低地 (Shinchosha CREST BOOKS)

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (477ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901103

作品紹介・あらすじ

若くして命を落とした弟。身重の妻と結ばれた兄。過激な革命運動のさなか、両親と身重の妻の眼前、カルカッタの低湿地で射殺された弟。遺された若い妻をアメリカに連れ帰った学究肌の兄。仲睦まじかった兄弟は二十代半ばで生死を分かち、喪失を抱えた男女は、アメリカで新しい家族として歩みだす――。着想から16年、両大陸を舞台に繰り広げられる波乱の家族史。

感想・レビュー・書評

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  •  何度か挑戦したけれど、いつも途中で挫折したり、かなり読み飛ばしてしまい苦手意識があるクレストブック。今回、初めてしっかりと読めました。それでも最初の60ページぐらいは、やはりかなり辛く、多くの方のレビューで評価が高いのを励みに読み進めました。

     何がそんなに苦手なんだろう?今回は、映画のノベライズ本のような感覚を持ってしまうからかなと感じました。情景描写や土地や風景の説明が、自分が普段読み慣れているものより詳しく、そしてドライに書かれているところが、自分にとっては退屈に感じてしまうのかもしれません。映像で先に何となく見たシーンを、とても詳しく文字にしているようなまどろっこしさを感じる。文字から映し出される風景を、もっとじっくりと味わう心の余裕を持たねばと自省しました。

     ガウリ。夫ウダヤンを若くして亡くし、その人との子ベラを宿し、愛した人の兄と再婚し、インドからアメリカに渡り子育てをする。同情する余地はあるけれど、どうしても彼女のことを好きにはなれなかった。ガウリは世の中の母親の多くがしているように手放しで子供を愛することができない。

    [ベラと二人で過ごす時間がたっぷりあったというのに、かつてはウダヤンに感じたような愛情が再び立ち上がってくれることはなかった。逆に麻痺したように動きの取れない無力感が広がっていた。どこの女でも、当たり前にしてのけていることが、一人だけうまくいかないという気がする。こんなもので苦労することになったのがおかしい。]

     子供を心から愛せないのが悪いと言っているのではなく、自分の人生を生きたい、もっと勉学を極めたいという自己完結ともいえる欲望が根本にあり、子供を捨てたと感じるからだ。愛せないから捨てたのではなく、子供のそばにいることより自分の欲を取っただけに感じられた。上手く愛せなくても捨てることはない。もう亡くなっている、若き日の恋人ウダヤンとの思い出は、記憶の中で濾されていって甘美であったり固執するに十分な特別なものになるのは当然だ。その思い出まで言い訳にして自分勝手な自分を心のどこかで慈しんでいる気がしてならなかった。


    「あたしのこと好きだって言うより、あたしの方がおとうさんを好き。」
    というスパシュとベラのシーン。物語全体に孤独感ややるせなさがはびこる中で、どんな仄暗さをも寄せつけない愛の強さを感じ、輝かしく印象的だった。

  • 『停電の夜に』『その名にちなんで』についで、ラヒリ3作目。いつものことだが、読了後に他の方のレビューや書評を読み比べ、自分の読後感や読み落としなどをチェックする。この作品ほど、人によって読む観点がそれぞれなんだな、と感じた作品も珍しかった。

    作者はこの作品で、性格の真反対な兄弟を登場させ、陰―スバシュ―ロードアイランド vs 陽―ウダヤンートリーガンジ と対比させ、その心象風景として見事に描いている。それはラヒリが米国とインドのふたつの故郷を持つがゆえに持ち続けた、2カ国への想いとも受け止められる。彼女は陰と陽、真逆の立ち場にあるものを、どちらが良いとか悪いとかではなく、それを第三者的な視点から描きたかったのでは、と私は思う。
    それに対し私は、自身の性格か、長子として生を受けたためか、"陽"には敵わないと感じてきたし、自身が信じる正義のため若くして亡くなった人物には勝ち目がないと、ついついスバシュに感情が入ってしまう。人間は"努力"だけではどうしようもない"持って生まれた役割"が有るのだと思う。スバシュが行きている限り、彼の中でウダヤンは生き続け、葛藤は続く。インドを去り、米国に渡り自分の居場所を見つけ、ウダヤンの妻子を引き取ることで、どこか自分が優位な立ち場に立てるのではと、結果的には考え違いをしてからも。娘として育てたベラの想いにより、そして亡き友人の妻を伴侶にすることで最終的には報われているはずなのだが。

    この物語の前半の、政治色の濃い、共産主義や革命運動といった、少々苦手な内容さえも、ぐいぐいと惹きつける勢いを感じたのに、『その名にちなんで』に引き続き、後半に違和感を感じた。人の"死"や"出逢い"が安易というか、都合よく描かれているな、特にラヒリが"アメリカ人"と表現していると人たちが、と。その点、残念に思われた。
    そこが、ラヒリの作品は短編のほうが良いと感じる理由だろうか。

  • ガウリを想う。
    祖父母の家で育ち、16歳で両親を交通事故で失う。大学に通う頃には兄しか側にはおらず、ずっと一人で生きていくんだと心に決めている。
    結婚後に勉強を続けたくとも、婚家では働き手と見なされる。姑との関係も微妙だ。そしてウダヤンの死。異国へ渡る手段としての再婚の末に、亡夫の子を出産する。
    子育てをしながら彼女は「ウダヤンと私の子なのに父親面して欲しくない」/「自分は100%子供を愛しきれない」という背反する二つの思いに挟まれて自らを苦しめている。更にインドで犯した過ち故に、自らを罰し続けている。

    失意の底にあった二人が始めた新しい家族の形が、更にまた壊れていく様を読みながら、救いの手や再生を求めてしまう自分がいる。子供と二人で家にいることに耐えられず、束の間の自由を求めて外出することは、どれほどの罪なのか。子供に無償の愛を注げない母親は許されないのか。

    家族が崩壊した後、それぞれが人生をどのように生きていくかが、誠実に丁寧に描かれていく。
    そしてラストの描写がなんと美しいことか。470頁全てが、この数行のためにあるかのようにさえ思えるほどに胸を打つ。

  • 母と娘の再会の場面が強く印象に残った。

  • やっぱりジュンパ・ラヒリはすばらしい。長編で、すごく読みごたえがあった。満足。わたしはこういう長い話が大好きだ。まさに人生そのものが描かれているというか。
    人生、って、自分の思いどおりに生きなきゃいけないとか、楽しく生きなきゃ損だとか、過去にとらわれずつねに前向きに、とかいろいろいわれるけれど、実際は、そういうものでもない、どうしようもないこともある、ということがわかるような。なんだか人生について考えさせられた。スバシュもガウリも、まったく思いどおりの人生ではないし、楽しくも生きてない。過去に、死者にとらわれて、悲しみばかり。それでも人生は続く。
    とくにガウリについて、じゃあ、どうすればよかったのか、と思うけれども、どうしてもああいう生き方しかできなかったんだろうな、と。

    それと、だれも感情や思いをあらわにしない。自分の思いをのみこみ、人にも尋ねない。なぜ?ときかない。わかりあえない。それでも人間関係は生まれるし、やっぱり人生は続く。
    せつなくて苦しい話だけれど、スバシュやガウリの、もがかないというか、なるようになるしかないとでもいうような、淡々とした生き方がいっそ潔いというか、ここちいいような気さえして。
    でも、ラストにそれぞれ少しの希望が見えるところがすごくよかった。救われた気がした。

    短くて淡々としたような文章がすごく美しくて。インドのトリーガンジやアメリカのロードアイランド、カリフォルニアの風景や季節の描写がすばらしい。

  • 親子というものは奇妙な関係である。
    「家族」というくくりは、子どもが独り立ちするまでは確かにあった。
    が、その後の「家族」には後悔や苦悩、時として束縛の香りすらする。

    スバシュとウダヤン、1940年代生まれの西ベンガルの兄弟。
    弟は凶弾に倒れ、アメリカで暮らす兄は弟の妻と子を引き取る。

    物語は兄弟や妻ガウリ、その子ベラの視点で、様々に揺れ動く感情を、淡々と描く。
    三人称だが、短いフレーズでそれぞれの想いがよく伝わる文章。

    作者ラヒリは、これまで描いた「インド系移民」というテーマはやや離れて、人間ドラマの色合いの強い物語をかたる。

    60年代に吹き荒れた「革命」という熱病、家庭という伝統の崩壊、それでも関わっていく人々の長いドラマを、舞台となる土地の様子とともに、痛々しくも清々しく、味わうことができた。

  • 読む時期を選んでずっと何年も本棚にあったジュンパ・ラヒリの長編。
    ラヒリが好き過ぎて、読む時期が来た、と感じたら読もうと決めていたが、何年もかかった。大事にしすぎ?

    ようやく読む日が来た。

    一人の男の罪を、兄が、妻が、娘が、それぞれに真摯に自分の一生をかけて問うていく。
    この人たちは、それに一生涯費やす。
    そういう人をジュンパ・ラヒリは描く。

    そういう人なんだな、と改めて思った。

  • 本の裏に書かれている山田太一の解説から持った印象とは、だいぶ異なるものを感じた。善良であったり利己的であったり正義感に燃えていたり。どんな人でも、自分としてしか生きられない。特にガウリの生き方には動揺した。悲惨な状況から救ってくれたスバシュも愛した人の子である娘も捨てるという選択までは何とか理解できても、何故数十年たった後にのこのこ会いにいけるのか。残酷な言葉を娘にぶつけられてショックを受けても、当たり前だとしか思えない。甘い言葉をかけてもらえると思うほど、愚かではないはず。この行動の意味を分かる気もするが、簡単に分かった気にもなりたくないとも思う。
    ガウリとウダヤンの新鮮な愛。スバシュとウダヤンの兄弟愛。スバシュがベラにかける損得抜きの愛情。こういった描写が本当にうまい。何よりも大切なのは愛だと分かっているのに、それだけでは生きていけずにもがく一人一人をとてもいとおしく思える作品だ。

  • 同じように丸く明るく空に輝いても太陽と月はちがう。遍く人を元気づける太陽に比べれば、月の恩恵を受けるものは夜を行く旅人や眠れず窓辺に立つ人くらい。健やかに夜眠るものにとって月はあってもなくてもかまわないものかも知れない。カルカッタ、トリーガンジに住む双子のような兄弟、スパシュは月、ウダヤンは太陽だった。よく似た顔と声を持ちながら、独り遊びの好きな大人しい兄に比べ、一つ年下のやんちゃな弟は人懐っこく誰にも愛されて育った。

    時代は1960年代。アメリカがベトナムを爆撃し、チェ・ゲバラが死に、毛沢東が文革路線へと走り、紅衛兵の叫ぶ「造反有理」のかけ声の下、世界中に学生運動の嵐が吹き荒れた。二人が住むカルカッタの北方、西ベンガル州ダージリン県にあるナクサルバリという村でも共産主義の活動家による武装蜂起が起きた。何が人の運命を左右するかは分からない。その地方にも稀な秀才として市内の大学に通っていた二人の運命はそれを境に二つに分かれ、二度と出会うことはなかったのだ。

    海洋化学を専攻する兄はアメリカ留学の道に、弟は教師となり家に残ったものの、家族の知らぬ間にナクサライトの一員として革命の道を歩いていた。ロードアイランドの下宿屋に弟の死を告げる電報が届いたのは1971年。アメリカに来て三年経っていた。身重の妻を独り残し、弟は官憲の手により殺されていた。帰国した兄は弟の子を身ごもったガウリをアメリカに連れ帰り、自分の家族とする。やがて娘ベラが生まれるが、妻は頑なに心を開かず、育児より自分の研究を優先する。ある日、妻は娘を残し家を出、そのまま帰ることはなかった。スパシュはベラを男手一つで育て、困難もあったがベラは逞しく育つ。ベラが身ごもったのを知ったスパシュは今まで秘していた事実を告げるが…。

    ジュンパ・ラヒリの最新長篇小説である。それだけの情報で、読む前から期待が高まる作家というのも、そうはいない。その名を一躍有名にした『停電の夜に』以来、『その名にちなんで』、『見知らぬ場所』と、短篇、長篇という枠に関係なく、どの作品も期待を裏切ることはなかった。そして、本作。両親が生まれたカルカッタと、作家自身が育ったロードアイランドの地を主たる舞台にとり、双子のようによく似たベンガル人兄弟と、その家族の半生に渡る人生を描いている。喪失とそれによる孤独からの回復を、静謐な自然描写と精緻な心理描写で描いてみせ、長篇小説作家としての資質を今更ながら明らかにした。著者の代表作になるといっていいだろう。文句なしの傑作である。

    すぐ下に誰にも愛される弟を持った兄の気持ちが痛いように分かる。両親の愛も周囲の賞賛の声も弟の方に集まることを、兄は羨むでもなく自然に受け止め、自分ひとりの世界にふける。誰も追わず、入り江のように孤独に、波が運ぶ漂流物のような人や愛を受け容れる。弟の愛は分け隔てなく、恵まれぬ者、貧しい者にそそがれるが、かえって自分の近しい者はなおざりにされる。兄はそれを拾うようにして自分の近くに置くが、相手は弟の喪失を嘆くあまり兄の愛に気づかない。なんて哀しいのだろう。いちばん弟を亡くしたことを悲しんでいるのは兄なのに。

    淡々とした筆致で綴られる文章は、章が変わるごとに母や妻の視点が現われては、魅力的な弟の在りし日の姿を回想し、読者の前に広げてみせるので、読者がスパシュの傍に立って相憐れむことを許さない。社会正義は弟の側にあり、母親から見れば故郷を捨て、望まれもしない弟の嫁と再婚をする息子など弟の比ではない。すぐ近くにいて、ウダヤンの思想と行動力に影響を受けた妻にしてみれば、善人ではあるけれど、自分と家族のことしか念頭にないスパシュは物足りない。

    疾風怒濤のような時代に、西欧の地図で見るごとく大西洋を真ん中に挟み、東のカルカッタと西のロードアイランドを行き来しながら、主人公の眼や耳がとらえるのは、日没の入り江に立つ鷺の姿であったり、屋根を打つ雨音であったり、とあまりにもデタッチメント過ぎるようにもみえる。二人の兄弟はコインの表と裏。二人で一つだった。いつも弟に付き従うように行動していた兄は、独りでは半身をもがれた生き物のようなもの。喪失の重さを人一倍感じていたにちがいない。物語の終盤、事態が一気に動き出す。喪われたものは、贖われることで、報いをもたらすのだろうか。余韻の残る終幕に静かに瞑目するばかりである。

    • usalexさん
      まだ読んでませんが、ぜひ読みたいと思いました。
      まだ読んでませんが、ぜひ読みたいと思いました。
      2014/09/27
    • abraxasさん
      これは間違いなく、おすすめです。是非お読みください。
      これは間違いなく、おすすめです。是非お読みください。
      2014/09/27
  • 訳者があとがきで述べているように、最後は希望ある終わり方だったと思う。スバシュがアイルランドの田舎を旅している時の描写が美しく、自分もその場にいるようだった。ベラが母ガウリに怒りを抱き赦せないのは当然のことだと思う。しかし、手紙を送ったときベラに多少の赦しの感情があったのかもしれない。

  • なんで、どうして、この作家の作品はこんなにしみじみ心に沁みるのか…私は純日本人だが、家族との折り合いがそれほど良くはなかったので、居所が定まらないような疎外感や孤独感にこれほど共感できるのだろうか。
    植民地支配を脱したものの、貧困層の人々の食うにも困窮する、現代の日本人たる私には想像を絶するような状況に、義憤を感じて立ち上がり、革命を目指したインドの若者。ただ、暴力的な活動に手を染めるに至ったために当局から過酷な取り締まりを受ける。そして、双子のように育った兄弟の弟が殺される。弟の妊娠中の妻を放っておけなかった兄は、その女と結婚し、留学中のアメリカに連れ帰る。
    インドとアメリカを舞台に、何世代にも渡る家族の物語か描かれる。
    彼らの人生は喪失の連続だが、淡々と、そして丁寧に描かれる彼らの心の軌跡が本当に心に迫る。死ぬまでに何度も読み返したい、そんな一冊。

  • ジュンパラヒリの書く作品はいつも孤独で満ちている。今回の作品だって、家族の物語なのにとても静かだ。だからこそびっくりするくらい心に届く。弟を亡くしてその子供を育てるスバシュの葛藤や、夫を亡くしたガウリの持って行き場のない怒りが。誰かの立場になって考えるって、綺麗な言葉だけどそんなことは無理で、誰だって自分だけの正義を持ってるんだよなあ。

  • 4.37/481
    内容(「BOOK」データベースより)
    『カルカッタ郊外に育った仲睦まじい年子の兄弟。だが過激な革命運動に身を投じた弟は、両親と身重の妻の眼前、自宅近くの低湿地で射殺される。報せを聞いて留学先のアメリカからもどった兄は、遺された妻をカルカッタから連れだすことを決意する。喪失を抱えた男女はアメリカで新しい家族として歩みだすが、やがて女は、小さな娘と新しい夫を残し、行方も告げず家を出る―。』


    冒頭
    『トリー・クラブの東側、デシャプラン・サシュマル・ロードが二股に分かれた先に、小さなモスクがある。このあたりで脇へ逸れると、ひっそり静かな地区に出る。まるで兎の巣穴にもぐり込んだように狭い小道が入り組んで、そこそこの暮らしを立てる家がある。』


    原書名 : 『The Lowland』
    著者 : ジュンパ・ラヒリ (Jhumpa Lahiri )
    訳者 : 小川 高義
    出版社 ‏: ‎新潮社
    ペーパーバック ‏: ‎477ページ

  • 静かで淡々とした物語なのに、読んでいるこっちは激しく心揺さぶられてました。とても激しく。

    読んでいた実際の時間は数時間のことなんだろうけど、読み終わった時は、自分が何十年もかけて、スバシュとガウリの二人の人生をただ黙ってじっと見守ってきたように感じました。

    不要なシーンは一つもない気がします。出来事のすべてが、ぜんぶつながってこの二人の人生を作っていく。
    誰かと心を通わせる、というのは奇跡のようなことなんだなぁ、努力ではどうにもならない部分があるんだな、なんて思った。
    ラストは、ちょっとビックリしました。どんな風に終わるのだろうと思っていたので、ああ、こんなラストなのか!と。さすがだなぁと思った。胸が震えました。
    長い人生の中の一瞬のきらめき。ウダヤンの目を通して見た若いガウリ。
    年老いて、いろんな感覚が鈍ってきた時、ふとした折に思い出すのは、自分が見てきたそういう瞬間かもしれないな、なんて思った。

    どうでもいいことだけど、裏表紙の山田太一氏のコメントは、私の読んだものとは別の本では?と思った。(笑)
    感想なんて人それぞれだから正解不正解はないんだけど、裏とは言え表紙で本の顔なのに、なんだかポイントがズレてる感。

  • 自宅前の低湿地て、両親と身重の妻の目の前で射殺された革命家の弟。
    両親と同居しながら黙殺されている弟の妻を、留学先のアメリカへ自分の妻として連れ出す兄。
    時の経過とともに、二人は本当の家族となっていく…話なのかと思って読んだが、ジュンパ・ラヒリはそんなに簡単ではない。

    小さい時から何をやるのも一緒だった年子の兄弟。真面目でおとなしい兄のスバシュと、活発で何事にも物怖じしない弟のウダヤン。
    まっすぐな正義感から革命にのめり込んでいく弟を見ながら、スバシュは少しずつ家族と距離をとり始める。
    インド人社会の濃密な家族関係を重く思いながらも、面と向かって意思表示のできないスバシュは、アメリカに留学する。
    スバシュにとってインドの家族が徐々に遠くなった頃、突然弟が死んだと連絡が入る。

    親が子どもの結婚相手を決めるのが当たり前のインドで、ウダヤンは自分で決めた女性と結婚した。両親の承諾も得ないで。
    両親と同居してはいるが、家族として扱われていないガウリを、スバシュはアメリカに連れ出して、自分の妻とする。

    時間が解決すると思った。
    いつかは本当の夫婦として、家族として暮らせると思っていた。
    しかしガウリは頑なにウダヤンにこだわり、自分が生んだ娘であるベラのことをも本当には愛せないような気がする。
    ガウリは自分の元々の専攻である哲学に没頭し、ついにはスバシュとベラを置いて家を出る。

    不在の存在感。
    スバシュとガウリの間には常にウダヤンがいて、ガウリが出ていった後のスバシュとベラの間には常にガウリがいる。
    視点を変えながら、時系列も行ったり来たりしながら、少しずつ彼らの半生が明かされていく。

    “どうということのなさそうな日常の家事が、どうしてこれだけ苛酷なのか全然わからなかった。どうにか一段落すると、なぜか知らないが疲弊しきっているのだった。”

    慣れないアメリカで家事と育児をしている頃のガウリの心情。
    ガウリの不安や、育児の重圧などはとてもよくわかる。
    だが、だからといってそれは家族を捨てるほどのものなのか?
    実の父親ではないスバシュがベラを慈しみながら育てているのに、なぜガウリはベラを愛しきれないのか。

    こういう小説にネタバレは関係ないと思うので書いてしまうけど、ガウリはベラを愛さなかったのではない。
    ベラを愛することを自分に禁じたのだと最後まで読んで思った。

    ウダヤンがしていたこと。
    ガウリがしてしまったこと。
    人は社会とは無縁に生きられないのだ。
    古い社会と新しい社会がせめぎ合っていたインドで、どうしようもなく壊れていった家族の話。

    重く苦しい話なのに、なぜか心が洗われていくような。
    自分とは。家族とは。
    正解なんてないのだろう。
    だけど考えずにはいられなかった。

  • カルカッタ郊外からニューイングランドへ。革命の犠牲となった弟が残した身重の妻を引き取り、兄はアメリカの地で新しい家庭を築こうとする。
    ジュンパ・ラヒリを読むのはこれが初めて。SNSで彼女のキーワードを「過渡期」と「dislocation」と教わり、それを念頭に置いて読み進めた。
    本作では文体を変えたということだけれど、短文を重ねて抑制を利かせた文章で、とても読みやすい。ただでさえ重くなってしまう近現代史を語るにあたり意識的に軽くしたそう。それでも饒舌に過ぎるかなと感じることがある。この主題への作者自身の思い入れが窺える。
    主人公スバシュの生まれ故郷トリーガンジとロードアイランドは、地続きの湿地帯のようにも思われる。スバシュのまなざしはいつも水辺をさまよい、心休まる場所を求めながら見出せずにいる。この世を去った弟が打ち捨てていったものをなんとか掬い上げようとしても、みんな彼の指の間から滑り落ちていく。物静かな彼の懸命な姿と埋められない喪失感がなんとも哀しい。
    とても柔かな手触りの、多くの人に愛されるであろう小説。ただ個人的にはガウリの思いやスバシュとベラへのふるまいを受け入れ難く感じてしまい深い感銘には至らなかった。ウダヤンがあまり魅力的に映らなかったのもその理由かもしれない。

  • 階層と貧困と混乱のインドの史実をその片隅で育った兄弟の物語から浮き上がらせ、自由の国アメリカへ渡った兄と弟嫁の関係の崩壊がそれぞれの視点で丁寧に描かれていてやるせない。

  • 本作はインドとアメリカを舞台に繰り広げられる3人の男女の人生の起伏が描かれる。インド人であろうとすること、あるいは、アメリカ人であろうとすることは、決して物語の中心ではない。そういう意味では、この著者の前回までの作品とは少し違った印象を受ける。

    ただ、登場人物に対する絶妙な距離感や、所どころで与えられる救いに、頁を繰るスピードは速くなる一方だった。

  • 「停電の夜に」しか読めていないラヒリ。彼女の持つ文学の奥深さに、驚嘆するばかりだが、この作品はとてつもない広がりを見せた凄さを貰った。
    帯から受けた当初は兄弟と身重の寡婦の人生縮図‥だが、とてもそんな単純なものではない。

    移民文学という言葉は好きじゃないけれど、複雑な心情で形作られた言動の綾に唸らされた。思ったようにいかない人生、行動も言動も一つ一つ選びながら、手探りで生きて行く。だが、結果は淡々と受け止め、ある意味宗教がかっているかのよう。

    ラヒリの世界は私がよく見る地球儀の反対面、大西洋を移動する空間とあるが、それもあってか、感覚の驚きもあった・・西ベンガル州コルカタ市内のトリ―ガンジ。最後まで幾度となく出てくる・・この作品の土台ともいえる湿地が有る風景―冷たく、湿気を帯び。
    一方、アメリカ ロードアイランド州。からりと乾き,青空を感じる。
    この2つの地域が壁となり大地となり人の営みのいわば額となっているストーリーは最後まで1行たりとも無駄のない素晴らしい作品を作り上げている。

  • ラヒリの作品を発表順に読んでいないので、何とも言えないが、これまで読んだ作品の中では、最も自由に書けているように感じた。舞台がインドとアメリカなのは同じだが、世界中どこにでも起こりうるであろう、ある家族の壮大な歴史の物語である。

    中心になっているのは、弟「ウダヤン」の死をきっかけに、その後の人生をどう生きるか、ということで、特に、兄「スバシュ」、弟の妻「ガウリ」、その娘「ベラ」に多く頁を割いている。

    淡々と展開しながらも、複雑な事情があるうえに、抱え込まなければいけない柵に囚われながら生きている姿は、読んでいる私も息が詰まる思いなのだが、それでも、様々に枝分かれしていきながら、それぞれで答えを出していく姿が、家族の内をリアルに描いているように思われて、作家としてのラヒリの凄さを感じた。

    ちなみに、上記の複雑な事情は、60、70年代の国際情勢を絡ませたものであるため、私や作品の中での未来の人々は実際に体験することは出来ずに、想像するだけになる。そういったことを踏まえると、ガウリのその後については、個人的には同情する気持ちもあるのだが、ベラの気持ちも分かる気がするし、難しいなあ。
    でも、最後のラヒリの話の展開を読むと、悪くないというか、手紙を読む身になると、きっと心に希望の灯が点るであろう感じが、優しい。

    あとは、約470頁の長編において、読んでる途中で、中弛みしたところがあったという点くらいかと。ただ、これは私の問題だと思うので、ほぼ満点で良いと思います。

  • 一気読みした。
    この物語の背景に文化大革命がある。
    時代的なこととはいえ、純粋さは危うさにつながっている。
    おもしろかったのはこの物語はそれぞれの登場人物の語りによって進んでいくこと。
    殺された弟、夫が目の前で殺されたその弟の身重の妻を自分の妻にする兄。そして生まれた娘。
    それぞれの生き方が、それぞれの心の葛藤というか、心の持ちようによって進んでいく。それが葛藤になったりならなかったり。だから人生は重なるだけではないのだ。

  • トリーガンジの低地で生まれ育った二人の兄弟、スバシュとウダヤン。
    慎重な兄と快活な弟。対照的な性格の二人は、互いを支え合い信じ合う強い絆で結ばれていた。
    やがて、ウダヤンは革命運動にのめり込み、スバシュはアメリカの大学へ。
    ある日、スバシュのもとにウダヤンが死んだという知らせが届く。死んだ弟には残された妻がいて、その体内には新しい命が宿っていた。

    死んでしまった青年の影を背負いながら生き続ける、残された家族たち。
    彼の声、彼の面影、彼のいた土地――すべてが忘れ難い思い出であり、呪縛であり、よりどころでもある。

    舞台はインドでありアメリカでありながら、人物の内面描写が巧みで、なおかつ客観性も保っていて、充分に感情移入できます。
    死んでしまった人を想いながら、現実の時間軸で生きていく人間の弱さと身勝手なほどのたくましさ。
    その人生をまるごと見せてもらえたような、贅沢な読書の時間でした。

  • 三世代をわたる家族のストーリー。弟の革命運動によるある出来事の後の兄スバシュ、弟ウダヤンの妻ガウリ、子のベラ、そして両親の人生。ウダヤンは自分の信念の元突き進み、家族の人生を狂わせた。何かを隠しながら生きていくということは辛い。

    それぞれの大きな選択は正しかったのか?連鎖的にその問いが何度も頭をよぎる。

    映画を観るような感じで、胸にじーんとくる場面もある。私のガウリの孤独感が一番感じられたのは大学にこっそり入っていた頃学生に話しかけられた場面。他にも孤独感を感じる場面は多々あるけど、この場面が特に。

    ウダヤンの生き方に翻弄されたガウリの生き方、選択は私には腹立たしくてあり得ないと反対する感情とその選択をしたくなる気持ちにも肯定していて、矛盾した感情がせめぎ合う。

    ラストにあの場面を持ってきた構成がより余韻を残す。ここでも安堵の気持ちと重たーい気持ち、反する感情を残す。

  • ラヒリはデビュー作において完成度の高い作品を書いていた。
    そして この最新作 「低地」において

    より複雑な話を 深く 丁寧に また 時間も 空間も 視点も あちこち 飛びながら 一枚の布を丁寧に織り上げる筆力をみせてくれた。

    人は 様々な ものに助けられ 影響され 生きていく。
    それらは生きるよすがである。


    ある人にとってはとても大事なよすがが 別の人には
    害毒でしかなく。 また 好意は 受け入れられるとは限らない。

    本書は 60年代の インドの学生運動を物語の背景にし
    70年代の アメリカ東海岸を舞台として
    人生の意味について丁寧に描いてくれる。

    おそらくラヒリがそうだからと思われるが
    そこそこ賢い人ばかりが描かれる。

    大学をでて 研究をして という人たちである。

    その人たちが人生をもがきながら生きる。

    本の知識と 実生活は 全く関係がないわいけではないが

    生活や人生を決定したりはしない。

    ラヒリはこのような小説を書くという思考実験を通じて

    人間について理解しようとしているのだろう。

    そして 読者はそのラヒリに導かれれて 作品世界を歩く。

    読むとく行為がこの上なく心地よい。

    読み終わるのがもったいなく感じられるほど 堪能した。

    次回作が待ち遠しい。

  • 淡々とした文体を味わいながら、とても濃密な時間を過ごすことが出来ました。ラヒリの作品は、特に読後感が他の作者と違って、何とも言えない満足感、充実感を残してくれます。ラヒリ中毒とでも言いますか。

  • ジュンパ・ラヒリを読む継ぐということは、待つ、ということだ。「停電の夜に」から十五年。十五年で四冊は寡作と言ってよい程に少ない。しかし数年毎に出るフランス綴じの持ち重りのする一冊は、本の佇まいが凛々しく感じられる程に存在感があり、頁を繰る前から読むものを自然と引き寄せる。一気に読んでしまいたいとの欲求も一瞬頭をもたげるが、一頁、一頁、ゆっくりと捲り、一文字、一文字、丹念に言葉を拾って読みたい気持ちが勝り、いつまでも厚手の本の中程をうろうろすることになる。期待は裏切られることがない。

    これまでも一貫して描いてきた移民とその家族の物語。故郷を離れた親の世代が新しい約束の地で感じる疎外感と、その子供たちが感じる二重に切り離された思い、そんなものがこれまでのジュンパ・ラヒリの描いて来た世界だが、それは作家の中に生まれつき存在する視点、つまりは子の世代から見た家族の物語であったのだと、この本では改めて気付かされる。子から見て、親の世代の疎外感は仮の住まいに於ける、いわば借り物の疎外感であり、祖国に戻れば解消されるものでしかない。彼らには戻るところがある。一方で自分たちには帰属する場所や否応なしに受け入れなければならない慣習すらない。そんな葛藤がこれまでの作品には常にくすぶっていたように思う。しかし「低地」における主人公はそんな二世たちではなく、移民となることを選択せざるを得なかったものたち。親たちの世代もまた母国と異郷の地の二つの強い陰影の中でやはり二重の葛藤をしてきたのだということが語られている。

    ひょっとしたらジュンパ・ラヒリの創作活動の原点には、押し付けられた疎外感の理不尽さに対する強い思いがあったのかも知れない、と思う。それを言葉にすることでそれを押し付けた親の世代に対して間接的に抗議する思いが幾らかはあったのではないかと。一方でその矛先には真に打ち倒すようなものは存在しないことも解っていた筈だ。「低地」で描かれたものは、そんなある意味での自分のルーツ探しの答えのようなもの、完全解決は出来ないけれど、答えは過去にではなく未来にあるというメッセージ、あるいは赦しであるように思う。それ故に、幾つかのエピローグ的な文章は、どこかしら予定調和的であるのだろう。

    十五年で長篇と短篇が各々二冊。但し「停電の夜に」の印象が強烈過ぎて、ジュンパ・ラヒリはどうしても短篇の人という印象が拭い切れない。この「低地」も長篇との位置付けだけれど、むしろ連作短篇の趣があると感じるのは穿った見方だろうか。もちろん、全体を繋ぐ関係性は強く、長篇小説を読み通す時の面白さは充分に感じられることも確かだ。しかし心地の好い分量の文章毎に切り分けられた一つひとつのエピソードは、自己完結することを志向するようにも読める。一つのエピソードをそう読んでしまうと、エピソード間の関係性は必然ではなくなり、語られなかったエピソードの背景を別の章で読んでいる、という位に、文章の塊の間の関係性は緩くなる。そのように読めば、やや曖昧で予定調和的なエピローグにも過度に違和感を覚えたりすることはない。

    あとがきに、ジュンパ・ラヒリの次回作はこれまでとは趣の異なるものになりそうだとある。どんな物語が紡がれるのか、旨いものを出す店で次の一皿にどんな料理が盛られているのかを期待をしながら想像するようにして、待つ。

  • 一生を読んだので、とても疲れた。同時代の作家。バークレーに縁がある。

  • 400ページ強の長い小説で設定もシンプルなのに信じられないくらいオモシロくてグイグイ読んだ。
    インドのある2人兄弟と弟の奥さんおよび弟夫妻の子どもを中心として計4世代について描いており、インドからアメリカへの移住もあるし、時間的にも距離的にもダイナミックなレンジで物語を描いていてオモシロかった。共に生きることの難しさをこんこんと突きつけられるような感覚が残る。
     弟が殺されることで、その責任を背負い込むような生き方をした兄と弟の奥さん。そういう意味では同じ立場なんだけど、それぞれが一方は利他的もう片方は利己的に生きる道を選ぶ。この両方の立場を描いているところがめちゃくちゃオモシロくて簡単に割り切れないことがよく分かる。利己的選択をした登場人物がヒールになるのだけど、その選択を否定しきれないくらいに重い過去がある。なにしろ子は鎹という幻想が打ち破るのだから。しかもその娘が関心を寄せてもらえないことの寂しさや虚しさを感じ取って自暴自棄な人生を送ることになるため余計に読んでいて辛かった。この重い過去で硬直する人間関係をじっくり時間をかけて解きほぐしていくから、設定自体はとてもシンプルなんだけど奥深い味わいになっていた。飽きずに読ませてくれるのは、それぞれの置かれた立場の微妙なバランス感をラヒリの言葉で丁寧に紡いでいるからだと思う。また生まれたインド/育ったアメリカのどちらにも帰属していない移民の苦悩も存分に出ている。2人とも亡くなった弟から逃げたつもりだけど、ずっと彼の存在を意識しながら生きるしかないという共通点はあるのだけど、娘にその過去を伏しているため共通点に気づくことなく(もしくは気づいていてもスルーして)それぞれ別の方向を見てしまうことになってしまう切なさ。結局、移民/家族いずれの関係性の中でも相互理解が進まない話なのでこれまた辛い話。
     また舞台となるロングアイランドやインドの風景の描写も好きだった。時間の経過が大事な話の中で季節のうつりかわりを細かくかっこよく書いていてた。早く続きを読みたいという気持ちと、終わってくれるなという矛盾する気持ちが同居するとき、それが最高の読書体験だと思っている。そして本著はそんな読書体験をもたらしてくれた。(ちなみに西加奈子の「サラバ!」は本著をリファレンスにしている気がする。)

  • 長編はちょっとハードルが高いけど、著者の作品はなぜか一気に読める。
    どの登場人物にも共感してしまうせいか?
    家族を捨てたガウリにしても、そうせざるを得ない気持ちが何となくわかる。
    最初にインドで結婚した相手が過激派に入っていて射殺されてしまう。
    アメリカに連れ出してくれたその兄に感謝はしても、男女の愛が芽生えるかどうかはまた別だし、
    子供が生まれても、全ての女性が子供が大好きで、献身的になれるかというとそうでもないだろう。
    むしろ、彼女は自分の感情に忠実に生きたらそうなったという感じがする。
    そのしっぺ返しも十分に受け入れる覚悟がある大人の女性なのだろう。
    どのシーンも鮮やかに映画の様に思い浮かべることが出来る小説の力を感じる。

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ジュンパ・ラヒリの作品

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