太陽を曳く馬〈下〉

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著者 : 高村薫
  • 新潮社 (2009年7月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103784074

太陽を曳く馬〈下〉の感想・レビュー・書評

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  • この時代に、これほど長大な思弁小説をあえて書く高村薫は、日本の小説家の中で最も勇気あるひとりかもしれない。それも、自身が生み出した警察小説のヒーロー、合田雄一郎を、謎を解き明かし世界に秩序をとりもどす主体ではなく、世界の不確実さに立ちすくみ、生き惑う者として投げ出すことまでしてみせるのだから。
    『晴子情歌』『新リア王』に続く本作では、一見、小説としてより馴染み深い形式をとって、修行僧の死をめぐるミステリーを提出してみせる。しかし、オウム真理教事件から9.11直後までの時間を背景に、このようにある世界を見、行為する私とは何か、その意思の自由と責任とは――という問題をめぐる果てしのない問答の末に読者が合田とともに見出すものは、そうした問いに対して延々と言葉をもてあそぶ、いやそんな手間さえかけずに処理してしまうニヒリズムに、既成宗教ですら深く浸されている時代である。その中にあって、今は僧からひとりの人間に戻ろうとしている福澤彰之はこのように言う。
    「解くことができない限りにおいて、どんなふうにでも開かれうる可能性を孕んで、なにがしかのかたちが生まれてゆく動力そのものであるかのような問いです。解くものではなく、問いであることが唯一、私が生きていることの証であるような問いです。・・・問いを立てる個体としての私は・・・世界を把握し続ける動因として、世界に向けて未決定に開かれた個体として有る、と」。
    自我の大海の中で問うことだけを頼りに泳ぎ続けるその姿はなんと孤独なことだろうか。それは、主流の「小説」概念に対する反小説のようなこの作品を提出してみせた作家の姿にも重なるのである。

  •  前作『晴子情歌』『新リア王』に続く福澤家サーガとでも呼ぶべき昭和史の完結編は思いも寄らぬ形で登場した。前作のラストシーンは、福澤榮のもとに合田と名乗る刑事から電話がかかるところで終ってゆく。三部作の終章は、高村小説のシリーズ主人公である合田が、この物語を引き受けてゆく。

     そのことはとても妙だ。合田シリーズそのものは、ミステリという純然たる娯楽小説である。一方で福沢家サーガは誰がどう読んでも娯楽小説とは言い難く、高村という作家が純文学のリーグに敢えてチャレンジしてとても意図的に内容を娯楽小説から遠ざけようとして書き進めてきた別の世界であるように思われる。

     リーグの違うジャンルを跨ぐというあまり犯されることのない暗黙のルールという壁を、高村はこともなく崩し去る。合田はこんな人間であったのか、というところにまで迷わせられるほどに、一介の刑事が純文学的思索者になり切ってしまう。

     そもそも純文学に片足を突っ込みながら娯楽小説を書いてきた高村は、『マークスの山』で純然たるミステリを書いたかと思うと、『照柿』ではドストエフスキーを意図したかのような純文学殺人小説に近いそれを書いてしまう。合田は、文藝ジャンルの彼岸を行き来する存在であるらしい。まさに高村の影武者のような。

     本書では冒頭に三通りに敷かれたレールが紹介される。福澤彰之が開いた<永劫寺サンガ>という禅の会で行われる夜座から発作により脱け出した癲癇もちの青年がトラックに撥ねられ死亡した事件が一つ。福澤彰之の絵描きの息子が発作を起こし同居の女性と隣家の青年を玄翁で殴り殺した事件が一つ。さらに世界貿易センタービルに勤めていた合田の離縁した妻がテロに巻き込まれて死んだという個人的事件が一つ。

     メイン・ストーリーは永劫寺サンガの事故を追うという、非常に地味な展開で、その死んだ青年がオウムの渋谷に出入りしていた形跡があるために、発作を起こして死んだ理由、あるいは鍵の掛けられていた門が誰により開放されていたのか、等の推理小説にもならないくらいに小さな事件を合田は追いかける。現に警察本部の上長からは他に多くの事件があるのに何をこだわっているのかと最後の最後まで訝しがられる。

     でも合田の行動はひたすら福沢家サーガを追いかけ、永劫寺サンガに深入りしてゆき、事件は恐ろしく脳内分泌的な抽象で語られる。宗教論議に加え、<私>と<私>を否定する何ものか、という高村お得意の人間の多重性、不安定性といったところに非常に文理両サイドからの論理で迫る。この作品のどこにも娯楽小説の影はもはやない。

     僧侶たちの個性的な宗教観に加え、合田のほうが抱えている、秋道という殺人者の追憶、さらに世界貿易センタービルから降り落ちていった人間たちのニュース映像がもたらす、失墜のインパクト。そうした幻想と知覚と論理とが時間を越え、地上を飛翔し、脳裏を刺激し合う電機反応などとともに、語られ得ないものの表現の極北へとペンが向う。

     夢魔との長い日々を過ごした感覚で本を閉じた。昭和を語るのみならず、最後には存在を語ろうとし、神仏を語ろうとし、人間の意識を、細胞が渡す遺伝子の内容物を語ろうとし、それのどれもが虚無との対決のように思える一冊であった。

     合田は無事、日頃の実在的な警察という職務のこちら岸へと帰還することができるのだろうか?

  • 動きのある小説ではない。どこまで行くんだというくらいの独白、思考の文章化。これはどういうジャンルの小説なのだろうか。哀しいことにほとんど頭に残らず、理解できずにそれでもがんばって読了した。がんばって読んだというマラソン的な観念を残し、振り返れば上下巻で読むのに一カ月かかってしまった。高村薫は嫌いではない、だが自分には合わない気がする。

  • こう言ってはなんだが、これ、小説にする必要があったのかしら?
    ストーリー(事件)は付け足し程度で、内容はほぼ宗教論、プラスちょっと美術論だ。
    それに興味がある人は新書なりで入門書を読んだほうがいいし、この手のミステリを期待している人は『薔薇の名前』『鉄鼠の檻』など、宗教とミステリが見事に融和している小説を読んだほうがいいと思う。

    などと言いつつ、こういう類いの小説は嫌いではないので『土の記』も読んじゃおう。

  • 何とか読み終えた…その一言に尽きる。上巻だけかと思ったら、下巻も宗教的な話が続き、そもそも宗教に興味のない人、オウムの騒動を知らない人が読んだら、全く意味が分からないものだと思う。結局、物語の発端となった事件の解決もないまま、ただ華やかな時代を築いた宗教法人の解体、その中に生きる人の闇のみが印象に残った。せっかくの合田雄一郎シリーズ、がっかり…

  • 2016/9/8読了

    何とか読み終えました、が。

    死刑の描写と思想が、イメージとあわさって何だか物凄く好きでしたよ。
    思索的な内容なので、今までと異なり、距離の近さを感じさせる雄一郎、とか、おまえ、なんでしょうか。

    これは、知識と教養がないと理解が出来ないのかなぁとは思います。

    またトライしたい。

  • 途中リタイア

  • 恐ろしい。物語とか小説とか文化とか言う以前に何故この文章を存在させなければならなかったのかという念が読書中つねに頭の隅にいた。言ってしまえば恐怖感である。オウムと仏教論議を偏執的に冗長に枚数を割く「僧侶たち」の章や、最終の父親の手紙の粘着もその長さやくどさ自体がプロットであるということはわかるが、読了を読者に強いているのは、読者のコミットメントバイアスを利用したかのような作者の一種サディズムにしか受け止められないほどだ。やはりこの先生、変態だった。

  • 合田雄一郎は好きなキャラクターですが
    流石に仏教関係には関心がなかった為宗教用語とか仏教用語に思わずこれは修行なのかと思い最後にはどうなるのかと思ったらア、ハ、ハ、ハ、!で終わりとか訳わからなくて☆1です

  • ★☆☆☆☆

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太陽を曳く馬〈下〉の作品紹介

死刑囚と死者の沈黙が生者たちを駆り立てる。僧侶たちに仏の声は聞こえたか。彰之に生命の声は聞こえたか。そして、合田雄一郎は立ちすくむ。-人はなぜ問い、なぜ信じるのか。福澤一族百年の物語、終幕へ。

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