- Amazon.co.jp ・本 (372ページ)
- / ISBN・EAN: 9784104262038
感想・レビュー・書評
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NOVAの新刊に「火星のプリンス」が載るというのを見て、急に東浩紀が目の前にちらつき出したので。
複数の並行世界が登場するが、いずれにおいてもネットは不確かな情報によって信頼性が等しく崩れ、情報社会が崩壊している。確かにネットにばらまかれた膨大な情報を人間は把握もできず制御もできない。未来像として説得力のあるものだ。
ネットワークで繋がれた計算機械が、多世界の存在を計算するというのはどうだろうか。それは別の宇宙についてのラプラスの魔(魔シンか…失笑)を許すことになる。いかに量子計算機が強力でもそれは不可能に思える。
計算される世界や意志は実存するのか?イーガンを読んだ時から思う疑問だが、答えは分からない。近い将来、現実がSFを追い越すだろうし、期待している。
登場人物たちは、あったかもしれない現実ifにみな囚われている。35歳を境にifがwasを凌駕するというのは恐ろしい。その憂鬱からは絶対に逃れられないと主人公は語るが、なんとか逃げ出さないと。ともかくifにたよることは最後には否定される。ifではなくwasのみが自分の過去なのだ。
少し説明的なことが気になった。要は並行世界とタイムトラベルを組み合わせているわけだから、説明なしでもう少しいけたのではないか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
偶々、性行為をし身篭った子が今の子供で、その行為が1日、いや、一瞬でもズレたならば、子供の性格や遺伝形質は完全に今と同一にはならないだろう。我々は偶然を生きている。作家東浩紀が、似たような事を発言する動画を見た事がある。この小説の源流に、その思想を垣間見る。
検索性同一性障害。時代を超えてリロードされる人格。SF仕立ての設定の中で、物語は進む。我々は言葉を検索し、検索結果を自らにインプットする。クォンタムとは、量子の意味。並行世界を生きる量子家族。並行世界を夢想する事は多く、その原理は読解できないが、読みながら巻き込まれる頭の混乱は、SFというよりももはや一種のアートだ。SFとして読むか、芸術として読むかは読み手次第だろうか。 -
難解だが惹き込まれて読んだ。年代のずれた並行世界が複雑に絡み合う設定、検索性同一障害・・・SFなのに本当に近々現実になるような奇妙なリアリティがある。
P252「ひとの人生は、過去になしとげたこと、現在なしとげていること、未来でなしとげるかもしれないことだけでなく、過去には決してなしとげたことがなかったが、しかしなしとげられる〈かもしれなかった〉ことにも支えられている。」というのが着想の原点なのかもしれない。
著者の”一般意志2.0”も早く読まねばー
[more]<blockquote>P16 いまやもっとも重要な問題は、富の最半分ではなく尊厳の再配分なのだ。希望の再配分といってもいい。そこでもっとも問題を縁取るもっとも過酷な条件は、世界の富の総量は「クリエイティブ・クラス」の「イノベーション」でいくらでも増やすことができるかもしれないが、世界の尊厳の総量は、決して変わりはしないという単純な事実だ。ある個人に尊厳=希望を与えれば、別の個人が必ず尊厳=希望を奪われ地下室に落ちる。
P175 量子計算のアーキテクチャが世界を覆い、すべてのライフログが量子化されネットワークでつながれば、地下室人が地下室人のまま、地下室人にはならなかった時の生を生きることができる、あらゆる可能な人生の豊かさを仮想的に獲得することができる
P181 暴力の意味は、言葉にはまだ力があると人々に錯覚させる、その一瞬のスペクタクルの中にしか存在しない。言葉には力がない、意味すらない。
P190 文字は活字になることで生きる。分解され複製されることで生きる。もしも文字が分解され複製の道具になり、紙の上に定着することで初めて活きるのだとすれば、私たちもまた、肉体的な死を迎え、すべての量子計算が終わった時に、初めて本当の生を与えられるのかもしれません。物語として。あるいは方程式として。
P237 貫世界通信は別の人生を夢見るためにあってはならない。この人生を肯定するために使われなければならない。</blockquote> -
リアル書店でSFの棚に置いてあるのは正しいのだと悟った。
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セカイ系のSF小説。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を主眼に置き、量子論によって明らかになった異なる世界に存在する自分を飛び越えて旅する家族の物語。存在のあやふやさや望む未来がないときに、それを変えることが、本当に幸福かなど、タイムトラベルの悩みを書きつつ、幸せな家族は何かという汎用なテーマにも言及していく。所々、ミステリーチックでもある。量子論の小難しい解説もあるけど、楽しんで読めるのではないでしょうか。
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大掛かりな装置、大掛かりな演出でごてごてと華々しいけど、文学的な重みは芥川賞かすこしばかり軽い、という。一言で云えば、そういう本です。
別に文章も特にうまくないしな。最後の方なんぞ人間とも思えない長台詞、収集をつけようと説明の嵐。これはアレだえ、編集は誰も突っ込めなかったのか、「本職じゃないから仕方ないや」と思ったのか、もしくは「どっちにせよ売れるだろうからツッコむのよそう」と思ったか……。
でもなんで三島賞を受賞したか――というか三島賞をとった作品が思い浮かばないので、どの辺が三島的かといえば、強固で明確な観念で平行世界SFを描ききっているという点かしらん。よくできた世界観、よく出来た世界設定。そういった型といいますか、考えの模型についてはよく出来ていると思いますが、それによって語られるブンガクはあまりにも線が細い。
本作「新潮」に掲載されてたと思うのですが「新潮」の愛読者は結構冷ややかだったんじゃあないだろうかね。もっと云えば、東浩紀というネームバリューがなかったら、この作品、載ったろうか。載らなかったと思う。でも、あの東が小説を! っていうことで結構売れたんじゃないかね。それでよしとするのも商売です。売れたんでしょう。よかったんじゃないかしら。
と、そのくらい、苦労して読んでも見えてくる景色は面白いものではありません。目新しさがなんかあったかい、というと、別に、ない。何かあるだろうと思って険しい山道を登ってみたら、単なる峠でした、みたいなガッカリ感だけが残る。
普通の小説家よりも頭の整理の行き届いた書き手が、ややこしいことを整然とよく書き切ってはいるものの、小説としては「凡」です。
大学のセンセイが文学してみたらこうなりました、という。それ以上の意義は見つかんなかったなぁ。 -
読み進むに連れて、事態はどんどん複雑になっていく。複雑になればなるほど読む手が止まらなくなった。面白かった!
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東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」の第一印象は、藤子・F・不二雄的なSF(すこし不思議)をモチーフとしたサイバーパンクのように見えた。読み進めていくうちにいくつもの既視感を感じ、結局は同世代のオタクの感性を総動員したようなわかりやすいラノベスタイルに落ち着いたのだなと想像できる。
村上春樹やフィリップ・K・ディックをいたるところで引用しているが、ぼくとしては最後に読んだ東浩紀と大塚英志の対談本「リアルのゆくえ」で感情的に語られたことが非常に印象的で、だから検索性同一性障害なる病気が大塚英志の「多重人格探偵サイコ」に対抗しているようにしか感じなかった。
読了後とてもおしい作品だったと感じたのは、「批評から小説へ」というキャッチコピーの中で、しかしながら批評的なことは結果的になにひとつ語られなかったことだ。東浩紀は一貫してニートやオタクを擁護し、そこにこそ未来的なライフスタイルが隠されているようなことを主張している。だから、小説の中でそういったニートやオタクの未来的なライフスタイル像が語られるのかと期待したのだがそんなものはなかった。せっかくおもしろい物語の装置を用意した割には、オカルトめいた家族愛のファンタジーに終始したのは残念だ。だからぼくはとても惜しいと思うのである。 -
あ、世界を構築していったんだな。という匂いがするのでちょっと興ざめ。構想メモが私の頭にも浮かんできちゃう。
平行世界の存在、私が今の私では無かったならというのは誰でも考えたことのあることでしょうけど、本当にそういう世界があるんだと突きつけられたら…どうなるだろうなあ。でも世界が知らないところで繁殖し増殖しているって、ありえることじゃない?なんて思ってどきどきしたりする。
『数学的にあり得ない』を思い出す。枝分かれした世界。そこにあるのに誰も気づかないモノ。