太陽を曳く馬 (上)

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (403ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103784067

作品紹介・あらすじ

福澤彰之の息子・秋道は画家になり、赤い色面一つに行き着いて人を殺した。一方、一人の僧侶が謎の死を遂げ、合田雄一郎は21世紀の理由なき生死の淵に立つ。-人はなぜ描き、なぜ殺すのか。9.11の夜、合田雄一郎の彷徨が始まる。

感想・レビュー・書評

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  • 相変わらず不安定な精神状態の主人公にもたらされたのは、911に巻き込まれた元妻の死。
    加えて、過去に捜査を担当した犯人の死刑が執行され、そこへ持ち込まれたのは、その父親が関わっていた寺での雲水の事故死。
    いつ心が壊れてもおかしくなさそうな主人公なのだが、神経が張り詰め尖っていたマークスの山の頃に比べると、事件関係者に愛想笑いができるまでになっている。
    とはいえ、それは経験による成長といったものとは程遠く、疲弊や諦観からくる事勿れにみえる。
    部下から「そら、出た。また係長のつくり笑い」と、これまでなら上の人間に対して思う側だった主人公が、思われる側になっている。
    事件の行く末も気になるが、主人公の今後も気がかりなまま下巻に続く。

  • 前作「レディ・ジョーカー」以来の高村作品。もちろん、それ以来の大好きな合田雄一郎シリーズ。ブクログには登録をしていないので、読んだのは、もう10年以上前。シリーズの世界観を忘れてしまっても、しようがない年月だけど、それでも、この作品、何かが違う。修行中の雲水が寺を飛び出して、トラックに轢かれて亡くなってしまうことから、物語は始まる。もともと合田雄一郎と言う独特な個性のあるシリーズだけど、今作は哲学的な要素が多く、ちょっと入り込めない感じ。上巻の最後に被害者が元オウムの信者と分かったり、下巻はさらに宗教的な要素が強くなっていきそう…

  •  前作『晴子情歌』『新リア王』に続く福澤家サーガとでも呼ぶべき昭和史の完結編は思いも寄らぬ形で登場した。前作のラストシーンは、福澤榮のもとに合田と名乗る刑事から電話がかかるところで終ってゆく。三部作の終章は、高村小説のシリーズ主人公である合田が、この物語を引き受けてゆく。

     そのことはとても妙だ。合田シリーズそのものは、ミステリという純然たる娯楽小説である。一方で福沢家サーガは誰がどう読んでも娯楽小説とは言い難く、高村という作家が純文学のリーグに敢えてチャレンジしてとても意図的に内容を娯楽小説から遠ざけようとして書き進めてきた別の世界であるように思われる。

     リーグの違うジャンルを跨ぐというあまり犯されることのない暗黙のルールという壁を、高村はこともなく崩し去る。合田はこんな人間であったのか、というところにまで迷わせられるほどに、一介の刑事が純文学的思索者になり切ってしまう。

     そもそも純文学に片足を突っ込みながら娯楽小説を書いてきた高村は、『マークスの山』で純然たるミステリを書いたかと思うと、『照柿』ではドストエフスキーを意図したかのような純文学殺人小説に近いそれを書いてしまう。合田は、文藝ジャンルの彼岸を行き来する存在であるらしい。まさに高村の影武者のような。

     本書では冒頭に三通りに敷かれたレールが紹介される。福澤彰之が開いた<永劫寺サンガ>という禅の会で行われる夜座から発作により脱け出した癲癇もちの青年がトラックに撥ねられ死亡した事件が一つ。福澤彰之の絵描きの息子が発作を起こし同居の女性と隣家の青年を玄翁で殴り殺した事件が一つ。さらに世界貿易センタービルに勤めていた合田の離縁した妻がテロに巻き込まれて死んだという個人的事件が一つ。

     メイン・ストーリーは永劫寺サンガの事故を追うという、非常に地味な展開で、その死んだ青年がオウムの渋谷に出入りしていた形跡があるために、発作を起こして死んだ理由、あるいは鍵の掛けられていた門が誰により開放されていたのか、等の推理小説にもならないくらいに小さな事件を合田は追いかける。現に警察本部の上長からは他に多くの事件があるのに何をこだわっているのかと最後の最後まで訝しがられる。

     でも合田の行動はひたすら福沢家サーガを追いかけ、永劫寺サンガに深入りしてゆき、事件は恐ろしく脳内分泌的な抽象で語られる。宗教論議に加え、<私>と<私>を否定する何ものか、という高村お得意の人間の多重性、不安定性といったところに非常に文理両サイドからの論理で迫る。この作品のどこにも娯楽小説の影はもはやない。

     僧侶たちの個性的な宗教観に加え、合田のほうが抱えている、秋道という殺人者の追憶、さらに世界貿易センタービルから降り落ちていった人間たちのニュース映像がもたらす、失墜のインパクト。そうした幻想と知覚と論理とが時間を越え、地上を飛翔し、脳裏を刺激し合う電機反応などとともに、語られ得ないものの表現の極北へとペンが向う。

     夢魔との長い日々を過ごした感覚で本を閉じた。昭和を語るのみならず、最後には存在を語ろうとし、神仏を語ろうとし、人間の意識を、細胞が渡す遺伝子の内容物を語ろうとし、それのどれもが虚無との対決のように思える一冊であった。

     合田は無事、日頃の実在的な警察という職務のこちら岸へと帰還することができるのだろうか?

  • 感想は下巻に

  • 高村さんの本は「レディ・ジョーカー」以来だから20年ぶりか。3部作の最終部を読んだのが間違いなのか、出張続きで疲れている頭では理解しきれないせいか、よくわからなかった。宗教と美術と犯罪をどう整理するかというテーマなのだと思うが。

  • まず、装丁が素晴らしい。
    苦戦しつつ、とにかく下巻へ。
    高村薫氏にはとにかく唸らせられる。

  • いよいよ高村薫の高村薫化がいちじるしく進行しているとの感を強めた。もはやストーリーだのプロットだのはどこかに飛んでいってしまっている。延々と続く仏教談義。登場人物みんながみんな独特の高村節でしゃべてくれるし。ドストエフスキー的と言えばそうなのだが、小説よりも舞台作品、戯曲を読んでいると思うべきか。

    それでも描写の手堅さ、リアルに物語世界を描き出すのは相変わらず。内容の割には引き込まれた。

    最後が筒木坂の海岸の風景で終わるので『晴子情歌』を引っ張り出してみたら、すっかり忘れていたが、その冒頭シーンにも雲水たちが登場していた。

    次はこの人はどんなのを書くのやら。

  • 高村薫、渾身の大河ロマン、福澤彰之三部作。

    第一部、「晴子情歌」。
    第二部、「新・リア王」。
    第三部、「太陽を曳く馬」。

    すべて単行本で上下巻。それぞれに、違う視点、縦横無尽な時代設定、
    そして旧仮名使いの文章や、政治、美術、そして宗教。

    あまりに膨大な情報量、精密で、奥深い洞察、そして難しい日本語たち。
    読むのに難渋するのは必至。だけどこの読後感。

    なんというか、ごく普通の日常の場面で、彼女の言葉が、文中の場面が、いつもどこかで立ち上がる。近くに、福澤彰之が、合田雄一郎が本当に息をして立っている、そういうような感覚と、大きな喪失感、そして、この小説の世界にいられた自分への、大きな充足感。

    高村作品のすごいところは、いちいち細かいことはもう省きますが、
    とにかく、高い高い山を、途中何度も投げ出しそうになりながらも登り終えた、登ることができたこの達成感と、そのラストの秀逸さによっての、深い感動が約束されているところですか。

    もう、簡単に感想文とか書けない域なわけですよ。


    (ネタばれもありますので、これから読む予定の方はスルーしてください↓)


    彰之の人生。そのあまりの壮絶さ。あまりに死に近く、あまりに過酷なその人生の物語。
    「晴子情歌」の、彰之の母晴子の、今は忘れ去られてしまった美しい日本語、旧仮名遣いを使った美しい文章の手紙に浮かび上がる、青森の茫々たる風景、寒村に生きる人々の息遣い、鰺ヶ沢の厳しい気候の中広がる海。
    「新・リア王」の、そんな晴子が一度だけ起こした過ちの相手、青森の旧家、福澤家の長男で大物政治家、榮の、膨大な政治人生との邂逅、そして答える、禅僧となった息子、彰之の半生。

    そして「太陽を曳く馬」。
    主人公彰之の息子、秋道(しゅうどう)。
    生まれつき、人とコミュニケーションが取れない、目が合わない、母親にさえ懐かない、秋道の唯一の自己表現法は、絵画。

    高村作品に多く描かれている、「絵を描く人」がまたここに。
    秋道は、その生まれゆえか、現代美術の一つの到達点と言われる、色の爆発→光、を表現した、絵具の「バーミリオン」一色に、壁も、床も何かも塗られたアパートの一室で、同居していた女性を玄翁で撲殺する。

    その父親彰之は、六本木の山の上に出来た、大きなコンクリートの禅寺の副住職にあって、息子の事件以来、青梅の山中にある草庵に暮らしていた・・・。

    そこで出てくる、六本木の禅寺で修行していた、「元・オウム信者」の雲水が事故死する。その裏にある、寺内での奥深い確執。

    「オウム真理教」は、本当に「宗教」だったのか、「曹洞宗」の僧侶としての座禅と、オウムの座禅のあまりの違い、解釈を巡る禅問答。

    かくてその末に、本当にかの雲水は事故死だったのか、それとも自死だったのか、そして彰之の行方もままならぬまま、秋道の刑死と、それまでに彰之が送った旧仮名遣いの手紙によって、物語は閉じる。
    その行方は、すべて読者の「力量」にかかっているわけです。
    これが本当の小説であり、何もかも「答え」を差し出す小説って、本物では無いと思うんです。

    禅問答のくだりは、ほかの方が書いているように本当に難解で、これは哲学書(宗教書)なんだと思ってしまうくらい、難しかった。

    中沢新一の「森のバロック」を思い出したくらい。

    でも、例えば死んでしまった雲水が、大人になってからてんかん患者になった人で、その病理とか、医学的な見地からの、美術の人間の感じ方とか、「太陽を曳く馬」だけに関してもいろんな深い探求、知識の披露があり、そこで終われば「哲学書」「宗教書」なのだけど、そんな膨大な知識を飲み込んで、その膨大な知識が単なる一部に過ぎず、大きな物語に収束していくのがわかっていたので頑張れる、というか、頂上を目指すことができるわけなのです。

    高村文学の醍醐味、ファンであって本当に良かったと思える、そんな頂上が必ず約束されているんですよね。

    感想などすべて書ききれないほどの、頭が爆発してしまいそうな、本当に幸せな幸せな、読書の時間でありました。

  • こりゃあとてつもなく重たい本ですな。
    というか、この本は身内が買って読んだと思わしき本を
    強奪して読んだのですが(笑)

    これは実に深い、重い、
    そして二人のある人間に関しては
    ちょっと人事ではないのです。
    まあ、私の持病に近いのが1つありましたので。
    あ…と思いました。

    そして宗教というのは
    本当に異質だなぁ。
    最後に出てくる二人の僧侶のどこか
    遠まわしな悪意にぎょっとしたり。

  • 電車、休憩時間、朝3:30から、とにかく止まらなくて3日もしない内に読了。前半は法定、後半は別の事件に移って巨大宗教団体の内部って感じ。共通するキーパーソンなのが福澤彰之。まさか晴子情歌からこんな流れで合田シリーズと合流するとは。ちなみに読む順番間違えてホントは晴子情歌の次新リア王なんだけど、すっ飛ばして太陽を〜読んでる。間になんか色々あったんだろうな、とは思う。しくった。彰之の息子、秋道への手紙が何篇かに渡りあるんだけど、これがまたダルい。芸術とは何か的な内容なんだけど、わからん。で、長くて何回も出てくる。これは講義云々より読者をイライラさせて、法定で動機が全く掴めない秋道に対するイライラをわざと誘発させているのでは?と思った。それを含んでも面白かった。高村薫はだいたい半月〜1ヶ月くらいかかるのに、(しかも気分が乗らないと半年くらいの時もある)早く続き読みたい欲が沸いて読書に勤しんだ。事件背景が統合失調症、オウム真理教とか、センセーショナルなテーマを取り上げてるからかも。闇深い感じ。

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著者プロフィール

●高村薫……1953年、大阪に生まれ。国際基督教大学を卒業。商社勤務をへて、1990年『黄金を抱いて翔べ』で第3回日本推理サスペンス大賞を受賞。93年『リヴィエラを撃て』(新潮文庫)で日本推理作家協会賞、『マークスの山』(講談社文庫)で直木賞を受賞。著書に『レディ・ジョーカー』『神の火』『照柿』(以上、新潮文庫)などがある。

「2014年 『日本人の度量 3・11で「生まれ直す」ための覚悟』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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