父の肖像

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著者 : 辻井喬
  • 新潮社 (2004年9月29日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (645ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103407126

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父の肖像の感想・レビュー・書評

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  • 堤清二が父・堤康次郎の人生を伝記風に書くと共に自らとは何かを雄弁にこの中で主張しています。康次郎の多くの女性との関係、鉄道、観光産業の事業家としての成功の歩み、大隈重信、永井柳太郎の弟子としてスタートし、戦後に野党に押されて衆議院議長になるまでの政治的成功など謎の人生を明らかにしてくれると共に、その背後にあって屈折した人生を歩まざるを得なかった清二自身についても、自伝として描かれているようです。清二の母が謎の詩人になったりという脚色があるものの、実名の登場人物が多く登場し、臨場感に溢れています。母を架空の人物にしたことが、その屈折感を物語っています。また異母弟・堤義明をあまりにも小人物として描いている点が、2人の確執を雄弁に物語っているように印象を強くしています。

  • 旅行中持参する本を持っていないことに気がつき新幹線駅キオスクにて購入。
    かくたる機会がなくとも少々縁あることから筆者の作品には一応目を通してきている。

    「死はある人生に終止符を打つが、故人との葛藤は残された者の心の中でいつまでも続く」という米映画の終幕の言葉を思い出した。

    親の死んだ歳になるまでこれが続くとは息苦しい。筆者のごとく父からも母からも「愛された」という確信のない者は永久に帰属する場所ないままひとりぼっちか。居どころないまま、居心地悪いまま、自らも人を愛することが出来ぬまま老いてゆくのか。

    日本近代の政治経済史に興味なく、大正昭和初期の価値観に感情移入できぬ人には縁のない著書かもしれない。

  • 「辻井喬」とは先日逮捕された堤義明の異母兄「堤清二」であり、であるからこの場合の「父」とは西武グループの創始者「堤康次郎」に他ならない。この小説はその堤康次郎の一代記だ。

    康次郎は滋賀に生まれ、政治家としては衆議院議長にまでのぼりつめ、事業家としては西武王国を建国した立志伝中の人物である。衆議院議長という名からは大政治家の政治史を想像するかもしれないが、康次郎は政治家としてはたいした功績もなく棚ぼた的に議長になっただけであり、康次郎の名は「西武」と直結しているのだから、息子が父親を眺めるという構図からも、この小説は政治史であるというよりも堤康次郎を中心とした堤家の伝記となっている。

    もっとも、内部の者による伝記であるだけに、康次郎の心境を探る目には客観性が欠けているところがあるが(全編偽名で書かれていることが緩衝材となっていながら)、しかし康次郎の家庭における振る舞いなどは彼にしか書けなかったであろう。

    清二氏にとって、康次郎はときに合理主義者、ときに人情家であったように見えた。筆者の「私には表に出ている父の矛盾した性格は演技などではなく二つとも本当だし、あるいは二つとも嘘だというふうに思われた」という言葉がよくそれを表わしている。人間の好き嫌いが明確で、しかし事業家としては戦略家であった。そこには矛盾があるけれど、そのアンビヴァレンツを超えたものが康次郎にはあった。それは事業家としての成功を表しているし、同時に家族の崩壊をも表している。

    政治家としての康次郎はどうだったか。康次郎は、政治において自分の役割は「財」をつくることだと自覚していた。衆議院議長の時期を除いて事業のほうに熱心で、戦前の拓務相を除き内閣の役職獲得に冷淡だったことからもそれは伺える。

    ただ、戦前と戦後直後に限れば、政治的嗅覚は鋭かったと云える。戦前、満州を訪れて地元民の独立心の強さを目の当たりにし軍主導の満州国建国の前途を懸念したりすつ一方、満州国建国の黒幕であり軍の異端者であった石原莞爾に心酔する。しかも自らの満州体験に基づいて、石原の構想をさえ、楽観的過ぎると考える。康次郎は日本の侵略が彼らの結束をより強めてしまうのではないかと疑っていたのである。そこには農民であった自分の過去の経験が大きく働いていた。農民こそが国の基礎なのだという信念が。

    このような考えがあって、当時は一般に革新派とみなされていたようだ。しかしGHQの占領が終わると親米一辺倒となる。また、大衆の熱狂に懸念を覚え、政治家を恩恵を与えてくれるものとして見る彼らの未熟を嘆く。実際、満州事変から大東亜戦争に日本が至ったのは、この大衆の熱狂の存在が最も大きい。大衆の支持がなければ軍は強引な手段をとることはできなかったのである。

    また康次郎は普通選挙には賛成であったけれども、女性に選挙権を与えることには戦後も反対であった点は、革新的ながら女性への特殊な愛憎があった印であろう。

    政治家を務めていて獲得したものは人脈である。大隈重信、後藤新平、新渡戸稲造、石原莞爾、重光葵、岸信介、椎名悦三郎、水野成夫と、名だたる政治家・事業家との交流が描かれている。築かれたこの人脈は、事業に際しても有効であったに違いない。

    では、康次郎は実際にはどのような事業を興していったのか。

    康次郎には農民や土地に対する強い信仰があった。農村での経験があるものこそが(日本人の)低い民度をあげることができるという自負をもち、政治に携わりながらも、来るべき中産階級の時代に備えて(これは慧眼であろう)、箱根や軽井沢の景勝地を大衆に解放する事業に専念した。

    それだけではない。都市計画に長けた後藤新平から「大学都市を作りたまえ」と助言をもらい、「国立」を創建。東京商科大学(現一橋大学)を誘致し、駅を設けて住宅地を開拓したのである。政治家として不真面目と考えられるかもしれない。だが、自分の役割を冷徹に意識し、それを実現した力は並みのものではないだろう。後にインドのネール首相に「土地の詩人」だと称揚されて喜んでいるのが印象的である。

    康次郎の人間性をよく表わしているのは、人情である。同郷(滋賀県)出身の人間には特別な温情を施した。滋賀に生まれた井伊直弼を若い頃から称賛していたことは特徴的である。安政の大獄などの影の部分が目立つ井伊の政治を快く思う人間はほとんどいまい。あるいは、井伊の置かれた当時の立場を理解してのことだろうか。アメリカに武力で脅された幕府日本が不平等条約を受け入れざるを得なかったのはたしかに同感ではあるが。

    ところで、小説そのもの、辻井喬氏の文章についてはどうだろうか。父の初婚の相手との結婚が、長女の出産から10ヶ月遅れていることに著者は拘る。しかし拘りから回答は得られない。この執着と冷たさは、この小説が自分の「家」について書いた一応の私小説であるからだろう。

    気になると云えば他の誰よりも気になることであるし、けれども、どうでもいいと割り切らなければ筆は進まない。自分の感情が筆を滑らせていると云えないだろうか。

    父への敵対的な関係を築こうとしながら最も父の心情を理解する近さにいたと思われる著者はまた、一見すると単なる情熱がそうさせたように見える父の事業と政治への姿勢から、父は「分裂した自己」をもっていたのではないかと推測する。このような"勘ぐり"は、父の姿を描こうとする子の回顧以上の何かに寄りすぎてはいまいか。小説としては不要な部分であろうし、何か心理学的なものへと傾斜している感がある。しかもそれは、「親と子」であることを覆い隠すために無理に持ち込まれた学のような。

    結局、父の内面を分析することに過ぎて、父を小説の主人公として甦らせることに失敗しているように思えた。というのは、それらに加えて、主人公である父の、物語における連続性が後半に行くに従って徐々に不分明となっていくことが明白だからだ。冒頭から中盤にかけて、つまり父の最初の結婚から堤清二の誕生までは、父康次郎の人生がリアルに甦ってくるのだが、清二氏が誕生する頃から、清二氏と父康次郎の親子関係の微妙な軋轢が中心となってくる。この小説をメタレベルで読んで、堤清二の康次郎にた対する複雑な自意識を愉しめばいいのかもしれないけれども。

    ところで堤清二氏が郊外の病院で療養生活を送るくだりが面白かった。それはトーマス・マンの『魔の山』を想起させた。また清二氏が秘書としてマッカーサー元帥・アイゼンハワー大統領と面会することになった経緯も読ませる。康次郎のスキャンダルをもみ消す場面も圧巻。義明氏よりも清二氏のほうが、事業家のセンスがあったのは確かだ。人間を扱う技術が格段に優れているのだ。部下を家来としか見なかった義明氏とは対照的である。

  • コレ読むまで、そのへんの事情まったく知りませんでした。

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父の肖像の作品紹介

近江商人の末裔たる誇り高き田舎者にして大隈重信の末弟子、政治家らしからぬ政治家にして専横独裁の実業家、徹底した現実主義者にして時代の理想を追求し続ける者、私の父にして私の宿敵-。果して何者なのか?地縁と血の絆、修羅と栄光の狭間をひたすら生きたこの男は?この男の血を受けた運命から逃れきれないでいるこの私は?最大の「宿命」に挑む長篇小説。

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