股間若衆―男の裸は芸術か

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著者 : 木下直之
  • 新潮社 (2012年3月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (190ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103321316

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股間若衆―男の裸は芸術かの感想・レビュー・書評

  • ページを開くといきなり男性裸体像の股間のアップ(爆)。
    「とろける股間」「曖昧模っ糊り」というネーミングセンスが素晴らしい。

    “男性の裸は芸術か猥褻か”明治以降の男性の裸迫害史&
    それにともなう股間表現史が面白かった。
    完全と風景と化してしまって、あってもそうと気づかない&
    あえてガン見しないようにしている股間若衆の「股間」を扱った労作。
    こんな風に巡礼はしないまでも意識して見るようにしたい!!

    個人的には「股間漏洩集」の「男の写し方」、「薔薇族」創刊から
    三島由紀夫のくだりに興味津々。
    そうだったんだ!見たいよその写真!!

  • いろいろ考えさせられた。

    裸体彫刻が野外に出たのは戦後のことだ。その前は軍人や政治家など個人の業績顕彰のための銅像だった。という一文に目を開かされた思いがした。無名の若い裸体は自由と亡くなった若者たちの鎮魂を表しているのだ。なぜここに置かれたのか、なぜこのような形なのか、その歴史を調べてみるとこんなことがあったのかと面白く読んだ。

    そして今裸体像は消えて行っている。駅前や公園にあったものが、再開発、道路や駐車場の拡張工事などで撤去され、戻ってこないのだ。

    ヒトが衣服を着るようになったのはいつのことか。アタマジラミからコロモジラミがわかれたのは7万年前のことだそうで、遺伝子解析から分かったそうです。
    美術がアートになっていく。無機質で抽象的な金属彫刻に置き換わっていると筆者は述べているがストリート彫刻には最近もう一つの潮流があると私は思う。それは「キャラクター」だ。

    もう一つ著者が述べていないのは小・中・高校に置かれた野外裸体彫刻だ。戦後二宮金次郎の像がなくなったのはよく知られているが体の線をあいまいにした若衆は玄関先や中庭に置かれ、いたずらをして怒られる奴が必ずいたものだ。これも減ってきていると思う。生息地に入れたらいいと思う。

    ゆっくりではあるが、関係者がいなくなり、建立された意味が薄れ、だんだん淘汰されていく時代が来たようだ。

  • すごく真面目に男性の股間の美術表現とはみたいなことを書いてるんだけど「曖昧模っ糊り」「四分の三裸」とかところどころでくすっと笑わせるような表現をしてて、ついついふきだしてしまうという。
    著者近影で彫刻の股間をかがみこんで写真撮ってるのがなんかもうすごい。巻末の「股間巡礼」なんか大真面目に旅ガイドみたいにされてこれも笑う……
    あとがきもおもしろかった。語感センスが好きですとても。

  • 芸術だと分かっていても
    なぜか その股間を
    薄目で見てしまう自分
    女性の裸だと
    目をくわっと開けられるのか
    男性の裸体は求められて
    なぜに股間はだめなのか
    ただの男女差別とは違う
    なにか深い溝がそこにある・・・

  • <目次>
    第1章  股間若衆
    第2章  新股間若衆
    第3章  股間漏洩集
    第4章  股間巡礼

    <内容>
    先に続編の方を読んだので、インパクトには欠けた。最初にダジャレの要素があったようで(「曖昧藻っ糊り」とか。ちなみに「股間若衆」はわかると思いますが、『古今和歌集』。「股間漏洩集」は『和漢朗詠集』…)、でも近代日本画突如、西洋風に「裸はイカン!」となったあたりが語られ、芸術家、特に彫刻家が反発した様がわかる(続編では、黒田清輝の反発の様が克明に語られるが…)。
    逗子市立図書館

  • 何でも集めれば社会学の本になってしまう。

  •  萌え規制の文脈で萌え擁護派から「アートなら裸でもいいのかよ」といった言説が聞かれることもあるが、アートだって大変な苦労をして、その末に現在の地位を確立したのである。

     タモリ倶楽部で本書の著者が巷に溢れる男性銅像の股間について解説する回があって、非常に面白かったので拝読。
     これもまた性に関する表現規制の事案であって、近年は「いわゆる萌え規制」に見られるように女性を表現したものへの規制が話題となるが、かつては男性表現もまた規制の対象になった。
     かつて警察から彫像の股間を(つまり陰茎を)切り落とせといわれた朝倉文夫であったが、紆余曲折の末、こんにちでは彼の製作した裸像が警視庁に展示されている。その紆余曲折(近代美術史の一つの流れである)が細かに記載されており、大変興味深い。

     タモリ倶楽部で触れられたのは銅像だったが、本書では彫像、絵画、写真にも話を展開している。
     表現規制にかかる大きな事件として、明治34年、黒田清輝の「裸体夫人像」が額縁ごと下半身を布で覆われた件(腰巻事件)を紹介している。フランス帰りの黒田は「無知蒙昧や官憲や観客に西洋美術の真髄たる裸体表現を教えよう」と、あえて「額縁の腰巻」を受け入れるが、度重なる干渉に懲りて、やがては腰布を巻いた裸婦像を描くようになる。
     黒田の影響力は絶大で、他の画家達もそうして腰布を巻いた裸婦像を描くようになり、それが一種の免罪符になってしまった。
     彫刻もその影響を受け、下腹部に薄布を貼り付けたような裸婦像が登場する。男性裸像も同様の経過をたどる。

     写真や絵画は一方向からの視点となり、どうにかして股間を隠すことができるが、立体である彫像、銅像はそうはいかない。それで作者たちはさまざまに工夫を凝らし、「曖昧模っ糊り(著者命名)」や葉っぱで誤魔化すことになる。多少なりともそれらしい形を表現する場合は、学術的な模型を除けば、実際よりも慎ましいサイズに留めた。
     芸術家達がリアルな男性器は芸術的ではない(ので表現する必要がない)と考えているのか、あるいは公表できなければ意味がないと妥協を続けているのか、寡聞にして知らない。
     女性器についてはかのろくでなし子氏が奮闘を続けていると聞く(幸いにも「孤軍」でないのは心強いところである)。リアルな女性器(陰裂)を表現した彫像もどこかで見たことがある。
     多分に興味本位ではあるけれども、男性版「ろくでなし男」氏の登場が待たれる次第である(もしいれば教えてください)。

  • 日本で男性の裸体彫刻を作るときに股間のイチモツをどのように形作ってきたかに始まり、油絵と警察と股間との関係、女性ヌード写真、ホモ向け男性ヌード写真など、美と猥褻との間を軽やかに駆け抜ける力作。
    注意:電車などでは読めませんw

  • あいまいもっこり、まさに日本戦後美術の本質

  • 題名はウケを狙い、気をてらったものだが(古今和歌集、新古今和歌集、和漢朗詠集のもじり)、初出の副題(「日本近現代彫刻の男性裸体表現の研究」)が示すように内容は真面目である。銅像には興味があり、今までも関連する本は何冊か読んできた(今回改めて気がついたが、それは屋外に設置されたもの。美術館で公開されているものは意識していなかった)。しかし、こういった裸体に関する芸術表現については、本論よりもその周辺のエロ(グロ)的部分の記述に興味がいってしまった。生人形とか、刺青・褌の彩色写真とか、ヌードショー、ヌード撮影会会とか。
    しかし、著者がまじまじと彫刻の股間を眺め、その表現方法を分類している図は、真面目なのだが、小学生的で滑稽に見えてしまう。まったく違うことだが、小学校の校庭に設置されていた二ノ宮金次郎像が読んでいる本が何なのか知りたくてわざわざ下から覗いた昔の自分を連想した。

  • 公共スペースに設置された女性の裸体彫刻がフェミニストによって糾弾された90年代から下ること20年、ついに男性の裸体彫刻が探求される時がやってきた!
    「新股間若衆」「股間漏洩衆」という章名や「曖昧模っ糊り」というフレーズに脱力しつつ、トンデモ本かと手にとってみれば、どうして、脇目もふらず真剣に美術における男のコカン問題に取り組む本なのでした。西洋からの近代美術輸入とともに始まったヌード問題。しだいに性器と毛に焦点化されていく官憲の規制を逃れるべく、「とろける股間」あり、万有引力を無視する葉っぱあり、謎の物体あり。
    面白いことは面白いんだけど、話題がバラバラでもひとつ突っ込みが足りない。でも要するに、政府の規制に対しては「美術だ」と言って反論しつつ、実は男中心の美術界の中では、女のヌードは無条件に美であることを前提する一方、男性のヌードについてあまり真剣に考察してこなかったんではないかということだよね。戦中にしろ戦後にしろ、力や高邁な理想といったジェンダー化された価値観を負わされすぎてきた男性ヌードを解放してあげたのがゲイたちのエロスのまなざしだったと言ったら、まとめすぎでしょうか?
    美術における男性ヌード論としては、最近の写真家たちの作品まで含めて、コカンにこだわらずに突っ込んだ議論を読みたいところではあるけれど、それは本書の範囲外。たくさんの図版にくわえておまけの「股間巡礼」まで、たいへん楽しめる本ではあります。

  • 初登録のこの本は2/23うろこ会定例会でプレゼンした本です。
    内容が内容だけに想像以上の反響があって驚きました。

  • 男の裸は確かに難しいところがある.でも、股間に葉をつけたのは何かおかしい.本書は芸術作品としての男の裸の歴史や数々の写真・エピソードが満載で楽しめる.

  • 芸術論だから、やはり読みづらいは読みづらいのだけど、どこかふざけているというか、のところがあって、ところどころ笑える。R以外で「握足」という言葉を使っている人初めて見た。曖昧模っ糊りとか、そういうことばも笑える。どこからか落ちてきてなぜか落ちない葉っぱ、とか、両手がふさがっているのに、なぜか落ちない虎皮、とか。

  • 曖昧模糊とした股間表現に疑問をいだいた著者の股間巡礼記録と考察。官憲の干渉だったり芸術表現だったり「目のやり場」に困らないような配慮だったり。まじめに歴史を紐解いていると思うのですが、表現や切り方が愉快なので、どうしても「愉快な本」の方向に捉えてしまいます。股間若衆は、このあたりにいそうだな、と思ったら、だいたいいる。今度見つけたら、おそらく曖昧なその模っ糊りがどんな風かきちんと見て、背景を想像してみよう。

  • 男の裸は、いつだって哀しい。手ぶらでは全くさまにならず、結果、円盤投げの円盤に落ち着くという下りは笑った。

  • 一度見たら忘れられないタイトルである。裸の銅像の股間がどうなっているのかを集めた本。
    うむ、なんとなくごまかしている。そのごまかし方に歴史ありというわけで、たしかに面白い。

    明治時代の官憲と変わらないのかもしれないけど、私はどうにもあの裸の銅像が苦手だ。マッチョ的に均整のとれた肉体はそういうものだとして受け取れるが、そうでない場合、見てはいけない者と不気味の谷の両方を思う。
    例えばうちの近所の公園に、小学生ぐらいの幼女の裸の銅像がある(幼稚園ぐらいの弟(全裸)と手をつないでいる。)これがよくてあれがダメな理由は何? と思う。
    たまに、母性という感じの骨盤の大きな母親全裸と一緒になっている場合があり、どう考えてもこっちのほうがやらしいよな、と思う。

    改めてなんだけど、裸である必要ななかったんじゃないのかな。
    もしくは、記号化された性とは違う、根源的な何かを揺さぶるというのなら、それはそれでありがたい。たしかに、全裸の母娘像とか、私の中に湧き上がる感情が性的な欲情かというと、なにか違う気がする。
    本書の扉にある、赤羽駅前の「未来への賛歌」も、高校野球部員二人を裸に剥いたみたいなもので、「球児の汗と涙が・・・」っていう夏の高校野球のメディアの下手なポエム(恥ずかしと思わないのかね、あれ)よりかは、ぐっとくる。

    だけどそれを、そこまでして街頭に置かんといかんかったのかは、よく分からんな。

  • 主に彫刻、曖昧模っ糊り。

  • この本を読んでから股間を巡る旅に出たくてしかたない。股間巡礼とでもいうか(事実この本の最後 は股間巡礼というタイトルの旅のガイドだ)。まずは、手近な蒲田や稲毛の駅前あたりから始めてみよう かとも思いつつ、どこかにためらう気持ちがあるのか、まだ実現していない。

    「股間漏洩集」という章の中に「彫刻の場」という表現が出てくる。「場」は多義的な言葉で便利だけど よくわからんところもあるのだが、こういうふうに使えば、場とは生きている文脈であって意味が生じる 源だということもよくわかる。股間をめぐる文脈も、彫刻の場も、そこから生まれる意味も、時代によっ て、見る人によって、変わるものなのだ。

  • 異性も同性もみんな気になる股間。

  • 『世の途中から隠されていること』を読んで以来、この人の書くものには注目してきた。ただ、今回の著作にはいささか唖然とさせられた。『股間若衆』とは。すでにお気づきの方もおられようが、仮名で書けば「こかんわかしゅう」。そう、「古今和歌集」のもじりなのだ。はじめは気づかなかった。なにしろ、表紙写真には、男性の裸像が三体、衆目に股間をさらしているのである。なるほど、股間若衆か、と妙に納得してしまった。

    副題にあるとおり、「男の裸は芸術か」という問題意識で編集されたメイルヌード論集である。とっかかりとなったのは、野外に置かれた裸体彫刻、特に男性像の下半身の表現に対する違和感であった。たまたま目にしたそれは、パンツを穿いているのかいないのか判然としない実に「曖昧模っ糊り」とした表現であった。日本には数多くの裸体彫刻が展示されているが、なぜか駅前に多い、それらの股間の表現は微妙な扱いを受けている。

    芸術であるなら、ミケランジェロの「ダヴィデ像」のように、リアルな表現が許されているはずである。現にフィレンツェならぬ日本は広尾の街角にも「ダヴィデ像」は、その裸体を誇示している。なのに、日本人彫刻家による男性裸体彫刻は、そのほとんどが著者のいう「曖昧模っ糊り型」か、「面取り型」、もしくは「切断型」になっている。それは何故か。興味を抱いた著者は、カメラ片手に町に飛び出す。歴史を調べる。そうしてリサーチした結果を『藝術新潮』に連載したのが一連の『股間若衆』物となった。

    題名から想像がつくように、小難しい理論とは無縁の読みやすい美術エッセイになっている。とはいえ、木下直之のこと、男性彫刻の股間にこだわらず、日本美術界が、男女にかかわらず、裸体画、裸体彫刻の受容に、どのように敏感であったか、今から思えば 笑いごとのようだが、そう単純に笑ってばかりもいられない、悲喜こもごもの歴史を描きだしている。

    朝倉文夫が完成した彫刻から男性器を切り取っているところを描いた北沢楽天のポンチ絵には、官憲の命令で自らの作品を毀損する朝倉に対する批判をこめた風刺が色濃い。一方で、生き人形師松本喜三郎が海外向けに製作した生き人形には本物と見まがう男性器が精巧に作られている。その違いはどこからくるのか。

    男性裸体彫刻と戦争の問題にも意識は向けられる。戦後、平和や復興を願い、そのシンボルとして各地の駅前や公園に設置された彫刻がなぜ裸体でなければならなかったのか。戦時中、戦意高揚の目的で製作されたそれらは、軍服にゲートルの姿であった。新生日本を象徴する平和を表すためには、その姿から自由にならねばならなかった、と著者は読み解く。

    しかし、平和、復興のシンボルであったそれらの彫刻群は、駅前再開発、再々開発の掛け声とともにいつの間にか撤去され、もっとひっそりとした空間に移転されてしまう。その有り様は一抹の哀れを誘う。ただ、そればかりではない。いつの時代も時代の空気に敏感に反応し、その時代時代の意匠をまとって野外に立ち現れ、いつの間にか消えてゆく男性裸体彫刻の存在は、われわれの住む社会の容態をひそかに示す記号ではないのか。なんとなく居心地の悪さを感じつつ、目を伏せたり、見てみぬ振りしたりしながら、その横を通り過ぎる裸体彫刻だが、時には正面からまじまじと見つめ論じてみる価値があるのではないか、あらためてそんなことを感じさせられた。

  • 男の股間
    いや
    男の沽券

    まつわる あれやこれや

    どうでもいいようなことを
    これだけきちんと取材して
    ちゃんと「研究」しておられることが
    すばらしい

    人間はなんのために芸術しているのか
    が この一冊の中に見えてくる

  • 露出か隠蔽か修整か?“古今”日本人美術家たちによる、男性の裸体と股間の表現を巡る葛藤と飽くなき挑戦。“曖昧模っ糊り”の謎を縦横無尽に追求する本邦初、前代未聞の研究書

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股間若衆―男の裸は芸術かの作品紹介

露出か隠蔽か修整か?"古今"日本人美術家たちによる、男性の裸体と股間の表現を巡る葛藤と飽くなき挑戦。"曖昧模っ糊り"の謎を縦横無尽に追求する本邦初、前代未聞の研究書。

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