ワールズ・エンド・ガーデン

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  • 新潮社 (1991年1月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (363ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103701026

ワールズ・エンド・ガーデンの感想・レビュー・書評

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  • 「想像ラジオ」でいとうせいこうさんが話題になっているので、試しに読んでみた。ちょっと読みづらい感が・・・。しかし、読後にとある雑誌に「湾岸戦争を予期した作品」と書いてあって、本当にそうなのだとしたら、かなり洞察力のある作家だと思うし、この作品は社会小説であると思った。そんな読み方はできなかった。

  • 小生には合いませんでした
    ノーライフキングはOKだっただけど

  • オリジナル宗教の本が読みたいと思っていた、という点では面白かったが、話が淡々としていて始終同じペースで、盛り上がる箇所が少なかったように思われる。文の構築としては良かったので、単にわたしの好みではなかったというだけかもしれない。

  • 体調を崩したていたこの数日、未読だったいとうせいこうの「ワールズ・エンド・ガーデン」を読む。以前紹介したこの後日譚「解体屋外伝」が素晴らしい作品であったため、強く関心を惹かれていたのだった。

    初版は1991年。

    概説

    広告代理店上がりのコンセプト・デザイナーの主人公恭一と不動産屋崩れの切れ者章平が一年半の猶予で一つの街を地上げ屋から譲り受ける。彼らが請け負ったのは東京の若者達のアナーキーな遊び場を作り、アーチストやデザイナー、DJ達を町に呼び込み自由に遊ばせ、情報を発信させることでその土地の付加価値を上げること。デッドテックな廃墟と化した自由都市を砂漠/デゼールと名付け、フェイク・イスラム、イスラムの意匠のデザインやグラフィティで街を被い、コーランとDJミックスされたハウスやHip HopをBGMにスケートボードが町を跋扈する。新しい刺激と感覚に飢えた遊び人達が、ベルギー・アシッド、ラヴ・エクスプレス等のドラッグを常用し町の中心部クラブOPIUMに集う。主人公達は街の王として権力を我がものとするが、そこに一人の記憶喪失の浮浪者が侵入してくることで街の均衡は大きく崩れてゆく。浮浪者は予言や奇跡を起こし、人々の信仰を集めてゆく。その眼窩の奥のどこまでも深い闇は街の人々の欲望を飲み込んで街を覆い尽くしてゆく。

    いとうせいこうが当時体験していただろうシーンへの憧憬

    まずこの作品が書かれた90年前後といえば、すでにセカンドサマー・オブ・ラヴの噂は日本に届き始めて来た頃だ。宝島、ビックリハウスで代表される80年代文化が終息を迎えるなかで新しい息吹が生まれ始めたいた頃。しかし、いとうせいこうは世間的にはまさにその80年代的なるものの代表選手であり、藤原ヒロシ、高木カンとともに日本のヒップホップ第一世代と云われるほどの認識であり、優れたリリシストであった。

    作中に描かれるクラブを中心とした主人公達のライフスタイルは、今現在と殆どかわらないリアリティーがある。様々な背景をもった個人が緩やかに繋がりながら、またその能力やこだわりの中で役割を果たしながらチャンスを伺う。そしてその互いの意識の隙間を流れるドラッグの影響。これを見ると単なる80sカルチャーと総称し得ない、サイケデリックスに伴う様々な教えを伴ったカルチャーの存在を感じる。レゲエ、サイケデリック・ロック、ヌスラット・アリー・ハーン。そして抑圧と意識の開放者としてのパブリック・エネミーやマルコムX。こんな豊穣なカルチャーが軽薄短小といわれた80sカルチャーの中に実在していたことが単純な驚きだ。

    ドラッグ、そして精神病理学的な理解として

    もちろんそれは、いとうせいこう自身の探究心としなやかなバランス感覚に負うところも大きいかもしれない。彼の著作を読むと、一人の人間が抱えるにはあまりに大きな知への欲求と、それに伴ったフィールドワークの存在を感じる。

    それは例えば意識のあり方への洞察の深さに現れている。作中の中で解体屋は言う「あの中年男はいつも演じている自分を忘れていないんだ。だけど、そのことを自覚できないくらいに、役にはまり込んでいる。あのおかしな呻きを上げているときは、もう異常そのものさ。全生活史健忘で同時に分裂病というケースに似てはいる。過去を忘れた上に、自分がキリストだ、ブッダだって言い張る。しかもヒステリー症状を起こすってやつだ。だけどあの男の場合、ヒステリーの最中も目線外れないんだな。絶妙だよ。詐欺師の条件だからね。これは。騙しているうちに自分も騙される」

    臨床の中で実際に全生活史健忘を分裂病/統合失調症を同時に併発する例は殆どない。それは全生活史健忘とは、いとうの言うようにヒステリー、すなわちフロイトのいう神経症であり、その基盤である自我は保たれている。自我が「ある葛藤」に耐えられなくなったとき、一時的に自我は「葛藤ごとかりそめの自我」を外部に排出する。それがヒステリー/多重人格/解離性健忘の本体であり、その間も自我構造はヒステリーの仮面の下に保持され続けている。これは自我が自己の存在を守るために無意識的に発動する防衛プログラムであり、その自我構造の保持を目的としている以上、ヒステリー/神経症であることは、イコール自我構造の保持を意味している。

    他方、統合失調症は自我の基本的構造が崩壊する病だ。自己と他者の互いの自我境界が崩れ、他者の自我が自分に流入し、また自己の自我が他者に流出し、そのコントロールを自我がとれなくなってしまう。安心感の基盤であったこの自我境界が崩壊すると、自分を守る壁がなくなってしまったことにより常に周囲から圧倒的な情報に侵襲され、底なしの恐怖のただ中へ放り込まれたように感じてしまう。この意識状態の中で自己を何かの目的に結びつけながら、意志をもって行動することは限りなく不可能だ。

    つまりいとうは、ヒステリー状態の健忘でありながら、統合失調症の自我障害の状態で、他者を騙すという意志をもって自分自身をもその騙す行為の中に耽溺してしまうことは不可能だ、と喝破する。

    これは臨床的には圧倒的に正しい。鋭いセンスだ。もちろん統合失調症の症状の中に来歴否認妄想や血統妄想というものがり、自分自身を全く違う人間と確信し、そのように振る舞う症状はある。そしてその記憶は偽りの記憶によって書き換えられていることが多いのも特徴だ。しかしその患者が何かの意図をもって他者を巻き込み利用することは決してない。自身によって作り上げた偽りの人生の中にひたすら籠って生きようとすることが多い。むしろこの記憶喪失の男は解体型分裂病の、言語機能さえ崩壊し、疎通性が困難なタイプの患者に似ている。かれらは言語を上手く用いることができないため、全言語的な表現、ノンバーバーバルな、表情、身振り、そしてテレパシーに近いコミュニケーションを使う。

    いとうせいこうがこれらの感覚をどこで養ったのがが私にとっての大きな興味だ。分裂病患者と相当密なコミュニケーション経験を持たないとこの辺りの感覚をつかむのは難しいだろう。ドラッグによる意識探求の過程での知恵のフィードバックの可能性は非常に高いと思う。もちろん多くのテキスト、文献からの勉強、そしてテキストへの共感や投影によって得た技量かもしれない。そしてこれは天才的な技能といえる。

    浮浪者の男について、そしてオウム真理教事件

    さてこの作品のなかで、謎の記憶喪失の男を中心に自然発生的に教団が形成されてゆく姿が描かれる。一人のカリスマを中心に様々な背景と闇を抱えた個人が、自分たちの存在意義をカリスマに重ね合わせながら、集団を形成することで団結し政治的な権力を構成してゆく過程。そして集団に巻き込まれた各人はその熱狂と興奮に魅了されるあまり、集団はコントロールを失い、当初の目的を離れ、集団を維持してゆくことが自己目的化してゆく。浅間山荘事件の集団心理と集団制深慮法のエンカウンターグループの手法を手がかりにしながら、いとうはその過程もつぶさに描写してみせる。

    初版が1991年。オウム真理教、地下鉄サリン事件が1995年3月20日であることを考えるとなんと早い予言的物語であったことか。坂本弁護士一家殺害事件が1989年11月、当時はサブカルチャーの寵児であった麻原彰晃ほかオウム真理教のムーブメントさえいとうはその鋭敏な時代感覚で本人が意図するよりも深いレベルで捉えていると言える。

    先程、「ヒステリー状態の健忘でありながら、統合失調症の自我障害の状態で、他者を騙すという意志をもって自分自身もその騙す行為の中に耽溺してしまうことは不可能だ、といとうが喝破した」、と書いた。逆説的にいえばこれを意図して行えるということが救世主の条件だ、ということとは言い換えられないだろうか。

    ヒステリー状態のチャネリングによって神託を受ける。自我障害であるといいうことは常に無意識に近い変性意識状態にあるということだ。自分のことを救世主と信じられれば他者は容易にその信念に巻き込まれてしまうということではないか。

    いとうせいこうはこの救世主の条件を全くの裏側から描いた。救世主のこころを病理として描いたとも言える。このワールドエンドガーデン全編を覆う救世主=記憶喪失の男の本質とは、すでに自我意識さえ失った殆ど無意識に近い存在施あるが故に、あらゆる他者の無意識の投影を飲み込み、他者の投影のままに振る舞うことのできる人間。そして全てであろうとしたが故に、自分自身に失ってしまったものの悲しき末路だった。これは千と千尋の物語のカオナシに限りなく近いイメージだ。どん欲で寂しがりで一人でいることができない。そしてその空虚を満たすために他人の欲望を利用する。

    90年代の音楽に与えた影響への考察、どこまでも日本的なものとしてのテクノ

    この物語を呼んでいる間、作中に出てくるヌスラット・アリ・ハーンやパブリックエネミーを聞いてみたが、今ひとつ合う気がしなかった。このドラッギーでサイファイな物語はしかし、恭一によって突き止められる謎の男の出自やエンディング同様、非常に日本的な情の世界に深く結びついてゆく。最後まで読み終わった時に俺の頭の中で鳴り響いていたのは、くるりの「ワールズエンド・スーパー・ノヴァ」であり、Supercarの「Yumegiwa Last Boy」であり、曽我部恵一の「White Tipi」であった。

    これは実は俺にとっては非常な驚きであった。そして同時に発刊されてほぼ17年の長きにわたりこの書を読んでいなかったことを恥ずかしく思った。セカンドサマー・オブ・ラブとテクノの日本への流入。サブカルチャーの中では精神世界ブームが起こり、そしてドラッグカルチャー。バブルの狂躁と終焉のなか1995年オウム真理教事件が起こる。1996年には日本ランドで第一回目のレインボー2000が開催される。その当時の思春期を迎えた若者達のハイパーリアルな現実感覚。オウム真理教が最終的には自らの存在証明のためにハルマゲドンを起こそうとしたように、日本全体が2000年期の終焉、ワールズ・エンドのために加速していった90年代という時代。その全てのエッセンスがこの「ワールズ・エンド・ガーデン」の中に配置されている。

    日本の90年代のテクノカルチャーの空気というものは、もしかするとこの物語が全ての源ではないかとさえ思った。俺個人はあまり「日本の」テクノ的な空気は好きではなかった。もっと存在さえもトリップの中へ投げ出すようなハードな自己とのコミュニケーションを好む方だと思っている。しかしこの「ワールズ・エンド・ガーデン」がたどり着いた恐るべき無意識と自己愛の空虚さへの共感を貴重低音として、日本のテクノが成長してきたとすれば、同じ日本人としてのある種の歴史の共有感とでもいうようなセンチメンタリズムにちかい愛着がわいてくるから不思議だ。

    例えていうなら闇の中から光を目指して必死の想いで上昇するビジョン。そして2000年期の世界の終わりを乗り越えた21世紀という新たな時代への到達。そこではもう世界の終わりにおびえることなく、自由な個人として己の意志のままに生きることを許される世界。

    そういえば90年代のテクノ・カルチャーとオウム、エヴァンゲリオンを総決算した傑作アニメ、交響詩編エウレカセヴンの第25話のタイトルも「ワールズ・エンド・ガーデン」が冠されていたのではなかったか。そしてエウレカセヴンのエンディングでも90年代的なるものの救済のヴィジョンが描かれていた。

    いとうせいこうはあとがきで宣言する。
    「これよりのち、この小説に新しい局面をもたらし続けるであろう全ての読者へ。
    その読みと指摘に刺激されれば何度でも書き直すという誓いとともに。
    私よ、私を救いたまえと祈るだけの宗教と、その教祖でもあり神であり信者でもある立った一人の私に。
    その私に救いなどあるものかと唾を吐く私に」
    いとうせいこうは今こそエンディングを書き直すべきだ。

    この文を書きながら、上記の3曲を繰り返し聞いている。日本のテクノが生んだ日本人のための紛れもない名曲である。是非これらの曲を聴きながらこの物語を読むことをお奨めする。




  • 装丁写真が無いのが残念!今でも心に蘇るあの世界観。あの時代って何だったんだろう?
    コーランが鳴り響く

  • ドラッグ、暴力……そういった人々の触れたがらない部分を作品化したって感じがする。ひきつけられる本ではあるのだけど、ちょっとグロい感じがする。現代に異界を作るとするならこういう感じなるのかなぁ……。若者達の世界を見てみたいのならこの本はいいのかもしれない。

  • 世界に引き込まれる

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