- Amazon.co.jp ・本 (396ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103784050
作品紹介・あらすじ
息子たちに乗り越えられた父はひとり魂の荒野を目指す-21世紀初頭に小説が行き着いた、政治と宗教の極北。
感想・レビュー・書評
-
「晴子情歌」から10年、禅僧となった外腹の子・彰之の寓居である崩れかけた草庵を、父である代議士・福澤栄が訪れた。
仏門に帰依するも永平寺での修行に行き詰まり生き直そうと送行(そうあん)、故郷でやり直そうとするものの再び永平寺に舞い戻った彰之。
策略からの秘書の自死、議員である息子・優の裏切りなど代議士として築き上げたものを政争の果てにすべて失った栄。
父と子それぞれの10年の物語。
長い年月を経て初めて対座する父と子が、自らの内面を曝け出す長い長い語りは禅問答のような緊張感と理解不能な難しさに難航。
彰之の語りでは、夏安居、堂行、法戦式などの禅宗独特の用語に戸惑いながらも、一つ一つ調べ読み進めるうち、次第に心は山深い禅寺に飛び、脳内に響き渡るぎゃ~ていぎゃ~ていのうねり。
方や栄の語りでは、原子力事業、産業振興、漁業補償、金庫番、派閥の覇権争いなどなど、政治の嫌らしい部分がこれでもかと突きつけられる。
旧態依然とした父のやり方を非難する息子・優の言葉を借りて、「口利きと談合と公共工事の水増しと補助金の不正受給で回っている郷土の姿」を嘆き、「この国では政治理念は初めから虚しくされ、形式だけの国会手続きと形式だけの政策論議すら虚しくされ、権力欲と札束に引っぱたかれて派閥を出入りする頭数だけの国会議員は、それでもバッジをつけて喜んでおる豚」と断じるあたり、高村先生の強い思いがビシビシと伝わってくる。
物語の時代から30余年、作品が出版されてからも15年が経過する今も、全く変わらない政治の姿に暗澹たる気持ちになりながら這々の体で読み進み、終盤に差し掛かかるとスピード感が一気に増し、グイグイと読ませてくれました。
おまけの合田雄一郎登場に狂喜乱舞し、2週間かかって読み切ったこの長大な作品は、栄と優、栄と彰之それぞれの父と子の「希求」と「反発」と「超越」の物語でした。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
今回の表紙はやはりレンブラントで「瞑想する哲学者」である。しかし、これはどう見ても老い疲れた老政治家でしかない。
この下巻の見所は、栄の金庫番英世の自殺の真相でもなければ、栄の王国が息子の優の裏切りによって瓦解してゆく様を関係者を一同に会して会話体で描いたことではない。ましてや、一瞬だけ出てきた警視庁時代の合田の声でもない。福田王国の老王栄と、息子の優、そして官僚役人になったもう一人の息子の貴弘とのパーティでの「三酔人経綸問答」とでも言うべき日本論である。もちろん、中江兆民の様に立場を明確にして、理路整然と日本のあらゆる問題について論議したわけでもない。しかし、新自由主義的な優と、ケインズ学派的な貴弘、そして豊かな教養を持ちながらも、エリート意識でしか政治をみる事のできない典型的な自民党政治家、彼らの父の栄。この三人の、それなりに日本の将来を「考えている」かのようで実は非常に自分勝手な論理がとても面白く、そこだけ抜き出してパンフにすればいいのに、とさえ思った。
いや、決して冗談ではないのだが、いやしくも革新系政治家を自認するような政治家ならば、一度この本を通読する事をオススメする。「敵を知り己を知れば百戦云々」という。敵と噛み合わない理想論を振り回すのは時間の無駄である。一秒つどに彼らの頭の中を脳スキャンで広げて見せたような本書を読めば、いわゆる保守の国会議員の発想がわかるようになるのではないか。
私には現代のアベノミクスが、バブルの隆盛を控えた80年代後半の中曽根不沈空母、民活導入、規制緩和、新幹線・原発などの大型公共事業への陳情処理に明け暮れる自民党政治に重なって見えて仕方ない。彼等の頭の中を解剖することは決して無駄な作業では無いはずだ。
しかし、上下読み終えるのになんと四ヶ月近くかかってしまった。非常に難解でな作品なのだ。取材力は圧倒的なので、再読、再々読にはもちろん耐え得るだろう。文庫になった時に、原発、再燃の部分をどう変えて行くのか、とっても楽しみな本でもある。あゝ、これでやっと合田が出てくる次作「太陽を曳く馬」に向かえる。
2013年3月30日読了 -
道化は誰だったのかなと、そんなことを思った。
優や息子たちとの関係、選挙の行方、榮の忠実な秘書についてなどが語られる。
とくに保田と竹岡について発言するシーンが好きだ。
最後の説破の場面に涙が溢れた。
抽象的になってしまうが、ゆっくりと染み入るような、それでいて切り裂かれるような寂しさがある。
私にとって、とても好きな系統の本だった。 -
ひと月かけて読んだ。
婚外子の息子と父の話。僧侶と政治家。40歳と70歳。
上巻は父が雪の中、さびれた寺にたどり着く。息子と過ごす初めての日々の中で、息子の半生を知る。
これがきついと言えばきつかった。仏教の概念がよくわからないから。
そして高村薫に出てくる男たちは何らかの宗教が身近にあるけども、結局宗教なんて救ってくれない、受け入れられるのは怠惰な自分だみたいなやつばかりで、無宗教よりたちが悪いのではと思う。
下巻はミステリー色が強くなる。なぜ秘書は死んだのか。とくにラストのあたり。今まで息子としていた思い出話がつながる様は圧巻。
一人一人のセリフや行動はそういう意味だったのねと驚かされる。
思ったこと。
・こうしてみると、僧侶と政治家なんて、聖と俗の境地と思っていたのだけど、異次元という意味では似ている印象を受けた。栄がもっと俗なこと(汚職とか)をしていれば、秘書は死ななかったかもしれない。
・栄も優も彰之もみんなそれなりに好感のもてる人物だなあと思う瞬間もあるのだけど、え、お子様なのと軽蔑したくなる瞬間もある。好きになれないけど、好き嫌いとかそういう次元ではないのでしょう。
・好きではないと言えば、初江と彰之はぐずぐずしすぎてて、本当にこいつら馬鹿なのと殴り倒したくなる。子供の人生はおろか、自分たちの人生にも責任をもてないのか。
・栄と優やその他で政治論をするシーンをはじめ、同じ政治家で息子の優を栄が冷ややかに見ている。自分の言葉で自分の信念を語る時代は終わったのだと感じる栄。しかしそう感じたのは今から30年前。今の政治家たちはいったいどういう姿なのだろう。
・そしてあのころ(と言っても私は生まれていないのだけど)、日本は常に成長すると信じられていたのだ。消費により経済は回り、それが動力となると。今は全然成長する兆しが見えないし、不安ばかり。
・青森の閉塞感は晴子情歌と相変わらず。それどころか原発の誘致とかしたり。新幹線の誘致も積極的だけど、結局開通したのはそれから30年も経ってから。地方都市、地方自治はどうすればいいのだろうね。
そしてラストの3ページほどが意味わからな過ぎて。
なんでその子が死んでしまうん。
栄の独白による孤立よりも、彰之とその息子が気になってしかたない。 -
(2004.10.31読了)(新聞連載)
日本経済新聞・朝刊2003.03.01-2004.10.31連載
(「BOOK」データベースより)amazon
息子たちに乗り越えられた父はひとり魂の荒野を目指す―21世紀初頭に小説が行き着いた、政治と宗教の極北。 -
最初の出だしから進まない。こんなに大変だとは思わなかった。結局政治の話や宗教の部分は飛ばし、内容だけを追ってしまった。しかし、何かすごく損をしたような気もする。もっと丁寧に読んだらもっと感動したように思うから。上下の厚さと前作の「晴子情歌」を読みまず思うこと、この長さは必要なのだろうか。飛ばしに飛ばして読んだくせに何を言うかだが、実際ぐじぐじとした文章に感じる。砂防会館の事務所の人間模様についても丁寧と言えばそうだが、もっと簡潔に微妙な雰囲気が書けるのではないか。そうでなければ話を誰か一人に絞ってその物語として独立させたほうがよかったのではと思う。と読み始めてすぐには思ったのだが、読み終えるとちょっと違う。この前段が合って最後の章の「死の周辺で」に繋がるのだろう。だがそれならせめて彰之の話とは分けてもよかったのではと思う。それはそれで一つの話として読んだほうが混乱もしないだろうに。構成の複雑さが読みづらさだと思う。「晴子情歌」のときは欲張りすぎ。政治に関する部分はほとんど読んでいないのでなんとも言えないが、「福澤」と言う地方の政治家一族がどんなにあがこうと時代は地方を切り捨て中央の下達で結局踊らされているだけなのだと言う感じがした。昭和の自民党史と誰かが書いていたが、三角大福から、竹下中曽根と言った実名が生々しい。榮にしたところで勝一郎が引退したときのような潔さも無く、周囲の空気を読み取れぬほど年をとってしまったのに世代交代の時期を見誤っていたのだからこの孤独に繋がるのだろう。彰之の禅寺の修行部分もほとんど読んでいないのだが、もっくんの映画「ファシーダンス」それを思い出し想像する。映画は明るくコミカルだったがこの彰之はひたすら真摯で重い。彰之の唱える「ぎゃーていぎゃーてい」は実家の宗教と同じなので耳に聞こえてくるようだ。でも最近はどんなときでも「般若心経」で済ませているように感じるが。そんな章之と初子や秋道と対決する章之が繋がらない。別人のように感じるのだ。「晴子情歌」で複雑な家族構成、「福澤」と言う一族の視線、そんなものから南洋や北洋そして出家へと道を求めて行く章之は繋がる。それに対しここで榮と対峙する章之は二人居るようなのだ。初子と言う女は登場こそ少ないがそれなりに人間像が想像できる。と言うか自分なりにこんな女というイメージを持っている。ねっとりとした女。たいした才能も美貌も教養も夢も無く、自分で自分の道を切り開く意志も努力もしないのに現状から引き上げてくれる誰かを待っていたところに章之と会う。東大生で将来も有望で地方の名家の出でしかもイケメン。すべて相手が何かしてくれるものとしがみ付いている女。生活を世話することでと言うより肉欲にしがみ付いている女。愛情なんか持っていない。どうにもならなくなったときふと昔の男の弱さを思い出す。こんな自分に手を出してしまった男の弱さ、捨てるときの曖昧さの中の弱さ。そして再会した男は相変わらずの弱さを持っていた。でも若いときにもてあましていた煩悩を捨てて生きようとしていた。もう肉欲と言うしがみ付くものが無くなった男に重い荷物を引き渡し新たな男にしがみ付こうとする女。そんな女と会うために服装まで女に合わせようとする彰之はどうしても繋がらない。女の聞く演歌に女の安っぽさを感じながら、そこに自分が性欲の捌け口として抱いたお金だけの女たちを重ねながら何故女の喜ぶような行動をしようとしたのか。自分の子供を生んだことも知らず、その子が悪魔が服を着て歩いているような息子に育っていたことに対する責任感、罪の意識としてもそんな風には繋がらないのだ。榮が何故初枝の事を聞きたがったか、そこには血のつながった父親など最初から自分には居ないような顔をした章之が「血」だけが繋がっている見たこともない息子の存在に対処できない様に榮自身が息子たち、特に彰之に対して持っていた感情を見るからではないか。と突然飛躍して考えてしまったりする。「晴子情歌」で筒井坂の口紅をさした晴子が座っていた貧農の暗い土間、雪の日の夜無口にただ仕事をし昨日と今日と明日の違いの無い土間、福澤に始めていった日の活気にあふれた台所、勝一郎が引退したあと人のいなくなった台所、それはふっと目に浮かんでくる。大体晴子を「生涯で唯一惚れた女」と言う榮、その榮に彰之の事を手紙で知らせていた晴子が良くわからない。なぜか。淳三に対し何も無いことにも疑問。淳三は榮や晴子にとってどんな存在だったのか。この「新リア王」の中では誰も淳三について語らない。第四章ぐらいしかしっかり読んでいないが、この後彰之と秋道の物語があるらしい。出来ればもう少し読みやすければと思うが私の考える初子像と彰之の本当の姿がわかるかもしれない。2006・6・12
-
上巻に引き続き、彰之の庵で榮との対話が続く。金庫番で、姪の喜代子の夫でもある保田英世が自殺し、没落した榮が、庵に応援した知事候補の重森とか関係者を呼んでいろいろ話し、最後は死んだのかな。初江の餓死は警察からの知らせとして触れられただけ。福澤彰之シリーズの続編となる「太陽を曳く馬」を読んだのは結構前だが、秋道は何をしでかしたんだっけ、とか結構忘れてしまっている。順番に読んだほうが良かったかなとかしみじみ思う。
-
父と子、政治と仏教。
-
1