- Amazon.co.jp ・本 (528ページ)
- / ISBN・EAN: 9784105900298
作品紹介・あらすじ
妻が引き起こした嬰児誘拐事件によって退職を迫られている歴史教師が、生徒たちに、生まれ故郷フェンズについて語りはじめる。イングランド東部のこの沼沢地に刻まれた人と水との闘いの歴史、父方・母方の祖先のこと、少女だった妻との見境ない恋、その思いがけない波紋…。地霊にみちた水郷を舞台に、人間の精神の地下風景を圧倒的筆力で描き出す、ブッカー賞受賞作家の最高傑作。
感想・レビュー・書評
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本を読み終え、ふと時計に目をやる。午後11時35分。まだ今日のうちであることに意味もなく安堵を覚える。この本は今日読んでしまいたかった。ただそれだけの自己満足なのだが、読後の満ち足りた感じとあいまって、今日という時間がまだ残っていることに説明のつかない幸福感を覚える。
「ウォーターランド」は、初老の歴史教師が語る個人の歴史だ。常々、歴史は一人ひとりのものである、と感じ続けていた自分にとって、この本が語って見せる世界はとてもしっくりとくるものがある。歴史がとかく最大公約数的立場からの必然の出来事の連続として語られるのに対して、主人公である歴史教師はもっと小さな視点に、つまりは個人の視点に歴史を降ろしていく。ここまではよい。
「降ろす」といったのは、この主人公の立場があからさまに還元主義的だからだ。物事は分割し、そして最小単位のもので構築された世界を必要最小限の力学で説明できることが究極的な説明である、とする立場を匂わせているからだ。それは逆に匿名性を高めることに繋がる。個人がぼやける。ここで、あれっ、と気づく。歴史の必然性を説こうとしているのではないか、と。あわてて、振り出しに戻る。
物語は、ふるさとを語る初老の男の回想として始まる。舞台設定がとてもよくできているため、このプロローグで読者はすっかり主人公のお話しを聞く人になってしまう。そして、それが歴史教師の対峙している「こどもたち」と同じ立場であることに徐々に気づかされるのだ。物語が「おとぎばなし」ではないことに気づいても、すでにそこから逃れる手立ては残っていない。男の話を黙って聞くしかない。黙って? いや、主人公と同じく、「なぜなぜなぜ」という疑問が、もう頭の中を巡り始めてしまっている。ここで、ああ、と思う。
歴史には偶然性がつきまとう。それを蓋然性のみで説明しようとするところが、近代を築いてきた西洋文明のもっとも脆弱な部分だ、と自分は考えているし、解ったような顔をしてそう言うこともある。とくに、個人にとって自分の力でどうにもならないことに偶然振り回されるという状況は多い。それなのに、いつの間にか、「なぜ」を問い、その答えが得られる筈であるという期待を込めながら頁をめくっている。ああ、自分は何をしているのか。それに輪をかけて、主人公の全てのことに説明を付けたがる態度にも、いらいらした気持ちが募ってくる。
物語は、低湿地帯を流れる水のように、ようとして進まない。流れは行きつ戻りつを繰り返す。そして二百年程の時間の中で、小さな歴史たちは、各々の物語を主張する。その関連性に目を奪われる自分がいることに気づく。その途端、個々の小さな歴史たちは次第に思いもよらなかった濃厚な繋がりを見せ始める。ふと我にかえる。還元主義的な、因果律の匂いにむせているのだ。そんなことを求めてはいないんだ。小さな歴史はその断片的なエピソードとしての使命を果たせば、よい。それで自分は満足なのに。しかし、歴史は自分一人のものであると同時に、他人のものでもあることが重々しく伝えられる。起こったことを受け止めるのは、しょせん自分一人であるのだが、その受け止める行為そのものは万人に平等のことなのだ。そのことに改めて気づかされる。
否応無しに、断片は章となり、章は大きな物語となっていく。歴史教師は、狡猾にもそのことを、とっくの昔に歴史そのものから学んでいたのではなかったのか。伏線をめぐらし、大きな仕掛けが一つの起点の動きでがらりと動くように、その数々の歴史たちに「説明」をつけるつもりか。しかし、初老の男には、歴史に対する潔さがあることが徐々に明かされる。それは、歴史が語り尽くせないものの存在を、結果としてではなく事実として、受け入れていくことによって示される。それは何か。それは、月並みだが、愛であり、未来、である。
現在は、過去の延長上にある、と男は考えているふしがある。しかし、未来が現在の延長にあるということには納得していない。そのことを、回りくどく歴史の中の教訓としてひねり出し、とある生徒に示してみせるのだが、その説明は必然的ではなく、男の信条の吐露に過ぎない。歴史からは、未来について有益なことは学べない。それはつまり、男のしている「説明」とは矛盾することでもある。「原因」と「結果」の関係は、必ずしも必然的ではない。
いつか現在となるであろう未来の一点に立つ自分を想像してみて、若者は絶望感に捕らえられている。もしも、現在が過去の結果に過ぎないとすれば、必然的に行き着く先はどこなのか。歴史はもう終わりに向かいつつあるのだ、と。そんな若者を歴史教師は、未来が現在の延長に取り込まれようとする力に対抗できるのは、若者だけなのだ、と諭す。
矛盾を意識しているのにも拘わらず、男は自分の歴史に「なぜなぜなぜ」を問い続け、その理由を探ることを止めない。一方で、未来という時間がまだ人生に占める割合が大きい「こどもたち」には、なぜと問うことが進歩ではなく退行に近いことだと説いて聞かせる。「なぜ」には答えが期待された「なぜ」と、答えのない「なぜ」の2種類があるのだ。そのことを歴史教師も生徒も区別しようとせず、その違いの間で矛盾した二つの自分の意思と葛藤する。この意識の揺れがこの小説の魅力なのかも知れない。
小説の各断片が一つの秘密に集約され、ようとして語られなかったことが全て語られた時、自分はとても不安になる。ああ、この小説は還元主義に陥っていくのか。すべての「なぜ」に答えがあるという、理に落ちる愚を繰り返すのか、と。しかし、物語は、また一つの小さな歴史の断片と、さらに、現在とも過去ともつかないお話の断片で、「なぜ」を封じて幕を引こうとする。そう、その在り方が安堵感をもたらしてくれる。語ることは、必ずしも原因を明らかにする行為とは限らない。更に言えば、結果を受け止めるのは、その時空間上の点にいた観察者としての個人のエピソードに過ぎないのであって、別の点の、別の観察者から見た出来事と一致している保証はないのだから。「なぜ」の答えは、誰も知らず、そしてまた、誰の心の中にもある。
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今まで私が読んだ本の中でも、一二を争うレベルで長い。500頁はある。でも、52の章に分かれているから、意外と読みやすかった。でも長い。
沼に囲まれた湿地が舞台。
物語を語っているのは、一人の歴史教師。
彼の口から語られる物語は、過去の話ではあるけれど、淡々と進んでは戻り、進んでは戻り。
私が生きている"いま、ここ"も、本当にあるのだろうか。誰かの胸の中に、確かに存在しているのだろうか。
段々と沼地に足が取られていくような、不思議な感覚に陥る。
"何がこうで、こうなりました"と言う歴史の事実があって。だけど、その裏には色々な人がいて、一人一人が見ている歴史と事実は違うんだなって思った。
明らかにすべきことと、そうじゃないこと…何でも白黒付ければいいってものじゃあないのね…。
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シルトという単語を知ったのはこの本が初め
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長編小説「ウォーターランド」という名の箱に入り、その箱の中を跳ね返り跳弾するボールの軌道を読む。
初めはその不規則な動きに翻弄され、足元はヘドロが溜まり身動きするのも困難である。
しかし、ある所でそのボールの軌道を理解すると、そのボールが箱の大きさを計る役目を果たす事を知る。いつの間にかヘドロは排出され、その流れが海へと続く川の流れと変わり、その中へ深く潜っていく。