低地 (Shinchosha CREST BOOKS)

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制作 : Jhumpa Lahiri  小川 高義 
  • 新潮社 (2014年8月26日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (477ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901103

低地 (Shinchosha CREST BOOKS)の感想・レビュー・書評

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  • やっぱりジュンパ・ラヒリはすばらしい。長編で、すごく読みごたえがあった。満足。わたしはこういう長い話が大好きだ。まさに人生そのものが描かれているというか。
    人生、って、自分の思いどおりに生きなきゃいけないとか、楽しく生きなきゃ損だとか、過去にとらわれずつねに前向きに、とかいろいろいわれるけれど、実際は、そういうものでもない、どうしようもないこともある、ということがわかるような。なんだか人生について考えさせられた。スバシュもガウリも、まったく思いどおりの人生ではないし、楽しくも生きてない。過去に、死者にとらわれて、悲しみばかり。それでも人生は続く。
    とくにガウリについて、じゃあ、どうすればよかったのか、と思うけれども、どうしてもああいう生き方しかできなかったんだろうな、と。

    それと、だれも感情や思いをあらわにしない。自分の思いをのみこみ、人にも尋ねない。なぜ?ときかない。わかりあえない。それでも人間関係は生まれるし、やっぱり人生は続く。
    せつなくて苦しい話だけれど、スバシュやガウリの、もがかないというか、なるようになるしかないとでもいうような、淡々とした生き方がいっそ潔いというか、ここちいいような気さえして。
    でも、ラストにそれぞれ少しの希望が見えるところがすごくよかった。救われた気がした。

    短くて淡々としたような文章がすごく美しくて。インドのトリーガンジやアメリカのロードアイランド、カリフォルニアの風景や季節の描写がすばらしい。

  • 同じように丸く明るく空に輝いても太陽と月はちがう。遍く人を元気づける太陽に比べれば、月の恩恵を受けるものは夜を行く旅人や眠れず窓辺に立つ人くらい。健やかに夜眠るものにとって月はあってもなくてもかまわないものかも知れない。カルカッタ、トリーガンジに住む双子のような兄弟、スパシュは月、ウダヤンは太陽だった。よく似た顔と声を持ちながら、独り遊びの好きな大人しい兄に比べ、一つ年下のやんちゃな弟は人懐っこく誰にも愛されて育った。

    時代は1960年代。アメリカがベトナムを爆撃し、チェ・ゲバラが死に、毛沢東が文革路線へと走り、紅衛兵の叫ぶ「造反有理」のかけ声の下、世界中に学生運動の嵐が吹き荒れた。二人が住むカルカッタの北方、西ベンガル州ダージリン県にあるナクサルバリという村でも共産主義の活動家による武装蜂起が起きた。何が人の運命を左右するかは分からない。その地方にも稀な秀才として市内の大学に通っていた二人の運命はそれを境に二つに分かれ、二度と出会うことはなかったのだ。

    海洋化学を専攻する兄はアメリカ留学の道に、弟は教師となり家に残ったものの、家族の知らぬ間にナクサライトの一員として革命の道を歩いていた。ロードアイランドの下宿屋に弟の死を告げる電報が届いたのは1971年。アメリカに来て三年経っていた。身重の妻を独り残し、弟は官憲の手により殺されていた。帰国した兄は弟の子を身ごもったガウリをアメリカに連れ帰り、自分の家族とする。やがて娘ベラが生まれるが、妻は頑なに心を開かず、育児より自分の研究を優先する。ある日、妻は娘を残し家を出、そのまま帰ることはなかった。スパシュはベラを男手一つで育て、困難もあったがベラは逞しく育つ。ベラが身ごもったのを知ったスパシュは今まで秘していた事実を告げるが…。

    ジュンパ・ラヒリの最新長篇小説である。それだけの情報で、読む前から期待が高まる作家というのも、そうはいない。その名を一躍有名にした『停電の夜に』以来、『その名にちなんで』、『見知らぬ場所』と、短篇、長篇という枠に関係なく、どの作品も期待を裏切ることはなかった。そして、本作。両親が生まれたカルカッタと、作家自身が育ったロードアイランドの地を主たる舞台にとり、双子のようによく似たベンガル人兄弟と、その家族の半生に渡る人生を描いている。喪失とそれによる孤独からの回復を、静謐な自然描写と精緻な心理描写で描いてみせ、長篇小説作家としての資質を今更ながら明らかにした。著者の代表作になるといっていいだろう。文句なしの傑作である。

    すぐ下に誰にも愛される弟を持った兄の気持ちが痛いように分かる。両親の愛も周囲の賞賛の声も弟の方に集まることを、兄は羨むでもなく自然に受け止め、自分ひとりの世界にふける。誰も追わず、入り江のように孤独に、波が運ぶ漂流物のような人や愛を受け容れる。弟の愛は分け隔てなく、恵まれぬ者、貧しい者にそそがれるが、かえって自分の近しい者はなおざりにされる。兄はそれを拾うようにして自分の近くに置くが、相手は弟の喪失を嘆くあまり兄の愛に気づかない。なんて哀しいのだろう。いちばん弟を亡くしたことを悲しんでいるのは兄なのに。

    淡々とした筆致で綴られる文章は、章が変わるごとに母や妻の視点が現われては、魅力的な弟の在りし日の姿を回想し、読者の前に広げてみせるので、読者がスパシュの傍に立って相憐れむことを許さない。社会正義は弟の側にあり、母親から見れば故郷を捨て、望まれもしない弟の嫁と再婚をする息子など弟の比ではない。すぐ近くにいて、ウダヤンの思想と行動力に影響を受けた妻にしてみれば、善人ではあるけれど、自分と家族のことしか念頭にないスパシュは物足りない。

    疾風怒濤のような時代に、西欧の地図で見るごとく大西洋を真ん中に挟み、東のカルカッタと西のロードアイランドを行き来しながら、主人公の眼や耳がとらえるのは、日没の入り江に立つ鷺の姿であったり、屋根を打つ雨音であったり、とあまりにもデタッチメント過ぎるようにもみえる。二人の兄弟はコインの表と裏。二人で一つだった。いつも弟に付き従うように行動していた兄は、独りでは半身をもがれた生き物のようなもの。喪失の重さを人一倍感じていたにちがいない。物語の終盤、事態が一気に動き出す。喪われたものは、贖われることで、報いをもたらすのだろうか。余韻の残る終幕に静かに瞑目するばかりである。

  • 本の裏に書かれている山田太一の解説から持った印象とは、だいぶ異なるものを感じた。善良であったり利己的であったり正義感に燃えていたり。どんな人でも、自分としてしか生きられない。特にガウリの生き方には動揺した。悲惨な状況から救ってくれたスバシュも愛した人の子である娘も捨てるという選択までは何とか理解できても、何故数十年たった後にのこのこ会いにいけるのか。残酷な言葉を娘にぶつけられてショックを受けても、当たり前だとしか思えない。甘い言葉をかけてもらえると思うほど、愚かではないはず。この行動の意味を分かる気もするが、簡単に分かった気にもなりたくないとも思う。
    ガウリとウダヤンの新鮮な愛。スバシュとウダヤンの兄弟愛。スバシュがベラにかける損得抜きの愛情。こういった描写が本当にうまい。何よりも大切なのは愛だと分かっているのに、それだけでは生きていけずにもがく一人一人をとてもいとおしく思える作品だ。

  • カルカッタ郊外からニューイングランドへ。革命の犠牲となった弟が残した身重の妻を引き取り、兄はアメリカの地で新しい家庭を築こうとする。
    ジュンパ・ラヒリを読むのはこれが初めて。SNSで彼女のキーワードを「過渡期」と「dislocation」と教わり、それを念頭に置いて読み進めた。
    本作では文体を変えたということだけれど、短文を重ねて抑制を利かせた文章で、とても読みやすい。ただでさえ重くなってしまう近現代史を語るにあたり意識的に軽くしたそう。それでも饒舌に過ぎるかなと感じることがある。この主題への作者自身の思い入れが窺える。
    主人公スバシュの生まれ故郷トリーガンジとロードアイランドは、地続きの湿地帯のようにも思われる。スバシュのまなざしはいつも水辺をさまよい、心休まる場所を求めながら見出せずにいる。この世を去った弟が打ち捨てていったものをなんとか掬い上げようとしても、みんな彼の指の間から滑り落ちていく。物静かな彼の懸命な姿と埋められない喪失感がなんとも哀しい。
    とても柔かな手触りの、多くの人に愛されるであろう小説。ただ個人的にはガウリの思いやスバシュとベラへのふるまいを受け入れ難く感じてしまい深い感銘には至らなかった。ウダヤンがあまり魅力的に映らなかったのもその理由かもしれない。

  • ラヒリはデビュー作において完成度の高い作品を書いていた。
    そして この最新作 「低地」において

    より複雑な話を 深く 丁寧に また 時間も 空間も 視点も あちこち 飛びながら 一枚の布を丁寧に織り上げる筆力をみせてくれた。

    人は 様々な ものに助けられ 影響され 生きていく。
    それらは生きるよすがである。


    ある人にとってはとても大事なよすがが 別の人には
    害毒でしかなく。 また 好意は 受け入れられるとは限らない。

    本書は 60年代の インドの学生運動を物語の背景にし
    70年代の アメリカ東海岸を舞台として
    人生の意味について丁寧に描いてくれる。

    おそらくラヒリがそうだからと思われるが
    そこそこ賢い人ばかりが描かれる。

    大学をでて 研究をして という人たちである。

    その人たちが人生をもがきながら生きる。

    本の知識と 実生活は 全く関係がないわいけではないが

    生活や人生を決定したりはしない。

    ラヒリはこのような小説を書くという思考実験を通じて

    人間について理解しようとしているのだろう。

    そして 読者はそのラヒリに導かれれて 作品世界を歩く。

    読むとく行為がこの上なく心地よい。

    読み終わるのがもったいなく感じられるほど 堪能した。

    次回作が待ち遠しい。

  • 淡々とした文体を味わいながら、とても濃密な時間を過ごすことが出来ました。ラヒリの作品は、特に読後感が他の作者と違って、何とも言えない満足感、充実感を残してくれます。ラヒリ中毒とでも言いますか。

  • ジュンパ・ラヒリを読む継ぐということは、待つ、ということだ。「停電の夜に」から十五年。十五年で四冊は寡作と言ってよい程に少ない。しかし数年毎に出るフランス綴じの持ち重りのする一冊は、本の佇まいが凛々しく感じられる程に存在感があり、頁を繰る前から読むものを自然と引き寄せる。一気に読んでしまいたいとの欲求も一瞬頭をもたげるが、一頁、一頁、ゆっくりと捲り、一文字、一文字、丹念に言葉を拾って読みたい気持ちが勝り、いつまでも厚手の本の中程をうろうろすることになる。期待は裏切られることがない。

    これまでも一貫して描いてきた移民とその家族の物語。故郷を離れた親の世代が新しい約束の地で感じる疎外感と、その子供たちが感じる二重に切り離された思い、そんなものがこれまでのジュンパ・ラヒリの描いて来た世界だが、それは作家の中に生まれつき存在する視点、つまりは子の世代から見た家族の物語であったのだと、この本では改めて気付かされる。子から見て、親の世代の疎外感は仮の住まいに於ける、いわば借り物の疎外感であり、祖国に戻れば解消されるものでしかない。彼らには戻るところがある。一方で自分たちには帰属する場所や否応なしに受け入れなければならない慣習すらない。そんな葛藤がこれまでの作品には常にくすぶっていたように思う。しかし「低地」における主人公はそんな二世たちではなく、移民となることを選択せざるを得なかったものたち。親たちの世代もまた母国と異郷の地の二つの強い陰影の中でやはり二重の葛藤をしてきたのだということが語られている。

    ひょっとしたらジュンパ・ラヒリの創作活動の原点には、押し付けられた疎外感の理不尽さに対する強い思いがあったのかも知れない、と思う。それを言葉にすることでそれを押し付けた親の世代に対して間接的に抗議する思いが幾らかはあったのではないかと。一方でその矛先には真に打ち倒すようなものは存在しないことも解っていた筈だ。「低地」で描かれたものは、そんなある意味での自分のルーツ探しの答えのようなもの、完全解決は出来ないけれど、答えは過去にではなく未来にあるというメッセージ、あるいは赦しであるように思う。それ故に、幾つかのエピローグ的な文章は、どこかしら予定調和的であるのだろう。

    十五年で長篇と短篇が各々二冊。但し「停電の夜に」の印象が強烈過ぎて、ジュンパ・ラヒリはどうしても短篇の人という印象が拭い切れない。この「低地」も長篇との位置付けだけれど、むしろ連作短篇の趣があると感じるのは穿った見方だろうか。もちろん、全体を繋ぐ関係性は強く、長篇小説を読み通す時の面白さは充分に感じられることも確かだ。しかし心地の好い分量の文章毎に切り分けられた一つひとつのエピソードは、自己完結することを志向するようにも読める。一つのエピソードをそう読んでしまうと、エピソード間の関係性は必然ではなくなり、語られなかったエピソードの背景を別の章で読んでいる、という位に、文章の塊の間の関係性は緩くなる。そのように読めば、やや曖昧で予定調和的なエピローグにも過度に違和感を覚えたりすることはない。

    あとがきに、ジュンパ・ラヒリの次回作はこれまでとは趣の異なるものになりそうだとある。どんな物語が紡がれるのか、旨いものを出す店で次の一皿にどんな料理が盛られているのかを期待をしながら想像するようにして、待つ。

  • 人生の終盤にさしかかったとき、あるいは自分の死を覚悟した時に、思い出すのはどんなことだろう?

    こんな風に、たわいもない場面の記憶かもしれない。

    それだけに、余計に切ない。

  • 自宅前の低湿地て、両親と身重の妻の目の前で射殺された革命家の弟。
    両親と同居しながら黙殺されている弟の妻を、留学先のアメリカへ自分の妻として連れ出す兄。
    時の経過とともに、二人は本当の家族となっていく…話なのかと思って読んだが、ジュンパ・ラヒリはそんなに簡単ではない。

    小さい時から何をやるのも一緒だった年子の兄弟。真面目でおとなしい兄のスバシュと、活発で何事にも物怖じしない弟のウダヤン。
    まっすぐな正義感から革命にのめり込んでいく弟を見ながら、スバシュは少しずつ家族と距離をとり始める。
    インド人社会の濃密な家族関係を重く思いながらも、面と向かって意思表示のできないスバシュは、アメリカに留学する。
    スバシュにとってインドの家族が徐々に遠くなった頃、突然弟が死んだと連絡が入る。

    親が子どもの結婚相手を決めるのが当たり前のインドで、ウダヤンは自分で決めた女性と結婚した。両親の承諾も得ないで。
    両親と同居してはいるが、家族として扱われていないガウリを、スバシュはアメリカに連れ出して、自分の妻とする。

    時間が解決すると思った。
    いつかは本当の夫婦として、家族として暮らせると思っていた。
    しかしガウリは頑なにウダヤンにこだわり、自分が生んだ娘であるベラのことをも本当には愛せないような気がする。
    ガウリは自分の元々の専攻である哲学に没頭し、ついにはスバシュとベラを置いて家を出る。

    不在の存在感。
    スバシュとガウリの間には常にウダヤンがいて、ガウリが出ていった後のスバシュとベラの間には常にガウリがいる。
    視点を変えながら、時系列も行ったり来たりしながら、少しずつ彼らの半生が明かされていく。

    “どうということのなさそうな日常の家事が、どうしてこれだけ苛酷なのか全然わからなかった。どうにか一段落すると、なぜか知らないが疲弊しきっているのだった。”

    慣れないアメリカで家事と育児をしている頃のガウリの心情。
    ガウリの不安や、育児の重圧などはとてもよくわかる。
    だが、だからといってそれは家族を捨てるほどのものなのか?
    実の父親ではないスバシュがベラを慈しみながら育てているのに、なぜガウリはベラを愛しきれないのか。

    こういう小説にネタバレは関係ないと思うので書いてしまうけど、ガウリはベラを愛さなかったのではない。
    ベラを愛することを自分に禁じたのだと最後まで読んで思った。

    ウダヤンがしていたこと。
    ガウリがしてしまったこと。
    人は社会とは無縁に生きられないのだ。
    古い社会と新しい社会がせめぎ合っていたインドで、どうしようもなく壊れていった家族の話。

    重く苦しい話なのに、なぜか心が洗われていくような。
    自分とは。家族とは。
    正解なんてないのだろう。
    だけど考えずにはいられなかった。

  • 生と死、家族と愛、思想と生活。これらを上手く織り交ぜながら、静謐な筆致で進めるストーリー。
    福永武彦の「忘却の河」の国際化版と言ったイメージの佳作。

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低地 (Shinchosha CREST BOOKS)の作品紹介

若くして命を落とした弟。身重の妻と結ばれた兄。過激な革命運動のさなか、両親と身重の妻の眼前、カルカッタの低湿地で射殺された弟。遺された若い妻をアメリカに連れ帰った学究肌の兄。仲睦まじかった兄弟は二十代半ばで生死を分かち、喪失を抱えた男女は、アメリカで新しい家族として歩みだす――。着想から16年、両大陸を舞台に繰り広げられる波乱の家族史。

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