コレラの時代の愛

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (528ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105090142

作品紹介・あらすじ

夫を不慮の事故で亡くしたばかりの女は72歳。彼女への思いを胸に、独身を守ってきたという男は76歳。ついにその夜、男は女に愛を告げた。困惑と不安、記憶と期待がさまざまに交錯する二人を乗せた蒸気船が、コロンビアの大河をただよい始めた時…。内戦が疫病のように猖獗した時代を背景に、悠然とくり広げられる、愛の真実の物語。1985年発表。

感想・レビュー・書評

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  • 「ビター・アーモンドを思わせる匂いがすると、ああ、この恋も報われなかったのだなとつい思ってしまうが、こればかりはどうしようもなかった。薄暗い家の中に踏み込んだとたんに、フベナル・ウルビーノ博士はその匂いを感じ取った」
    老いが来る前に自殺したジェレミア・ド・サン・タムールの検視に駆けつけたフベナル・ウルビーノ博士は、その翌日庭のマンゴーの木に逃げた鸚鵡を捕らえようとして転落死する。博士の妻フェルミーナ・ダーサは夫の通夜の席に記憶から消し去った男、フロレンティーノ・アリーサに気付く。フロレンティーノ・アリーサはフェルミーナに告げる。「私はこの時が来るのを待っていた。もう一度永遠の貞節と変わることのない愛を誓いたいと思っている」それはフロレンティーノ・アリーサが、フェルミーノ・ダーサに拒絶されてから51年9ヶ月と4日後のことだった。
    ===

    おそらくここまでが序章だが惹き込まれ方はまさしく大作家の面目躍如。
    舞台は19世紀のコレラ時代。女を51年間待ち続けたという寓話的主題がガルシア・マルケス饒舌な語り口で現実世界に溶け込む。
    物語では二人の人生が振返られるが、主体がいつの間にか入れ替わっている手法で、それが現実なのに夢の中を漂っているかのような雰囲気を生んでいる。
    そして愛が主題ではあるけれど、恋愛ばかりが存在しているわけではない。
    フロレンティーノ・アリーサはフェルミーナの影を心に抱きながらも何十人もの女性と関係を持ち、フェルミーナ・ダーサとフベナル・ウルビーノ博士との関係はけっして恋愛とはいえないが人生に必要な相手としての愛情関係を築いていた。
    「しょっちゅう喧嘩をし、色々な問題に悩まされ、本当に愛しているかどうかも分からないまま何年もの間幸せに暮らすことができるというのは、いったいどういうことなのかしら」

    本物の小説家が書いた小説世界にどっぷり浸れる作品。

  • 誰しも少なからず経験があって嫌悪したくなるほどの現実的な生々しさと、ありえない幻想的奇天烈さが、喧嘩することなく馴染んで同居して、見事に昇華されている、その不思議と「心地よい異常さ」が、いかにもガルシア・マルケスだな、と思った作品。

    読むとゲンナリするのはわかっている癖に、その吸引力にどっぷり浸らずにはいられない、中毒性と言い換えてもいいかもしれません。

    80歳を過ぎた老名士の葬儀の席で、70歳を越えるその妻に、80歳に手が届かんとする男が、半世紀に渡ったその愛を告げることから始まる、それぞれに歩んだ半世紀余りを描いた物語。

    19世紀のある日の、10代の少年少女の実体の伴わない幻想まみれの数年に及んだ恋。(少なくとも同性読者にとっては、)主人公女性のいかにも「少女らしい」成長の途上、彼にとっては残酷ともいえるあっけなさで、彼女が一瞬のうちに彼らの関係を反故にしてしまいます。

    やがて町一番の若い名士と結婚して玉の輿に乗った彼女を忘れられないかつての少年は、「来たる日」に彼女を手に入れんと一人身勝手に永遠の愛を誓って彼女を偶像的に思い続けながら、仕事をして地位を得つつ、同志とも心の友ともいえそうな1人の女性をはじめとして雑多だけど印象的な無数の女たちと(彼曰く)「一線を引いた」遍歴を重ね、時々すれ違う偶像の彼女や自身の老いを噛み締めながら、半世紀を過ごします。

    彼女は彼女で、「10代の彼」を亡霊として心のどこかに置き忘れ、その彼を捨てた後にふとしたきっかけから結婚を選んだ男の妻、子供達の母、名士の奥様として、移ろう時とぶつかる現実の中で、大なり小なりの夫婦喧嘩を繰り返しながらも、夫婦互いにある種依存しあいながら愛し合い、生活を築き、半世紀を過ごします。

    それぞれの人生が再び交わるまでの51年9ヶ月と4日の過程は、彼らの体温や体臭がそのうち立ち上ってくるのではと錯覚してしまいそうなぐらい生々しくて不思議な生活感に満ちています。
    しかし、主人公2人のこころうち…特に、心の一番の場所に常に彼女を据えることに囚われた男の内面が、とにかく浮世離れしていて異常なのです。そのくせ、それがさも当然のように静かな口調で描かれていて、なんだかよくわからないけどひどく惹きつけられてぐいぐい読み進めてしまいます。

    狂気の沙汰ともいえる半世紀にわたる幻想を現実のものにしてしまうバイタリティとその非現実なラストには、もはや、嫌悪感というよりも、諸手を挙げて降伏するしかない、静かだけど凄まじい作品でした。

    最後に。この小説の書き出しの見事さには感服します。
    「ビター・アーモンドを思わせる匂いがすると、ああ、この恋も報われなかったのだなとつい思ってしまうが、こればかりはどうしようもなかった。」
    物語はこの蠱惑的な書き出しを、よくぞここまで、と思うほど、とことん裏切る方向に進むのです。そんなとこも、マルケスの魔力な気がします。

  • だれも空を飛ばないし4年間雨が降り続いたりもしない(訳者の木村さんはあとがきで本書はリアリズムの手法で書かれていると述べている)。けれどガルシア=マルケスの与太話力は間違いなく全編にわたって発揮されており、最初から最後まで楽しく、ときどき笑いながら読んだ。

    みんな自分のことばっかり考えてて、ときにひどく残酷だったり目に入れるべきことを見なかったりなのに、それはそれとして生きるのはよい、楽しい、という肯定感。相手不在の恋であっても、それが生き甲斐になるなら大事にしたらいいんでしょうね。それに最後の解決策、無限! 繰り返し! 神話的! やっぱりガルシア=マルケスだなあ楽しいなあとと思いながら読み終えました。

  • 2006年刊行の本。原作は1985年発表。
    映画化されたというので読んでみました。
    ガルシア=マルケスはコロンビア生まれ、田舎町で育つ。
    ジャーナリストを経て、1967年に貧乏暮らしの中で書き上げた39歳で「百年の孤独」を発表しデビュー、世界的ベストセラーに。
    凄い作家ですが、気合いを入れないと読めないので…
    コピーの印象では、ろくに話したこともない美女を51年待ち続けた男性のあり得ないような恋の話ととらえていましたが、読んでみるとあり得ないというほどでもありません。
    彼女フェルミーナ・ダーサは少女時代にフロレンティーノ・アリーサからの熱烈な手紙を何年も受け取り、自分も恋しているつもりでいた。
    ところが、親に引き裂かれ、遠方の親戚のいる地方へ山越えして1年半旅行し、成長してから戻って間近に出会い、蒼白で陰気な彼にショックを受け、いきなり振ってしまう。
    ストーカー気質のフロレンティーノが案外やり手で、ユニークな人生を送りつつ、愛に飢えた風貌を逆手にとって?やたらと女関係を積む方が珍しいかも。
    フェルミーナが結婚したのは親も認める家柄の良い医師フベナル・ウルビーノ。
    コレラが不治の病ではない時代、流行が広まらないように手を尽くし、催し物なども企画して町の大立て者となった人物でした。
    結婚生活はリアルで、ガルシア=マルケスの作品の中では読みやすい方だと思います。
    18世紀に一番栄えた港町。独立は果たしたが内戦が続き上流階級は没落、コロニアル風の邸宅の並ぶ界隈もさびれていく…マンゴーの木やコンゴウインコ。アナコンダまで飼うフェルミーナ。ねっとりした南米の風物も魅力的です。

  • 参考文献

    時々なぜこの本を読んでいるのか忘れそうになりましたが、
    そうです『街とその不確かな壁』第二部P575 閉店したコーヒーショップで彼女が読んでいたのがこれだったんだ。

    引用された部分はラストの20ページあたり、この小説の中によく見られる、物語とはあまり関係ないような不思議で些細なエピソードからだった。
    そのあとの、私と彼女のマジック・リアリズムやガルシア=マルケスの小説について語り合うところを読み返してみる。

    引用します。

    _彼女なら子易さんと会っても、彼が既に死んでしまった人であることを、そのまますんなり受け入れてくれたかもしれない。_

    現実と非現実は春樹さんの世界にも混在しているのかしら?

    それにしてもすごい小説でした。

    主人公のフロレンティーノ・アリーサの、実に51年9ヶ月と4日待ち続けた女性フェルミーナ・ダーサとの物語。そんなのありえない!幻想でしょう?そんなに待てるか!? って思いますよね。

    …待てるのよ、だってその間彼が純潔を保ってたのは彼女への愛と精神だけで、身体はすっかり数々の女たちに慰められてるからなっ。

    なんだけど、なんなのこのマジックリアリズムとやらな筆致に、こんな男の勝手さと弱さも受け入れてしまう自分がいました。
    愛人たちの生き方や性格、出会いのエピソードなどがあまりにもおもしろく、ついつい読まされてしまった。とくに、二人のことを多分誰よりも早く勘づいていた、フェルミーナの息子の妻がとってもいいの、パンチのある一言が忘れられない。

    フェルミーナ・ダーサのちっとも甘くない、気の強いキャラクターにも助けられ、80歳を前にした、二人の愛の行方はあまりにも美しかった!
    たとえ、見事に禿げ上がり浣腸と入れ歯が欠かせない男でも、お婆さんの匂いのする彼女でも、今の私には美しく読めました。

    それにしてもタイトルにあるコレラについては、直接的でない描き方をしていて、それもまた変わってる。
    それから真面目な顔したユーモアが溢れてます。
    フェルミーナの夫に対する愚痴ってそんなに多くないんだけど、
    料理が面倒な彼女、
    食べたいものを聞くと何でもいいというわりに、ときどき的を得た文句を言う。
    ある日カモミールティーを出した時に
    「何だこれは、窓の味がするぞ」
    と突き返す。
    彼女も女中たちもそれを聞いてびっくりするが、一体どういうことだろうと飲んでみると、なるほど窓の味がするとわかって納得した…
    という訳の分からないエピソードなどが時おりみられます。

    でもですね、わたしが面白くてのめり込み始めたのは300ページあたりからでしたけどね。

    また少し時を置いて、
    『街とその不確かな壁』
    読み返したいな。

  • ひとは愚かだと言うかもしれない。でも愛してくれるひとよりも愛したひとに愛されたいのだ!2つの大きな愛とたくさんの小さな愛。51年9ヶ月と4日間の片思いはマコンドの100年よりもずっとずっと長かった。若かったあの頃、ほんの少し勇気があれば…。終りよければすべてよし。最高のラヴロマンス。鬱蒼と茂るバナナの木にたわわに実ったマンゴーの木々、むせかえるようなオレンジ、クチナシ、ジャスミンの花の香り、クァバの味。ヒースの茂みや大理石や石畳で出来た街や紙と木で出来た街では紡ぎだせない物語。作者の眼差しが暖かい。

    打算で始まった夫婦愛が日照りや嵐に合い、座礁しかかっても無事に航海を終えるところも見所だ。フロレンティーノ・アリーサと肩を組んでいる身としては辛かったけど。〈記憶は悪い思い出を消し去って、いい思い出だけをより美しく飾りたてるものであり、その詐術のおかげで人は過去に耐えることができるのだ〉


    〈つかの間の恋を楽しむ相手と腕を組んで散歩しながら、焼き栗のどこか懐かしい薫りをかぎ、物憂いアコーディオンの調べに耳を傾け、オープン・テラスで飽きることなくいつまでもキスをしているカップルのいる、黄金色の午後ほど純粋な喜びをもたらしてくれるものはほかにないと考えていた。〉では華やかなパリが思い浮かび、〈船の手すりから、コロニアル風の地区のある白い岬や屋根の上でじっと動かずにいるクロコンドル、バルコニーに干してある貧しい人たちの洗濯物を目にしたとたんに、〉でカリブ海に一瞬で引き戻される。これもマジックか。

  • 一文めから鳥肌。ガルシアマルケスの書き出しは天才的。一瞬で
    かれの物語のうちに引きずり込まれる。
    世界を見渡せば、天才ってけっこういるもんなんだな。

  • 占いがきっかけで読んだ本は初めてかもしれない。石井ゆかりさんが魚座について書いた本の中で、「コレラの時代の愛」が引用されていたのだ。その名前を見かけてから手に取るまでに数年経ってしまったが、時間をかけたのは正しかった。これはきっと、歳を重ねるごとに理解度の深まる物語だからだ。

    フロレンティーノという男がフェルミーナという女に恋をする。環境に阻まれながら若い2人が長い間文通で育んだ愛は、ある時実際に2人が目を合わせた瞬間、幻となって崩れてしまう。フェルミーナは裕福な身分で人柄もいい医師と結婚し、別人のように生きていく。間違いなく幸せで豊かではあるものの、愛があるのか分からない結婚生活を送る。フロレンティーノは最初の失恋から立ち直れないまま、フェルミーナに恋焦がれてあちこちをさまよう。これは秒速5センチメートルやグレート・ギャツビーのような「重すぎる片思い」系の物語でもあるが、純愛というには野性的すぎるかもしれない。

    恋に恋するフロレンティーノは彼女一筋ではない。失恋前は頑なに純潔を守っていたものの、ある時に行きずりの女と寝て以来、欲に溺れていく。フェルミーナを忘れるためなのか、それとも単なる肉欲なのか、分からないままに経験を重ねていく。

    彼の前に現れた女たちは色々な思い出を残す。不思議な、と一言で片付けるにはあまりに奇抜なエピソードが断片的に差し込まれ、一つ一つに物語のような余韻がある。精神病院から脱走し、山刀で人を斬った後に平然と祭りで踊っていた女。おしゃぶりがないと絶頂に達しない女。単なる情景描写としてこういうディテールが入ってくるので、真顔でジョークを言われているような気分になる。この物語全体が、年齢不詳の老人から聞くホラ混じりの昔話のようにも思える。どこか魔術的な雰囲気があり、それが怪しい魅力となっている。

    フロレンティーノは同時に何人もの女性を愛することは可能だという信念を築き、肉体関係だけの相手が多々いながらも、フェルミーナに対する恋心を信仰のように守り続ける。女たちとの出会いを重ねる中で、彼は人間として色々なことを学んでいく。倫理や常識のない世界で彼は魂の遍歴を続け、50年以上もフェルミーナへの恋を諦めない。何ともスケールの大きい話だ。

    ジャングルの熱気、湿気、汚臭、汗、熟れ過ぎたトロピカル・フルーツの匂いなどがごちゃまぜに漂ってきそうな、濃密な空気感がある物語だった。猥雑かと思いきや、幻想的な情景描写もあり、そのギャップも魅力的だ。生命力に溢れた小説だった。

  • 貴方達がいかに目を逸らそうとも男の本質とは程度の差こそあれ正にこの様なもので、人生とは愛とは永遠の愚行なのだ。
    しかしそれは温かく満たされるものでもあり得る筈だ。

    本書のテーマは男女の間の川に架ける橋はデリカシーであり、違いを尊重する気持ちなのだというのは見えづらいのかも知れないが、それに貫かれているからこそ変態ストーカーでも勝手な男の性の武勇伝でもなく、描かれるのは2つの孤独な魂なのだ。
    そしてそれは男女が愛し合うにはお互いに本来これだけの訓練が必要なのだ、ということを拡大して見せる。
    人生への肯定性に溢れた本書を私は深く愛す。人生最高の一冊かも知れない。

    アメリカ・ビクーニャの存在が、個の幸福の本質的な身勝手さと悲劇性、という視点を添える(なんと、この人は藤壺の身代わりの紫の上ではないか!紫の上の最後がどのようなものであったかを思い出せば、、)。

  • ガルシア=マルケスはこの作品が一番すき。どこがどういいかというのは壮大な物語すぎてなかなか上手く言えないし書けない。かつて愛した少女は老女となり、しかし伴侶が亡くなったあとに「時がきた」と現れる男。マルケスの描く人物は執着の権化でもある。

  • ガルシア=マルケスの小説を読んでいるとジェットコースターに乗っているような気分になる。

    次から次へと目を引く描写で彩られ、一気にエンディングまで連れて行かれてしまう。

    『コレラの時代の愛』は、51年9ヶ月と4日思い続けた女性と結ばれる話 と簡単に要約することができるが、500ページの間、ガルシア=マルケスは、全く休憩箇所を用意することはない。

    主人公の待ち続けた男と思われ続けた女は、若いときに文通メインの淡い恋に身を焦がす。
    しかし、女の父親に反対され、親の望む相手と結婚する。
    男は極めて真摯にこの恋愛を考えていたが、彼女の方は親に諭され、自分もこのあまりパッとしない男に見切りをつけ、親の勧める医者と結婚してしまったのだ。

    彼女は良妻となり、良き母ともなり、50年余り、妻として生きてきたが、夫婦というのは、どのように恵まれた条件でも幾多の年月のうちには、細かいさまざまなことがおこる。
    それらをガルシア=マルケスは丹念に描写する。唸るほどうまい文章だ。

    彼の方も独身を貫き、彼女を待っていたには待っていたが、社会的な成功も得、複数の女性関係もそれなりにあった。
    彼女と一緒になるという夢を持ちつつ、それがあまりにも長い月日だったので、彼の人生のほとんどが、詳細に描かれ、彼の人となりを読者は知り尽くすような気分になる。

    彼は、彼女と結ばれるために彼女の夫が死ぬのを待っていた。
    そして、彼女の夫が死んだ夜、彼は愛の告白をする。

    その後も暫く手紙のやりとりや、紳士的な訪問などを繰り返しつつ男は辛抱強く待つ。
    彼らがふたりで船旅に発つのは、彼女が未亡人になった72歳、彼が愛の告白をした76歳の年から1年以上たってからである。

    彼の愛は一応純愛なので、この物語をほかの作家に描かせたら、滑稽なものになるか、退屈で極まりない小説になるような気がする。
    ガルシア=マルケスが描くからこそ壮大な恋愛小説として結実する。

    この小説の舞台はコロンビア。時代は19世紀後半から20世紀前半。
    独立後50年ほどを経た国や、民衆の生活、疫病の措置など、時代背景に関する史実を作品に多く挿入し、その時代に生きている主人公や登場人物たちをよりリアルに浮かび上がらせている。

    新潮社が、ガルシア=マルケスの全小説を順次発刊している。
    『コレラの時代の愛』は、『百年の孤独』から約20年を経て発表されたガルシア=マルケス57歳の時の作品である。

    訳者は木村榮一さん。

  • スペイン語圏作家のとてつもない巨人、マルケス。余りのエネルギーに圧倒され中短編をつまみ食いした程度だった。
    フォークナーが影響を与えたと近日読了の解説で読み、久しぶりに触れた。

    表題通り「コレラの時代・・何と51年9か月と4日、一人の女性を思い続けた男性、相手の女性、取り巻く周囲」を描いたサガ。
    読了に1週間を超えたが、余りの語りの巧みさは秋させることなく牽引してくれた。

    そんな長い時間続けられた愛はある意味、幻想ロマン。
    マルケスはそこを図ってか19世紀リアリズムの中にきっちり小説として構築した世界を築くことに成功している。

    高齢者の愛「この場合男性80歳超、女性78歳」、しかも女性にはこの愛を反対する息子娘、そして孫がいる。
    男性フロレンティーノ・アリーサ、女性フェルミーナ・ダーサは最初から最後までこの表記・・長い、笑えてしまうほどに繰り返される・・これってスペイン語圏作品の特徴だったか?とふと疑問。
    構築された世界に登場する人々、芸術と歴史、景勝、あらゆる小物まで目を見張らせられたり、端倪したり愉しいスペイン旅行を味わえた気分。

    着地をどう持っていくのは括目!大河マグダレーナ川をゆっくりあがりつくだりつ・・生きている限りという広大なエンド。
    訳は木村氏、安定した流石の口調でとても良かった。

  • 素晴らしい小説だった。
    人を愛するとはなんと滑稽で、狂おしくて、切なくて、壮大なことなんだろうと思った。

    3人の男女を軸に描かれる、様々な人物の様々な愛。
    50年貫き通し続ける愛、激しいセックスを通しての愛、夫婦という形式の中で憎んだり生活に疲れたりしながらも続いていく愛、どれも本当の愛だし当人たちは真剣にやっているんだということがユーモアをまじえながら丁寧に描かれている。
    いろんな男女が出てくるけど、登場人物らはみんな刹那的な関係でも相手を大事にいつくしめる人たち。例え永遠には続かなくてもその時その人を愛している気持ちは絶対に本物であることは確かなのだと思える小説だった。
    いろんな愛を肯定してくれてありがとう。

    読んでいたら、自分の愛している男の人のことを想ってなぜかわからないけど涙が出てきた。
    愛し合っている人とする、あなたのことが好きで好きでたまらないという気持ちが全身から溢れ出ているようなセックスが、この世で一番の幸せな快楽なのではないかと思う。

    さすがガルシアマルケスで、描写が恐ろしく細かいのに全く飽きさせない。
    屋敷の中の調度品とか、船の展望台から見える風景とか、普通なら読み飛ばしてしまうような描写もじっくり読みたくなる。
    話の筋には関係がない脇役の登場人物の描写やエピソードが抜群に面白くて、それもじっくり読んでしまう。
    南米の気だるい空気や少しずつ近代化していってる時代感、内線が繰り返される政治的緊張、この時代にこの場所に生きる人たちの暮らしの様子が生き生きと伝わってくる。
    こんなに分厚いのに読んでいてずっと楽しくて、やはりガルシアマルケスは本物のストーリーテラー。

  • 何度読んでも引き込まれる。
    人物の視点も時代もあっち行ったりこっち行ったり自在に動く針のようで、茫然と見てるうちに万華鏡のように華やかで重層的な、20世紀初頭のコロンビアの街の絵柄が刺繍されていく…って感じ。
    『百年の孤独』のようなマジックリアリズム要素は薄いけど、(幽霊が一箇所出てくるだけ、たぶん)50年以上報われないままひとりの女性を愛し続けるとか、一方で13歳くらいの遠縁の少女との性愛に溺れるとか、鸚鵡を捕まえようとして木から落ちて死ぬとか、すべてが過剰で豊潤で、美しいラストの「限界がないのは死よりもむしろ生命ではないだろうか」の一文に深く頷きつつ、このように生を味わいたいな(もう少し薄味でいいけど)と願うのでした。

  • 「アゴーストストーリー」で数節引用
    「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」
    で、本の会のテーマ本に
    1:44-

  • 読了。
    ・時代は19世紀後半から二十世紀前半。
    ・502ページ
    ・初ガルシア・マルケスだったがラテンの世界観にほぼ共感できなかった、
    ・コレラあまりでてこない。フロレンティーノ・アリーサというおっちゃんの恋愛話。
    ・ラテンアメリカ文学。
    ・まだ子供14だったアメリカになんてことを!。しかも、あんなことに。いまだったらひどい虐待。
    ・最後、コレラの旗。愛があればなんでもいいの?
    ・おうむが原因であんな死に方?!
    ・フェルミーナ・ダーサはそんな魅力的かな?ものを仕舞い込むくせはひとごとではないけど、あそこまでいらんものは買わないなー
    ・フロレンティーノ・アリーサの行動は引いたけれど、あそこまで人を愛すことができることだけはすごい。けど、他の人たちにたいしては誠意ってもんがなさすぎないかな?とか。なんとか。
    ・最後の船旅強引すぎないか?
    ・ダーサは2人ともあまりすきではなかったのでは?

  • 聞くともなしにラジオを聞いていると、村上春樹、只今、読んでいるのは、El amor en los tiempos del colera (コレラの時代の愛)との事。 早速、再開したばかりの図書館に手配、読み始めております。
    今の時代は、コロナですので、コロナの時代の愛、という読み方もできるかと。

  • 十代の頃から老いて死を身近に感じる歳まで貫かれたひとつの愛のはなし。マルケスの語りの上手さでページは進むのだけれども男の方は女が未亡人になるまで愛を貫いたとはいいながらその間にどんだけ多くの女と寝たんだ!という下半身の締まらない人間だし、女の方もどこがそんなに魅力的だったかというとちょっとよく分からない。
    愛を貫いた話としてはリョサの『悪い娘の悪戯』の方が人物像が豊かで大分面白かったです、個人的には。

  • 相継いで出版された同じ作者の小説『わが悲しき娼婦たちの思い出』が、回想録風の裃を脱いだ形式で書かれていたのに比べ、よく似たエピソード(老人の性愛という主題)を扱いながら、全知視点を採用し時間、空間も格段に大きく展開した本作は本格的な長編小説になっている。もともと語り口の巧さでは定評のあるマルケスだが、『百年の孤独』以来彼を指す代名詞となった感のあるマジック・リアリズムの技法を封印し、19世紀リアリズム小説的技法でもって書かれた本作でも、嘘のような話を現実的な世界の中に投げ込んで違和感なく読ませてしまうという超絶技巧を駆使している。

    一度ページを開いたが最後、終わりまで一気に読み通してしまう。そうして、また始めに戻って、今度は、ストーリーを追うことにせかされることなく、地図や年表、動植物図鑑等の資料を傍らに置き(コルトー、チボーなどの古い音源を用意できればなお良し)、もう一度じっくり味読するのに向いた贅沢な一冊になっている。これほどの作品が、1985年に出版されながら、なぜ今まで邦訳されなかったのか疑問を抱きたくなるほどの出来映え。

    時は1860年代から1930年代にかけて。舞台はカリブ海に面したマグダレーナ川流域の地方都市。英雄シモン・ボリーバルの活躍により宗主国スペインからの解放を果たした南米コロンビアだが、独立後半世紀近くたち、汽船、電信などの新技術を梃子に成り上がる新興階級と没落する上流貴族との対立交代が目立ち始めている。丘の上にはヨーロッパから輸入した家具や工芸品で飾られた美麗な邸宅が建ち並ぶ一方で、海岸に面した沼沢地帯には下水が流れ込み、鼠が繁殖し、川にはコレラの死体が浮かぶという富貴と貧困、美と醜、没落と活気が対比をなし、劇的緊張を高める。

    主たる登場人物は、上流出身の医学博士フベナル・ウルビーノ、その妻フェルミーナ・ダーサ、それに私生児で後に郵船会社社長にまで登りつめるフロレンティーノ・アリーサの三人である。フロレンティーノ・アリーサは少年だった頃、電報を配達したダーサ家でフェルミーナを垣間見て以来恋に落ちる。手紙攻撃が功を奏して一時は婚約にまで至るもののフェルミーナの父親の反対で会えなくなる。冷却期間を置いてみると、フェルミーナはかつての婚約者が影の薄い男にみえ婚約を解消する。父の勧めでヨーロッパ帰りの医師フベナル・ウルビーノと結婚。幸せな結婚生活は続き、子や孫を得た現在は社会福祉に貢献する町の上流人士の妻であり、一家の采配を振るう賢夫人である。

    話は、フベナル・ウルビーノの急死によって引き起こされる。その死をずっと待ち望んでいたフロレンティーノ・アリーサは、葬儀の後、51年9か月と4日というもの、ずっと変わらず持ち続けてきた愛を未亡人に告げる。そのあまりの非常識に激怒した未亡人はフロレンティーノを追い払うが、彼は手紙を書き続ける。昔の熱に浮かされたような調子ではなく、これからの人生をどう生きるべきかを切々と説くその手紙に心うたれたフェルミーナは彼を受け容れる。果ては、二人してマグダレーナ川往復の船旅に出るのだった。

    こう書いてしまうと、なあんだと思われるかも知れないが、19世紀リアリズム小説的技法を駆使しながらもそこはマルケス。ストーリーは一気には展開しない。様々な障碍が待ち受け、隘路に分け入り、行きつ戻りつを繰り返す。一癖も二癖もある多くの個性に溢れた魅力的な人物が登場し、物語に強烈な色を添える。フベナル・ウルビーノが初めて登場する幕開けから、スラップ・スティック調のドタバタ劇が繰り返し、荘重な場面に猥雑かつ滑稽な雰囲気を醸成する。

    妄想とさえ言える愛の奇跡的な成就を描いた恋愛譚とも読めるし、70歳を過ぎても性愛から逃れられない人間の業を描いたものとも読める。しかし、60歳を迎えることを拒否して自殺する老アナーキストの死で幕を開けたドラマが、紆余曲折を経ながら、70歳をこえた男女が同衾を持続するため、コレラ患者がいることを示す偽の旗を揚げて、川を往復し続けるという破天荒な終幕に至るまで、作品を貫いているのは、ヘーゲルの言う「美しい魂」に拘ることで成熟を拒否することの虚しさであり、愚直なまでに相手との関係を求め、そのためにこそ自己を形作ることの大切さではなかろうか。読み終えた後に残る、人間という存在に感じる愛おしさこそ、本作最大の妙味である。

  • 本当に、この3月4月はいろいろなことがありすぎて、肉体・精神ともにいっぱいいっぱいになっている。

    そんなわけでしばらく小説が読めなかった。ようやく手に取った本が本書で本当によかったと心から思っている。

    この小説は19世紀のリアリズム手法を使った「総合小説」といえる。テーマは50年以上にもおよぶ一貫した男女の愛である。「百年の孤独」のようなマジカルな要素は露骨には表れないが、19世紀から20世紀にかけてのコロンビアの50年以上の男女の愛というだけで奇跡的だ。そこにはマジカルな要素が潜んでいる。リアルな文体とアンリアルなコンテンツが見事に編み上げられている。

    男女の長い長い愛を描いた小説には村上春樹の1Q84があるが、「コレラの時代の愛」のその愛はより複合的で、控えめである。主人公の男女のパーツははっきり分断されておらず、時間も激しく前後して、リアルなところとアンリアルなところの境界線もあいまいで、「読みにくい」。その読みにくさが重厚なガルシア=マルケスの美しい文章を生んでおり、それが長い長い美しい愛を描いている。1Q84も素敵な小説だったが、同じ男女の愛がテーマの本書も、それにコレスポンドする形で、すばらしい傑作だと僕は思う。文章の美しさにも、登場人物のひたむきな愛情にも胸を打たれるのである。

  • 17歳の時の初恋を成就するために、51年もの長い年月、女の夫が死ぬのを待ち、そのためだけに生きた孤独で愚かな男の人生。「コレラ感染者乗船」の旗を掲げた船の中だけで成立する愛は、死出の旅でしかありません。

  • ふむ

  • タイトルがかっこいいですよね!
    それはさておき、個人的な事情だらけの話に感じてしまって、感情移入できなかったんですが、見方によっては、人間ってこんなものですよね。その、人間ってこんなものだよなぁ、と感じさせる説得力が、この本にはあるのです。

  • 途方もないフラットさというか読み終えてみてあんなこともあったなこんなこともあったなと思い出して改めてなんとなくびっくりする

  • 一部しか読んでないけど...
    九尾の狐とキケンな同居っていう韓ドラからきになって。
    p.152
    「際立って美しく、魅力的な彼女が街路の敷き石の上をヒールの音を響かせて歩いているのに、どうしてみんなは自分のように心を奪われないのだろう、スカートのフリルがため息を吐くように翻るのを見て、どうして心が騒がないのだろう、揺れ動く髪の毛や軽やかな手の動き、黄金の微笑みを見て、どうしてみんなは彼女に恋しないのだろうと不思議に思った。」

    綺麗、素敵、フェルミーナダーサの雰囲気が頭に浮かぶ


  • ①文体★★★★☆
    ②読後余韻★★★★☆

  • ガルシアマルケス 「 コレラの時代の愛 」 


    この本の命題は「夫婦生活という厳しいイバラの道を乗り越え、紆余曲折を経たのちに 愛の本質にたどり着いた〜愛はどこにあっても愛であり、死に近づくほど より深まるものである」


    著者の最後のメッセージ「限界がないのは、死よりむしろ生命である」は感動的だった


    タイトルの「コレラの時代」は、最初に 元軍人の自殺を描いていることから考えると「戦争後の平和な時代」という意味?


    夫婦生活の後にたどり着いた 愛の物語を通して、コロンビア人の楽観的かつ運命論的な一面も描いているように思う


    著者の描く夫婦生活は秀逸
    *老いが進むにつれて〜互いに相手にもたれかかるように生きていた〜それが愛情によるものなのか、分からなくなっていた
    *何も言わなくても相手の考えていることが分かった〜相手が言おうとしていることを先に言ってしまい不愉快な思いをした







  • あらすじを見て気持ち悪い話を期待したのだが,読んでみてびっくり,普通の感情吐露だけだった。その点ではつまらなかった。

    『族長の秋』と同じくイメージ先行で,それに酔った読者が賞賛しているのだろうという推定は変わらず。ただ他作品よりかは意図が分かりやすく,長い時間を封じ込めることには成功している。

  • 最初の方は非常に退屈だったが、途中から急に読むのがやめられなくなって一気に読破。
    それなのに、結末はがっかりだった。
    結末はいらなかったような気がする。

    面白く読めたのは1度目の恋が破れた後のストーカー男の人生と振った女の結婚生活のそれぞれが事細かに描かれ出した辺りから。
    逆に順風満帆に恋をしている時期(1度目の文通期と2度目の船旅期)の話は面白くなかったのだと思う。
    逆境の中で試行錯誤、七転八倒している人の方が面白いってことだろうか。

    特に心に残ったのは、女の夫が言った「結婚で一番大切なのは幸せではなく、安定」という内容。
    納得したけど、賛同できない気持ちになる。
    結婚ってつまんないもんなのかもなぁ。

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ガブリエル・ガルシア=マルケスの作品

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