V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

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制作 : Thomas Pynchon  小山 太一  佐藤 良明 
  • 新潮社 (2011年3月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (382ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105372071

V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)の感想・レビュー・書評

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  • 去年から積んでおいたV.やっと上巻読みました。相当集中しないと読めません。密度が濃い。

  • ピンチョン=難解というイメージが先行しているようだけれど、そんなことはない。一つ一つの章で区切りをつけて読みすすんでいけば特に理解し難いところはない。登場人物の多さと錯綜する二つの時間軸の存在が単に理解を妨げているだけだ。一度読んだだけで分かったつもりになるのは確かに難しかろうが、再読すればあらかた分かる。三読すればピンチョン・ワールドにはまること請け合い。批評家でない単なる読者のありがたいことは、すべてが分かる必要などないってこと。そう開き直ってしまえば、ケネディ登場以前のアメリカを背景にしたこの小説が21世紀の今読んでもとんでもなく面白いことにびっくりするはず。

    登場人物の多さと二つの時間軸についてはすでに述べたが、そもそも二つのレベルのちがう物語が一冊の本の形式に綴じられているのがこの作品だ。その一つは、1955年のクリスマス・イヴに始まるベニー・プロフェインというヨーヨー男の物語。ヨーヨーに自分の意志がないように、自分というものを持たず、行き当たりばったりな生活を続けている。ある時は一日中地下鉄に乗り続け、そうでなければ酔っぱらって他人の家に転がり込むという生活。どう贔屓目に見てもヒーローにはなれないタイプだが、この男やたらもてる。ビリヤードの球のように転がっていくプロフェインがぶつかる何人もの男女、NYを拠点に活躍するレコード会社の社長や小説家、画家、ジャズマンといった一癖も二癖もある連中との酒とパーティーとセックスだらけの生活。デカダンスに満ちた日々をクールに、けれど優しく描いたパートは、どう考えても愛し合っている二人の男女が自意識に絡めとられて身動きできずに傷つけ合うラブ・ストーリー。スラップスティック的色調で描かれているが、その裏にしみじみとした哀感がにじむ。

    もう一つは、ハーバート・ステンシルという男が収集した「V.」についての物語群である。ステンシルの父は二つの大戦時をスパイとして生きた。彼が残した手記に書かれていたのが、「V.」という謎の存在である。父の残した「V.」を追跡するのがオブセッションとなったステンシルは、手記に残された手がかりを頼りに「V.」に纏わる情報を集めるのだった。このパートは、もう一つの物語とは色調が全く異なる。ある時はスパイ活劇調であり、またある時はグラン・ギニョールめいた残酷さを帯びるといった具合に。「V.」とは何か、というのがヒッチコックがいう「マクガフィン」である。真面目な読者は、ついついそれにひっかかるが、話を引っぱっていくための道具に過ぎない。ヴィクトリアやヴェロニカといったヒロインたちや物語の鍵を握るマルタ島の首都ヴァレッタの頭文字。歴史を動かす大きな陰謀の陰に暗躍する危険な魅力を持つ「女」を象徴する文字である。

    面白いのは、この二つの相容れない物語が、ステンシル親子を蝶番にして繋がっていることだ。一例を挙げれば、プロフェインのつきあっているパオラは、マルタ島の詩人でステンシルの父シドニーに情報を流す二重スパイ、ファウスト・マイストラルであったという具合に。パオラがステンシルに読ませる父の手記が、まるまる十一章「マルタ詩人ファウストの告解」に充てられている。戦争を契機に一人の青年詩人が人間性を喪失し「非人間性」ではなく「無人間性」を持つにいたる経緯を綴った文学性の濃い自伝は、全く別の異なった一篇の小説を読んでいるような気にさせる。

    次々と繰り出される挿話のバリエーションの豊富さに圧倒される。フィレンツェ、ヴェネチア、パリと旧世界の華やかな都市を経巡る舞台の意匠もさることながら、それぞれの物語を語る語り口の変化も見逃せない。オペラ座における暗殺事件の顛末を描いた第三章「早変わり芸人ステンシル、八つの人格憑依を行うの巻」ではヴァージニア・ウルフばりの話者の素速い転換で目眩く舞台転換を軽々とさばいてみせる。第九章「モンダウゲンの物語」では、歯科医アイゲンヴァリューが若き日の独領南西アフリカでの残酷と頽廃の日々をたっぷりと語り尽くすのだが、ここでも夢うつつの裡に語られる物語の話者が果たして誰だったのか判別し難くなる曖昧なナラティヴが駆使され、読者は眩惑される。

    定職や定住を厭うプロフェインは何らかの理由でアイデンティティーの確立を放棄している。彼の仲間である「病ンデル連」と称する知的スノブたちも自分は何をなすでもなく出来合いの言葉を投げ合っているだけ。ステンシルという名が暗示するのは大量の複製品である。ユダヤ系のエスターが自分の出自を示す鉤鼻を削りとるために通う整形外科医は、かつて戦争で傷つけられた上官の面貌の修復を期して形成外科医を目指した男のなれの果てだ。現代に生きる登場人物たちに蔓延するのはアイデンティティーの喪失という主題である。

    それに対して、豪華な舞台や配役を総動員してゴテゴテと造りあげているのが二つの大戦をはさむ時代。「V.」が象徴する世界である。絶世の美女や各国のスパイが諜報活動を行い、世界に起きる事件を操っているかのように見える世界。得も言われぬ色彩の乱舞する無可有郷や南極の極点にある世界を閉じ込めた球体の存在が信じられる魅惑的な時代。暴力や殺戮が支配する者とされるものを截然と分かつ世界。何か大きな装置が混沌とした世界を一つに纏め上げていて、人間はその中で決められた役割を果たしているような劇的な時代であり、世界である。

    プロフェインがいつまでもぐずぐずしているのは、混沌とした世界を割り切ることのできる大きな装置などありえないということを言いたいのかもしれない。しかし、恋人レイチェルは、そんなプロフェインや「病ンデル連」を認めない。ステンシルのように大きな世界を束ねる一つの解決策を求めるのではない別の道を探しているのだろう。アルトサックス奏者スフィアが呟く次の科白にそのヒントがある。

    「クールとクレイジーのフリップ=フロップ回路から抜け出るには、明らかに、スローでしんどいハードワークが必要だと。黙ったまま人を愛する。やけを起こさず、自己宣伝をせず、他人をヘルプする。クールに、されどケアを忘れず。Keep cool but care.常識で分かることだ。天啓が閃いたというわけじゃない。自分で言うのも恥ずかしいほど当たり前の認識に至っただけのことである。」この生き方、いつの時代であっても通じるのではないか。今のこの国の状態ならなおさらに。

    百科全書ばりの蘊蓄やら、挿入された歌曲(ジャズあり、ロックあり、モーツァルトのオペラあり)やら、多彩な才能を発揮するトマス・ピンチョンだが、1937年生まれで本作が発表されたのが1963年。若干26歳のこれがデビュー作だというから呆れてしまう。溢れるばかりの才気の輝きに、今更ながら脱帽である。

  • とりあえず最後まで読んでから。多分これは「当たり」だ。

  • トマス・ピンチョンの書物を読み解くのはゲームのやり込みに似ている。しかもFC時代特有の、自分でメモを取らなきゃダンジョンも踏破できないちょっと理不尽な感じ。章を経る度に湧いて出る登場人物を整理しながら進んだ先にあるものは、ダメ人間とハードボイルドと戦争と馬鹿エロと知性とパラノイアがどんちゃん騒ぎで一緒にフォークダンスを踊っているザ・闇鍋ワールドであった。阿呆だ。しかし、阿呆なまでに面白い。100人が読めば1万通りの解釈が生まれるであろう彼の作品群は、読むことの楽しさと自由がヤサイマシマシに溢れている。

  • 「V.」
    レビューを書く前に一瞬、ピンチョンに関する論文を読もうか迷ったのも事実。読んだら手っ取り早いかもしれないけど、なんか攻略本みたいで嫌だと思った。論文を書く人を否定してるわけじゃなくて、ピンチョンは、ややこしくも、かなりきちんと語ってくれているので、彼のテクストに当たるのが一番だと感じたということです。だから、私のこの文章も、読む人にとっては鬱陶しいだけだろうと理解しつつも、自分が忘れない為に書きました。

    私が初めて読んだピンチョンは、旧訳での「重力の虹」だったのだけど、この「重力の虹」の前に、面白いから読んでご覧と言われた最近日本でベストセラーだという小説を読んだのだけど、文体も酷いし、ちっとも面白くなかった。
    仕掛け混じりのミステリー的な要素が流行っていた要素らしいのだけど、線を辿って行くことにしか目的がなくて、文章そのもののキラメキも皆無で、読み終わって「は、だから?」と酷い気分になったから、「重力の虹」の冒頭を読んだだけで、やっと呼吸が出来たような、なんかものすごくホッとした。
    結局、重力の虹はチンプンカンプンのまま読んで、次に「LOT49」を二度読んで(こちらは私の知識不足もあって不十分ではあるものの、ある程度理解出来たという手応えは得た)、そして「V.」を読み始めた。

    ピンチョンは、無目的にぱっと読んだだけでも「ただ者じゃない」んだけど、「V.」を手に取ってから、「何か感じるところがあってくれればいい」なんていう曖昧な読書ではすまされない、いくつもの主義主張が渦巻いているのを感じたから、気になるところは線を引き、理解する為の手がかりとして書き写し、結局三度読むことになってしまった。
    それほどまでに主義主張があるなら、何故もっと分かりやすい、論文調で書けないのか?と思われる方も多いかもしれないけれど、この不完全なレビュー書こうとして、一筋の文章化するにあたってどうするか考えようとする度に「彼がどうしても小説で書かなくてはならなかった理由」をまざまざと痛感させられた。一本の論文で、一つのテーマを冠して書かれたとしたら、この「V.」は一体何本の論文になるだろう。そして、いくつの「断定」と、彼の憎悪する「二項対立」が出現するだろう。

    ◎意図的な肩すかし

    エジプトのシーンは、ステンシルの特異な「人格憑依」によって語られる(体験される?)文脈だし、「モンダウゲンの物語」にしても、本来モンダウゲンによって30分足らずで語られたものが、ステンシルの口を通じるとあれほどまで長大になるのだから、ステンシルが追いかけるのは、父の残した「V.」という言葉から想像された、壮大な幻想なのかもしれない。
    でも「幻想である」とも断言できない。ステンシルが、V.の義眼を追いかけてマルタを後にした後に続く、「エピローグ・1919」では、ステンシルの認識から外れた事象が出て来るからだ。
    ヴァレッタにて、ステンシルとマイストラルが「我々は兄弟かもしれない」と言うけれど、それは「1919」を読めば勘違いであったことが明らかになる。ステンシル父は、マイストラル母と会話はしているけれど、会話内容は「マイストラル父を解雇してくれ」という懇願だし、この時点でマイストラルと思しき「子供」はお腹の中にいる。それに、残酷趣味なイギリス兵磔刑像の櫛も、ステンシルの幻想だけに留まらない。「マイストラルの告解」で悪坊主が子供たちによって「解体」されるシーンにも出て来るし、最後にパオラが現物を持っているシーンも出て来る。大事な物だ、という注意はあるものの、いとも容易く譲渡されてしまうけれど…(そして、マイストラルの告解の文章によれば、悪坊主が解体されるシーンには、知った子供はいなかった=パオラはいなかった、ということになるけれど、では何故パオラがこの櫛を持っているのか? ①同じデザインの違うものだった ②誰かから貰った ③パオラは子供の頃から、パオラの特徴である姿代わりをしていたから父親が認識出来なかった、と三つくらい原因を考えられそうだけれど、この3つのうちどれかだったとして、一体何の意味があるだろう。やっぱり単に、この櫛によってV.なる女性の存在がリアルに近付くけれど、ピンチョンは決してそれが事実だったと断言したがらない、というところだろうか。

    V.のみならず、人物それぞれについても読みながら安易に「この人はこんな人」と決定しようとすると、それがまたはぐらかされる。例えば、この物語の中には、地の文、会話文、何人もの人物の発言の中で、「ストリートと温室」という言葉が出て来るから、ついプロフェインはストリートの人物、ステンシルは温室の人物、なんて決めてかかりそうになるけれど、これは壮大な間違い。
    ストリートと温室については、Ⅱ巻のp.345のくだりが最も理解しやすい説明がされているのでちょっと引用する。
    「この世界に何らかの政治的意図が読み取れるとしたら、それは今世紀の人間の活動が耐えがたいほど二分化された中で行われるに至ったということだろう。右派と左派、温室と街頭。右派は過去のホットハウスに自らを密封しつつ、仕事を続ける。その一方で左派はストリートにたち、結集した群衆のヴァイオレンスを操って事に当たる。だが、夢見る未来の風景の中にしか居場所を見いだせない。現在のリアリティはどこにあるのだ。非斉次的人間、かつては誉れ高かった‘黄金の中庸’は滅びてしまったか」

    よくよく考えると、この発言は二分化を批判しながら、自らも二分化で物申してるということに気が付くのだけど、プロフェインにしてもステンシルにしても、ストリートと温室という風に簡単に分ける事が出来ない。小説内で点々と定義される、温室的事柄、ストリート的事柄、で考えても、ふたりは当てはまるところもあれば当てはまらないところもある。

    ◎二項対立について

    プロフェインは、Vの字のように見える先の暗くなって見えない「水銀灯に照らされたストリートこそ俺のホーム」と言いながらも、ストリートとプロフェインは相変わらず他人同士の関係だった(p.52)と言われる。どこに安住を感じているかと言えば、ストリートよりも、一段階地球の「ハート」に近そうな、地下鉄や下水道だ。(とはいえ、そこにずっといられるかというとそう言う訳にもいかない。地下鉄にはヨーヨーだ!とからかいに来る子供もいるし、下水道のワニもいなくなるし、下水で暮らせばフェアリング神父のように、やっぱり病気にかかって死ぬだけだろう)地球の表面をなで回しているだけでそのハートを知ろうともしない「ツーリスト」がストリートの人と分類されていることと、その逆で、土地のハートを見つけ出そうとするのが「探検者」だとすると、プロフェインは探検者に近いようにも思える。でも彼はヨーヨーしているだけの人間だし…
    一方、温室の人間とされるステンシルにしても、V.を探しまわっている点では、やや探検者に近いけれど、探検者とツーリストを分ける一番重要な「ハート」であるマルタを避け続け(最後にヴァレッタを訪れるけれど、すぐに終わりなき探求へ出て行ってしまう)ているところを鑑みると、彼はかなり「ツーリスト」であるとも思える。
    つまり、小説内で色々とジャンルが定義されつつも、実際の人間は単純に二項対立に当てはまらないし、対立する要素のうちどちらも持っている。まるであみだくじを見ているみたいに。ある点では二人ともYes、ある点ではYes,Noと言った感じ。

    一見対立するような様々な要素があみだくじのように絡まるのも、現実世界では当たり前のことなのに、頭の中に限っては、つい二項対立しちゃう。そっちのが納まりが良くって、楽だから。
    話の大筋を一本の糸のように把握しようとするのも、そっちの方が納まりが良くて楽だからだ。
    小説だから出来たんだ、と改めて思う。
    「クールのクレイジーの、フリップ=フロップ回路から抜け出るには、明らかに、スローでしんどいハードワークが必要」Ⅱ p.187
    とV.の中で言われているけれど、まさに、二項対立の世界から抜け出るのは大変。
    論旨を明確にしなくてはいけなくて、こっちもあっちもアリ、じゃ論文にならないし、なにしろ、理屈をかき口説くだけじゃなくて、体験させられるところが、小説だからこそ。パオラが何人にでも見える、なんてのも、映像じゃ出来ないし、この無限な要素を詰め込むのも、映像の中では多分無理だ。小説だから出来た。それでいて、多くの小説(文章)というものが陥りがちな、悪い意味で不自然な「明解さ」というものを、徹底的に排除しているところは本当に、なかなか出来る事じゃない。

    普通の小説を読んで、共感したりするのも、ひょっとしたら「コミュニオン」の一種かもしれない、いやそうだろう、と思うと、V.の中で度々否定的に語られる「コミュニオン」をピンチョンが避けるのも当たり前かと思える。
    ちなみにコミュニオンが出て来るのは、国境を越えるカトリック教会、ツーリズム、戦争、あとそういえば、形成外科の待合室…。
    とはいえ、当時25歳だったピンチョンを、「頭の良すぎる人のことはなんだか分からない」と言ってしまうのも、簡単だ。確かに頭の出来は私とまるで違う。それでも、彼は必死に読み解かれることを願って、対話を試みている。色々断言しちゃえば、繋がりを明確にしちゃえば、もっと聞いてもらえる人は増えるかもしれないのに、そこは譲れないとしながら、それでも必死なのは分かる。だから、ここで「分からない」と言ってしまうことが、あまりにも酷い断絶のような気がしてしまうのだ。

    なんて言いながらも、謎のようなものはまだまだ沢山あって、お風呂の中とかでふと「アレってどういうことだったんだろう」と思いついちゃうと、もう一回頭から読まなくちゃいけない感じがして、結構追いつめられて来る。モノ、岩、風、顔、太陽に小便…。
    次作の「LOT49」でも、男たちによる多様な人生の逃げ方のようなものを避けて、現実を見る事(だからと言ってそれで何か得があるということは決して言われないんだが)が大事だというようなことは繰り返されているけれど、目を凝らし続けるのは、本当に大変。

    ◎V.について

    末筆になってしまったせいで何となく雑になりそうな予感だけど、一応書いておくと、「V.」というのは、ある一人の女性のことでもあるけれど、彼女に帰結するわけではない。V.が一人の女の人だと仮定しているのは、ステンシルだけにすぎない。
    「大きな陰謀」と想定され、外務省が警戒した「V.」とは、探検家・老ゴドルフィンが見た「ヴィーシュー」の略だ。でもその「ヴィーシューが何であるか」を知っているのは、ヴィーシュー後に南極点に達し、そこであるはずのない七色のクモザルを発見した老ゴドルフィンだけだ。老ゴドルフィンの解釈だと、外務省が恐れているのは、究極の真理が「nothing」で、それが世間に出回ったらパニックが起きるだろうということ。とはいえ、これはただちょっと聞いただけでは「?」となるのは、この話を聞かされた友人がピンと来ていないのからも明らかで、もしかしたら、これは本当の探検家、ハートを求める人でないとショックを受けないのかもしれない。ハートを求めず、皮膚を撫で回して世界中を駆け回って満足するツーリストには無関係な問題なのかもしれない。ただ「ヴィーシューの先に待ち受けている真理」よりも、過剰の世界である「ヴィーシュー」そのものに振り回されることを望むのかもしれない。例えばV.を求めて、終わりなき旅を続けたがるステンシルのように。そ(あるいは、そのステンシルの旅に着いて行ってしまう読者もまた…)

    「ヴィーシュー」には、「場所」と「ヴィーシュー的出来事」の二つの意味がある。老ゴドルフィンが辿り着いた場所としての「ヴィーシュー」と、ステンシル父によって言われる「ヴィーシューというのは一つの徴候だよ」Ⅱ p.353 という言葉から導き出される意味。
    「ヴィーシュー」は元々は場所の名前だけど、「ヴィーシュー的な状態」のことも「ヴィーシュー」と呼ばれるようになったと考えればいいだろうか。実際の場所を指し示すのでない「ヴィーシュー」の用法のほうが、小説内で主流のように感じられた。

    ややこしいのだけど「ヴィーシュー」と「極点」は別物で、ヴィーシューは、七色の色に変わるクモザルのいる、異常な「過剰さ」の世界だ。世界大戦を経てもヴィーシューを求めるV.への、老ゴドルフィンによれば言葉を見ると、ヴィーシューは、第一次世界大戦でもあったと言えるかもしれない。異様な豊かさの中にある、フォプルの屋敷での狂乱の中でも、V.と呼ばれる女性自身が「ヴィーシュー」の気配を感じている。だけど、めまぐるしい騒乱の先にあるのは、やっぱり生命なきものの世界、無の世界なのかもしれない。

    一方、「極点」は、南極点、別に具体的に極点でなくても、回転木馬の天頂にいるかのように、静止して全てを見渡せる場所および瞬間のことだろう。
    レイチェルが形成外科の待合室で漠然と感じたように「世界には観照の場がいくつも」あるのだとも思える。



    ◎モノについて

    生命なきモノとは滅法相性が悪い、なんて言いながらも、モノを過剰に愛するレイチェルやサラダ係の男たちよりも、ぎりぎりモノと言えるSHROUDや、下水道のワニと殆ど対話のようなものを行ったり、モノに当たると仕返しをされるという、プロフェインは一体何なのだろう。そもそも本来使う為のモノに対して「相性」なんて言葉を持ち出す時点で、何か次元がずれているのか。
    逆に「フェティシズムって知ってる?」と言って靴下留めという名前を持つ女の子と恋愛関係になったV.は、そのモノである女の子を失い、自分の体として取り込んだはずの、義眼も義足も、スターサファイアも、ずっと大事にしていた櫛も、全て奪い取られ、解体され、モノから切り離されてただの肉体となって死んで行った。
    「岩」というものを、モノの間でも何か特権視しているように思われるけれど、それはモノのイデア的存在とされているからか? 「モノ」を過剰さへの欲求として考えれば、わりと納まりが良いようにも思えるけれど。

  • 話がどんどん膨らんでいく。あっちからもこっちからもストーリーが押し寄せてきて目が回るような読書体験。

  • 私の中ではボルヘスやガルシア・マルケス、ミラン・クンデラと同じ系譜に属する。動機の背景が不明な登場人物たちによる、退廃的で高尚で、ポエティックでシュルレアリスティックな世界。ただ、ピンチョンにはそれを超えた大いなる視点がありそう、言葉のトリックがふんだんに使われた文字通りのレ・トリック、メタ的視点。なにかありそう、ということはかろうじて感じとれた。

  • 知的なお調子者、下巻へ

  • 表現は結構すき。
    ピンチョンの20代の作品らしく、ちょっと話題が若すぎてつまらない。

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V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)の作品紹介

闇の世界史の随所に現れる謎の女、V.。その謎に取り憑かれた"探求者"ハーバート・ステンシルと、そこらはどうでもよい"木偶の坊"ベニー・プロフェインの二人は出会い、やがて運命の地へと吸い寄せられる…。V.とは誰か?いや、V.とはいったい何なのか?謎がさらなる謎を呼ぶ。手がかり多数、解釈無数、読むものすべてが暗号解読へと駆り立てられる-。天才の登場を告げた記念碑的名作、ついに新訳成る。

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