ハウス・オブ・ヤマナカ: 東洋の至宝を欧米に売った美術商

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (356ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103289517

感想・レビュー・書評

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  • 圧倒的な迫力の美術書・歴史書である。明治時代以降、日本や中国の美術品が欧米に数多く流れていった。その背景には本書の主人公である山中商会を初めとする美術商の活躍があった。日本や中国の美術品が簒奪に遭い、欧米に流出してしまったという見方がある一方、流出したからこそ、毀損をまぬがれ、欧米で今日まで保護されたと言うこともできる。

    また本書は貴重な戦争史でもある。アメリカの日系企業の立場から見た、太平洋戦争への進行。祖国との音信が途絶え、そして山中商会の在米資産は全て没収されてしまった。

    本書はそんな山中商会の奇跡を辿る。

    http://naokis.doorblog.jp/archives/51695569.htmlブログ記事を参照下さい。

  • アート好きなら読んでみたいドキュメンタリー。
    明治から第二次大戦前まで、名の知られた美術商・山中定次郎と山中一族が経営する山中商会。その足跡を丹念にたどる。

    導入部の琳派屏風の左右をめぐる記述で、美的感覚にやや違和感を覚えたが(空白のある構図のほうが美しいと思うので)…読み進めると、すばらしい労作であったと感じた。

    1890年にNYに出店、以後、英国にも進出。
    ロックフェラー財団や名うての蒐集家、エリザベス1世までの御用聞きとなり、日本含む東洋美術の至宝を世界に売りさばいた豪商。義和団事変で中国美術の需要に目をつけ、美術品とは言えないようなインテリア雑貨もまぜつつ、販路拡大。しかし、1920年代後半の金融恐慌、30年代の中華事変、さらには第二次大戦直前の関税法や在米資産凍結令で、解体されてしまう、山中商会。

    戦後はもと社員の協力で復活の兆しも見られたが、日本が経済復興しても忘れ去られてしまう。

    著者は資料の乏しさにもひるまず、無数のコレクターや美術館、公文書にあたり、膨大な調査によって本書をまとめあげた。財務情報や当時の物価などの引用考察は、並みの美術史家ならば思いもよらない視点で、読み物として面白い。学術書ではないが、研究として価値がある。

    日本美術の海外流出を嘆き、高額な競売ばかりがセンセーショナルにとらえられがちな風潮に異議申し立てし、東洋の文化価値を世界へ広めた「民間文化外交官」としての美術商の価値を再認させる狙い。目から鱗が落ちる。

    『武士の家計簿』もそうだが、生活や経済感覚と結びつく教養系学問はもっと推奨されるべきであろう。

  • 明治時代から第二次世界大戦まで、東洋美術商として世界的に有名であった山中商会。メトロポリタン美術館、ボストン美術館、フリーア美術館、大英博物館など、大規模な東アジア美術コレクションを持っている美術館へは、相当数の作品を供給していたという。二〇世紀初頭にあっという間にビジネスを拡大した山中商会は、ニューヨーク、ボストン、シカゴからロンドンまで活動範囲を広げ、英国王室からも用命を受けていたほどだ。本書は、今では知るものの少なくなった、その興亡を描いた一冊である。

    ◆本書の目次
    序章  琳派屏風の謎
    第一部 古美術商、大阪から世界へ
    第一章 「世界の山中」はなぜ消えたか
    第二章 アメリカの美術ブームと日本美術品
    第三章 ニューヨーク進出
    第四章 ニューヨークからボストンへ
    第二部 「世界の山中」の繁栄
    第五章 ロンドン支店開設へ
    第六章 フリーアと美術商たち
    第七章 日本美術から中国美術へ
    第八章 ロックフェラー家と五番街進出
    第九章 華やかな二〇年代、そして世界恐慌へ
    第十章 戦争直前の文化外交と定次郎の死
    第三部 山中商会の「解体」
    第十一章 関税法違反捜査とロンドン支店の閉鎖
    第十二章 日米開戦直前の決定
    第十三章 開戦、財務省ライセンス下の営業
    第十四章 敵国資産管理人局による清算作業
    第十五章 閉店と最後の競売
    第十六章 第二次世界大戦後の山中商会
    終章   如来座像頭部

    江戸末期以来、日本国内でも活発に古美術商として活躍していた山中商会が、日本国内の美術ビジネスに与えた最大の功績は、”展観”という販売スタイルを持ち込んだことにあるという。それまでは顧客と一対一で販売するのが通常だったのだが、欧米の画廊に倣い、会場で品物を展示してから販売するという方式に変更したのである。今でいうフリーミアムモデルのようなビジネスモデルが、百年以上も前に行われていたことになる。

    ニューヨークに最初の店を出したのが、一九八四(明治二七)年。明治日本のナショナリズムが高揚し、日本としても熱心に対外貿易を促進していた時代である。その当時、日本の美術工芸品のレベルの高さは群を抜いていたという。遠近感を無視し、植物や動物の描き方も誇張され、遊び心やデザイン感覚に富んでいたのである。そんな中、山中商会は、美術工芸品に限らず、盆栽、狆、金魚から”だんじり”まで幅広いラインナップを取り揃え、日本文化を知らしめる役割を果たした。今風に言うとキュレーションということになるだろうか。

    今でも海外のソーシャルメディア事情などを、日本国内に伝えるためのキュレーターは見かけるが、日本国内の情報を世界に発信しようとしているキュレーターには、あまりお目にかかれない。また特筆すべきは、山中商会のキュレーションが、美術に関して目の肥えた正真正銘のキュレーター(美術学芸員)達に対して行われていたということだ。つまり彼らはキュレーターから情報をもらうのではなく、情報を与えることでビジネスを行っていたということなのだ。

    彼らに取っての最初の転機は、明治後半に訪れる。日本の美術品が品薄になり、値段も高騰してきたのだ。そこに国内が政情不安に陥った中国より、安価な美術品が大量に出回って来た。まるで現在の世界情勢を彷彿とさせる出来事だ。そこで、山中商事は仕入れの中心を一気に中国へと舵を切る。多少非合法なこともあったようではあるが、大量の買い付けを行い、アメリカでの中国美術品ブームも牽引する美術商へとのし上がったのである。ここでの成功のポイントは、文脈形成ということに尽きる。自らが主催する講演会で、中国美術と日本美術を、ギリシャ美術とローマ美術のように相互に入り組んだ「同じひとつの芸術的活動」として取り扱う視点を提示したのである。

    本書の副題には、「東洋の至宝を欧米に売った美術商」と書かれている。おそらく当時の人が、山中商会の商いを国内からの「流出」という否定的なニュアンスで捉える傾向が強かったことも受けてのことだと思う。これは、美術というものを目的と捉えるのか、手段と捉えるのかによって、賛否の大きく分かれるところでもあるだろう。

    山中商会の商いが、あくまでも「手段としての美術」であったことは否めない。しかし、欧米に追い付き、追い越せと叫びながら、海外を模倣していた時代に、欧米を相対化することで文脈を形成し、日本、そしてアジアという文化を広く知らしめたということは紛れもない事実である。その商魂には、今でも学ぶべき点が多いのではないだろうか。

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