できるものがあるかと思い何とか読み切った。

    小林秀雄は素晴らしい批評家だ、という意見に私は同意しかねる。専門用語を独特な解釈を用い、複雑な文章を書く。万人が理解できないような文章を書く人が素晴らしいと言えるのか、と思うのである。

    この講演も学生に「いい質問」を求めているが、その回答の多くは哲学者などの引用だ。そこから何かを感じ取る人もいるだろうが、私には何も引っかからなかった。

  • 理性は科学というものをいつも批判しなければいけない。科学というのは、人間が思いついた一つの能力に過ぎないということを忘れてはいけない。

  • この著書は、小林秀雄氏が九州にて学生と問答を重ねた時の様子をまとめられた一冊である。
    時代が流れても変わらない若者の荒削りな姿を小林秀雄氏が鋭く指摘する。
    そこで現れるのは、物事を立ち止まって考えようとしていない現代社会の日本人の姿である。
    この大きな敵に対してどうやって立ち向かうか、批評の神様は、温かくこう語りかけるのであった。

    【うまく質問するのは、なかなか難しい。
    問題がなければ質問しないわけだが、その問題が間違っていたらしようがないでしょう。
    うまく問題を自分で拵えて、質問をしなければいけない。
    たとえば、「自分はどう生活したらいいでしょうか?」と質問する。
    これは問題を拵えていない証拠ですね。
    こんなことはいっさい、人に問うべきことであるか、黙って自分で考えるべきことであるか。
    そんなことも考えなければいけない。】

    私は、自分の言葉を他者に出す前に、一歩立ち止まって考えている機会がどれだけあるだろう。
    非常に心に直接響いてくる問答の数々であった。

  • スペシャリティとオリジナリティーの違い。
    本来自分らしさというのは自分の無能さ無力さ、気質、弱さを克服して、普遍的な人格のもとで滲み出てくるもの。
    万人の如くに知り、自分流に信じる。最後は自身のその日その日の選択と決断であろう。

全35件中 1 - 10件を表示

小林秀雄の作品

学生との対話を本棚に「いま読んでる」で登録しているひと

学生との対話を本棚に「読み終わった」で登録しているひと

学生との対話の作品紹介

「さあ、何でも聞いて下さい」と〈批評の神様〉は語りかけた。伝説の対話、初の公刊! 「僕ばかりに喋らさないで、諸君と少し対話しようじゃないか」――。昭和三十六年から五十三年にかけて、小林秀雄は真夏の九州の「学生合宿」に五回訪れた。そこで行われた火の出るような講義と真摯極まる質疑応答。〈人生の教室〉の全貌がいま明らかになる。小林秀雄はかくも親切で、熱く、面白く、分かりやすかった!

ツイートする