皇帝フリードリッヒ二世の生涯 下

著者 :
  • 新潮社
4.18
  • (52)
  • (60)
  • (22)
  • (1)
  • (1)
本棚登録 : 450
感想 : 50
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (278ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103096382

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 法治国家建設を目指したフリードリッヒ2世の生涯を描く下巻。

  • ・苦難に出会うのは何かをやろうとする人に宿命である。ゆえに問題は、苦難に出会うことではなく、それを挽回する力の有無になる。しかも挽回は早期に成されねば効果はなく、それには主導権をいち早く、つまり敵よりも早く、手中にするしかないのであった

  • 後半は1238年から、フリードリッヒは北イタリアを巡回しディエタの開催を続けた。近隣コムーネの代表を呼び皇帝の支配権を認めさせるためだ。3月にはついにミラノが折れた。とは言え行政権と施政権はコムーネ側にあるとする条件付き講話であり、フリードリッヒの求める無条件降伏とは相容れない。交渉は決裂した。

    この当時兵力に割けるのは人口の2割、ミラノの兵力は1万3千ほどだが援軍が来れば倍ほどになる。常設の軍を持たず、ドイツや南イタリアから集めた皇帝軍は昨年末に解散していた。フリードリッヒにとっても攻城戦は容易ではない。まずは補給路を封鎖しやすいブレッシモの攻城にかかるのだがここでつまづいてしまう。冬までにブレッシモの籠城を崩せなかったフリードリッヒは軍を解散した。小都市を攻略できないのは皇帝の権威の失墜につながりかねない事態だ。

    この後のフリードリッヒの対策は派手さはないが見事だ。一度皇帝側についた北イタリアのコムーネが動揺し始めたのに対しては重臣を派遣し睨みを効かせる。ドイツ、ヨーロッパを皇帝側に引き止めつつ、イスラエルの講話を10年延長した。さらにはモンゴルの侵略に対しポーランドとハンガリーに援軍を送る。これらは一通り成功したが問題はローマ法王対策だ。

    法王の権威を取り戻すチャンスと見たグレゴリウスはフリードリッヒを3度目の破門に処す。フリードリッヒの反応も徐々にエスカレートし、フリードリッヒはついに法王領へ侵攻を始めた。当時はコンスタンティヌス大帝に寄進書によりローマ法王はローマ帝国の西半分、つまりヨーロッパ全土を所持していると信じられていた。中でも法王領は直接統治されている。フリードリッヒを異端と断じようとした公会議の開催がフリードリッヒの実力行使によりローマに向かう聖職者が捕らわれてから3ヶ月法王自身が追い詰められた。ところがここでグレゴリウスが亡くなった。その後22ヶ月法王は空位のままであった。

    本の構成もここで間奏曲として女たち、子供たち、協力者たち、友人たちなどを述べているがやはりどうしても盛り上がりに欠ける。ちょっと残念なところだ。

    ようやく選ばれたインノケンンティウス4世とフリードリッヒとの会談は直前で法王が逃げ出した。法王はそのままフランスのリヨンまで逃げたのだから呆れるしかない。さらにはリヨンで公会議を開きフリードリッヒは異端であり次の皇帝を選ぶように進言した。フリードリッヒも反論したように各国の王もこの判決を認めることは自らの地位もいつ奪われるかわからないことを意味する。さらには司教の中にもやりすぎだと反発するものも出た。

    この時は失敗した法王だがドイツ王を選んだり皇帝の暗殺を企てたりと暗躍を続ける。そしてその執念はついにパルマで身を結んだ。皇帝派のパルマでクーデターを起こした法王はに対しフリードリッヒはパルマを完璧に包囲しパルマは間も無く降伏というところでフリードリッヒが鷹狩りに出かけ不在となった基地をパルマ住民も含めた暴徒が焼き討ちし壊滅させた。それでもフリードリッヒは失地を回復する。この2年後56歳で病気で亡くなるまでフリードリッヒの統治は盤石であり続けた。

    ローマ法王がフリードリッヒの息子を追い落とすためにしたことはフランス軍を引き込むことだった。神聖ローマ帝国が弱体化する代わりに力をつけたフランスによりローマ法王が幽閉されるアヴィニョン捕囚が起こったのはフリードリッヒの死後53年。「このように常に他国の王に頼ってきた歴代のローマ法王によって、イタリアは外国勢力の侵略に、長年にわたって、しかもくり返して苦しむことになったのである」と書いたのが250年後のマキアヴェッリだ。ローマ法王領がヴァチカン市国だくになったのは1870年、この年にようやく政教分離が達成された。ちなみに異端裁判所は教理聖庁と名を変え今でも存続している。裁かれるのは聖職者のみとなったようだ。

  • 今年の目標は、本棚の飾りになっている「ローマの人の物語」だが、道のりは遠い。まずは、最新刊のフリードリヒから。塩野七生を完読したのは、はじめてでした。

  • 塩野七生さんの最新刊。

    構想に40年以上とかいうことだったのでかなり期待。
    あのカエサルやマキャベリ以上の思い入れがあり、さぞ素晴らしい考察をされているかと思いきや肩すかし。

    確かにあの中世で思い切った改革を行い、ルネサンスの先駆けとなったフリードリッヒⅡではあるけど、その凄さが伝わってこなかった。

    伝わってこなかったのは、そもそも皇帝と法王という二元的対立軸に陳腐化したためか、それとも中世のカトリックが権威どころか権力を持っていたことが日本人として肌で感じにくいことか、そもそも著者の文章表現によるものかは分からない。全体を通して単調で、ローマ人の物語のような著者の気迫による人物描写がなかったように感じる。

    しかし、フリードリッヒⅡという人物を取り上げてここまで詳述した邦人作家はいなく、その点では世に出した功績は非常に大きい。

    洞察力、先見性、実行力にずば抜け、政治機構を大改革し、それがために法王と対立したがその対立すら主導していく。

    しかし、フリードリッヒⅡは取り組み方が非常にまじめすぎる。
    ガチガチのコチコチ。

    カエサルがもしその時代にいれば、あれば遊び心満載、対立することなくそつなくかわしていたように思える。

    カエサルが政治に躍り出る際に真っ先にしたことは、まったく信仰心など無く遊び暮らしていたくせに、自ら神官に立候補。若くしてローマで最高の神祇官になっちゃった。宗教的権威を良く知っていてかつ利用方法を知っていて、対立するというか自分がそれと同体化するという離れ業。結局カエサル以降アウグストゥスも最高神祇官を兼ね、以降の皇帝は全てカエサルを模す。キリスト教を国教化したテオドシウスから兼ねなくなったけど。

    フリードリッヒⅡは法王との対立に終生悩まされたのは、カエサルの時代とは比較できないくらい当時のカトリックの影響力が大きかったのはよく分かる。フリードリッヒⅡという叡智の塊のような人物が法王との対立を考え抜いて外交と武力で交渉していたが、それでも暗い中世という時代には通用しなかった。勧善懲悪的物語構成でいえば「敵に勝てなかった」という結末に終わったのがすっきりしない読後感になったのかな。

  • サラセンのアルカミールとの信頼関係が強く、平和交渉でエルサレムを取戻し、それが法王に異端視される!強烈な皮肉だ。イスラムからは精巧な技術製品が贈答され、返礼が北欧の白熊とは、まるでパンダ外交を思い出す。また、この人物の多くの女性遍歴、そして嫡子・庶子がほとんど優秀であり、諸侯の子弟を小姓(valet)とし、ファミリーを形成し、良い関係を広げていったとは興味深い。鷹狩りに子息たち、小姓たちを連れて行くのは今ではゴルフか?と比較すると楽しい。数学者フィボナッチを保護するなど幅広い教養の人物だったようだ。しかし1250年の死後、優秀な子息たちも法王の圧力のもとに次々に世を去り、ホーエンシュタウヘン家が途絶えてしまうというのは平家の没落を見るような気がする。

塩野七生の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×