- Amazon.co.jp ・本 (228ページ)
- / ISBN・EAN: 9784104738038
作品紹介・あらすじ
自分って何者?ルーツ探しはこんなに面白い!じわり感動のノンフィクション。
感想・レビュー・書評
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先祖を巡る話というのは、事実と物語が入り交じっていて、親バカ話の純度を高めたような楽しいような苦痛のような不思議な話になるものだ。その辺のデタラメさ加減と、冷静な計算と、いざ話が自分のことになると冷静ではいられなくなってしまう浮き足立った感じが丁寧に再現されていて、実にくすぐったくオツな読書体験だった。
高橋秀美を読むのは初めてだったが、書評から見える人物像(丁寧かつ適当、腰は低いが傲慢、真面目なんだが笑える)がご先祖様を巡る話とよくあう。
大学時代に一度計算したことがあったけど、息子を授かった今、あらためて計算してみた。
一世代25年として、(息子が生まれた)2010年から世代をさかのぼって行くと、父母が2人、祖父母が4人、曾祖父が8人、とたどれる先祖の数は爆発的に増えていく。計算を続けると、35代前の1185年に約860万人になる。平家滅亡の壇ノ浦の合戦の年。これは当時の日本の人口(700万人弱)を上回る数字なので、逆に言うと、今の日本人全員と親戚ですといっても計算上はおかしくないということ。
「うちの先祖は平家の流れで」という語りは、じゃあ無意味かというとそうでもなくて、自分は駅伝の一員だという意識は生物学的にも親族論的にも心理学的にも意味があると、本書を読んで改めて思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
そんなに頻繁に顔を出しているわけでもないが、親戚同士の集まりが大嫌いである。ましてや墓参りなど、その極致である。人生で数えられるくらいしか会ったことのない、姿形の似た人たちが、よってたかって何度も何度も同じことを聞いてくる。「興味がないなら、聞かなきゃいいのに」と思いながら、どうやってその場を抜け出すかを思案する。夏の風物詩だ。
本書はそんな自分にとって最も苦手なテーマ、「先祖様」について書かれた一冊。驚くことに、著者自身の先祖を辿るという個人的な記録である。この赤の他人の先祖を辿る話が、不思議なくらいに面白い。なにしろ、そのきっかけからして変わっている。結婚披露宴で出会った同業の先輩から「なんてったって、お前は最後のジョウモンだからな」と、突然縄文人呼ばわりされる。そして、「縄文人について知りたければ、三内丸山遺跡で佇め」と言われるところから、著者の先祖を巡る「佇みの旅路」が始まる。
◆本書の目次
序章 俺たち縄文人
第一章 ご近所の古代
第二章 爆発する家系図
第三章 もやもやする神様
第四章 ご先祖様はどちら様?
第五章 多すぎる「高橋」
第六章 たぎる血潮
第七章 家紋のお導き
第八章 とても遠い親戚
第九章 天皇家への道
終章 またね、元気でね
他人の家系を辿る記録に、なぜここまで引き込まれるか?それは著者の軽妙洒脱な語り口によるところも大きいが、自分自身が同じことを行っても、大なり小なり同じような結論が出るだろうと思えるからである。著者は市役所へ行き、父方の家系図を入手し、戸籍を辿り、神話を探り、本籍地まで赴くのだが、その先は杳としてわからない。今度は母方を辿り、本籍地へ赴き、墓地へ行き、家紋を探るのだが、源氏だか平氏だかも漠としてくる。
その飄々とした旅路の中で、時折見せる著者の視点が秀逸である。
考えてみれば、戸籍に登場する先祖たちも私にとっては子供のイメージだった。出生を調べたのだから子供を想像するのは当然なのだが、先祖が子供だと時間軸が反転してしまう。私が彼らの末裔というより、彼らが私の末裔のような気がしてくるのである。
お互いが混とんとしているから、つながっていないとも言い切れないのである。逆に言うなら、家系がわかるということは、つながりを限定してしまうこと、家系がわからないからこそ、「つながっているかもしれない」というつながり感覚は広がっていくのである。
この独特な視点の提示により、著者の家系を巡る旅路の追体験が、まるで自分のことのように思えてくる。読了後には、心地よい疲労感すら感じる。家系の歴史を紐解くということは、偉人達の歴史の中に、自分自身をプロットするということである。つまり、歴史を客体として見るのではなく、妄想しながらも主体として見る。ここに、大きな意味があるのだ。
家系という、最も身近な歴史に目を向けること。それは人生観や歴史観を変えるような大きな出来事につながるかもしれない。今度の墓参りは今までより、いささか楽しくなりそうである。 -
最後の縄文人と言われたことから縄文人とは?自分とは?と家系を辿っていく話。
他人との会話から筆者が戸惑ってる様子だったり、心の中でツッコミを入れていたりが、意図的なウケ狙いなのか、それとも、すっとぼけた性格ゆえなのか?コントを見ているような錯覚になる。
家系を遡っていく過程で、もしかしたら武士の家系か?平氏?源氏?ひいては天皇につながるのか?など、調べるごとに、妄想をして、がっかりして・・など、誰しも、ちょっと思ってしまうようなことが共感できた。
天皇陵にまで行くとは・・筆者がいうように、やる時はやる家系なのだろう。
出会う人の家系に対する考えの違いや、苗字、家紋の由来がちゃんとしていそうで、そうでもないところが興味深かった。
結局、元を辿れば人類皆兄弟ってことのように感じた。 -
ごくごく個人的なものをこんなに大きな捉え方をして軽快に語る、すごく面白いバランスの本。時に登場する奥様の存在が不思議なキーとなる。
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ノンフィクション
歴史 -
著者がおのれのルーツをたどる顛末記だが、家系というものについてのなかなか深い考察を含む。たいていの人にとっては、何代かさかのぼれば過去を生きた人々の痕跡は儚く消えうせており杳としてつかめない。しかし、ルーツを求める気持ちやみがたく、家系をみずから作り出すことこそ当たり前という、まるで逆立ちしたような結論に至る。それも先祖の数は代をさかのぼるごとに2倍になる(とりあえず重複を考えなければ)ので20代さかのぼると100万人、27代前には1億人を越えてしまうことからすれば、大体誰の先祖にも立派な人、有名な人がいておかしくない道理でもある。だいたい武士として系図を引けば、清和天皇か桓武天皇につながってしまうわけで。また著者が、戦時下であった自分の父母の子供時代や、子供3人に先立たれた先祖について思いを馳せるところはしみじみする。
・縄文時代が歴史教科書に登場したのは戦後のこと。それまでは日本人の先祖は天孫族だとして縄文人は野蛮な先住民あつかいだった。
<blockquote>考古学とは、何かを考えることが何かを考える上で重要だと考えたりする世界。</blockquote>
・遺跡の発掘調査は土木工事がそこであるときに検討される。業者から届出を受けた教育委員会が試掘をするかどうか判断し、もし遺跡が見つかれば、発掘調査か現状保存か選択する。発掘調査は金よ手間がかかるので、盛土するなどして「保存」したまま工事するのが主流だったが(後世のほうが発掘技術も発達しているだろうし)、耐震のため地盤を深く掘るようになって発掘調査が増えてしまっている。
・古代には氏(うじ)、姓(かばね)が使われていたが徐々に忘れ去られ、武士階級から字始まった苗字が主流になっていった。江戸時代には苗字帯刀は武士階級の特権だったが、じつは他の身分の人の多くも苗字を持っていたらしい。ただ富山県新湊では、苗字ではなく屋号のようなものが使われていて、それが明治以降に苗字に流用された事例が紹介される(釣さん、菓子さんとか)。
・GHQにいたヘルプスという人物が戸籍マニアになってしまい、戸籍制度は温存されたとか。
・沼田頼輔『日本紋章学』、高澤等『日本家紋総鑑』『都道府県別姓氏家紋大事典』
<blockquote>家系図は事実とは別に、本人たちが選択するものなのかもしれない。どっちなのかではなく、どっちにするかという意志の問題。先祖たちは意志で系図をつなぎ。その系図に末裔も意志でつないでいく。家系図とは、血筋というより意志の積み重ねを描いた線なのだ。</blockquote>
<blockquote>天皇陵だから祀るのではなく、祀るから天皇陵になるということ。</blockquote>あまりにも寂れた「清和天皇陵」を訪ねて
<blockquote>仏教を広めるためには「無」を訴えるより日本にもともとあった「不滅の霊魂」という信仰を利用したほうが好都合だった。それゆえ仏教は「無」と謳いながら、霊魂を供養する不思議な教えになっていったのである。</blockquote>浄土真宗にはやや宗教改革的なテイストがあるか -
成毛眞氏のブログ経由で知った本。
昨年祖父が亡くなった時に、うちの先祖の話になった。
それ以来、なんとなく、家系ということが頭のどこかにひっかかっていた。
自分もいい歳になってきて、過去を思いやることが多くなってきたということなのだろう。
祖父、祖母や母ともっと話をしておけばよかった、という後悔もある。
本書は、ふとしたきっかけから、
著者が家系を遡っていく話である。
戸籍簿の話からはじまって、
お寺の過去帳などから、
父方の先祖、母方の先祖を遡っていく。
平氏の末裔か、源氏の末裔か、
武士か、商家か百姓か。
つながりがあると思われる方々との話によって、
苗字にまつわる話、家紋にまつわる話、
天皇家や神様にまつわる話などへ
つながっていく。
ご先祖様、とまではいかなくとも、
数代遡ってみたくなるが、
昔のことは、ネットを探すより、
リアルを足で探した方がよくわかるようだ。
そして、それはきっと早いに越したことはない。
リアルを知っている方はどんどん亡くなっていく。
けど、それを知ったところで、
どうなるものでもないのも事実のよう。
もっと祖父母たちと話をしたかった、ということの
裏返しなのかもしれないし、
そもそも男性は「家」に縛られるものらしい。
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(目次)
俺たち縄文人
ご近所の古代
爆発する家系図
もやもやする神様
ご先祖様はどちら様?
多すぎる「高橋」
たぎる血潮
家紋のお導き
とても遠い親戚
天皇家への道
またね、元気でね -
著者の本は、読んでも全然スッキリせず、それどころか読む前より世界がぼやけて見えてしまう。これもそうだ。まあ、現実ってそういうものなんだろう。村上春樹が著者の本の解説に「僕らが生きている困った世界」というタイトルをつけていたけど、まったくその通りなわけで、読後感はいつも「途方に暮れる」という感じ。これだけウケを狙わない(ように見える)書き手も珍しいなあ。
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著者が自身の先祖をたどるための旅に出ます。きっかけは同業者の先輩から「なんてったってお前は最後のジョウモンだからな」と突然縄文人呼ばわりされたため。そんな不思議なきっかけで始まった旅ですが、そのなかで著者が得たものとは・・・。家系という一番身近な歴史に目を向けてみるのもおもしろいかもしれません。
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いやー、おもしろかった。自分も墓前で佇んでみよう。
たしかに、日本人てほとんど共通の祖先がいるように感じる。
なんか生まれてきてよかった。 -
先祖を辿るとわかるいろいろな不思議や納得の事実とか、思いがけない人に思いがけない人とのつながりが!とか、そんな内容を期待したのだが、結局は著者の先祖探し。
もともとは、歴史上の人物の末裔を取材するという趣旨だったらしいが、途中で路線変更してこのようになったのだそうだ。
驚くべき何かがわかったわけでもないし、なんだかな、という感じ。
奥様とのやり取りは妙に面白く、結構笑ったのだけれど…。
今ひとつ物足りなかったかな。 -
ルーツ探しをしているので参考になるかと思って読んだけど、そうでもなかった。
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高橋秀実さんの文章が好き。
「家系を辿る」という行為は、
「何かと繋がっている」「何かと共通点を見出す」ということであり、
人が生きていく上でとても大切なことなのかもしれない。
そういえば、自分の先祖は北海道に移住したという話を
ひいおじいちゃんから聞いたことがあるなあ。
自分も余裕ができたら、著者のように先祖を辿る旅に出たいぜ。 -
家系図や家の由来を調べている人は、たいていこの本の人のように「もしやウチは武士の家系!?」とか「すわ天皇家の血筋!?」とまいあがった挙句に、結局はよく分からないまま終わるんだろうな。
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エンタメ・ノンフ。知人から比喩で、最後の縄文人と言われたことからあれよあれよと自分の家系を探すことになる。多すぎる高橋。
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自分も著者と同じ気持ちになったことがある。
父が亡くなった時、出生地の役場から「原戸籍」というのを取り寄せて、じっくり読んだことがある。当たり前と言えば当たり前だが、親戚のおじさんやおばさんの名前があったり消されたりしていた。父の子どもの頃の様子を想像したりして、ちょっと楽しくもあり、切なくもあった。 -
力を抜いた文体が面白い
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先祖を辿る困難さ、面白さのノンフィクション。
家系図、家紋も昔からのセルフブランディング、家系ブランディングなんだなあ。 -
高橋秀実さんの、独特の、間が好きだ。文書なのに、間。なぜか、間、としか言いようがない、リズム。戸惑い、といってもいいかもしれない。とにかく常に、戸惑っている。
自分の先祖を辿って、結局大体のみんなの先祖まて行きつく、飛躍と不思議なめぐり合わせ。うっかり見つけた遠い遠い親戚のおじさんの発する、ダメな家系だ、という重い断定。それ分かる。。。うちもダメな家系だから。。。
大体辿ると平家か源氏で、まあまあ宮家、と分かったところで、やっぱりおじいちゃんとおばあちゃんの顔が浮かんだ。もっと話を聞いておけば良かったなー。 -
読んだけど
あまり思うことがなかった・・・ -
資料ID:W0163587
請求記号:288.2||Ta 33
配架場所:本館1F電動書架A
小林秀雄賞 -
縄文人・弥生人(顔)の小話から始まって、著者の父方・母方の由来をたどっていくお話です。「考える人」のメールマガジンで紹介されていて、自分の父方の名字が珍しいこともあり読みましたが、確かにつながっているはずなのに(そうでないと自分が生まれ得ない)辿っていくと遡ることが極めて難い話は、実はもっと祖父祖母が生きているときにしておけばよかったな、そうすれば子供にも話せたのになと思わせてくれる本でした。
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自分の家系図も作ってみたくなった。でも、大変そう。
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文章がゆる面白かった~。先祖って、たどっていけばみんな偉い人に行きつきそうだ。
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ご先祖、家系を辿る事で見えてきたもの、感じられた事、得られた境地。
なんとなく読み始めてみたが、軽妙洒脱な語り口もあって、面白く読めた。
読んでいて、少し視野が広がるというのか、考え方の幅が広がるというのか…とにかく自分が少し広がった気がする。
そしてその広がりは、とても豊なもの。
こういう読書もいい。 -
結婚披露宴でのエピソードから始まる、著者の高橋さんのご先祖探しが、途中で発散しかけながらも、ご先祖を身近な存在として腑に落ちるまでの物語です。途中はとても楽しく読め、最後にはしみじみと考えさせられる。他の著作も読みたいと思います。
※この本の一部記述に感動したので、現在形で感想を書きます -
自らの先祖を辿っていくと、いろいろな人との繋がりが見えてきますが、その数は天文学的な数となってしまいます。
著者は、自分の家系を例に先祖探しを試みていますが、結局辿れるのは数世代程度で、その先はよく判らなかったようです。家系を探る手掛かりとしては、戸籍、家系図、人の記憶や言い伝え、郷土史、お寺の過去帳、苗字、家紋などがありますが、調べてみるとどれも決め手がなくて、なかなか整合できないもどかしさがあります。例えば、家系図は先祖を知る有力な手掛かりですが、記録した人の主観が入る余地があり、家柄を良くするために都合良く著名人に繋げることがあって(だいたい貴族や武将や天皇に行き着く)信頼性に欠けることがあります。また苗字や戸籍は明治時代に始まった制度であるため、その先を辿るのが難しく、結局、普通に家系を辿っても戸籍が残っているせいぜい江戸末期くらいまでが限界らしい。
著者は先祖を辿っていくことによって、関係する多くの人達と出会い、親交を持つことができたようです。先祖を辿ると、今を生きる人達との繋がりを持たせてくれます。ご先祖様は「今もそこに居る」と結んでいます。
自分が居るのはご先祖様のお陰ということを、改めて感じさせるエッセイでした。 -
急にお墓参りにいかねばと思った本。ご先祖様がいるから自分がいると思っていたが、ご先祖様をたどる作業をはじめてみると自分からはじまって、父母、祖父母、またその兄弟姉妹、と花が開くようにヨコにタテに広がりをみせて、まるで自分がスタートのように逆転してみえることに、同感しました。役所の方に手書きの戸籍好きがいました、お寺では過去帳をみることで親族探しができることを知りました。夏休みの自由研究に良さそうですね。
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この人,のんびり屋の作家~知り合いの結婚式が終了して佇んでいると,先輩の関川夏央に「われわれ縄文人は住み辛い」と云われ,そうか弥生人に駆逐された縄文人だと思い込み,青森の山内丸山遺跡に行く機会を逸してしまい,住んでいる川崎に遺跡はないだろうかと調べると,住まいのアパートも遺跡の上に建っていた。父母にルーツを辿るものが残っていないことを確認すると,戦時中は穴蔵暮らしだと威張っている。戸籍を調べ始めるとすぐに行き詰まってしまう。神様方面から訪ねようと出雲に行くと,祖先を明らかにする家系図を持っていても,所有している本人も怪しいと混沌としていることに不満を持っていない。曾祖父が仙台の小学校の校長だったというので,小学校のあった町に行ってみると,「高橋先生の墓があった」と微かな記憶のある墓地は荒れ果てていた。高橋という姓を頼りにしようと思ったが,あまりにありふれていて,いっその事もっとありふれた鈴木さんに聞いてみるとこちらは熊野に行き着くとがっかりする。父方がダメなら母方の市川を清水に行くと,武田信玄から逃げて山梨から来たんだと,家紋の九曜紋を教えれる。家紋から察すると平氏だと察せられるが,山梨の市川大門へ行くと多くの市川さんは源氏を名乗った武田信玄の軍門に下った所為で源氏を名乗り,源氏なら清和天皇だと考え,京都・水尾山陵をお参りしようとするが,神社の宮司も素っ気ない態度だ。父方の墓参りをすると,市職員の墓守は「元気か?」と呼び掛ければ良いのだと云われる~新潮社の雑誌「考える人」に連載して,歴史の過去形の書き方に違和感を持ち続け,愚者は経験からしか学ばないと云われるなら,愚者で良いやと思ったのだろう。最初の企画は「みんな誰かの末裔」だったのだが,自分の先祖を訪ね歩く企画に変更した。1961年生まれで東京外大モンゴル語科を卒業して,テレビ制作会社に勤めたが,勤め人は向いていないと翻訳業に転じ,雑誌に執筆し続けている