アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること (Shinchosha CREST BOOKS)
- 新潮社 (2013年3月29日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (271ページ)
- / ISBN・EAN: 9784105901011
作品紹介・あらすじ
もしもまたホロコーストが起こったら、誰があなたを匿ってくれるでしょう――。フロリダの旧友夫妻を訪ねてきたイスラエルのユダヤ教正統派夫妻。うちとけた四人は、酒を飲み、マリファナまで回してすっかりハイに。そして妻たちが高校時代にやっていた「アンネ・フランク・ゲーム」を始める。無邪気なゲームがあらわにする、のぞいてはいけなかった夫婦の深淵。ユダヤ人を描いて人間の普遍を描きだす、傑作短篇集。
感想・レビュー・書評
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著者は、1970年、ニューヨーク州ロングアイランドのユダヤ教正統派コミュニティで生まれ、敬虔なユダヤ教徒として育つが、後に棄教している。
民族としてのユダヤ人に対する、内からの目と外からの目を併せ持つ存在といってもよいのかもしれない。
本書に収録されているのは、8編の短編。いずれもユダヤ人が中心に据えられている。
やりきれなさを感じさせる物語が多い。
表題作<アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること>は、レイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』へのオマージュになっているという。対照的な2組のユダヤ人夫婦が語り合う。描写は比較的軽快だが、幕切れでは、罪がない「はず」のゲームが発端となって、人と人の間にぴしりと亀裂が入る瞬間が描かれている。亀裂の奥には怖ろしいほど暗い深淵が覗いている。
<僕たちはいかにしてブルム一家の復讐を果たしたか>は、ユダヤ人のいじめられっ子たちvs反ユダヤ主義のいじめっ子たちといった構図で、コミカルなシーンもあるのだが、やりきれなさが勝って笑えない。最終的に、ささやかな復讐はなされるが、爽快感はない。
最もやりきれないのは老人たちのサマー・キャンプでの出来事を描く<キャンプ・サンダウン>。やりきれない上に取り返しの付かない話である。
<読者>は、かつてはもてはやされていた老作家と彼の熱狂的なファンである老人を描く。この短編集の中で最も後味がよいのはこの話だったと思う。
<若い寡婦たちには果物をただで>は、ショア(ホロコースト)を生き延びたが、あまりに苛酷な体験をしたために、心のある部分が死んでしまった男の話である。男はこのため、自らも犯罪に手を染めている。しかし、この話は、ある意味、再生を描いているのかもしれない。「悲劇」が存在したことを認めつつ、痛手を受けたものに寄り添い、集団として乗り越えようとしているようにも思える。
個人的には<姉妹の丘>を一番興味深く読んだ。ヨルダン川西岸に入植した2組の家族の物語である。1人の女の子をめぐる2人の母の、いささか寓話めいた話だ。
裏表紙のキャッチコピーには、「すみずみまでユダヤ人を描きながらどこまでも普遍的であることの不思議」とある。
本短編集の一番の美点が、「普遍的」なものを描いていることなのかどうか、自分には判断がつかないが、「ユダヤ人であること」「戦禍の記憶を受け継ぎながら生きていくということ」はいくばくなりとも疑似体験できたように思う。そういう形で思いの片鱗を共有できることが、すなわち普遍的であるということならば、それはその通りなのかも知れない。
*そういえば、カーヴァーの著書を訳した村上春樹は『走ることについて語るときに僕の語ること』という本を書いていたが、これも『愛について・・・』から取ったタイトルだろう。
*表題作の落とし方は、何となく『ヴァレンタインズ』(オラフ・オラフソン)を思い出させる。ユダヤ系作家の作品からアイスランド系作家の作品を思い出すというのも少々不思議ではある。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
歴史と、自分と、環境と。様々なものに影響を受けて、様々なものの中で生きていく。それは誰しもが同じだけれど、私は自分以外の人生を体験することはできないし、誰かが私になれるわけではない。
それでも、何かが「私」を強く定義づける、「それ」が私の多くの時間を左右する、ということはありえることだし、実際この本では登場人物たちが「ユダヤ人」であることが、たえず強力な引力のようにはたらきかけているように思う。
私はおそらく、この本の100分の1も理解できていない読者だと思う。歴史を知らなさすぎて、読んでいて恥ずかしかった。
けれど、この本に収録されている話のいくつかが、「ユダヤ人」であることがあまりにドライに書かれているように感じられて、私はそのことにタジタジとなってしまった。
描かれていることは確かに普遍的であり、「ユダヤ的」なものというのがどういうものか全く知らない私でも、その「骨に染みついた何か」をなんとなく感じることはあった。けれどむしろ、その語り口のドライさ、鬱屈さ、それていて突き放している感覚に、私はよりショックを受けた。著者の「ユダヤ的」なものに対する屈折して、それでいてどこかセンチメンタルな諦めにも似たものに、タジタジになってしまったのだ。
書かれていることはまだ、共感を覚える、物語として読もうと思える。しかし、その「書かれ方」に、私は自分は共感できないのではないか、と思ったのだ。
私はここまで自分が「日本人」であることを突き放せない、と思った。別に日本人でなくともなんでもいいのだけど、とにかく、自分がそれによって強く定義づけられたもの、多くの時間や、時にはアイデンティティを左右してきたものを、こんな風に乾いた目で見ることはできない……。
自分の人生を決定づけてきたものを、こんな風に書く人がいること、そんな歴史を生きている人たちがいること、そのことが私にはちょっとしたカルチャーショックだったのだ。私はまだ、何も知らない。 -
「すみずみまでユダヤ人を描きながら、どこまでも普遍的」という裏表紙の言葉通り、出てくるのはユダヤ人ばかりで、ホロコースト、宗教、イスラエル入植、パレスチナとの戦いなど、出来事もことごとくユダヤ人に関することばかり。なのに、私の心にも深く響いた。
現代アメリカに生まれ育ち、恵まれた生活を送るユダヤ人の若者と、ホロコーストを生き延びた老人との隔たりは、日本の若者と、戦争体験を持つ老人との隔たりと極めて近い。
あるいはユダヤ人的生き方を捨ててエリート弁護士として生きる男が、ふとした瞬間に自分の過去に絡めとられそうになる姿も、西欧的価値観で生活しながら、日本の土着的な思考を捨てられない日本人に重なる。
つまり、他人事として読めなかった。
ユダヤ人は特殊な歴史を生きる、特別な人たちではない、という当たり前のことがよく分かった。
ホロコーストから生き延びた老人の入れ墨のエピソード、テンドラー教授とシミーの物語など、複雑な人間心理を鮮やかに描く手腕にも感心した。
著者の作品がさらに翻訳されることを期待する。-
お読みなったかとは思いますが、サイケイの記事
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140319/bks1...お読みなったかとは思いますが、サイケイの記事
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140319/bks14031908470002-n1.htm2014/04/03
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表題を含む短編集。ユダヤ人であることを根底のテーマにしながら、それぞれのテーマや手法が多様なのが著書の力量を感じさせる。一方で、「ユダヤ人である」ということは、おそらくこの世の中の「○○人である」ことよりも複雑で、ある意味ひねていて、特異的でありながら、そのことが普遍性に繋がっていることを、不気味に感じさせる小説である。
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当然乍ら、100%日本人、日本的だと自覚をした。それ自体悪い事とは思えないが、他者の在り方を「解った風に」語れないし、判るという事の困難さも認識できた。
読むことで理解できると思ってはいないものの、この作品の筆者のスタンスに圧倒された思い。
ドキュメンタリーや映画で見る彼彼女らへ漠然と抱いていたウェット感が丸でない、圧倒されんばかりに大地にすっくと立っている筆者。だから、たいていは筆者のメッセージに共感を抱きつつ読み進める読書時間が、突き放された感ありありでちょっと自分が空に放り出された感覚。みじめというより、物悲しい。
しかし、翻って思うに、此れこそが歴史を読む、それぞれの民族が抱えて来た血を感じる事ではないかと原点につき戻された嬉しさ❔もある。
かなり、ヘヴィーが読書タイムとなった。
「自らの神、迫害とホロコーストを辿ってきた道、旧約聖書時代からの契約そして過去を背負いつつ歩み続けるいばらの道」はユダヤ人でないと心底の理解はできないとすら思わされた。 -
表題作にラストの2篇は興味深く読んだが、正直ハマれず楽しめたとは言えなかった。
あれが、これがと考えることもあるが、やはりただ自分には合わなかったのだろう。 -
各短編、イマイチ話に入り込まえず終わってしまったなあ。
ユダヤ文化の知識がさっぱり。
ただ最後の「若い寡婦たちには果物をただで」は心にズシーンと響いた。 -
「ふつう」のユダヤ人を描いたという短編集。
彼らは自らの神と法、迫害とホロコーストの歴史、旧約聖書時代からの契約と過去を背負いながら現代を歩き続けていく。
ユダヤ人はユダヤ人以外の何ものにもなれないのだろうか。
今後起こり得る次のホロコーストを想定した場面が印象的。 -
濃厚なユダヤ文学なのだが、アイザック・バシェヴィス・シンガーがユダヤ人社会を完全に内側から書いているのに対して、イングランダーは敬虔な家庭で育ったのちに信仰を捨てたという経験を持つ。現代的で醒めた視点がある。
現代のユダヤ人が民族の問題をどう捉えているのか。アーレントも言及したホロコーストの再来に言及する表題作、パレスチナ問題、宗教。ユダヤ人が「ホロコーストはもう一度あり得る、その際にどうしたらいいのか、誰が守ってくれるか」と日常生活で会話しているというのは、なんと作家の家庭の実体験であるという。ユダヤ人、そして彼らを抱える現代の世界(アメリカでありイスラエルであり)に対する認識が揺さぶられた。
作家は、よいとも悪いとも、ありともなしとも、答えを明確にしない微妙な立ち位置だが、インパクトは強烈だった。