きことわ

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (142ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103284628

感想・レビュー・書評

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  • ゆらゆらと読み進めながら、頭の端では私自身の昔のお友だちのことを思い返していて。良い時間をもらった。

  • 芥川賞に彰される見事な作品でした。再会した”キコ”と”トワコ”の過去の回想と折あるごと見るトワコの夢、そして二人のそれぞれの白昼夢の世界の中で二人の心の襞の隙間に在るものや記憶から蘇る感情の遷移が実にうまく表現されていました。なかなか純文学といえるものが商用小説に押され少なくなっている昨今、新進の純文学といえるでしょう。生粋の文学家族の中で育った朝吹真理子氏ならではの作品と思います。この先の作品がとても楽しみです。

    読後感=透明な文書に不思議な懐古感が甘く苦く切なく・・・

  • 読後感がとても気持ちよく、自分の子供の頃の事、なにげないひとこまがよみがえってきたような、不思議な感じが良かったです。

  • 同じ時間、同じ場所にいた2人の子ども(+1
    大人だけど、子ども時間にいた大人)が
    見た風景も、覚えている情景も、溶け合うようで
    違っていたこと。
    その思い出のすり合わせ作業の楽しさと不思議さ。

    生きることは、寿命の間だけではなくて、その
    周囲で時間を共にした人に影響を与え、
    与えられ、脈々と引きつがれていく営み、歴史。

    傑作だと思います。

  • 『夢のなかではいつもいまになり、ひかりなどがのろいものにおもえる。過ぎ去った一日も百年もおなじように思えていた』

    せわしなく生起する思い。それは客観的に捉えればその直前まで脳細胞が弄んでいた意識の残響に過ぎないのかも知れない。残響が再び入力となり別の意識として脳細胞の活動を占拠する。連想とはそんなことなのだろう。しかしそんな脳細胞の活動の雑音のようなものに、一つ一つ意味を与えるとしたら。そんな行いがひょっとすると朝吹真理子の為していることなのでは、と思う。

    意味を与えるとは、因果をとらまえるということだとも言える。一つ前の意識の残響が如何にしてその次の思いに結びついたのかを探り、偶然と見えたことをでき得る限り必然的なものに直してゆく。その過程ではどうしようもなく時と場所の飛躍があるだろうけれど、それもまた超自然的な繋がりとして受け入れてゆく。その行為の果てにあるのものを第三者的に見届ければ、祈りを見い出してしまっても致し方ないだろう。

    次々に連なる思い一片一片に祈りが滲む。祈りは手渡されるもの。連祷の続く限りにおいて人と人の結びつきは保たれるという信仰心にも似たものに、打たれたような思いがする。

    「流跡」を読んだ時にも感じたことだけれど、朝吹真理子の小説には何も存在しない「無」からふっと生まれでたものという印象が残る。無にはポテンシャルとして高いエネルギーが賦存している。そこから一瞬にして生起されたもののように思われるのだ。生まれたことには偶然以外の意味はほとんどないのかも知れない。そういう捉え方をすると、因果関係に絡め取られたメッセージ性などというものは余り意味を持たないということも了解できる。これは純粋にゼロから生まれた言葉なのだと思えばよい。

    もちろん言葉はすぐにつながる先を見つけ出しもする。例えば「こうしているうちに百年と経つ」と言われて漱石の夢十夜のことを連想しないでいるのは難しい。でも朝吹真理子は決して本歌取りをしているわけではない。むしろ何も無いところへ出て行こうとしているように見える。あたかも宇宙の端が時空さえ存在しない先へ広がってゆくように。ひたすらに無から有限なるものを産み出し、有限を無限の時間へと結びつけそこへ留まらせようとしているようにみえる。

    しかし無から生起した高速の粒子が物理法則に逆らえないように、そうやって有限なものを時空間に定め置こうとしても、それらはやがて消滅する。無から生まれた時に対となって生成した反物質と出会ってしまう。二つの存在が出会う時、存在としての物質は失われ、エネルギースペクトラム上にくっきりとしたアニヒレーションピークを残して消える。この小説の中にそのメタファーは溢れているようにも思う。

    消滅によって生み出されたエネルギーの残滓は、やがて空間に拡散してゆくだろう。その余波を細やかに受けとめ、かつて存在したものの在りように思い至る。そんな祈りの行為を、朝吹真理子は書くことで成しているような気がする。

  •  三越本店の向かいに、タロー書房という極めて個性的な書店があった。「タロー」というネーミングとロゴは見るからに「爆発芸術家」岡本太郎由来のものだろうと推測されるのだが、確認してみたことはまだない。
     その書店が新しくできたビルに移転して、品揃えや陳列方法という点ではユニークさがすっかりなくなってしまった。店名ロゴこそはユニークなままだが、店員の思い入れ満杯の文庫本が、透明アクリルの階段状の書棚に表紙が見えるスタイルで並べられていた、あの売り場はなくなってしまった。
     もうかつてのあのタロー書房は失われてしまったのはわかっているのに、先日通りがかりに立ち寄ってしまった。「麗しき過去の喪失」をああやはり確かに失われてしまったのだと再確認してみないと気が済まない。くどい性格なのだと自分で思う。
     平凡な大型書店になってしまったその書店の、入り口正面の平置き台に直近の芥川賞受賞作が二作品、山積みになっていた。見ると、二作品ではなくて山積みになっていたのは男女二人の受賞者のうち男性の方だけで、朝吹真理子の『きことわ』は最後の一冊だけ残してきれいに売れていた。
     私が手にとったら、平台が真っ平らになった。それをしり目にまず立ち読みする。
     書き出しの二行。

     永遠子は夢をみる。
     貴子は夢をみない。

     鳥肌がたってしまったのは、タイトルの『きことわ』とは、キコとトワコという二人の女性の再会の物語だと、受賞を報じるニュースで聞いていたのが予告編になっていたこともあるだろう。書き出しを読んだだけで鳥肌テスターがマックスに振れてしまったのは、梶井基次郎の『檸檬』や川上弘美の『真鶴』以来のことだ。
     『きことわ』というタイトルの語感もとてもいいと思う。「たそがれ」とか「いやさか」とか、古代から日本人が使い慣らしてきたのに現代では記憶のバックヤードに仕舞い込まれている大和言葉がある。「きことわ」にはそれらに相通じる響きがある。そういえばそんな言葉が昔からあった様な気がする、という誤解を誘う巧みすぎる技だ。鳥肌のスイッチというのはこういう潜在意識の奥底に潜んでいるものなのかもしれない。

     そういえば芥川賞の選者の一人が「過去と現在の重なり合う時間の表現がとても巧い」と評していたのもニュースで聞いた。読んでみると確かにその通りなのだがそれだけではない。貴子と永遠子が、手も足も髪も、互いに自分のものなのか相手のものなか解らなくなるほどもつれ合い絡みあった濃密な過去の記憶と25年後の現在との交錯が独自の文体でさらりと、絡み合ったまま記されている。同時に、生に見た現実なのか夢や妄想で見たもうひとつの現実なのかも、二人の手足や髪のもつれあいと同様に絡み合わせながら読ませてしまう。
     それらが全て、貴子(キコ)と永遠子(トワコ)という二人の名がひとつの大和言葉まがいの「きことわ」というタイトルに象徴される渾然一体の物語として結実している。もはや反則の域の技だ。著者の略歴では慶大大学院在籍という部分だけが喧伝されすぎているが、詳しく見てみると専攻は近世歌舞伎だという。少し納得できる気がする。

     物語は二人が少女時代を過ごした葉山の別荘が取り壊されるのを機に、30代と40代に成長した二人が再会するというもの。二人は別荘の随所に早世した貴子の母春子の影を見出すのだが、そのあたりの回想と夢と現実とのない交ぜとなった文体は絶妙で、まさしく今、日本で最高の文学賞を与えられるべきものだと思わせる。
     日本語のブンガクはほんの1億余りものにとってだけの、世界に向けては閉ざされた世界だ。同時に、失われた20年を経て、失われてしまった「麗しきなにものか」を過去の中に追想する以外に目を向けるべき方向も閉ざされてしまっている。その限られた方向の中に優れた創造性を発揮するのは、よほどの才人か達人しかできるワザじゃない。
     朝吹さんは一昨年のドマゴ文学賞の受賞で世にでた。失礼ながらその時の印象は「美人なのに残念なぐらい耳だけが大きい子」というものだった。彼女が聞きわけた「きことわ」という響きは日本語のブンガクという池に投げ入れられた一石だ。芥川賞の授賞式では髪で隠されていた彼女の耳が、次には何を聞きわけて、どんな石を私たちの方へ投げ入れてくるのだろうか。
     朝吹真理子の「おおきな耳」に日本ブンガクの未来がかかっている。大真面目に私はそう思う。

  • 読み進めると、いつの間にか時制が変わり、どこで話が飛んだのかと少し前から読み戻してしまう。しかしその内に、いつの間にか読み戻しが少なくなってくる。相変わらず時制はふらふらと移り変わるが、時間間隔が無い状態が不思議と自然になってくるからだ。
    この時間が融けるような不思議な感覚は、二人の過去の思い出し方にも合わさって関係してくると思った。永遠子は夢で過去をとりだし、貴子は記憶で過去をとりだす。これらがかわるがわる描写されることによって、葉山の別荘を舞台にした四半世紀のタイムラインが、ばらばらだが、うまくつながっている。
    たぶん私たちの過ごした場所、建物の記憶も、このようなばらばらの状態で頭の中にあって、かすかにつながっているのかもしれない。本書はそれを絶妙に描写していると思った。

  • Amazonのレビューで酷評されていますが、前々から気になっていた作品で手に取りました。
    テーマ、内容が薄いとか全く無いことはないように感じます。そもそも最初に出てくる永遠子と貴子の対比がそのものではないかと思いました。夢と現実の関係は現在でも解明されないながらも現実に感じるコトです。無意識と意識、個別の時間の流れなどユングとアインシュタインを思わせます。その他にも過去と現在、二人の身長、名前の漢字とひらがなの使い分け、お互いの父親の職、二人の記憶の食い違い、チェスと麻雀、… なども対比として使われているように感じました。そういう対比がテーマではないでしょうか。
    自分の場合、筒井康隆の夢の木坂分岐点の後に読んでいるのでそんなに違和感は無いです。
    25年を経て2人が再会する、というのはシンクロニシティですね。私も同じような体験があるので分かる気がします。
    夢は自分の都合では見られない。ということは運命も自分の都合のいいものばかりではないのでしょうか。

  • 四季の徒然を美しく織りなす古き良き日本語の数々。意味をわかるより感性で受け止める。日本語を愛する人にはたまらない小説。

  • 本作が芥川賞を受賞したということを知り、「そりゃ受賞するよ」と読みながら思った。
    若い作家とか同年代の作家が書いた小説を読んで、日本語を読む快楽に包まれたのはいつぶりか。もしかするとないかもしれない。小説でなければ、ある。例えば、蜂飼耳、とかの詩。
    夢中の夢、その中の夢、といった手法など、むしろ陳腐。でも、本作で用いられている日本語が懐かしくてならない。本作で「地層」に関する描写があったと思うけれど、本作ではいわば「日本語の地層」が幾重にも重なって、いわゆる科学的精密さとは違った意味で、豊かな新旧日本語から抽出してきたボキャブラリーが「もの」を精確に描き出しているのに舌を巻いた。
    本作は3分の2くらい、散文詩。

著者プロフィール

1984年、東京生れ。2009年、「流跡」でデビュー。2010年、同作でドゥマゴ文学賞を最年少受賞。2011年、「きことわ」で芥川賞を受賞。

「2022年 『細野晴臣 夢十夜』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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