- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103784074
感想・レビュー・書評
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前作『晴子情歌』『新リア王』に続く福澤家サーガとでも呼ぶべき昭和史の完結編は思いも寄らぬ形で登場した。前作のラストシーンは、福澤榮のもとに合田と名乗る刑事から電話がかかるところで終ってゆく。三部作の終章は、高村小説のシリーズ主人公である合田が、この物語を引き受けてゆく。
そのことはとても妙だ。合田シリーズそのものは、ミステリという純然たる娯楽小説である。一方で福沢家サーガは誰がどう読んでも娯楽小説とは言い難く、高村という作家が純文学のリーグに敢えてチャレンジしてとても意図的に内容を娯楽小説から遠ざけようとして書き進めてきた別の世界であるように思われる。
リーグの違うジャンルを跨ぐというあまり犯されることのない暗黙のルールという壁を、高村はこともなく崩し去る。合田はこんな人間であったのか、というところにまで迷わせられるほどに、一介の刑事が純文学的思索者になり切ってしまう。
そもそも純文学に片足を突っ込みながら娯楽小説を書いてきた高村は、『マークスの山』で純然たるミステリを書いたかと思うと、『照柿』ではドストエフスキーを意図したかのような純文学殺人小説に近いそれを書いてしまう。合田は、文藝ジャンルの彼岸を行き来する存在であるらしい。まさに高村の影武者のような。
本書では冒頭に三通りに敷かれたレールが紹介される。福澤彰之が開いた<永劫寺サンガ>という禅の会で行われる夜座から発作により脱け出した癲癇もちの青年がトラックに撥ねられ死亡した事件が一つ。福澤彰之の絵描きの息子が発作を起こし同居の女性と隣家の青年を玄翁で殴り殺した事件が一つ。さらに世界貿易センタービルに勤めていた合田の離縁した妻がテロに巻き込まれて死んだという個人的事件が一つ。
メイン・ストーリーは永劫寺サンガの事故を追うという、非常に地味な展開で、その死んだ青年がオウムの渋谷に出入りしていた形跡があるために、発作を起こして死んだ理由、あるいは鍵の掛けられていた門が誰により開放されていたのか、等の推理小説にもならないくらいに小さな事件を合田は追いかける。現に警察本部の上長からは他に多くの事件があるのに何をこだわっているのかと最後の最後まで訝しがられる。
でも合田の行動はひたすら福沢家サーガを追いかけ、永劫寺サンガに深入りしてゆき、事件は恐ろしく脳内分泌的な抽象で語られる。宗教論議に加え、<私>と<私>を否定する何ものか、という高村お得意の人間の多重性、不安定性といったところに非常に文理両サイドからの論理で迫る。この作品のどこにも娯楽小説の影はもはやない。
僧侶たちの個性的な宗教観に加え、合田のほうが抱えている、秋道という殺人者の追憶、さらに世界貿易センタービルから降り落ちていった人間たちのニュース映像がもたらす、失墜のインパクト。そうした幻想と知覚と論理とが時間を越え、地上を飛翔し、脳裏を刺激し合う電機反応などとともに、語られ得ないものの表現の極北へとペンが向う。
夢魔との長い日々を過ごした感覚で本を閉じた。昭和を語るのみならず、最後には存在を語ろうとし、神仏を語ろうとし、人間の意識を、細胞が渡す遺伝子の内容物を語ろうとし、それのどれもが虚無との対決のように思える一冊であった。
合田は無事、日頃の実在的な警察という職務のこちら岸へと帰還することができるのだろうか?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
上巻は流し読み。下巻はすごい。簡単にいうとオウム真理教の話です。ヨガや後期密教における気味の悪い身体行法が何を目指していたのか。それらを妙にキャラ立ちした僧侶たちがディスカッションする。
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<span style="color:#cc9966;">死刑囚と死者の沈黙が生者たちを駆り立てる。僧侶たちに仏の声は聞こえたか。彰之に生命の声は聞こえたか。そして、合田雄一郎は立ちすくむ。―人はなぜ問い、なぜ信じるのか。福澤一族百年の物語、終幕へ。 </span>
<blockquote><div class="mm-small" style="margin-bottom:0px;"><div class="mm-image" style="float:left;"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4103784067/konnoe-22/ref=nosim" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41QqAJr%2B5hL._SL75_.jpg" alt="太陽を曳く馬 (上)" title="太陽を曳く馬 (上)" width="52" height="75" border="0" /></a></div><div class="mm-content" style="float:left;margin-left:10px;line-height:120%"><div class="mm-title" style="line-height:120%"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4103784067/konnoe-22/ref=nosim" target="_blank">太陽を曳く馬 (上)</a></div><div class="mm-detail" style="margin-top:10px;">高村 薫 / 新潮社 ( 2009-07 ) /<img src="http://images-jp.amazon.com/images/G/09/x-locale/common/customer-reviews/stars-4-0.gif" border="0" alt="アマゾンおすすめ度" style="vertical-align:middle;" /><div style="margin:7px 0px"><a href="http://mediamarker.net/u/konnoe/?asin=4103784067" target="_blank">konnoeのバインダーで詳細を見る</a></div><div style="text-align:right;font-size:7pt;font-family:verdana"><a href="http://mediamarker.net/" target="_blank">MediaMarker</a></div></div></div><div style="clear:left"></div></div></blockquote> -
高村薫の三部作は、延々と仏教とオウム真理教との違いを明らかにし、最後は福澤彰之からの秋道への手紙で終わります。
三部作の最初の2巻は読んでいませんが、『新リア王』『太陽を曳く馬』を通じて、津軽の冬の海を思い返しました。筒木坂の寺を訪ねてみたいと思います。 -
恐ろしい。物語とか小説とか文化とか言う以前に何故この文章を存在させなければならなかったのかという念が読書中つねに頭の隅にいた。言ってしまえば恐怖感である。オウムと仏教論議を偏執的に冗長に枚数を割く「僧侶たち」の章や、最終の父親の手紙の粘着もその長さやくどさ自体がプロットであるということはわかるが、読了を読者に強いているのは、読者のコミットメントバイアスを利用したかのような作者の一種サディズムにしか受け止められないほどだ。やはりこの先生、変態だった。
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文章量が緻密すぎて読み応えがあった。
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高村薫の長編をじっくり一週間かけて読んだ。オウム真理教のタブーにも思いっきり切り込み、仏教と異教徒として見た一般的とも言える主人公の目と、実際にその中に居て、存在であったり、自己を見つめた者に焦点を当てる。オウムからお寺に来たてんかんを持つ男が車にはねられて死んでしまった事件。その背後にあったのは、異物への畏怖なのか、自殺であったのか。曖昧で解決できないでいるもどかしさと、少しずつ明らかになる関係者達の証言から、真実に近づいてくサスペンスの中に、宗教への見方や偏見も含めた部分を淡々とえぐっていくのは高村薫らしさ全開だ。自分的にはレディージョーカーが最高傑作だけど、読後の重たさでは本作も素晴らしい。
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高村薫『太陽を曳く馬(上・下)』(新潮社、2009年)各税別1800円
『マークスの山』『レディ・ジョーカー』で知られる高村薫の最新刊。本作は『晴子情歌』(2002年)、『新リア王』(2005年)と綴られた壮大な三部作の完結編にあたる。
【構成】
第1章 TOKYO POP
第2章 公判
第3章 桜坂へ(以上、上巻)
第4章 死者
第5章 僧侶たち
第6章 <対象a>、もしくは自由へ(以上、下巻)
『晴子情歌』を読んだのももう7年前になり、『新リア王』は未読だったため、本作がシリーズであるということは読み始めて暫くするまで気づかなかった。しかし、本作は単独の作品としても成立しているので、前2作に通じていなくても十分に読み通すことができる。
本作の主人公は、『マークスの山』『照柿』の刑事・合田雄一郎であり、『晴子情歌』『新リア王』の禅僧・福澤彰之である。
刑事が殺人事件の真相究明を行うという形式だけ見れば、ごくありふれた刑事モノと言えるかも知れない。しかし、本作品は娯楽要素と呼べるものはほとんど無い、非常に硬派な文学作品である。
下巻の第5章などは、『正法眼蔵』の解釈に始まり、オウム真理教の教義とその社会的な求心力に対する伝統仏教からの反発を宗教に対する認識論や、身体的経験と言語世界の関係などを交えながら僧侶達が代わる代わる語り続け、「一切皆空」を根幹に持つ仏教の本質についての議論が繰り広げられる。そして、最終的には「何ものかを意志する<私>とは何か」「その<私>の存在を問うべき理由はどこにあるのか」という問いに収斂していく。
答えのない問いに対して、問い続けることが無限を目指す仏道であろうか。
小説という形式を使って、これほどまでに人間の精神の懊悩についての「曰く言い難いもの」を言葉にしようと努力する作品を私は知らない。これほどの作品を書ける小説家が、現代日本に存在しているということに驚かざるを得ない。
本作は、安易に消費されるようなベストセラーには決してならない。
読者を選ぶ作品である。
前作の『新リア王』は是非読んでみたいし、時間があれば『晴子情歌』も再読して、この大作の後味を確かめたい。 -
「晴子情歌」「新リア王」の流れの 3 部作目。
芸術、宗教、殺人、オウム真理教、
禅、インド、9.11、吉田戦車。。。
深い深いところへ連れて行かれる。
かなり体力を奪われる小説。
文学の底力を見た。傑作。
2010 年読売文学賞受賞作品。