流星ひとつ

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (323ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103275169

感想・レビュー・書評

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  • 出してはならない一冊だった。同時に今こそ出されなければならない一冊だ。ノンフィクション文学の大家が30年前に書き上げてしまっていた彼の集大成である。

    藤圭子が引退したのは30年以上前だから、とおの昔に「死んだも同然」の流行歌手だ。死んだはずの彼女は、皮肉な形で二度「生き返った」。最初は、娘の宇多田ヒカルがデビューを果たしあっという間にトップシンガーになってしまった時だ。戦後最大の思想家である吉本隆明が流行作家になってしまった娘にちなんで「ばななパパ」と呼ばれてしまった哀しい現実と相通じているが、娘が並外れた歌唱力で一世を風靡したとき、「彼女の母親は藤圭子という演歌歌手で、さらに祖母は浪花節士」だったみたいに娘の経歴紹介の中で一瞬だけ生き返った。けれども、日本人形のような美貌に似つかわぬ低いドスのきいた声で「新宿の女」や「圭子の夢は夜ひらく」を謳い、昭和世代に忘れられない姿を刻みつけた藤圭子の実相が真摯に語られることは無かった。無責任なゴシップ報道はあったかも知れないが、本人の口から心情が語られたことも、まともな書き手がきちんと後づけた伝記も存在しなかった。演歌ではなく「怨」歌だと揶揄された彼女の生き様を、真に知るものはいなかった。「怨」の仮面に隠された素顔を知らぬまま、私たちは彼女を死んだも同然の存在として忘れ去っていた。

    私は沢木さんの作品を30年以上にわたり読み続けている。だが、結局のところ80年に『テロルの決算』の最終ページのエピソードを読み終えた瞬間の全身に鳥肌がたったあの感動を越える作品はなかった。『テロルの決算』の翌々年にかかれた『一瞬の夏』は、前作で沢木さんが確立した「私ルポルタージュ」というべき手法の期待されるべき第二作だった。それまでの客観を装い、無にしようとしても出来ようはずのないおのれを無にして対象を書くというルポの常道を突き破り、自らが積極的に対象に関わっていきその過程を書くという手法は斬新であった。しかし、『一瞬の夏』で、中心人物のボクサーがダウンして敗れた「一瞬」に、書き手の沢木さん自身がリングに飛び乗っているかのように「私」が対象に入り込みすぎている姿に私は落胆した。おそらくは、書き手自身も「私ルポルタージュ」の手法の限界を強く意識したのであろう、本書『流れ星ひとつ』の後記のなかで「当時の私は、日夜、ノンフィクションの『方法』について考えつづけていた」と吐露しているし、その後一作ごとに「方法」の試行錯誤を続けたとも書いている。

    30年の間に幾つかの試行作、あるいは錯誤作を読んだ。
    『檀』は、小説の体裁をとってはいるものの檀一雄の生涯を彼の未亡人へのインタビューを元に構成したもので、この無頼派作家の生き様がこの一冊をきっかけに私の中のどこかにかっちりと位置づけられた気がする。しかし、もしこれが檀という著名人の人生でなかったら、物語として成立しえただろうか。また、これってルポなの小説なの、こういう方法は「あり」なの。読み手の私同様、書き手の沢木さんも迷っていたのだろう。
    『無名』は、市井の文字通り無名の人だった父親の人生を息子の沢木さんが後づけた秀作だ。だが、この一冊が作品として成り立っているのは親父は無名であっても書き手が有名な作家であるからに他ならない。
    『凍』は、客観性を装いおのれを殺して書くオーソドックスなルポの手法で書かれていた。それなりに感銘を受けた。だが、沢木耕太郎がこれを書く意義があるのか。当然彼自身がそう思っていたのではなかろうか。
    結局、出世作だった35年前の『テロルの決算』を越える作品は、「ない」と断言してしまいたい乱暴な気持ちになってしまう。

    後記によると、この『流れ星ひとつ』は『テロルの決算』と『一瞬の夏』との間に書かれている。本来のタイトルは単に『インタビュー』とすべき、問いの台詞と応えの台詞だけで構成するという極めて斬新な手法である。単なる問いと応えの羅列の中で、「怨」という仮面を被ったイメージでだけ捉えられ、スキャンダルにまみれ、数限りない誤解にだけ包まれて世の中から姿を消した一人の女性の実像がありありと、手に取るように伝わる。だからこの一冊が世に出た今藤圭子は見事に生き返ったといえる。
    そしてまた、「精神を病んで自殺した昔の有名人」というひとくくりの説明だけで再び葬られようとしている一人の人間の真実を、今こそあえて世に問うた書き手の英断に、私は35年ぶりの鳥肌をたてた。「私」をも対象をも丸裸にし世にさらしてしまうリスクは、私小説同様の限界である。30年以上本作が封印されていた理由もそこにある。

    だがこれは間違いなく、この書き手の最高傑作にして、もう二度と書かれることのない「私ルポルタージュ」の金字塔である。

  • 藤圭子については、残念ながらリアルタイムではないのでよく知らないことも多いし、お嬢さんの宇多田ヒカルの音楽も、ストライクゾーンになる年齢を過ぎてから聞いたので、思い入れは全然ない。題材になった人たちにまったく興味がないので、読むのをやめようかと思っていた。まあでも、ファンブックじゃないわけだし、出てくる人のことをまったく知らないほうが面白く読めることが多いのも経験上知っているので、年末年始の休みに読んでみた。しかも沢木耕太郎は、私が著者名だけで買うほぼ唯一の作家さんなので…(笑)。

    恵まれない生い立ちととびきりの才能を引っ提げて、一気にスターの座をかけ上がり、あっという間にそれを投げ出そうとしている歌手と、これからキャリアを開こうという野心と商売心(これはひょっとしたらないのかもしれないけど、まったくゼロではないと思う)を持ったライターのやりとりが、強い酒を仲立ちに始まる。それは一見フランクに見えるけれど、お互いに自分がどう見られているか、どう受け答えを運べば「藤圭子」「沢木耕太郎」として有利なポジションに立てるのかを探っているのが伝わってきて、ぞくぞくする。

    そういうシビアなやりとりを感じながらも、ある時点から本音(に近いと思う)を滔々と話し出す藤圭子を追ってみて、「聡明な人だなあ」と思った。おそらく、少女歌手には誰も期待していないほどの鋭さと、論理的思考のできるかただったと思う。同じ金額が支払われるのなら、馬鹿のふりをして目の前の仕事や男性をやり過ごすほうが日々楽で合理的なのは明白だし、事実そうしてきたことも多いだろう。沢木耕太郎は藤圭子が接した中では、かなり良質な部類に入る取材者だと思うが、この仕事も、根本的にはほかの取材仕事とそう変わらないはず。そういう「お仕事感」を超えるきっかけのひとつになるのは、やっぱりあのオルリーの出来事なのかもしれない。霧が晴れるように、藤圭子の記憶が鮮明になっていくこのくだりはとても美しい。並みの小説家はかなわないんじゃないかしら。あと、「会話多過ぎじゃね?」とあげつらわれることの多いラノベ界隈の小説家さんも、ここまでやれたら立派だと思うんですけど(ラノベで面白い作品も多いんですけど、やっぱりそう思うことは多いです、ごめんなさい)。

    押すところは押し、引くところは引いて書きとめられた、できすぎなほどの美しいインタビューのかずかずが、どういういきさつをたどってここにあるのかを記した後記が、また素晴らしくて胸にくる。宇多田ヒカルに若き日の母親の姿を伝えるためという意図もあるように聞くが、この本の本当に大切な部分は、藤圭子だけが知っているように読みとれるし、実際そうなのだろう。

    それに、この本の奥付けを開いてみると、「あれっ?」と気づくことがひとつある。単純なミスではなく、この年月を踏まえた趣向だと思いたい。思っていいんですよね、新潮社様。

  • 読み始めると止まらなくなった。

    久々に若い頃の沢木耕太郎に会った、という感じがする。

    それもそのはず、本編の文章は、30年以上前、沢木耕太郎が31歳の時に完成したまま事情により眠っていたものである。

    『流星ひとつ』というタイトルは、確かに「いささか感傷的にすぎる」とも言える。しかし、藤圭子が自らこの世から去ってしまった今となっては、これ以外のタイトルはどれもふさわしくないだろう。

    読んでいてまず気づくのは、彼女が「言葉」を持っている人だということ。

    自分や、自分をとりまく状況、自分の心情など語る、適切な言葉を持っている。

    そして歌や音楽に対しても、言葉を持って分析し考えていた人だな、ということ。ただ感覚のまま歌っていたのでなく、かなり考えていたのだな、と。意外という印象を受けるほどに。

    彼女について何度も「豪儀」「男らしい」という言葉が出てくるが、短調でどろどろと重苦しい彼女の歌の曲調とは対称的に、真っ直ぐで潔い彼女の眼差しが浮かび上がってくる。

    4章の中で、沢木はかなり彼女を問いつめる。たたみ掛けるように問いかけていく。もちろん意地悪な質問で苦しめているのではなく、彼女から真情を引き出していく。丁々発止とも、鬼気迫るとも、真剣勝負とも言える、そのシーンの緊迫に、読みながら寒気を感じるほどだった。

    このインタヴューが「テロルの決算」から「一瞬の夏」の間にあったと知ると、なるほどと思う。ノンフィクションの方法を模索し、時に無鉄砲と言ってもいいようなエネルギーをまだねじ伏せ切ってはいない頃。会話だけで綴られているせいもあるだろうが、そこには熟慮よりも反射神経のようなものによって浮き上がってくる、逃れられない時代の片鱗があり、2人の若者の肖像がある。

    かたや18歳でデヴューし、普通の人が覗けない高みを見、10年間の疾走のあと引退しようとしている歌手。彼女にとって、28歳はもう若いとは言えない。かたや書き出したのち迷ったり旅に出たり模索し続けるライターにとって、31歳はまだ駆け出しのひよっこの延長で、発展の途上にある。

    しかしながら、彼女がこの世からいなくなった今となってこれを読むと、彼女のその後に流れた30年以上の歳月の重さがのしかかってくる。

    誰にも等しく時は流れ、誰もがその重さに喘ぐには違いないのに、彼女の人生の閉じ方はあまりにも潔すぎて、気の毒とか可哀想とかの同情の念を拒絶しているようでもある。

    なんと決然とした星だったことか。

  • ☆5つ

    吉田拓郎の歌の題名とは全く関係ない。先ごろ亡くなった元歌手藤圭子へのインタビューを、二人の会話だけを用いて書いたものだ。
    もちろん読む前から藤圭子へのインタビュー本だということは分ってはいたのだけれど、いきなり会話で始まってどこまで行っても会話だけだと気づく文章は15page目に至って初めて藤圭子というインタビュー相手の名前が詳らかにされるのであった。

    結構いろんなエピソードが織り込められたインタビューになっている。
    とても印象的なのは名作『深夜特急』の旅の途中、パリのオルリー空港において沢木耕太郎は藤圭子と会っている、というくだり。この本『流星ひとつ』の中でも割りと詳しく記述しているので、読むと『深夜特急』のことを思い出す。これは読んでいてかなり気分のいいものです。

    それにつけても、このインタビューが行われたのは1979年。沢木31歳、藤圭子28歳の時である。で、それがなぜ今この時期(2013年10月)に刊行されたのかわ言わずもながで、それは今なら売れる!からであろうと・・・思ったら大間違いで、沢木は本書刊行直前に新たに書いた「あとがき」でその真実について書いている。興味を持てる方は是非読んでみてほしい。わたしは変に茶化す事をはづかしく思うほど感動してしまった。

    • Pipo@ひねもす縁側さん
      「空港のエピソード、どこだったかなあ?」と、思わず本棚の奥から『深夜』を引っぱり出して、ぱらぱらめくりましたですよ。
      「空港のエピソード、どこだったかなあ?」と、思わず本棚の奥から『深夜』を引っぱり出して、ぱらぱらめくりましたですよ。
      2013/12/19
  • 今はない、浅草国際劇場で、藤圭子ショーを見たけど、内容は覚えていない。
    筆者が、インタビューして、かなり月日がたってからの出版というのを聞いて、興味津々、

  • 2013年8月いまや宇多田ヒカルの母親といった方が通りがいいかつての大スター藤圭子が投身自殺をした。本書はノンフィクション作家沢木耕太郎が、藤圭子の芸能界引退に際してバーでウォッカを飲みながらの1対1のインタビューがもとになっている。あとがきでも書かれているが、地の文なしで著者と藤圭子の会話だけで構成された野心的なフォーマット。読みづらいところもなく、きちんとそれだけで成立しているのが素晴らしい。三十年前の当時には、藤圭子の芸能界復帰の可能性も考えて著者の判断で出版が結局控えられたという。藤圭子の自殺の報を受けて、もう一度読み返し、長い間精神を病んだ後に最期は自殺したという彼女が、過去にはこれほど瑞々しく自立した女性であったということを伝えたいという思いを込めて出版を決めたという。

    喉の手術をしたせいで声質が変わってしまったと後悔する藤圭子。それが引退のひとつの理由でもあったという。両親の離婚や、自身の結婚・離婚・恋愛とかなりプライベートまで踏み込んだ内容になっている。

    どうして今頃この本を手に取ったのかは正直わからない。でも、素敵な本だった。

  • ワタシの好きな沢木様はここにはいない

  • インタビューの会話だけで構成された"私ノンフィクション"であり、30年以上前に書かれ一度は葬られた後、ドラマティックな経緯を経て出版された一冊。
    宇多田ヒカルの母という程度の認識しかなったかつての大スター・藤圭子と著者との組み合わせを意外に感じはしたものの、本編中の2人の口調や著者による後記、そして本作の在り方そのもの、すべてに非常に豊かな奥深さを感じた。特に、長い後記の中で「もしかして」という疑念が生じた30余年前の"あとがき"について、きちんと(というべきでしょう)説明がなされていたあたり、読者として著者への信頼感が増し、さらに藤圭子氏がその"あとがき"を「大好き」と評したということがまた想像をかきたてた。
    何処で生きてもいつか散る、それは確かにその通りであるけれど、人は唯一無二の星の如く存在する、それもまた本当だと思う。
    ☆4つと思いつつ、本書については内容だけでなくそれを取り巻く諸々があまりに強大すぎると感じ、敢えて本書を出版した著者の思いに☆を増やした。

  • 何気なく図書館で手にとった本。
    藤圭子さんにインタビューをしたときの話だった。
    それも随分昔の話のハズなのに、全然古臭くない。今、自分も一緒に話を聞いている気がするほど。
    芸能界の話題にさして興味があるわけではないが、スルスルと最後まで一気に読めた。
    素晴らしい文章力。

  • 先日自殺した藤圭子。彼女が引退を決意した直後のインタビュー。その当時は封印され、藤圭子だけに贈られたものが、今回、出版された。会話だけで構成されたノンフィクション。そこには「精神を病み、永年奇矯な行動を繰り返したあげく投身自殺をした女性」
    というイメージはない。旅芸人の娘として育つ極貧の少女時代。流しを経てプロ歌手となり頂点を極める。ここに描かれている藤圭子は純真で前向き、真っ直ぐで潔癖な性格。その後の結末を思うとちょっと悲しい…。

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著者プロフィール

1947年東京生まれ。横浜国立大学卒業。73年『若き実力者たち』で、ルポライターとしてデビュー。79年『テロルの決算』で「大宅壮一ノンフィクション賞」、82年『一瞬の夏』で「新田次郎文学賞」、85年『バーボン・ストリート』で「講談社エッセイ賞」を受賞する。86年から刊行する『深夜特急』3部作では、93年に「JTB紀行文学賞」を受賞する。2000年、初の書き下ろし長編小説『血の味』を刊行し、06年『凍』で「講談社ノンフィクション賞」、14年『キャパの十字架』で「司馬遼太郎賞」、23年『天路の旅人』で「読売文学賞」を受賞する。

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