さらば気まぐれ美術館

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (324ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103110064

作品紹介・あらすじ

絵とは、芸術とは、いったい何かを生涯問い続けた著者が、その私の直前にたどりついた所とは?「生きる」ということを教えてくれる洲之内徹のラスト・エッセイ集。

感想・レビュー・書評

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    気まぐれ美術館シリーズ最後の1冊『さらば気まぐれ美術館』を読んでいるとき、私は悲しかった。

    洲之内さんは「雪の降る里」というエッセイの中で、北海道で行なわれた自身のコレクション展を見ながらこう言う。
     ”私ももう七十四歳だ。ひょっとすると、これきり二度と見れない絵もあるかもしれない”

    他にも「<ほっかほっか弁当>他」という中では、島村洋二郎の遺作展をやりたいと島村洋二郎の姪の直子さんという人が画廊へやってくる話のところで、
    直子さんが ”いろいろな人が叔父を思い出してくれるとうれしい” と言ったあと
    洲之内さんは”そうだといいが、展覧会というものははかないものだ”と言い
     ”島村さんだけじゃない、人間はみんなそうして消えて行くんですよ、あなたも、この私もね” と締めくくる。
    そんなこと言わないでくださいよ、洲之内さん! と、私は泣きたくなってしまう。

    そして最後のエッセイ「一之江・申孝園」では、
     ”ここのところ私は躰全体が痛く、脇腹や胸を押さえながら歩いている始末で(後略)”とある。
    藤牧義夫のことは次号もう一回書くと言っているのに、それは収められていない。


    少しずつ、数ヶ月をかけて、私は気まぐれ美術館シリーズを読んできた。
    もうとっくに洲之内さんは亡くなってると知っているのに、読みながらどうしてだかそういう気がしていなかった。
    洲之内さんが気まぐれ美術館を書いている15年間(くらい?)を、私はなんとなく一緒に歩んできたみたいな気持ちになっていた。
    だから読みながら私は悲しかった。
    私は洲之内さんに恋をしていたような気がする。どんどんと死が近づいてくるのが、まるで恋人に死が迫っているみたいな気分だった。
    実際読み終えてしまって私は心にぽっかりと穴があいたような気分でいる。


    ひどく悲しい気持ちだけれど、本の内容についても書いておかなくては。

    『さらば気まぐれ美術館』は音楽の話が多い。
    最初のエッセイが友川かずきさんというフォークシンガー(であり画家でもあるが私は知らない)の話から始まる。
    その後に中島みゆきさんが出て来ていくつも歌詞を掲載して「芸術新潮」が著作権使用料で5、6万支払ったりしている。「倍賞千恵子だいすき」というタイトルのものもある。
    その他にもジャズのコルトレーンの話やブルースのベッシー・スミスの話なんかも出てくる。もちろんそれ以外にもたくさんのミュージシャンや楽曲や詩が出てくる。
    洲之内さんはこのシリーズ中に本をよく読むようになったと思ったら、最後は音楽をやたらめったら聞くようになる。お酒を飲みながら一日に十何時間も聞くのだそうだ。
    そういうこれまでとは違うことにどっぷり浸かるのは私には不吉に思えてこれも悲しくなる要因のひとつになっている。


    私はずっと以前から音楽と絵は似ていると思っている。
    音楽が絵になって見えたり絵が音楽になって聞こえたりというのは洲之内さんが言うより前から私は感じている。
    ついでに文章も同じようなものだと私は思っている。ナボコフの文章なんかは絵になったり音楽が聞こえたりする。

    私の場合、音楽が絵になったり絵が音楽になったりしてインスピレーションを受けて創作したくなってそれで終わりなんだけれど、洲之内さんはもう一歩踏み込んできちんと理由を考える。だから洲之内さんの考察を読んでいるとなるほどなぁと感心ばかりしてしまう。
    「絵が聞こえる」というエッセイの中にこうある。

     ”ゴッホもモーツァルトも、やっていることは同じなんだな、と私は思った。そこではロマン主義とか印象派とかリアリズムとか、その他何々とかいう言葉はもうあまり意味がない。そこに見えているのは、あるいは聞こえているのは超越的な観念のひとつである。荘厳、と私に見えたのはそれではなかったか。”

    ふうむ、なるほどなぁ。説明しようとするとこういうことなんだなぁ。本当に洲之内さんはすごい。
    やっぱり大好きだ。



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    【トドを殺すな(友川かずき)】より

     中原中也が弟と歩いているときに「ああいう風景を見ても、すぐスケッチしたり、言葉にしようと思うな。だまって感じていればいいんだ」と言ったという。友川さんは「その言葉が自分としては最高の教訓だ。いまだに、何歳になっても色褪せない。だいじにしている」と言う。
    (中略)何かをどうかしようとするよりも、より深く感じること。感じる力を養うこと。─────私にとっても大切な言葉だ。

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    【幸福を描いた絵(パブロ・ピカソ/アンリ・ル・シダネル/海老原喜之助/長谷川潾二郎/松田正平/チャールス・C・ホフマン)】より

     何も、幸福というものは念の入ったものである必要はない。他愛はなくても、私が幸福ならそれが幸福だ。というよりも、先程も言ったように、幸福とは単純で、明瞭で、ついでに何か光っているようなものなのだ。

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    【モダン・ジャズと犬(佐藤渓)】より

     よくも悪くも時代は変る。それをとやかく言ってみてもはじまらない。芸術家は自分のその時代を生きなければならないのだ。むしろ、優れた芸術家は新しい時代を創る。変って行く時代の中で、自らもどう変って行くかが芸術の課題なのだ。その課題とシリアスに取り組んで行くことで、新しい芸術と新しい美が生まれる。(中略)古い美は滅びはしない。しかし新しい美も絶えず生まれてこなければならない。どんな時代にも、その時代ならではの美が生まれるのだ。

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    【予告編・軍艦島(雑賀雄二)】より

     廃墟となった軍艦島(端島)で私が見たものは風景なのか、歴史なのか、運命なのか、空間なのか、時間なのか。むつかしいことを考えだしたらきりがないが、島へ上がったその日、私はmず、廃墟とは人間の営為にだけあることで、自然には廃墟はないということを感じた。

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    【限定放浪(峰村リツ子/登坂一遊)】より

     あの手この手を使って人の目を惹こうとするような絵にはない、明るく澄んだ、一種の自足の世界を登坂一遊の絵は持っている。何かにじっと籠っている絵は、いつもこういうふうに美しい。

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    【限定放浪(峰村リツ子/登坂一遊)】より

     どんなに多くの絵かきになれない絵かきが、その生甲斐という言訳で絵を描いていることか。むしろ生甲斐なんて感じずに絵を描くことができたら、生甲斐を感じて描くよりも、絵かきとしては仕合わせだと私は思うが。

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著者プロフィール

洲之内 徹(すのうち・とおる):1913 - 1987年。愛媛県出身。美術エッセイスト、小説家、画商。1930年東京美術学校建築科在学中、マルクス主義に共感し左翼運動に参加する。大学3年時に特高に検挙され美術学校を退学。20歳で再検挙にあい、獄中転向して釈放。1938年、北支方面軍宣撫班要員として中国に渡り、特務機関を経て、中国共産党軍の情報収集に携わった。1946年、33歳で帰国してからの約20年間、小説を執筆。3度芥川賞候補となるが、いずれも受賞はかなわず。1960年より、田村泰次郎の現代画廊を引き継ぎ画廊主となった。1974年から連載を開始した美術エッセイ「気まぐれ美術館」は人気を博し、小林秀雄に「いま一番の批評家」と評された。

「2024年 『洲之内徹ベスト・エッセイ1』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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