冬虫夏草

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784104299096

感想・レビュー・書評

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  • 『家守綺譚』の続編かぁ、、、

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    「自然には抗わず、背筋を伸ばして生きる。ここは天に近い場所なのだ――『家守綺譚』の綿貫征四郎が鈴鹿山中で体験する心の冒険。 」

  • なんて素敵な装幀だろう。ほれぼれと見とれてしまう。遅ればせながら(まったく遅い)「家守綺譚」を読んで、すぐに続けて本作を読む。「家守」を未読だったがゆえのシアワセ?いややっぱり「ああ、やっと出た!」などと言いつつ、いそいそと本屋さんに買いに走りたかったような…。どっちにしても読めて幸せなんだけど。

    出だしは「家守」と同じ、征四郎の住まい近辺のお話。そうそう、この世界にいつまでも遊んでいたいもの、などと思っていたら、おや、お話は意外な場所へとその舞台を移して行くではないか。

    いやまったくこれは思いもかけなかった。征四郎が分け入っていくのが鈴鹿の山々だとは。大体関西近辺で、山や土地の霊的な力を語ると言ったら、まず浮かぶのは吉野や熊野のあたりだ。鈴鹿は、自分自身ほとんど縁のない所のせいもあると思うが、説話や伝承のたぐい、舞台となった物語などが思い浮かばない。

    ところがこれが、征四郎の、いや梨木さんの語りに運ばれて、自分も一緒に山々をめぐっていくうち、なんだかよく知っているところを歩いているような気がしてくるのだ。時たまあらわれる小さな集落。数軒の家が寄り添うように建っているその有様は、この時代の征四郎の目にもこの世のものではないように見える。ほんの少し言葉を交わした小さな女の子とその父親が、名残惜しげに見送ってくれたというくだりが心に残って離れない。うまく言えないが、こういう世界を私たちは永遠に失ってしまったのだと思って泣けてくる。

    ゴローがもっと出てきたら良かったなあというのがただ一つの不満。その活躍が暗示されるだけなんだもの。犬が苦手な私も、ゴローはほんとかわいいと思う。

  • 冬虫夏草。

    読了後、タイトルを鑑みる。
    やはりしみじみと意味深い。

    これは、単に主人公たちの会話に出てくる話題、ひとつの珍奇な生命の在り方を間に合わせの切り貼りタイトルにもってきた、という意味あいなのではない。

    帯のコピーには本文のこの部分が抜き書きされている。「自然の猛威に抗いはせぬが心の背筋はすっくと延ばし、冬なら冬を、夏なら夏を生きぬこうとするする真摯な姿だった。人びとも、人間(ひと)にあらざる者たちも…」

    この世と異界の境目の緩やかな世界の中、ゆるやかに流れる主人公の日常を描く前半部、そして非日常要素を色濃くしてゆく旅の道行の後半部。この作品は、その道中のさまざまのエピソードを章ごとにオムニバスのように綴ってゆく。一見、ただとりとめもなく語る日記のように。

    が、「冬虫夏草」このタイトルの持つ象徴性に気付いた時、それが全篇をくっきりとひとつの力強い主題にまとめ上げているものであることに気付くのだ。



    自然の中で生命の連鎖「食うこと」に関する概念への洞察に、深く透徹した構造を見抜く眼差しを感ずる作品だ。


      ***  ***  ***


    冬虫夏草とは、一種の寄生キノコである。コウモリガの幼虫に産み付けられた胞子が冬の間その内臓を食い破りながら菌糸を増殖させ、幼虫が蛹になったときに丁度体表を浮き破って子実体、つまり目に見えるキノコの形として背中から伸びてくる。…なんとも不気味な寄生のスタイルを持つ菌類だ。冬には虫の姿であったものが、夏にはキノコとなっているかのように見えるのでこの名がある。

    これは論理的に言って、単純に幼虫はキノコの菌床とされている、と考えるのがまあ順当であろう。

    だがこの作品の中で主人公はこの生態を「異類婚、糸状菌の悲劇的な恋愛」などというディレッタント風のロマンス小説の発想のネタの話題として取り上げたりしている。

    一見ふざけたディレッタント趣味、単に一種のユーモアの趣向であるかのような挿話である。

    だが、生死を超えたところ、自己というアイデンティティの枠組みの概念をひっくりかえすものとしての恋愛というスタイルの発想。ここには、自己と他者の関係性の在り方の相剋と孤立に「生命体としてひとつのものとなる」という発想をしかけるパラダイム変換が実は既に仕込まれている。

    「ひとつになる」手段としての「恋愛」と「生死」と「食」の概念の構造的な関連へのまなざしである。

    「食べてしまいたいほど可愛い」という食と愛の関連は一般的ですらある。ひとつになりたい、ひたすら純粋な相手への思いの強さによるこの「食うー食われる」関係への関連への倒錯にはしかし、己のエゴ、自我、アイデンティティを乗り越える唯一の道筋がメタファとして示しだされているのではないだろうか。

    或いは、「食べてしまいたいほど可愛い。」と「食われてしまってもいいほど愛している。」というエゴの反転が、反対なのではなく、ひとつの現象の表裏に過ぎないという感覚を可能とする場。

    それは、主体と対象の枠組みの区別を自ら望んで無化する、自己への固定化したアイデンティティの枠組みを捨てる、二項対立としての恋愛から共に世界全体の一としての愛にいたる止揚の場、特殊な意味のフィールドなのである。

    狭い己の枠に固執する利己、業、罪業を乗り越え超越した視線を得る術への示唆。

    すなわち、巨きな世界、生態系(食うー食われる)の構造の中の己の位置づけを認識することを、個体の側からの視点、官能、感情の本能から解釈する恋愛をメディアとした構造に重ね、変換させる発想である。構造を同じくしてフェイズ(相)を変えるという理論の発想だ。


    たとえば、日常の中、花鳥風月、四季の移ろい、自然の風物への風流を豊かな情趣をもって穏やかに描いただけように見える、庭のモリアオガエルのエピソードがある。

    孵化して池にダイビングしようとするオタマジャクシを狙い、生まれた途端のその生命を食らったときのイモリの充足、食による至福、恍惚の表情 ー このとき、主人公の脳裡には、気になる女性から指で飴を口中に押し込まれた瞬間総身を貫いた甘みの感触が鮮烈な官能をもって重ねられてくる。

    そのときの己の感情を何であるかを判断しかねていた彼は「やはりうれしかったのだと、ここでようやく認知することであった。」と納得する。食による官能と恋愛の官能がぴたりと重なっている。

    食と恋愛、生命の根源。それは他の生命との関わりによって生きる、その、「罪」というよりは「業」と呼ぶべき生命の在り方。ここには、生の官能(性に限らない)、命そのものの悦びを贖う原罪という構造への洞察を感じ読み取ることができる。



    このように、この作品では一貫して、残酷なほどの「非人情」(漱石)の自然の生態系を描きながら、並行して「食」の発想の繋がりによるさまざまの愛の物語、人生ドラマが描かれている。その風景の中での「食」のひとつひとつへの丁寧な描写は、生命の連鎖(食物連鎖)に伴う現象がひとつひとつ、身体的に満たされる喜び、官能であり、同時に人間の繋がり、愛の満たされる喜びのドラマである二重のフェイズを持っていることを示している。

    …イヤ何しろ郷土の人々の暮らしに根差した独自の郷土料理の描写が、実においしそうなのだ。



    例えば、旅に出る前の伏線として、隣りのおかみさんの実家の習わしである郷土料理としての柿の葉寿司がある。普通の柿の葉寿司は緑の若葉を用いる大和路の名物だが、吉野から紀伊にかけての陰国の方では、紅葉した柿の葉を用いて、晩秋にもこの柿の葉寿司をつくる。その微妙な季節の風味を描き出す、簡潔にして見事な描写。


    旅の中でふるまわれる料理もそれぞれの土着の食である。それはそして人間や動物、物の怪の類の織り成す生命のドラマの中に組み込まれた強烈な印象を持つ。

    おいしそう、味わってみたい、と思わせる魅力、それは心身に摂取される生命力、世界との交感、己が生命の世界全体に連なることを感ずるための大地のパワーを力強く宿したものなのだ。そしてそれは同時に丁寧な料理するひとの手、人間的なレヴェルでの社会的世界との関わり、ありがたさ、感謝の念とも重ねられている。

    主人公は道行の中で、自然の中の生命の連鎖、その恵みと犠牲、人の思い、命そのものや他者への慈しみ、手間ひまのかかった、そのひとくちひとくちを、生命を、「おいしさ」として大切に心身で喜び味わう。


      ***  ***  ***

    蜂の巣から取り出す風景から関わる、甘辛く炊いた、或いは塩味で炒った蜂の子。


    慣れない山歩きで疲れた主人公にふるまわれる、水溶きのメリケン粉を平たく焼いた皮に餡を包んだあん巻き。
    「黒砂糖の餡の、どっしりした甘みが脳天を弛緩させるようだ。」

    太くて短い蕎麦とそれに絡んだ汁が素朴で、私は食べながら感動した。(わしが打って、婆さんがゆがいた、先生が帰らはったらすぐ、汁に入れる段取り。)

    朝食には麦飯にたくあん、里芋の味噌汁、川魚の煮たもの。

    むかごご飯、干し鮎を戻して炊いたもの、里芋の煮付け、セリの浸し物。すかんぽ。


    客にも仲居にも怪しげな妖怪変化の入り混じる怪しげな山の宿で供される郷土食のそれぞれもまた味わい深い。

    「汁椀と飯椀、漬け物に和え物。飯には子持ちの魚が炊き込んであった、食むと、その小さな卵が、小口切りにされた
    ネギに絡み合って口のなかで歯応えよく弾けるのが心地よかった。」雷のへそ、ツル、「たのし」(たにし。泥を吐かせて茹で塩もみ、だし汁で煮てから砂糖醤油で煮詰める。)


    最終目的地、イワナの夫婦の営む宿の食は以下のようなものであった。

    炊き立ての飯に、何やらの茸の味噌汁、菜っ葉の漬け物や梅干し、小魚の焼き干しなど。


    そしてまた、イワナの夫婦の営む宿でのイワナ料理という不気味な共食いのテーマがここには色濃く影を落としている。食物連鎖による生命のエネルギイの流れ。

    人と動物と異界の者たちの領域をないまぜにしてゆきながら、山を奥へ奥へ、秘境へと進み、次第に人界から異界へとステップを踏んでゆく段取りが、作品の構造の中でじわじわと仕掛けられてきている。そして、遂に主人公の旅の目的地、イワナの宿に辿り着いたこのシーンは、既に近代の常識を離れた夢の中を語るかのような幻想領域を描き出すことになる。

    …旅は、土着の神、この世とあの世、そしてそのどちらでもないぎりぎりの境界領域としての「神域」への道行きであった。水の道、風の道の行き合う霊山へ。

    人の世と水や大地を繋ぎ統べる神々は、人界と動物、もののけの振幅、境界線が曖昧に崩れて行ったその先に根ざしている。また、下位のイワナから河童へ、そして上位の龍という神の領域へ。

    ぬるぬるとした無表情、人に化けかけた奴らを捕獲し食物とする奇妙な非人情、残酷ですらない淡々とした捕食。そこには、個々の小さなドラマを超越した大いなる世界の調和に恭順しているかのような感覚、分裂した主体の…いわば神の眼差しへの梯子がかけられている。

    主人公が龍のカケラを渡したとき、イワナとなった夫婦、(或いは人間に化けたものであったイワナだったのか)妖しい中間領域にいた夫婦は、大きな救い、悦びの表情と共に別の存在のかたちへと昇華してゆく。

    非人情、残酷さを、かなしみながらあきらめに似たかたちで乗り越えたアンビヴァレンツの均衡の上に初めて想定されることができる、世界の基盤に満ちている慈愛と調和の確信へ。

    ここでの生態系「食う、食われる」を、「変化する生命の形」としてとらえる眼差しである。


    ***  ***  ***


    「では、家の池の縁で日がな一日、皿となって陽に当たっているのは、あれは「別の形状」を生きているというわけなのか。そうやすやすと「先の形状」を手放せるものなのか、しかしそうやって「先の形状」に未練を持たず、「今の形状」を誠心誠意生きることが、生きものの本道なのやも知れぬ。年を経た河童の誠心誠意なのだと思えば、生きとし生けるものへの、しみじみとした「仲間意識」もでてくるというものである。」

    この河童の生態、これが、「冬虫夏草」というタイトルの示す「生きるかたち」の変化のメタファだ。



      ***  ***  ***


    さて、旅の中で怪しげな者たちの活躍と同時に語られている人間界の方のドラマである。

    向学の意志を無視され、継母によって幼いまま知らぬ土地へ嫁がされた娘の一生。

    初めての子を産もうとするとき過重労働のために胎の子ともども激しく苦しみぬいて命をおとしたまだ娘のような若い女性の幽霊、それを失った家族や周囲のひとびとの悲しみ、個の魂を慰め開放し「向こう側」へ送りだそうとする集落の儀式。

    旅でゆきあうひとびとの人生の様々は、狐狸妖怪精霊神の類とも絡み合いながら、自然の営み、「冬には冬の、夏には夏の」、ただ運命をささやかな喜びや苦渋を受け入れるのみの命たちの姿だ。

    心も身体も環境と宿命によって変化を余儀なくされ、アイデンティティは守られず砕かれ翻弄され流転する。だがそのときのそれぞれの形態をひたすらにひたすらに受け入れ、精一杯日々を、生命を生きる。

    換言すれば、何かに、或いは運命に「食われ続ける」。

    …そして、そのときはじめて、己でないもの、己の外部の生命をも己の一部のように感ずる巨きなものの一部である帰属感がすなわちアイデンティティであるような、寧ろ宗教的な世界観の中に生きる現象が救済のかたちとして見えてくる。

    キリスト教の言う、「砕かれた自我、魂」。仏教を思わせる利己と利他の合一。イドのあるところにエゴをあらしめよ、と説いた哲学、フロイト的心理学。



      ***  ***  ***


    形態を変える、「別の形状」を生きる、ということが、アイデンティティの崩壊や他者との関わり、混じりあいとどう関係してくるか、それを「愛」と「食う食われる」の関係に、(恍惚と官能をメディアとして)生態系と人間社会、人界と異界、それらのフェイズを類似構造として重ねてみせる。


      

    それは、あらゆる運命を超えたひとつの「救済」への道筋を提示する。

    「さまざまの己」アイデンティティの枠を超えることも恐れない、ただ真摯に生きる生命としての己を自覚するとき、「仲間意識」が生まれる。利己、という概念が意味をなさなくなる。


      ***  ***  ***


    ラスト、愛犬ゴローとの再会を果たした読後感もよく、全てを含包した日常へと螺旋を描いて回帰してゆく。万感の思いを心に畳みこみ、ぱたんと本を閉じる。

    …おもしろうございました。

  • 再読。もう本当に好き過ぎる。
    読み終わった時、読み終わってしまった…終わってしまった…と残念すぎて声に出してしまうくらいもっと読んでいたい。家守綺譚含め、何回読んでもこんな風に思える本に出会えて幸せだと思う。
    今回はパソコンの前でGoogleMapを使いながら読み進めてみた。これが本当に面白い。あ、今ここ歩いてるんだ!とかこの神社は写真で見ても素敵だな。とか。綿貫と旅に出れる。しかしまぁ緻密に作られていてこんな読み方も出来るのがすごい。マップ上で見るとそれほど広範囲ではない旅路を美しく丁寧に描いている。
    永源寺ダムに沈んだ村々への敬意を感じる、土地と人々の暮らしと植物を愛する梨木ワールド全開の作品。そして相変わらず綿貫が素敵すぎてもう恋してるんじゃないだろうか自分。

    そしてこの流れから行くと村田エフェンディ滞土録も再読しないと、赤竜の話が気になりすぎて。またトルコにワープせねば。

    綿貫の続編をください…梨木先生…

  • 家守奇譚の続編。
    散りばめられている言葉が美しいからでしょうか。
    温かい物語だけど、凛と澄んだ印象があります。

    主人公の綿貫征四郎は、
    少しお惚けていて、ホッとする存在。

    犬のゴローや、イワナの宿を探す旅の、
    道中で出会う人達、人でないもの達が、
    まっすぐにひたむきに、日々の生活を送っていて、
    そこに強さや美しさを感じました。

    終わり方も、とても好きでした。

  • 「家守綺譚」に続く綿貫征四郎シリーズ。
    犬のゴローが、気がつけば二か月以上も戻っておらず、心配になって来た。
    担当の山内から「イワナの夫婦が営む宿」があると聞いて興味を持った頃、友の南川から鈴鹿辺りでゴローらしき犬を見かけたと聞いたのをきっかけに、征四郎は旅に出た。
    家の管理はいいのか、と突っ込みたくなるところだが、隣のおかみさんあたりがいいようにしてくれるのだろう。

    行く先々で、「イワナの宿」と「犬のゴローの消息」をたずね、情報を頼りに山へ分け入り、流れをたどる。
    気がつけば水に関係した話が多く、それはつまり竜に繋がるのかもしれない。
    「滝」も、サンズイに竜の字だ。
    素朴な人々、のどかな村村…しかし、あちこちに人ならぬ物の気配は満ちていて、どうやら境はあいまいなようだ。
    怪異にも慣れてしまったらしき征四郎は、幽霊に向かって涙ながらにお悔やみを申し上げたり、「斯くの如き幻影の一つや二つ、出てきて当然…」などと考えたりしてしまう。
    「あ、ちょっと…取り込まれかけてる?」と、読みながら焦る。
    全くこの人は!(笑)

    そういう彼だからこそ、河童の少年なども力を貸してくれるのかもしれない。
    旅の途中でも、人に姿を変えた人ならぬ物にも多く出会った。
    征四郎自身は、気付いたり気付かなかったり。
    いのちは季節や場所によって、生きる形を変えて存在するものだ、という河童少年の人生観。
    それは、夏と冬では在り方を変える冬虫夏草に象徴されるのかもしれない。

    今回、高堂はあまり姿を見せない。ゴローと同様の一大事のために忙しいのだろうか。
    代わって、菌類の研究をしている南川とたびたび関わる。
    征四郎の「見聞を広める(結果として)」旅のおかげで、民俗学的なこともさまざまに描かれ、興味深かった。
    遠野物語のような雰囲気が漂う作品になった。


    クスノキ/オオアマナ/露草/サナギタケ/サギゴケ/梔子(くちなし)/ヤマユリ/茶の木/柿/ショウジョウバカマ/彼岸花/節黒仙翁(ふしぐろせんのう)/紫草(ムラサキ)/椿/河原撫子/蒟蒻(こんにゃく)/サカキ/リュウノウギク/キキョウ/マツムシソウ/アケビ/茄子/アケボノソウ/杉/タブノキ/ヒヨドリジョウゴ/樒(しきみ)/寒菊/ムラサキシキブ/ツタウルシ/枇杷/セリ/百日草/スカンポ/カツラ/ハチワカエデ/ハマゴウ/オミナエシ/茅

  • 活字を追いながら、文字が作り出した言葉の意味するところを一つひとつ考えていると、いつのまにかこの物語の世界に引きずりこまれている。すべてがひとしく存在する世界。人間だから、動物だからと制約があったり、逆に優遇されることもない。在ることが、おきていることがあたりまえとなる世界。

    おもしろおかしい不思議な話ばかりのようでいて、なかに人生を考えさせるエピソードが突然あらわれ、忘れられない話となる。

    物語に引きずり込まれているときには色が見えるのだか、字面だけ追っていると色が見えてこない。

    露草
    水墨画の世界に鮮やかな青が
    とびこんできた。あたまのな
    かに突然色がうかび、驚く。

    キキョウ、マツムシソウ
    ふたたび青にやられる。今度
    は、年老いた彼女の涙とかさ
    なった。つめたい青ではない。
    あたたかく心のなかにずっと
    ある青。

    この物語の舞台の中心は鈴鹿の山。主人公の辿った道を歩きたくなる。

  • 「蝦蟇というものはおよそこの世に生きとし生けるものの中で最も悟り切っているものである」

    ふと気がつくと犬のゴローの姿がなかった。
    鈴鹿の山で似たような犬に出会ったという友人の言葉にフラリと家を出た。
    綿貫が出逢う人々や出来事が淡々と語られる。
    「山は山として放っておいてやればいいではないか。いちいち踏破したくなるのは無駄な征服欲というものである。」なんてブツブツ言いながら。
    各章を彩る野花の情景が一緒に旅している気持ちになった。

    「昨日の雨はこの青を連れてきたのかと合点する。」

    「変化はまことに漸くの如く、小さきものから始まるのだ」

    「それはだれにもわからない。その一生の充実は、長さだけでは測れない。」

    「あまりに明るい夜は、実は苦手である。諸々の息遣いが遠のいていく気がする。」

    「人は与えられた条件のなかで、自分の生を実現していくしかない。」

    ゴロー!無事でよかった!
    家へ、帰るぞ。

  • 冬虫夏草、冬は虫の姿で過ごし、夏になると草となる生物。

    亡き友人高堂の家に住む小説家の綿貫が、愛犬ゴローを探すまでの道のり。


    相部屋の竜の男。亡き友人高堂の川に関する話。
    とても犬とは思えないほど賢いゴロー。
    お産の途中で亡くなった菊さん。
    学者の南川がその土地にやけに詳しい理由。

    イワナ夫婦が営む宿、川や山で過ごす河童。
    自然が人々よりも大半を占めるその土地で、彼らは自らの生きる形を変えて共存していく。

    「人は与えられた条件のなかで、自分の生を実現していくしかない」
    河童少年の牛蔵の言葉がとても悟り境地に達する。

    それを聞いた綿貫が、君は宗教書か哲学書を読む習慣があるのかと聞き、牛蔵が独自に達した境地ってさらっと言ってのけるシーンが面白かった。

    やたらと真面目に登場人物たちはやりとりしているんだけど、なぜかぷぷぷと笑える。

    だがしかし文体が少々難しくて挫折しそうになったけど
    f植物園の巣穴のときも挫折しそうになりながらも読み続けて結末でドカンとやられたっていう経験があったから、
    必死こいて読み終えることが出来たよ。

    こちらも最後まで読まないと物語の面白さを味わえない)^o^(

  • 「家守綺譚」の続編
    人そしてそれ以外のもの、自然
    それぞれの描写がすばらしい
    鈴鹿の山奥を一歩一歩たどっていく
    冬と夏、周囲の条件によってふさわしい生を実現していく
    こんなにも豊かな自然と生き方が、かつてはあったのだなあ
    ラストは涙ぐんだ
    《 犬たずね イワナに河童 山深く 》

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著者プロフィール

1959年生まれ。小説作品に『西の魔女が死んだ 梨木香歩作品集』『丹生都比売 梨木香歩作品集』『裏庭』『沼地のある森を抜けて』『家守綺譚』『冬虫夏草』『ピスタチオ』『海うそ』『f植物園の巣穴』『椿宿の辺りに』など。エッセイに『春になったら莓を摘みに』『水辺にて』『エストニア紀行』『鳥と雲と薬草袋』『やがて満ちてくる光の』など。他に『岸辺のヤービ』『ヤービの深い秋』がある。

「2020年 『風と双眼鏡、膝掛け毛布』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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