- Amazon.co.jp ・本 (152ページ)
- / ISBN・EAN: 9784104262021
作品紹介・あらすじ
主人公=キャラクターとしての批評家・東浩紀。書き手=実在の批評家・東浩紀+実在のライトノベル作家・桜坂洋。ふたりに与えられた武器は「キャラクター」という古くて新しい概念。「私」とセックスと死を描く日本文学、その脱構築として。「自然主義的リアリズム」、その文学環境崩壊の中で。主人公・東浩紀は、分裂する。暴走する。その果てに…。
感想・レビュー・書評
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伝えたい趣旨が分からなかった
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本作はキャラクター小説とか批評の小説化とかいうよりも、ポリフォニーの実験のようだった。複数性。たとえば朝日新聞社を焼く、と書かれているのを読んで、わたしは三島の金閣寺を即座に連想したんだけど、そのすぐ後に金閣寺について言及するというように、ひとりでコミュニケーションに対する予測をひたすら行って自問自答して、その過程で色んなものが変容していくような。ドストエフスキーのパロディと言えば聞こえは良いけど要はコミュ障なおたくです。頭の回転の早さとコミュニケーションへの本質的恐れが妙なドライブ感ある閉塞感とユーモアを生んでいて、こういうことが出来るのが小説だとわたしは思うし、エンタメ的にすごくたのしかった。やけっぱちの突き抜け感は現代にあってもあり得るひとつの突破口だなあ。硬直した「純文学」なんてぶっ壊してくれればいいんです。
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これは失敗作だろう。共著という試みが見事に破綻している。そのことによって、自己言及しているような目的に達しているようにも思えない。
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ライトノベルとかキャラクター小説に関連する本を、最近読み続けているので、手にとってみた本。
前半はやっぱりちょっと難しかったけど、115ページぐらいからすごく感銘を受けた。
ちなみに、引用させて頂いたところが心に響いた。
ずきゅん、と。 -
いわゆる小説とは、「構造」「内容」「文体」の三つで成り立っている。
この定義こそが小説の限界を指している。
そして、限界を乗り越えるためにはどのような小説を書けば良いのだろうか。 -
小説の体裁をとり,
登場人物としての東浩紀が
文学について何やら難しいことを考えているみたいだが,
ほとんど理解できなかった。
特に,何の説明もなく人名がでてくる点が不満。
もし巻末にでも説明があれば,助かるのだが。 -
さぁーーーっぱりわからん
見事に混乱させられてしまった -
12月14日読了。東浩紀と桜坂洋によるキャラクター小説、なので当然一筋縄ではいかない・・・「小説はどこまで自覚的になれるのか?」という実験と解釈すべきか?私小説を否定しながらも私小説的であり、セックスと暴力による文学を否定しながらセックスと暴力に依存し、文壇をけなしながらも文壇での栄光に憧れ・・・。「批評」という行為そのものが創造的なものであるために、批評しているうちに対象を自らに取り込んでしまい無数の入れ子構造ができあがってしまうものなのだなあ。舞城王太郎や筒井康隆の作品の影響が濃厚だが、そこには作中の登場人物自身の口を借りて注釈は入れられている。批評をかわす批評ってめんどうくさいなあ~面白いけど。
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文学批評によって編まれた小説。興味ある人には面白い。批評の正当性は知らん。